50:いわゆるソクラテス文学について
第九が居住まいを正して身を乗り出すと、改まった口調で「わたくしも一席弁じさせていただきます」と言った。
「もう一席弁じたじゃないか。なんだいまだあるのか」と下駄顔が驚いたように口を尖らせた。
「いいえ弁じるというほどのことではないのですが、重大な疑問を抱きましたので」
「おやおや今度は疑問ですか」
「それではお許しを得たことにして」と第六は橘さんを見た。
別に異論も出なかったのを見て第六は続けた。
「いわゆるソクラテス文学といわれるものがあるそうで、プラトンやクセノポンの『弁明』のほかにソクラテスをテーマにした作品が当時沢山あったそうですが、現在に伝わっているのは上記の二作品のみというのはどういうわけなのか」
「それが君の疑問なのかい」と卵型頭が確認した。
「そうです」
「君も相当に読書をしていると見えますね。そんな疑問を持つなんて」と橘が批評した。
第九は頭をかいた。「最近妻との専業主夫の雇用契約を改定しましてね。生理休暇を獲得したので、いささか時間が出来ました」
「男にも生理があるの」と長南さんが驚いて無邪気に聞いた。
「ありますとも、いわゆるオンスですな。男にだって特異日があります」
本当なの、と女主人が顔をしかめた。
「やはり月に一回なの」と真理探究者である長南さんが質問した。
皆は彼女を見た。彼らは第九が質の悪いいささか場にそぐわない露骨な冗談を言っていると思って聞いていたのだが、本気で質問してくる彼女のほうに興味を持ったらしい。
第九も腹を決めて若い女性に誠実にこたえることにした。「満月のたびに、というほど規則的でありませんな。大体、妙なことに水曜日が多い」
「それじゃ毎週じゃない。やりすぎよ」と彼女は叫んだ。
なにがやりすぎなのか分からなかった。
「男の人って毎週生理があるの」と彼女は老人たちに聞いた。
「さあ、どうだったかな、昔のことだからはっきりと覚えていないな」と下駄顔は第九に調子を合わせた。「やりたくなる生理なら毎週どころか毎晩だったがね」
彼女は口を開けて第九を見ている。
「それで大分自由時間が増えましたので本を読んでいるんです。夜の労働から解放されたのが大きい。冬の夜長は読書に最適です。マリー・アントワネット風のベッドのことも気にしなくていいし」
「それでソクラテス文学なんてことを知っているのか」
そういわれてみると、と橘さんが始めた。「そんなことは考えたことがなかったが、キリスト教の福音書の場合に似ているね」
「どうしてです」とびっくりして第九が聞いた。
「ソクラテスもキリストも自分で書いたものはない。すべて自分の弟子や周りにいた人間が書いたものだ。ソクラテスの場合はプラトンでありクセノポンであり、名前も伝わっていない人たちだ。キリストの場合は弟子の書いたものだ。いわゆる福音書と言われるものだね。福音書も今は四つだが、当時は多数あったらしい。それが淘汰されてヨハネ、パウロ、ルカ、マタイの四つが生き残った」
「どうして四つだけが残ったんですか」
「それは激烈な教会の内部抗争や教義論争の結果の勝者が四福音書ということですよ」
「するとソクラテスの場合も」
「似たようなものでしょう。実質的にはプラトンの一人勝ちだが、プラトンが開いた教育研究機関であるアカデメイアの存在が大きいだろうね。なにしろアカデメイアは八百年以上続いたんだからね」
51:ァンター、雲の中を飛んでるみたい
午前七時三十七分カーテンを引いた妻が感嘆符をつけたコメントを発した。第九がテーブルから顔を上げて外を見ると外は一面のミルク色だ。スカイツリーは勿論のこと、二百メートル下の道路や市街も見えない。いや窓の外のベランダの床も1.7メートル先にあるベランダの手すりも見えないのだ。
厚い霧がタワーマンションを覆っている。ここまで霧が濃いのは引っ越してきてから初めてだ。飛行機に乗っていて雲海を突き抜けられなくて一面窓の外が乳白色になるときがあるが、いまもそんな状態である。
「まるで雲の中を飛んでいるみたいね」と妻は詩的な表現をした。
テーブルに戻ってきた彼女は出張中の新聞を読み返した。特に台風がもたらした大雨による洪水被害の記事を選んで読んでいる。
「武蔵小杉のタワーマンションはひどいわね。地下室の電気設備が冠水して使えなくなったんですって」
「電気設備をやられるとエレベーターが止まるからたまらないな。あそこは何階建て何だろう。ここみたいな高さだろう」
「少なくとも四十階以上はあるでしょうね。とても登れないでしょう。しかも買い物袋を提げてね。飲料とか野菜は重いからね。降りるときも無事に降りられるかどうか」
