穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

オードリー・ヘップバーンの印象とは大分違う

2015-01-01 23:07:46 | モディアノ

「ティファニーで朝食を」は映画で有名でした。主演がオードリーで、この映画は見ていないが、「ローマの休日」の彼女の印象と小説の印象は全く違う。村上春樹もあとがきで書いていますが、カポーティもこのキャスティングには不快感を表明したといいます。

ホリー・ゴライトリーという20歳(未満?)の女性が主役ですが、将来有望な映画俳優の卵ということになっている。しかし、芸能界やニューヨークの社交界では結構知られた顔になっている。ボロアパートに住んでいるが、ひっきりなしに金持ちや映画界の大物を招いては乱痴気パーティを開いている。一種のセレブと言うか成功者だ。虚栄の市に住んでいる根無し草という設定はギャツビーと同じ。カポーティは彼女は「ゲイシャ」だといっている。読み方によっては「高級コールガール」あるいは高級遊女という感じがある。

「僕」がナレイターでグレート・ギャツビーのニックにあたる。同じアパートに住んでいる。

彼女の素性が分からないというのもギャツビーと同じ。最後にテキサスのチューリップというとんでもない田舎から出て来たということが分かる。ほんとにチューリップなんでいう場所はあるのかな。カポーティのギャグだったりして。

ギャツビーは暗黒街のボスという隠れた顔があったが、彼女には刑務所に入っているマフィアとの連絡役という側面があり、逮捕されるが保釈されてブラジルに逃亡して杳として行方が知れなくなるというもの。殺されたギャツビーほど悲劇的ではないがキング(クイーン)の座から転落しておわるところは同じ。

これだけなら芸の無い話だが、この19歳くらいの「高級娼婦風」が「僕」を相手に気のきいたセリフを連発する。ときに高踏的警句、ときに深遠な哲学的言辞を吐く。もちろん単に支離滅裂なこともしゃべる。およそ、こんな破天荒な若い女性が現実にいるとは思えないが、いる様に思わせるところがカポーティの芸である。一読の価値があります。

あるとき、彼女が「アカな気分になる」という。最初は読飛ばしていたが後で又出てくる。なんじゃい、と思った。共産主義者的とか過激派的とかなんかと思って読み進むがどうもつながらない。しょうがないから、最初から読んでみるとどうも「ブルーな気分」(憂鬱なという意味ですかな)と対比していうホリーの造語らしい。「僕」はアングスト(不安感)と解釈している。実存の危機感とでいいますか、気取って言うと。 

ギャツビーでは「オールドスポート」について長々と考証をした村上氏は全然あとがきでも言及がないからわからない。カタカナで「アカな」と書いてある。此れじゃ分からない。原文はどう書いてあったのかな。Red,scarlet or crimson ?

ブルーと対比しているから色には違いないだろうが、うっかり読むと垢と勘違いする、それでも意味が通りそうな気がする、なにしろ型破りの発言をするホリーのことだから。 

タイトルの「ティファニーで朝食を」だが、このアカと関係してくるから重要なところでここは村上春樹氏に是非翻訳を工夫して欲しいところだ。

ホリーが「僕」に説明したところによると、アカな気分に取り憑かれたときはアスピリンを飲んだりヤクをやったりしてもだめで「ティファニーに言って朝食を食べる」と治るとすっとぼけたホリー用語で言っている。

高級宝飾店として、おつに取り澄ました雰囲気の店に行くとアカな気分がおさまるという人を食った言葉なのである。ところでニューヨークのティファニーはレストランを併設しているの。これもギャグくさいがね。

最後に「グレート・ギャツビー」は1924年発行、「ティファニーで朝食を」は1958年発行です。



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