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穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹1Q84;おやじギャル

2009-08-19 19:41:57 | 村上春樹

ひきつづき、青豆パートのはなし。

必殺仕事人であることを除けば、青豆ちゃんのライフスタイルは中年オヤジのやることはなんでも真似る親父ギャルそのものだね。

酒を飲みに行っちゃ男をひっかける。そのくせ、小学校の時に一度手を握った男のイメージを守り続ける。これって、しがないサラリーマンの最大公約数じゃないの。

というよりか、ふうてんの寅さんか。


村上春樹1Q84;ブランド問題

2009-08-19 19:32:37 | 村上春樹

さてと、どれからいくか。もう少し女性マーケット問題でいこう。その前にひとつ。

この小説は青豆パートと天吾パートの二本立てなんだが、青豆パートが均衡を欠いて軽い。章の数は同じ、ページ数までは同じではなかろうが長さに関係なく青豆パートが軽い。しかも生硬である。まるで下手な政治パンプレットを読んでいるようだ。

青豆パートにはやたらとブランド名が羅列してある。出てくるというより羅列してあるというほうがいい。全部現実にあるブランドかどうかはしらないが。衣服、装身具、それからワインなど。いかにもブランド狂いのOL市場用にみえる。

このパートは青豆の視点で見ているのだろうが、キャラクターの設定では青豆はブランド志向を軽蔑するような女性に見えるが、それにしてはこの商品名の羅列はどういう効果をねらっているのか。キャラ設定ともしっくりいっていないようだ。

村上さんのかみさんがブティックでもやっているのかな。ブランド志向のOL読者をうならせようという作戦だろうか。

もっとも、このブランドのリストの半分がわざと架空のものだったりするとまだしゃれっ気があるんだが、

もちろん、現実の商品名をふんだんに入れる作家は内外に多いが、それに比べてもこの作品にあふれているブランド名の数は異常である。


村上春樹1Q84;女性市場

2009-08-19 07:57:00 | 村上春樹

ブログというのは日記だそうだ。日記は毎日つけることが大切らしい。

そこでだ、諸君

一日ようやっと五ページほど読むとする。その箇所の感想を書けば毎日ページを更新できるわけである。

さて、1Q84は「世界の終り、」同様、(「海辺のカフカ」は読んでいないが、それもそうらしいが)、二つの話が並行、交互にあらわれる。「世界の終り、」ではすべての人物が記号的であるが、1Q84でも二つのパートの語り手(視点)は記号的である。女は青豆、男は天吾。

村上春樹は自著の翻訳も並行して行っているのか、翻訳市場を念頭においているのか、名前の付け方も翻訳を念頭において決めているらしい。青豆はgreen peasであろう。これはテロリスト環境団体greenpeaceに引っ掛けてあるに違いない。

天吾というのもTengoで欧米人の耳に入りやすく、おぼえやすい名前だ。あやふやな記憶だがスペイン語でtengoはI have ということじゃなかったかな。yo tengoなんてね。

ところで空豆ちゃんね、これって女性マーケットに受けるかな。村上春樹は大きな女性マーケットを持っているそうだが、青豌豆ちゃんはどうかね。一抹の危惧を感じる。余計な御世話だって、ちげーねぇ。


1Q84年五月

2009-08-18 22:28:36 | 村上春樹

ブログだから流行っているものは一応取り上げる。というわけで村上春樹1Q84を読み始めた。5月あたりまでは何とか来たんだが、どうしても先へ進まないので一休み。

村上春樹にノーベル賞を取らせようというなら工作を加速したほうがいい。1Q84が翻訳された後では難しくなるのではないか。


村上春樹解題

2009-08-10 23:01:05 | 村上春樹

「世界の終わり」はハントウジン(半頭人?)「僕」の(日本)社会への主体的同化帰化(エンゲージメント、コミットメント)のはじまり。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」以後村上春樹は変わったのか、変わらなかったのか。再転換したのか。「世界の終わり」しか読んでいないので分からない。

種族的集合無意識「影」の強制と重圧を振り切れたのか。


村上春樹はリトル・ギャツビー

2009-08-09 21:04:20 | 村上春樹

少し前に述べたことに戻るが、村上は尊敬する作家にスコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーそれにドストエフスキーを挙げているが、唯一共通点があるのはフィッツジェラルドのみだと述べた。

村上春樹の人生そのものが、さながらリトル・ギャツビーを彷彿とさせる。村上が影響を受けたのはフィッツジェラルドのグレート・ギャツビーだというが、出自不明な根なし草のようで華やかさと哀しさ(喪失感)が同居しているグレート・ギャツビーは村上の青春のスナップと思われる「1973年のピンボール」を連想させる。大分スケールは小さいが。

村上の作品にはチャンドラーやドストエフスキーを連想させるものはかけらもない。

ピンボールはまたの名をコリントゲームあるいはパチンコという。言葉の選択に必ず二重三重の含意を持たせる村上春樹である。


謎とき村上春樹、カベ、影、森

2009-08-09 14:22:04 | 村上春樹

今回はカベと影、森という、「僕」の放り込まれた城塞都市国家の諸記号についてまとめて述べる。相互に関連しているからそのほうが説明しやすい。

何度も言うように、この物語は意図的に韜晦した記号たちによる寓話であるから、幾通りもの解釈が可能である。そのなかで、這般の情報を勘案してもっとも妥当と思われる分かりやすい例解を示す。

ずばり言うが、カベは日本国家である。カベは被害妄想に取りつかれた在日半島人が措定するところの日本国の権力である。「僕」の出自は在日半島人である。

カベは彼らの闘争、反抗を封じ込めとらえこみ、制限する機能を持つ。これはエルサレム賞でのカベにつながる。

朴たちはどうしてここに来たか分からない。ここは意味深長だ。はっきりと強制的に連れてこられたといわない。ここに僕の、あるいは作者の立ち位置があることを示唆している。

