穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カンタン・メイヤスー

2020-09-24 07:32:40 | 読まずに書評しよう

 彼の名前とことなり、彼の考えの目安(メヤス)を簡単(カンタン)に紹介することは出来ない。フランス人の哲学教師と言うが。

 俎板の上にあるのは彼の著書「有限性の後で」とグレアム・ハーマンの「思弁的実在論入門」のなかのメイヤスー論である。最初にお断りしておくが、これから一連の実演を行う *読みながら書評の対象、思弁的、あるいは新しい実在論* の材料はすべて翻訳である。

 したがって書評の対象は原著者の楽譜を日本の翻訳者の解釈によって演奏した邦訳書である。翻訳を読んでいておかしいな、とか引っかかるところがあると、原則として原著を調べることにしているが、まだ生まれたての赤ん坊のような *思弁的実在論* ではわざわざ原著を取り寄せて調べる気がしない。したがって以下のシリーズで対象となるのはすべて邦訳書である。

 それと、メイヤスーの著書だけではなく、これらすべての本には索引がない。哲学関係の書籍には索引が必須である。おそらく索引を作るのは手間がかかるのであろう。時間がかかるのであろう。一般に丁寧な行き届いた索引を作成している書籍は少ない。欧文から欧文への翻訳、例えば、ドイツ語から英語への翻訳にはまず、索引が付いていないのはまれである。しかも索引にはオリジナルな言語での表記もつけてあるのが多い。ま、今回は書き下ろし、流し読み、読みながら書評であるから、その辺はパスしよう。

 索引と言うのは用語の索引(事項索引)である。人名索引ではない。人名索引のついているのはある。作成するのが簡単だからだろう。大して役には立たないが。

 付け加えると、欧米の哲学書で使用する言語は最初からラテン語由来のような抽象的(学術的雰囲気の漂う)用語があり、これは大体邦訳してもそう突拍子のないものはない。しかし、日常言語を使用する場合もかなりある。この場合は原語の雰囲気を適切に訳さないと珍妙な日本語になる。まして、最近の若い翻訳者は日本語にも難があるから(失礼)ますます珍妙になることがある。

 そういう言語、つまり日常語、は語釈が多様であり、同じ言葉でも全然関係ない、場合によっては正反対のニュアンスがあるものが多い。どの言語でも日常語というものはそういうものである。索引で、あるいは本文で原語を示してもらわないと解釈に苦しむことがある。

 さて、メイヤスーであるが、冒頭にあげた出典の少々を読んだだけだが、彼の主張はどこにあるのか分からない。大部分が他者の哲学の批評、評論である。いつになったら彼の考えが出てくるかな、と思っているのが出てこない。したがって彼の文章は、きれいな言葉でいえば哲学史の趣がある。さすがに大学の哲学教師である。

 しかし、彼の料理のしかた、つまり哲学史の腑分けの仕方は大学の哲学教師らしい緻密さがある。それは「相関主義」という刺身包丁である。デカルトに始まり、バークリー、ロック、カントを経てウィトゲンシュタインからフッサール、ハイデガーに至る。

 ちょっと驚いたというか、意表を突かれたのはウィトゲンシュタインに対する尊敬にも近い態度である。ウィトゲンシュタインに対する高い評価は他の「思弁的実在論者」にも共通しているようだ。それもWのいわゆる後期著作ではなく、最初の、そして唯一の生前に出版された著書(だったかな)である論理哲学論考に対してなのだ。それも6・・以下のたかだか50行の断章部分なのだ。彼の理論的部分ではなく、呟きのような部分にしきりに言及する。奇異な感じを抱かざるを得なかった。二十世紀の哲学界の鬼才、天一坊に威光にあやかろうとしたのだろうか。