穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「暗闇へのワルツ」、ウィリアム・アイリシュ

2010-09-21 00:51:59 | ミステリー書評

これはミステリーとは言えない。一般小説、そんな言葉があるかどうか知らないが、エンターテーンメント小説というか。

アメリカではあまり評判が高くないそうだ。前にもふれたネヴィンズの「ウールリッチの生涯」によると、暗闇へのワルツが読者に愛されなかった理由は明白である。物語の長さに比してサスペンスをはらむ場面がいかにも少なすぎる、とある。

一方日本ではどうか。だいぶ古い作家で今ではあまり話題になる作家ではないが、現在書店で入手できる数冊の本のうちに「暗闇へのワルツ」が入っていることから日本人には受けているようだ。(彼の多数の長編、膨大な数の短編のうち新刊で入手できるものは数冊で、そのリストに入っているということは日本での受容度が高いということだ)。

ネヴィンズがアメリカでの不評を紹介している。また彼自身も否定的なコメントをしているが、この評伝で他の作品にくらべて異例に長々と作品を紹介している。あとで触れるがさして複雑な筋でもないのに他の作品に比べて異例の紙数を割いている。推測するに本当はネヴィンズはこの作品が大好きだったのだ。

端的にいえば毒婦ものである。20歳をわずかに超えた良女(悪女ではない、いい女という意味)に翻弄される中年男性の物語。20歳をわずかに超えたというところがミソで最後のドンデン改心に無理なくつながる。

ネヴィンズはこれは「散文によるオペラ」であるという。この評価は的を得ている。オペラに複雑な筋のあるものはない。筋だけ書くと子供向けの童話とさして変わらない。それを豪華絢爛たる舞台で見せる。雰囲気、色調、むせかえる情感のいずれをとっても、ノワールの水準をはるかに超えて強烈である、とネヴィンズはいう。言いえて妙。

エンターテーンメント、ミステリー、純文学作品を通して一読後読み返したいという小説はまずない。この小説は、いま読み終わったばかりであるが、もう一度今読んでもいいなと思わせる。しかもそれが翻訳である。並みの力量ではない。

オペラも歌舞伎も好きなものなら時間を工面してはじめだけでもいい、しまいだけでもいい、あるいは途中の一幕だけでも何度でもちょっとのぞいてみたいと思うものだ。この作品にはそのような魅力がある。