穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヘーゲルの奇妙な用心深さ

2017-06-08 16:41:50 | ヘーゲル

ヘーゲルはあまり著書を出版していない。これは彼の用心深さの一面だ。出版してしまうと、それは動かせない証拠となる。危険思想だと当局から一方的に判断されることがある。いくら韜晦して書いていても尻尾をつかまれる恐れがある。

 死後弟子や学生たちのメモから起こした講義録が多い。これはあまり韜晦していない。文章のような調子でやられては二十歳やそこらの学生は付いてこない。彼は大学教授でありベルリン大学総長になった人だから、私講師のように生徒の数で収入が左右されるわけではない。しかし、聴講生が一人とか二人だとやはり体裁が悪いし体面にかかわる。書いたものと違い、平易で気楽に話しているわけだ。

 さて、彼の法哲学から二つほど両義性というか意味不明瞭というか有名だがわけのわからない文章を取り上げたい。法哲学は歴史哲学や宗教哲学とならんで当局や教会とフリクションをおこしやすい分野である。ところどころでヘーゲルの芸がみられる。

 まず、序文にある「ここがロードスだ、跳べ」という文章だ。もとはイソップ物語だそうだ(私はもとの話を読んでいないが)。ある男がロードス島の競技会で大ジャンプをして優勝したと自慢した。嘘だと思うならロードス島に行って聞いてみろ」と言ったら「ここがロードスと思ってここで跳んで証明すればいいじゃないか」と言われたというのだな。

 まずこの比喩というか引用は前後の文脈としっくりこない。それをヘーゲルはくどく、これはこう言いかえられる、と書いている。「ここにバラの花がある、ここで踊れ」という。いかにも前後がつながらない文章である。日本語で書くとさらにわからないが、ロードスとローズをひっかけているというのだな、ぽかんとする地口である。

 後世のヘーゲル注釈者はいろんなことをいっている。秘密結社のバラ十字団のことだとか、ルターのバラと関係するとか。ヘーゲルはちらりと何か危険思想をほのめかしたつもりなのかもしれない。

 なかにはロードスは棒だという解釈もあるらしい。この男の得意は棒高跳びという推定である。英語で棒はrodというがあるいはラテン語起源の言葉かもしれない。ヘーゲルの解釈には面白いものがある。この棒を使って飛んでみろという、意味だそうだ。しかしこの解釈だとますます文脈の中で浮いてしまう。

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ヘーゲルの両義性

2017-06-08 08:23:34 | ヘーゲル

大分前になるが「カントの悪文を弁護する」という記事を書いた。いまでも細々とアクセスがある。悪文というか難解といえばヘーゲルにも触れなければならない。ゲーテが「ヘーゲルもいいが、あの文章がね」と言っていたという。

 カントが悪文を書く様になったのは当局や教会からの迫害を免れるために韜晦したのが一つの理由であると上記のアップでも書いた。長年そういう配慮をして文章を書いていると、それが習い性となるというか、文体、スタイルとなる。そういうスタイル以外では書けなくなるのだね。たわいのない主題についても。

 当局、権力、世間の圧力を考慮して文章を曖昧にしたり、もってまわった書き方をしたりするのは哲学者の常道であるというのを、プラトン、アリストテレスまで遡って現代に至るまで論じた人がいる。

 とくに1789年のフランス革命を挟んだ18世紀後半から19世紀前半は哲学者にとって、かかせない配慮であった。カントは啓蒙思想が危険思想として地下深く蔓延し始めた時代から、フランス革命期の血で血を洗う革命勢力の凄惨な内ゲバ時代を活動期とした。あに用心深くならざるをえんや、である。カントの悪文の要因の一つである。かれは匿名で出版しなければならなかった本もあるし、晩年は宗教関係の著作を当局から禁止されていた。

 ヘーゲルも啓蒙時代の子である。神学校時代から染まっていたらしい。彼はナポレオンを崇拝していた。イエナで精神現象学を書き終わったときにナポレオンの軍隊が征服者として街に入って来た。ヘーゲルは興奮して「今世界精神が馬上で街を通った」と上気したような文章を友人に送っている。ヘーゲルにもこの時代より少しまえ、家庭教師をしていたころに秘密結社的な思想を匿名で出版している。>>

 

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