「あなたみたいに階段から転落する可能性があるわね。一体ここのマンションはどうなっているのかな」
「購入した時にもらった資料に出ているんじゃないのかな。調べてみたら。そういえば管理組合がこの間の避難訓練でなんだかメモを配っていたんじゃないかな」
そういって彼は管理組合理事長の麻生からの電話を思い出した。
「そういえば、麻生さんとかいう管理組合の人から電話があったよ」
「なんだっていうの」と彼女はとがった声を発した。
「なんでも委任状を出してくれとかいう催促だったな」
「またか」と彼女は吐き捨てるようにいった。「いつ来たの」
「先週だったの思うな。そうそう臨時総会の委任状とか言っていた。『今度の日曜日』とか言っていたからもうすんじゃったんじゃないの」
「まったくしつこい奴なんだから。委任状回収率がイノチのようなヤツよ、彼は」
「会ったことがあるのかい」
「ないわよ、何かの通知で自分の顔写真を載せていたのを見たけど、田舎の青年団の闘士風の男よ。一種の活動家なのかな。組合の理事長を足場にして名前を売って区会議員に出るために顔を売っているみたいな印象が拭えないわね」
出張中の一か月分の古新聞というとなかなか読み切れない。大雨洪水の記事を拾い読みすると彼女は不動産会社からもらった建物の資料を探した。本棚や引き出しをひっかきまわしていたが、見つからないようでいらいらしだした。
「管理組合に聞いてみたら」と彼が恐る恐るいうと
「冗談じゃないわよ」と怒鳴り返した。それもそうだ、彼女は管理組合と冷戦状態にあるのだ。「それじゃ管理人に聞けば」
「あんたは本当にバカね。管理人なんて管理組合の理事たちとグルよ。管理組合の手先じゃないのさ」
52:お城の電気設備
妻が嵐のように怒鳴り散らして旋風のように仕事に出かけると、第九は彼女が床一面に投げ散らかしていった不動産会社の資料を整理し始めた。妻と言ったが正確には「専属主夫雇用契約上の雇い主」である。二人はちゃんと契約書を交わしている。契約書では「谷崎洋美(以下甲という)」と言及されている。だから結婚したわけではない。長たらしいから妻というのである。
彼女は出がけにマンションの電気設備が書いてある資料を探し出しておくように厳命していったのである。不動産会社が入居の時に配った資料はおびただしい量にのぼる。受け手の読みやすさとか理解しやすいようにとか、そんなことは全然顧慮しない。とにかく、あることないことビラのようなメモを整理もせずに押し付けるのである。それで何か問題が後で起こっても、ちゃんと説明資料をお渡ししてあるでしょうと住民を突き放すのである。私たち(会社)には責任はありませんよ、というわけである。
だから受け取った住民は自分たちでそれらの資料を内容別に調べて種分けをして要らないものは捨て、必要と思われるものは自分たちでしかるべき問題別に区分けをして保存しなければならない。第一どれが将来重要になる資料なのかなど住民にはわからない。おまけに妻はそんな面倒なことは嫌いであるから、受け取った説明書とか資料はそのまま収納棚とか本棚に押し込んである。同居人として第九も入居以来はじめてそれらの書類に目を通しながら種分けという厄介な作業をした。
いったいどこの不動産屋でもおんなじなのだろうか。毎年四、五回も引っ越しをしたチャンドラーほどではないが、彼も何回か引っ越しをしたが、こんなに資料の紙攻勢を受けた記憶はない。タワーマンションとなると、いろいろと住民に周知することが増えるのであろうか。大体、このマンションの売主はあまり住民目線では配慮しないようである。会社は旧財閥系で日本屈指の不動産会社であるが、商業用建物が歴史的にもメインな分野のようで、マンションのような民生用の商売は経験がまだ浅いのか不得手のような印象が随所で感じられた。
それには良い面も悪い面もある。いい面では引っ越しのサービスがものすごくよかった。大体個人が引っ越し業者を自分で手配すると満足なサービスは得られない。これが企業向けの引っ越しサービスを普段している会社だと、受注の規模が個人とは比較にならないほど大きく、かつサービスで手を抜くとたちまち将来の商売を失う。だから個人向けとはサービスが全然違う。
悪い面ではいわゆるお上の仕事的なところがあり、細かい点に無神経であり、かつまたずさんである。例えばキッチンがちまちましていてまるで会社の給湯室のようにせせこましい。風呂場の蛇口の位置とかシャワーホースの位置が無神経であるなど、あまり入居者フレンドリーではない。
求めている資料は昼までに見つからなかった。床にはまだパンフレットが散乱している。第九はあきらめて作業を中断した。昼飯を食わなければならない。彼は作業を中断して外出した。
