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穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

143:アリストテレスを買った立花さん

2020-10-26 08:30:57 | 破片

 ダウンタウンではここ二、三日立花さんのすがたを見かけないな、と第九は気が付いた。彼は洋美のために夕食の支度をしなければならないからあまり遅くまでいられない。立花は普通四時前後にパチンコを切り上げて獲得した景品を女ボイへのお土産に店に現れるのであるが、パチンコの成績が思わしくなくて未練がましく遅くまでねばっているのか。ひょっとしたら病気なのかもしれない。コロナかもしれない。肥満体は重症化するというから、重症化したのかな、と彼は手持ちのハイデッゲル教授についての質問をぶつけられないでいるのである。

 レジのあたりが騒がしくなった。女ボーイたちの嬌声があがる。振り向くと、立花が若い女性たちに獲得したチョコレイトやクッキーの景品を分配している。

席に現れた彼に「今日は調子がいいらしいな」と下駄顔が声をかけた。

「いや、ツキが回ってきたらしいです。パチンコだけではなくて昨日はアリストテレスを抑えで当てましたよ」

下駄顔はきょとんとしている。「菊花賞ですか」と競馬狂のクルーケースの男が言った。

「そう、頭で狙ったんだがね、抑えのほうが来ちゃった」

「惜しかったですね。クビ差の二着でしたね。もう中盤からルメールはぴったりとコントレイルにくっ付いていましたからね」

立花は真っ赤な顔からにじみ出ている汗を変色してすでにびしょびしょになったフェイスタオルで何回も偏執狂的にゴシゴシとぬぐっていたが、第九に気が付くと「読んでみましたか」と聞いた。

「ええ、難儀をしましたよ。素っ頓狂な本ですね」

「あはは、素っ頓狂はいい」

「やたらと語源調べが多くてね、違和感を覚えましたね」

そこへ憂い顔の長南が注文を取りに来たが、「ギリシャ語の語源遊びでしょう」と若き女性哲学徒らしく聞いた。

「うん、ギリシャ語もあったけど、とにかく思いつく言語すべての語源を調べたという印象だな」

「ふーん、アタイは存在と時間を読んだけど、ギリシャ語だったような気がするな」

「いやいや、ギリシャ語はすくない、古ドイツ語だとか、古いザクセン語だとか高地ドイツ語だとかね。それに古代ラテン語、ラテン語だろう、それにフランス語や英語までほじくっている。サンスクリットまである」

「そうなの」と彼女は狐につままれたような表情をして、「どうなんですか」と哲学の先輩を見た。

「たしかに存在と時間ではギリシャ語だけだったような気がする。ハイデガーはその後、いろいろな言語を勉強したんでしょうな」

「語源調べを自分の哲学の根拠とするなんてありなんですか」と第九は問いかけた。

「ないでしょうな、古文、古典の解釈には有効な手段だろうが、哲学の論証には使えるわけがない」と立花は切り捨てた。

「本居宣長の古事記考じゃあるまいしね」