父の遺品の中に大学ノートがあった。むかしからこのような「大学ノート」というものはあったらしい。大学の講義を筆記したノートまで取ってある。父はおよそ捨てるということをしない人物であった。母の生前、庭いじりは母の仕事でありわずかな息抜きの聖域であった。複雑な家庭の重苦しい空気から逃れる安息所であった。
母亡き後の庭はいささか荒れ放題で雑草が庭を巡る小道を埋め尽くしていた。ある時に家事等の手伝いをしたことのない三四郎が気をきかして雑草を引き抜いて整理したことがあったが、あとで父がそれを見つけて大変に怒りだした。もっとも父の訪問客が庭を覗いて「結構なお庭ですな」と感心した様にお世辞を言うから父もその気になっていたのである。そう言われてみると廃園の趣にも捨てがたい所があったようでもある。
事程左様に現状変更を認めないのである。勿論父自身が整理するなら全然かまわないのであるが家族といえども他人が右においてあるものを左に動かしても不機嫌になる。
畳の上に落ちているゴミまで自分で取りのけないと気がすまないのである。子供達の結婚についても悉く反対した。二人の兄や姉達の結婚の時も猛烈に反対して長い間揉めていた。今日この法事の席にいる二人の兄の妻も長い間家には出入り禁止になっていた。
さて、何冊かの大学ノートには父が女性の様に奇麗な字で丁寧に書いた青春の理想の吐露があった。まるで三四郎が知っている同じ父の手で書かれたとは思われない。いかつい激発的な性格からは想像出来ないが父の手跡は女性のような特徴があるのを知っていたからそれらの若者らしい理想論が父の手記だと分かるのである。
「私のハイラーテン観」なんて文章もある。「妻を娶らば才長けて眉目麗しく情けあり」の近代版とでも言うべく、まるで大正デモクラシーのコピーのような文章である。後世の父しか知らない三四郎からは、これが父の遺品の中からではなくて、ぽっと目の前に差し出されたら父の文章とはまったく想像出来ない文章である。
男なんて若いうちはみんなそう言うものだよ、ということは出来る。大学ノートの中には父が舎監か寮長をしていたらしい少年寮の日誌のようなものがあった。大学時代のアルバイトか、大学を卒業してまだ若い頃にそんな青少年の寮に住み込んでいたらしい。今で言えばボランテアというかNPOみたいな仕事らしい。
ここにも熱意に溢れた大正デモクラシーの教則本から書き写したような熱烈な文字が連ねてある。母だけではなくて、父も長い変遷を経て大きな変貌を遂げていたのである。いわばボス猿へのキャリア・パスとでも言えようか。
俺も変貌しなくてどうする、と三四郎はこころのなかで思った。