53:賃貸と分譲、どちらがいいか
第九は駅ビルにある定食屋で昼飯をすませた。サラリーマン同士が肩を押し付けあって飯を掻き込んでいる昼休みを避けて遅い時間に入ったが、今度は老々、中老のババアたちで一杯になる。とうに食事の終わった汚い皿を前にして延々とペチャクチャやっている。これは生きているのか死んでしまったのか亭主の年金で食っている連中である。時には幼老の女どもがいることがある。これにはよくわからん。職業婦人なら就労している時間なのに定食屋でひっそりと昼飯を食っている。
さてダウンタウンに入るとインスタントコーヒーをスプーン三匙分オーダーした。いつもの常連の老人たちのところで行った。
「今日は遅いですな」と下駄顔が声をかけた。
「ええ、ちょっと調べ物の仕事をしていましてね」
「家事のほかにもそんな仕事もするんですか」
「妻がマンションの設備のことを心配しましてね。この間の大雨で電源設備が冠水して機能が停止したタワーマンションがあったでしょう」
「ああ、武蔵小杉かどこかの、エレベーターが動かないので歩いて毎日登ったとかいう」
そういえば、と卵型老人がいった。電気が止まると水道も使えなくなるらしいね。料理、洗濯もできなくなるし、風呂にも入れない。一番困ったのはトイレが使えなくなったということらしい」
「どうしてだ」
「水を上に汲み上げるのは電動式のモーターなんだそうだが、それが動かなくなってトイレの水が流せなくなったそうだ」
「そりゃー、えれえこった。夏目さん、あんたのところもタワーマンションだったね」
「そうなんですよ。しかも五十階でね。それで女房が心配して、うちのマンションはどうなっているんだって云うんですよ」
「そりゃそうだわな」
「入居の時に配られた資料でうちのマンションの電源設備はたしか三階にあったらしいと言ったら、確認しておけという彼女の厳命でしてね」
「それでどうだったの」
「その資料が見つからなくてね。あきらめて飯を食いに出かけたんです」
ビル内の診療所から検査サンプルを回収しにくるクルーケースの男が入ってきて隣に座った。
「あんたのところもマンションですか」と下駄顔が訊いた。
「えっ、そうですが、どうしてですか」
「いまね、この間の大雨で電気設備が動かなくなったマンションは大変だという話をしていたのさ」
「なるほど、うちのマンションは城東だから被害は無かったですね」
「何階のマンションなの」
「八階建ての三階に住んでますけどね」
「それならまあまあだな」
「なにがです?」
「エレベーターが止まっても階段で上り下りすれば大したことはないだろう」
「そういう心配はないですね」
「それでさ、お宅のマンションの電気設備がもし地下にあったらどうするの」と第九のほうを向いて老人が訊いた。
「さあねえ、彼女は引っ越しをしようと言い出すかもしれないな」
「一軒家にでもですか、それとも低層マンションをさがすか」と卵型老人
「さあねえ、いろいろ考えないとね、マンションと言っても賃貸と分譲ではいろいろ違うだろうし」
その時、老人はクルーケースの男のほうを向いて
「そういえば何時か君は元は不動産屋にいたとか言っていたね。君の意見はどうなんだい」
「それぞれに長所、短所がありますよね」と問われたクルーケースの男は答えた。
まず、一軒家ですがね。夫婦だけだとか少人数の家庭では無理でしょうね。維持できないでしょう。今どきの治安情勢では防犯上も大いに不安がある、とクルーケースの男は話し始めた。夫婦だけの共稼ぎで昼間はだれもいないなんて場合は一軒家は勧めませんね。また幼稚園とか小学生と夫婦だけというのも一軒家は問題です。このごろは小さい子供が巻き込まれる犯罪が多いですからね。
「もっともだな」と下駄顔老人が相槌をうった。
「分譲と賃貸ではどちらがいいんですかね」と第九が質問した。
夫々にいい点と問題点がありますね。マンションによっても違うでしょうしね、とクルーケースは答えた。
54:ヌエ(鵺)退治
規模の問題もありますよね、とクルーボックスが呟いた。
「規模が大きいほうがいいんじゃないですか」
「まあねえ」
「分譲マンションというと必ず管理組合というのがあるね」
「厄介な存在だよ」
「賃貸だと大家と店子という関係ですっきりしていますね。大家によりけりだけど、一般的に言って大規模なマンションの大家、大体は大企業の不動産屋が多いんだけど、この辺が一番無難かもしれないな」とクルーボックスが意見を開陳した。
「大家が無茶苦茶な管理をしたり、おかしな規則を強制しない限り賃貸がいいのかな」と第九が言った。
