居間には父母と三四郎のきょうだいがいた。一番上の兄はもう就職していて建築会社の九州の支店にいた。二番目の兄は数日前漸くこの世に生還してきたばかりであった。大学の途中でアルバイトの無理がたたって結核になり長い間生死の境を彷徨っていたのである。離れに数年間寝たきりで母は感染をおそれて三四郎達に離れに近づくことを禁じていた。数日前に始めて三四郎は兄の顔を見たのである。かれは間もなく九十九里浜にあるサナトリウムに入ることになっていた。
兄がなにかの用事で二階に上がると、しばらくしてなにか喚きながら階段を転げ落ちて来た。階段の下に倒れたまま恐怖で腰が抜けたのか、長年の病臥で筋肉に力が無かったのか、起き上がれずに床に倒れたまま、なにかをねだる幼児のように片手をあげて二階のほうを示しながら「ド、ド、ド、、」とどもった。眼は一杯に見開かれて白眼が見えないくらい真っ黒な瞳孔が開いていた。
父親は階段を一気に駆け上がった。スポーツマンだったからすでに六十歳を相当に超えていたが敏捷なものであった。二階を点検した父は大音声で「どろぼう」と町内に響き渡るような声を出した。直ちに警察に電話した。あっというまに家の前にパトカーがとまった。後を追うように自転車に乗った近所の駐在が到着した。
彼らは土足のまま家にあがって来た。手にはホルスターからすでに抜いた拳銃が構えられていた。近くで強盗事件が発生していて犯人がまだ付近に潜伏しているということで警官たちは押っ取り刀で追跡していたのである。武装した強盗という通報だったので、抜刀したまま土足で踏み込んできたらしい。
泥棒はすでに逃走していた。二階は相当に荒らされた後だった。その後の警察の捜査は父を激怒させた。父は警察に呼ばれて盗まれたものを申告した。盗品のリストを作成していた警官が父を怒らせたのである。盗まれた物のなかに父の洋服やネクタイピン、カフスボタンなどの装飾品もあった。警官はいつもそうであるようにぞんざいな口調でまるで盗まれた方の父が悪という様に尋問する口調で訊いていたらしい。
父は熊と人間がまだ共存しているような山村の出身であったが、目覚ましい立身出世を遂げて政府の顕官に上り詰めていた。田舎者の常として成功するとおしゃれに精を出した。それでも成り上がり者だから泥臭さがある。なんでもチョッキのボタンがダイヤモンドだとか正直にいったものだから、取り調べの警官がにわかに露骨に興味をしめし、税務署員に早変わりした様に、どこで買ったのか、いくらしたのかなど執拗な質問を父にしたらしい。それで下っ端の警官等人間とも思っていなかった父は激怒してしまったのである。
それ以降父は警察の呼び出しを無視した。困った担当の刑事は家まで尋ねてきて調書を作成したのであるが、父は刑事を勝手口にまわし、相手を立たせたまま応対していた。それでも警察が一生懸命やってくれたのか、盗まれた物の一部は故買屋から回収されて戻って来た。