穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

151:ハイデガーは陽狂か聖痴愚か

2020-11-09 08:07:45 | 破片

  ユングの書簡集にこうある。

「複雑な凡庸さの巨人、ハイデガーの方法は徹頭徹尾、神経症的で突き詰めれば気難しさと心の不安定さから出てきたものだ。、、、、、哲学はいまだ精神病質者を根絶できないでいる。云々」

 さて、わたくしはここまで断言するのを躊躇する。私の疑問は彼は陽狂を装っているのか、それとも聖痴愚、なのかである。若い読者にはなじみのない言葉かもしれないので若干説明すると、

 「陽狂」とはわざと狂人のふりをすることである。「陽狂自ら快となす」という言葉がある。着違いのふりをして人が気持ち悪がったり怖がったりするのを見て楽しむというか面白がるという意味である。陽には人偏に羊と言う字も使う。PCで変換できないので陽のほうを使った。

 「聖痴愚」というのは頭のおかしい人のほうが神に近いというほどの意味である。ドストエフスキーのハクチ(変換できないね、もっとも白とやってから痴呆とやればできるがそんな面倒くさいことはしない。説明の文章のほうが長くなったが、初めてなので注記した次第)に出てくるムイシキン侯爵がその例である。

 さて、どちらでしょう。私は決めかねている。もっともこの二択設問そのものが間違っているのかもしれない。

 ところで、読者におことわり、と第九は書いた。「技術とは何だろうか」を講談社学術文庫で途中まで読んだが、先日書店で別の翻訳を見つけた。平凡社ライブラリーである。見るとこのほうが読みやすい。いや目にやさしい。活字が大きいし文字の間のスペースもある。それで早速こちらのほうで読んでいます。

 まだ途中だが彼には鬼面人を驚かす造語が多い。よく読んでみると95パーセントは造語をひねり出す必要がない。別の普通の言葉で表現できるのに不自然な造語をひねり出す。やめられないんだね。彼が頻発する意味のない、正当化できない語源遊びと同じだ。

 

 


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