「だけどリフォームは出来ないわね」と女主人が話に加わった。
「そうですね。どうしても気に入った仕様が見つからなくてリフォームしたいというんなら賃貸はダメですね。しかし私なら出来るだけいろいろな物件を見て歩いて自分の希望というかイメージに合ったところを探すのがいいと思いますね。規模の話ですが、大手の会社が運営する大規模な賃貸はそうそう無茶なことはしませんよ。勿論例外はあります」
「どんなところですか」
「いやいや、それはちょっと言えない」とクルーボックスは逃げ腰になった。「大体評判を調べていれば分かってきますよ」
第九が思案顔に言った。「賃貸ならおまかせスタイルで、気楽かもしれないな」と妻と管理組合との百年戦争を考えたのである。
「いい大家で、つまり常識的な運営をするところで、大規模なリフォームをするのでないなら賃貸が無難でしょう」
「しかし分譲なら自分のものになるから資産価値が残るんじゃないの」
「一昔前の発想ですね」とクルーボックスが批評した。「不動産価値がローン金利以上に着実に値上がりしていた時代の考え方でね」
「そうだな、いまじゃ購入価格の維持すら不可能でしょう。よほど例外的な物件でなければ」
「ローンの金利を考えたら賃貸のほうが有利だろうな」と卵型老人が言った。
「分譲の場合はどうですか。できるならローンを組んで分譲を購入したいというのがサラリーマンの夢じゃないですか」
「持ち家というのは響きのいい言葉だしね。しかし管理の面倒くささという点では、さっきも言ったけど、一軒家、分譲、賃貸の順ですよ。一軒家の維持のややこしさは建物自体の維持とか防犯上の問題に限られるけど、分譲マンションの場合はあらゆる管理問題が負担になるからね」
「まず関係者が複雑だ。個々の所有者(区分所有者と言いますけどね)、管理会社そしてその間に管理組合というのが入る。非常に複雑だし、面倒くさい。うまれて初めて自分の物件を管理できるというので喜ぶ人もいるが、厄介ごとを引き受けて悦に入っているとしか思われないな」と下駄顔が話し始めた。
「管理組合というのは管理会社が体よく利用する存在でしょう」と第九が思いついてように発言した。
「えっ」とみんなが彼を見た。
「そうですね」とクルーケースが敷衍した。管理会社は住民の自治意識をくすぐるという手に出ていますね。なにか問題があって、管理会社に相談すると、それは管理組合マターですからと言われる。そうして管理組合に問題を上げると、理事会なんかで取り上げられるまでにものすごく時間がかかる。そうしてたいていの場合何の結論も出ずに立ち消えにされてしまうということが多いでしょう」
第九がうなずいた。住民対管理会社という図式はなく、すべて「管理組合の問題ですから」とからだを交わされてしまう。
「管理人というのはどういう立場なんですか」と女主人が話に加わった。「住民(同士)、管理人、管理組合、管理会社というのが関係者ですね。どういう関係になっているのでしょうか」
「管理人というのは立場が難しいね。同情する面も多々あるが、管理会社の従業員であり、管理組合の御用聞きみたいなところもある。管理組合との関係でしくじると自分の身が危なくなる。管理組合の御用を足していれば安全だからね」
「個々のマンションの管理組合によってさまざまだから語弊があるが、基本的には管理組合アクティヴ・メンバーと個々の住民とは違う」
「しかし、住民の自治とか振りかぶられると弱いんだよね」
「つまりマンションを買う場合はどんな管理組合かを調べなければならないわけね」
と女主人が呟いた。
「そうなんだけど、それは実際上不可能だ。中古を買う場合でもそこの管理組合の評判なんて調べようがない。まして新築の場合は、これからどんな人が買うのかもわからないし、どんな組合ができるのかも予想できない」
55:住民自治というくすぐり言葉
三時をを過ぎて四時近くなると、こういう店は客足がとだえる。会社をさぼって来ていた連中もそろそろ事務所に戻って退社前に仕事に格好をつけておかないといけない。暇になった長南さんが話に加わった。彼女は大人の話には興味を示すのである。
「分譲した部屋を賃貸に出す人がいるわね。ああいうのはどういうカテゴリーに入るの」と聞いた。彼女はいまアリストテレスのカテゴリー論を研究しているのである。
「所有者にとっては分譲だろうが、借りるほうには賃貸だよ」と分かり切ったことを聞くな、と言うように下駄顔が決めつけた。
「まあそうなんだが、別にややこしいことがあるときもあるようだ。関係者が多くなるから当然だが」ともと不動産屋がとりなすように言った。
