今回も「善の研究」関連なのだが、前回なぜもっとも影響を受けたと思われるベルクソンの著書に西田が触れていないのか、と疑問を呈した。若干筆者の見解を述べる。推測である。
善の研究初版が出たのは明治44年である。日本にはベルクソンはまだ紹介されていない。西田はベルクソンを英訳で読んだと、どこかで読んだ記憶がある。日本の論壇や哲学界にはまだ知られていない哲学者であり、フランス語でなくて英訳で読んだという経緯が出典としてベルクソンをあげるのを躊躇した原因である可能性がある。 確かの職業的哲学者としてベルグソンの英訳の何ページ云々と言うかたちの文献参照はメンツから行ってもしにくかったであろう。
さて、大正時代に入るとベルクソンの一大ブームが日本の論壇、哲学界で巻き起こる。「早もの食いで手の速い」小林秀雄などもブームに乗ったほうである。ところが、ブームはあっという間に短期間で終息した。十年も続いたかどうか。ある論文によると、これはラッセルがベルグソンの根本概念の一つである『イマージュ』という言葉が曖昧で間違った使い方をしていると批判したのがきっかけだそうだ。
善の研究はその後版を重ねているが、西田は再版後もベルクソンへの言及をしていない。否定的な流れでブームが否定されたので「知らんぷり」をしたのだろう。日本でベルクソンが細々と復活したのは戦後、しかも最近のことである。したがって善の研究のベルクソン・パートは西田の独創として受け取られ続けたのだろう。日本人はベルクソンを否定しても、その原因など知らなかったのだ。西田は独創的な日本独自の哲学者として認められ続けた。
断っておくが以上は西田哲学の形而上学的部分である。道徳論、宗教観では日本独自のものがあるのかもしれない。その辺は読んでいないから判断できない。