穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

148:ハイデガーの語源遊びの幼児性(致命的欠陥)

2020-11-03 10:11:10 | 破片

 どういうわけか、新しいマンションでは半熟がうまく作れない。今朝も洋美が半熟をスプーンでひっぱたいて開頭したら、どろどろの白身があふれ出して彼女の指を濡らし洋服の前を汚してしまった。たちまち彼女は罵声を上げはじめた。前日には中身が完全に固ゆで状態になって、彼女の機嫌を損ねてしまった。タワーマンションの矮小キッチンで彼が開発した半熟卵の作成方法は下町の低層マンションでは通用しないらしい。どうも物理定数が違うようなのだ。これも一種の相対性原理なのだろう。いつものことだが、彼女の罵声は三十分は続く。ようやく出勤したあとは部屋は耳が痛くなるほど静まり返った。彼はハイデガーの本を持って納戸スペースに籠った。

 ダウンタウンで立花に約束した第二講演の「建てること、住むこと、考えること」を読み始めた。早速語源遊びのオンパレイドだ。この講演はドイツ建築家協会のシンポジウムで行われたものだそうだ。だから「建てること」がハイデガーのテーマになっているわけである。

 さて、この論文も語源遊びのオンパレードである。彼曰く「何らかの事象の本質について言い渡しが私たちにもたらせるのは、言葉のほうからです」。なるほど、語源遊びにも立派な理由があるわけである。しかし、彼お得意の現象学的アプローチではないが、言葉は使われていた状況と言うか環境とペアで把握しなければならない。ハイデガーにはその点が全く欠落している。致命的欠陥と言わざるを得ない。

 この論文で古高ドイツ語では住むことはどどまること、滞在することであるという。ま、留まると滞在するとは現在でも同じ意味だけどね。一体、このココウ(と読むんだろうな)ドイツ語と言うのはいつ頃(何世紀ごろ)どの地方で使われていて、この言葉を使っていた種族の生活様式はどうだったのか。

 つまり、農耕定住時代なのか、狩猟採取状態で定住地などなかったのか、あるいは遊牧生活であったのか、この場合も住むというのは定住するということではなく、一時的にとどまるということである。現代?でもテントを担いで移動を繰り返しているモンゴル族とか、北極圏の住民のような生活をしていたのか。それぞれによって住むという言葉そのものがあったのかも疑問である。移動の途中で一時的にとどまることはすなわち、強弁すれば『住む』ことであろう。それを現代にもってきても全く意味がない。

 そのすぐ後に古語ブアンと言うのが出てくる。なんじゃらほい。これらの言語によると『建てるということは、根源的に、住むという意味なのです』。現代風にいえば、住む*ため*に、という意味ナノデス。

 ゲルマニアの深い森を彷徨い狩猟採取生活をする集団の言葉から「哲学的意味」を蒸留することは全く意味がない。『住むことの本質がどれほど広範な射程を有しているかを告げています』

 そうでしょうとも、第一言葉と言うか、語彙そのものが未開異民族にあっては貧弱でしょうからね。現代でも幼児言葉をみればわかります。幼児は一つの言葉で大抵のことを表しています。ハイデガーが本質的な探究をするのにどうして幼児言葉に注意を向けなかったか不思議で

 ここまで書いて第九は読み返した。ちとやりすぎたかな、とも感じたが、まあいい、とつぶやいたのである。昼飯を食いに出る前に一つあげておかないとね。

 

 

 

 

 

 



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