好みもありますよね、と第九が話した。「イメージでどうしても分譲で所有者になりたいという人もいる」
「そういう人は多いんじゃないですか」と女主人。
「規模が大きいほど管理組合は常識的になるものでしょうか」と第九は疑問を述べた。
「それが必ずしもそうではない。規模を大中小に分けるとね、大規模分譲だから住民の意識が高いということは全くないようですね。中規模、どのくらいをそういうのか定義もないが、まあ五十戸以上百戸位を中規模というと結構住民意識が高いところもある」
「どうしてですかな」
「そのくらいだと住民同士の牽制が働きやすいのでしょう。おかしなことを理事会が決めれば意見が出やすい。逆に数百戸とか千戸以上のマンションだと連帯意識が弱くなるようです。なにか他人事のように思うんですね」
「なかには数戸とか二、三十戸という小さなマンションもありますよね」
「これが一番問題でしょうね。管理組合のアクティヴ・メンバーが癖のあるバイアスのかかった人物だと歯止めが利かない。暴走する」
女主人がうなずいた。「自分の土地に等価交換でマンションを建てたりしているでしょう。だから自分の名義で数戸保有していたりすると、管理費の値上げとかなんか勝手に決められる。そのうえ地元の政治屋とつながっていることがあるみたいで」
「地元の政治屋って?」
「たとえば、地元の利害の周旋が専門のような市会議員みたいなのが。文句を言うとこわもてで表面に出てくる」
「恐ろしいわね」
「まあ、小規模のマンションはスルーしたほうが無難でしょうね。宣伝パンフレットにどんなに魅力的なことが書いてあっても」
「ようするにマンションの規模と管理組合の質の高さは相関しないということか」と第九は現下の妻と管理組合との対立を考えた。
「マンションの立地と管理組合の、何というかな、穏当さというか意識の程度の高さというか、は関係がありますか」
「たとえば?」
「銀座や六本木のど真ん中に建っているマンションと、都下とか**県の在のマンションとでは差があるものでしょうか」
しばらく考えていたが、「ないんじゃないですか」とクルーボックスが答えた。
「そうすると、良い管理組合に遭遇するのはまったくの運ですな」と卵型老人が総括した。
「大体、住民の自治意識をあてにするのは百年早いんだよ」と下駄顔が息巻いた。
「まあまあ。確かに場末のマンションでも管理組合が常識的なところもある」とかれは前に住んでいたマンションのこと考えながら言った。「管理組合も進化するんですよ。長い間やっているうちに意識が高くなる場合もある」
56:共用部分とはそも何ぞ
本来は管理組合ではなくて、管理会社や不動産会社が責任を持つべきことを管理組合の権限にしていることがあるわね、と女主人が思い出したように語りだした。
「そんな不都合なことは沢山ありますよ」と吐き捨てるように下駄顔が応じた。「一番問題があるのは共用部分のことだね」
「どんなことですか」と第六が質問した。
「どんな事って」と怒ったように第九をジロリと睨んだのである。「たとえば玄関のドアに追加の鍵をつける場合だ。現在の治安状況では最低でも二つ目の鍵は必須だろう」
「現在は二つ鍵をつけているところは多いですね。それにも反対するんですか」
「何年か前の話だ。ピッキングとかいう外国人の犯罪が注目されだしたころだよ。そういう防犯上の常識が分からないのだ。管理組合の奴らは無知だからね」
「現在までもそうなんですか」
「最近は新聞なんかで二つ目の鍵を奨励するようになったからしぶしぶ認めているがね。大体治安の悪い外国なんてドアに五つも六つも鍵をつけているじゃないか」
「それはちょっと多いわね」と長南さんがびっくりして明眸を見開いた。「外国はどこでもそうなんですか」
「五つも付けるのは外国でも余程治安の悪いとこだけどね。例えばの話だ。ニューヨークのハーレム当たりじゃそれが常識だよ。こっちはは二つ目の鍵は常識だと思っているから鍵屋を読んで取り付けさせるだろう。そうすると、管理人がすっ飛んでくる。管理人というのは住民全体の管理人という意識はないからね。管理組合の理事たちの従僕だからね。かれらや管理会社から指導されているんだ」
「そうして管理組合の理事たちは管理会社の従僕なわけだ。本人たちは主人のつもりでいるがね」とクルーケースが注釈を入れた。
「へえ、そうなんだ」
「俺の住んでいるとこは元々あまり人気(ジンキ)のいいところじゃないから、余計必要なんだよ」
「それでどうしました」
「管理人を怒鳴りつけて鍵を追加した」
「問題は共用部分のことが多いんですか」
「まあ、そうだな。それと床をフローリングに変えるときに住民に同意書を強要することだな」
クルーケースが言った。「大体、なぜ共用部分の変更を理事会の同意事項にするかという根拠というのは考え直さないといけないでしょうね」
「合理的な根拠なんてあるわけがない。あれは個々の管理組合で作る管理規約に書いてあるんでしょう。だから組合によって取り扱いが違うんでしょうか」
「さあねえ、そういう統計というか調査資料があるとは聞いたことがないが、ああいうものは国土交通省が無識者会議に諮問して勝手に法令化するんだよな。奨励されるプロトタイプとしてね」
「プロトタイプって」と長南さんが訊いた。
「推奨書式というのかな、そんなものでしょう」と卵型老人が言った。
「無識者会議ってあるんですか。有識者会議というのはよくニュースで聞くけど」と単純な長南さんはあくまでもしつこく素朴で常識的な疑問を投げかけた。
「世間で有識者会議というのはみんな無識者の団子ですよ」
「団子って」
「おや云い間違えた。談合ということです」と下駄顔はあくまでとぼけた。
57:フローリングをめぐる不都合
形のいい鼻の穴から二本の太い煙を吹きだした。テーブルにぶつかるま一メートル余りは二本のネズミ色の太い棒は形を崩さず直進した。最近煙草が吸えるようになった長南さんはちょっとした芸に励んでいるのである。
「私は親と一緒に分譲マンションに住んでいるんだけどさ、この間上の階の人から回覧が回ってきてさ、今度フローリングに改修するから同意してくれっていうのよ。どうしたらいいか親はわからないわけよ」
「なにが分からないの」と女主人が優しく聞いた。
「同意するって何に同意するか分からないからよ。やるなら勝手に工事をすればいいわけじゃない。何に同意してほしいかまるで分らない。工事が終わってから前より騒音がひどくなっても一切文句を言いません、ということなのかしら」というと彼女は二本目の棒を噴射した。
「理由を書かずに同意書に署名捺印しろというのは不気味だよね。借金の連帯保証人みたいじゃないの。そんなものにメクラ版は押せないわね。私はね、やめとけって言ったのよ」
「親にですか」
「そう、これがね、こういう工事をします。工事中に騒音が出てご迷惑をおかけしますがというんならよくある挨拶でしょ。同じマンションだししょうがないか、とたいていの人は思うでしょ。だけど、そんなときは手ぬぐいとなにか粗品を持ってきて挨拶をするらしいんだけど、同意を求めるなんてことは異常でしょう」
「たしかに非常識だね」と第九は頷いた。
「放っておいたら、本人が来ないで請け負った工事業者が説明にきたの。オイオイ何だっていうんだ、でしょう」
「そんなのは同意する必要はありませんよ」と下駄顔が忠告した。
「やっぱりそれが正解なのね」
「親はね、工事の結果、騒音が発生しても文句を言わせませんという意味じゃないかと心配しているの」
「もっともな心配だな」
「ところがそこへ管理組合の理事が現れたわけ。管理規約でフローリングに改修工事をするときは上下左右の部屋の同意を取り付ける必要があるというのがあるというの。まるで同意しないとこっちがいけないみたいに言うのよ。こういう管理規約は一般的なんですか」と彼女はクルーケースに聞いた。
「残念ながらそうなんですね。さっき話が出た業界の推奨書式にありますね」
「それには目的は書いてあるんでか」
「目的というか規則の趣旨は書いてなかったと思うな」
「ひでえ話だな」
「国土交通省は三流官庁だしね」
これはね、と卵型が付け加えた。そのマンションの建築業者か管理会社が審査して自分たちの責任で承諾、非承諾を決めるべき問題です。工事の結果、騒音がひどくなるかどうかは完全に技術上の問題です。考えなければいけないのは、そのマンションの完成時の遮音性能とフローリング業者が行う遮音工事のレベルや内容です。これが判断できるのは建築の専門家しかいない。つまりそういう情報を持っていて判断が出来るのは管理会社しかありません」
「たしか、マンションの遮音性能は建築基準法で報告義務があったんじゃないですか。ABCDEというランクがあったはずだけど」とクルーケースは呟いた。
「あるはずですよ、すくなくも学問上は。実際の認可基準にされたかどうかは国土交通省と建築業者の綱引きでうやむやにされている可能性がありますがね」
「フローリング業者が行う工事だって金をかければかけるほど遮音性能は高くなる。例えば防音工事に予算をほとんどかけない場合と十全の措置をする場合とで雲泥の差が出ます」
「一千万円もかければ70平米のおんぼろマンションだって室内でピアノが壊れっるほどぶっ叩いても隣や下に騒音は漏れない」
58:正月の路上は危険がいっぱい
お待たせしました
??
おや、お忘れになりましたか。「破片」という連載狂詩文ですが、だいぶさぼっておりまして・・・何、待ってなんかいないよ、ですか。いやそうでしたか、失礼しました。
正月休みはレトルト食品とインスタントばかり食っていた。一度川崎大師にお参りに二人でいった。いや大変な人出で、行列ができていて三時間も並びましたよ。ファイナンシャル・プランナーである妻は非常に縁起を担ぎますので、毎年正月には川崎大師にお参りするのだそうです。今年はお供をさせられました。
そんなわけで、今日は妻が久しぶりに出勤した後で、まだ松の内でしたが久しぶりにダウンタウンに第九は行った。店はもうやっていて、入り口にはまだかわいらしいしめ飾りが残っていた。さすがに店は閑散としている。女主人と新年の挨拶をすると席に座っていつもの頭がしびれるようなきついコーヒーを注文した。店にはもう下駄顔も卵頭も来ていた。
ようやく平年の紙面に戻った朝刊を持って老人たちのそばに行き「今年もどうぞよろしく」なんてもごもご言って隣に座った。
「正月は無事でしたか」
「は?平凡な正月で何時もの年と変わらず」なんて当たり障りのない挨拶をしていると、クルーケースを持った男が店に逃げ込むように入ってきた。
「おや、もう仕事ですか」
「ええ、診療所も昨日からやってましてね。これから行くところなんですがね」と言いながらしきりと店の入り口を気にしている。
「誰かと待ち合わせているんですか」
男ははっとわれに返ったように「いや下の本屋でね、キチガイにからまれてね。後をつけられたんですよ」
「その男は若いんですか」
「いや、中年の女なんですが」
「オンナ」なんだか彼のおびえた様子がおかしくなったのか卵頭が笑って訊いた。
「女性のキチガイというのはこわいからな」と下駄顔が言った。「このごろはいきなり包丁で切りつけたりする通り魔みたいな女がいるぜ」
「なぜトラブルになったんですか」と第九が尋ねた。
クルーケースはグラスのお冷を一口飲むと、「一階の本屋に入ったんですよ。棚の間を一回りしているといきなり背後から『触らないで』と女の声がしましてね」
「触りましたか」と卵型が期待をこめて膝を乗り出した。
「とんでもない。本だな棚の間をすり抜けたんですよ。ぼさぼさの髪の毛をした背の高い女がいたんですが、その後ろを体を横にしてすり抜けようとしたんです。触った感触はなかったんですが、このケースが当たったのかもしれない」と彼は椅子の脇におい銀色の冷凍ボックスのようなケースを叩いた。しかしかすった程度でしょう。こちらには全然当たった感触はありませんでしたからね」。彼は水をもう一口飲むとまだ心配なのか入り口のほうを見た。
59:正月病について
「そういえば」と第九が口を開いた。「正月の街頭というのは不穏な空気が漂っていますね」
下駄顔が面白そうに第九の顔を見た。
「たしかに昔とはだいぶ違っているね。表で女の子が羽子板をついているなんて言うのは見かけないからな。町はゴーストタウンみたいになっているからな。一種異様な空気が流れている」
「たしかにね、それが盛り場に行くとものすごい人出なんですね」
「正月はとんと盛り場に脚が向かないが、みんな実家に帰って盛り場は閑散としているんじゃないですか」
「東京の人、田舎から東京に働きに来ている人という意味ですがね、地方の実家に帰るが今度は地方の人が大挙して東京なんかに来ているみたいですね」と卵型頭が言った。
「そういえば町には地方ナンバーの車が多くなりますね」と第九が言った。「お盆の時もおなじだな。休みに旅行に出る人と、東京に遊びに来る人が入れ替わるんでしょうね。それに最近は外人が多いから、彼らには正月もお盆もないからな」
「よく五月病とか言うじゃないですか。あれは新入社員のことらしいが、発症するのは五月の連休明けらしいからね」
「とにかく長い休みというのは調子が狂うんだろうな」
「体だけじゃないですよ。精神にも変調をきたす人が多いらしい。正月の街歩きは気を付けないといけませんね」とクルーケースはやや落ち着いて話した。どうやらおかしな女はここまで追いかけてこないので安心したようであった。
店の入り口あたりで若い女たちの嬌声が突然はじけた。クルーケースの男はぎょっとして口に含んでいたコーヒーをむせて咳と一緒に吐き出した。
「ああ、橘さんだ。今日は大当たりだったらしいな」と下駄顔緒は入り口のほうをみた。パチプロの橘氏が真っ赤な顔をして店員の若い子たちに景品のチョコレイトを配っている。
彼は第九たちの席に来ると煙草のカートンを三本テーブルの上に置いた。「あなたは煙草を吸うんでしたっけ」というと一本を下駄顔に差し出した。そして残りの二本を困ったように宙に浮かせた。第九が気を利かして「私は煙草をやらないですから」と助け舟を出した。橘さんは卵型頭とクルーケースの男に一本ずつ渡した。
彼はウェイトレスに注文すると、「だいぶ話がはずんでいるようですね。なにか面白い話ですか」と聞いた。
「正月休みは街におかしな人が増えるという話をしていたんですよ。それとお盆とかゴールデンウィークにもおかしな人が街に増えるということをね。そうだ、あなたは精神科のお医者さんだったから聞くんですが、お正月なんか患者の症状が悪化するなんてことがあるんですか」
橘さんはパチンコの大当たりの興奮がまだ冷めないのか、太り気味の体から汗が噴き出して止まらないらしい。おしぼりで顔を拭き、額を拭い、後頭部にタオルを回し、最後にワイシャツのボタンを外してわきの下をゴシゴシとぬぐった。一息入れるとうーんといって考えていたが、それは確かですね、と答えた。
「どうしてですか」
「生活のリズムが狂うんでしょうな。大体正月はね、医者も休むし担当の看護師も交代で休暇をとるから人手が少なくなる。病院の雰囲気お変わりますよ。患者はそういう変化には敏感でね。それで病院の判断で快方に向かっているとか、まもなく退院させられそうだというのを家に戻すんですよ。家族と合意が出来ればね」
「フーン。しかし大丈夫なんですか」
「いや、途中で暴れる可能性もあるから一人では出しません。病院の人間が付き添って家まで送っていくのです」
その話を聞いて第九が思い出したように言った。「わたしも一度地下鉄で変な男に理由もわからずに絡まれたことがある。あやうく線路につき落とされそうになったですがね、その時に、その男の連れが急に現れてね、その変な若者を後ろから羽交い絞めにしたんですよ。そうしたら訳の分からないことを喚いて私を蹴ろうとして男が一変しましてね」
「どう一変したんですか」
「急に女の子みたいに、まるで借りてきた猫のように大人しくなったんですよ。いま考えると狂人を羽交い絞めにした男はつき添いの看護師だったのかもしれない」
「それも正月休みですか」
「さあねえ、正月ではなかったな。暑いころだったからお盆の時だと思います。どうなんですか先生」と元精神科医のパチプロ氏に聞いた。
「そうかもしれません。付き添いの人間には従順に従うように慣らされていますからね。あなたが乱暴されそうになった時には付き添いはいなかったんですか」
「ええ、急に現れましてね」
「地下鉄のホームと言いましたね。そうするとなにか自動販売機に買いに行ったのか」
「いや、なにも持っていなかったと思いますね。はっきりとは思い出せないが」
「それじゃあ空き瓶を捨てに行って帰ってきたのかな」とクルーケースが言った。
「若い男は背の高いスポーツ選手のような体をしていたが、付き添いのほうは線の細い小さな男で、その男に制止されたらまるで別人のように大人しくなったのが不思議でね」
「サーカスなんかで女の調教師の鞭に唯々諾々として従うライオンがいるでしょう。あんなものなんですかね」とクルーケースが言った。
「ところでさっきあなたが遭遇した女はどんな女だったんですか」と橘氏が問いかけた。