「僕たち」は城塞の入り口で各人のもっている影を取り上げられる。村上春樹も日本の作家連中が無条件に信奉しているフロイト、ユングの精神分析「学」の信者だろう。とすると影とはその用語でいう無意識、それもユングのいう集合無意識のつもりだろう。実際、精神分析「学者」自身が無意識のことを影と表現する*。

集合無意識とは半島人のアイデンティティの謂いである。

つまり、影を取り上げられて民族の記憶、アイデンティティを喪失する。よく半島関係者ならびにそのシンパが主張することと一致する。

障壁の手前には森があり、「僕」は森に入らないように忠告される。「僕」は「僕の影」に頼まれて要塞の地図を作る。そのために森に入り城壁に近づく。そのあとでひどい病気になり、昏睡状態が何日か続く。

森の中に住む住人がいるが、その姿を見ることはできない。かれらは都市の町中に出てくることはない。森とはなにか。一番無理のない解釈は被差別のある地域ということである。森の住民とは民である。

「世界の終わり」にはまだたくさんの記号がある。それは次号で。

注1:上記は寓話解釈の一例にすぎない。また村上春樹が半島系というのでもない。彼が描いた対象、テーマがそうではないか、という話だ。

注2:小生は精神分析学を全く信用しない。信じない。学問であるならカルトみたいに信じることもない。科学なら「納得できれば」いいのである。それは科学ではないからもちろん小生は納得も理解もしない。

しかし、日本の、世界の作家たちや知識人たちが信奉しているなら、そしてそのターミノロジーで村上が理論構築をしているなら、メタ評論としては、おなじフレージングを使わざるをえない。それだけのことである。


謎とき村上春樹、カベ

2009-08-09 09:42:10 | 村上春樹

今回の村上春樹現象はイベントとして周到に計画されたものである。第一弾がエルサレム賞の受賞である。受賞演説もキャンペーンの一環として効果を狙ったものである。

その演説で「カベとタマゴ」てなことをいった。それがえらく受けたんだね。イスラエルでは受けなかったらしいが。

村上はタマゴ側だという。カベは敵であり、悪役である。

ところでカベという言葉が初出したのは1985年出版された「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(以下世界の終わり)である。本には庭園監獄みたいな絵地図が載せてある。この監獄を囲む城壁が「カベ」である。

この小説は「私」が語る冒険パートと「僕」が語る城壁都市の中の記述が交互にあらわれる。

「私」パートはハードボイルド・タッチであり、少年少女冒険物語であり、地中探検であり、種々の邪悪な組織、怪物との活劇である。

「僕」は記憶のないままに城塞都市に監禁されて「影」を奪われる。

私と僕は反応するようでしないような関係である。文学青年好みの言葉で言えばシンクロニックである。「私」が活劇で追われたり、襲われたり、窮地に陥ると城壁の中の「僕」は気分が悪くなったり病気になったりする。あるいは逆かもしれない。「僕」が病気になったから「私」は襲われたのかもしれない。

次回は「カベ」が寓意するところを述べる。


謎とき村上春樹

2009-08-09 06:31:54 | 村上春樹

村上春樹の「壁」はどうなったのか。1Q84で壁は崩壊したのか。まだか。ベルリンの壁が崩壊したのが1Q89年だったね。

シャフラー村上春樹の逆引き辞典がはじまる。エルサレム賞では壁は健在だったようだ。1Q85年版を見てみよう。

次号につづく


村上春樹プロとコン3、背後に巨大なエスニック買い集団か

2009-08-08 09:33:20 | 村上春樹

ブログを見ていて気になることがある。村上春樹賛美に一定の色が付いていることである。

臭みと言ってもいいし、ワンパターンと言ってもいい。言葉まで同じだ。

まるで巨大な集団が構成員に同じことを言わせているような印象をうける。

さて、讃美派のもっとも多く言うことは、村上春樹の例を見ないような名文のことである。私が村上春樹に感心するところがあるにしても、それは名文であるからではない。彼の文章が名文であるという見方にも同意しがたい。

第二は、比喩が卓越しているというのである。これも全く同意しがたい。比喩は多用していても決して、おもわず膝を打つようなうまい比喩ではない。この種のファンの讃美はまったく理解を超えている。

比喩の名手といえば、村上が讃美するチャンドラーである。これはまったくその通りである。しかし、村上春樹にチャンドラー級の比喩のキレがあるなどとはとても言えない。

かれの小説が優れているならもっと他の点を探すべきだろう。その一つが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる<<シャッフル>>だろう。本当のテーマを巧妙に何重にも変換し、ロックする。それでも一応の物語としての質を保つ。その技である。

しかし、何重にも変換するゆえに、それは寓話的になり、おとぎ話的になる。人物名は記号的になる。プロットが唐突になるのは避けがたい。真正迫真のリアリズムは保ちがたい。

それでも200万部の売上は達成しがたい。創価学会の池田会長が本を書くとベストセラーになる。学会員が皆書店に買いに走るからである。

200万部のコアになる集団と言えば日本ではエスニックグループぐらいだろう。あるいは被差別集団か。中核は100万かそこいらでも、あとはニュースに釣られた一般読者が食いついてくる。バーゲンセールと同じだ。あとは惰性で雪だるま式に売上はふくらむ。

おりしも、韓国では1億円を超える値段で版権が売れたそうだ。ブームのきっかけを作ったNHKも調べる必要がある。もう半島の植民地化しているという情報もある。

村上春樹はなにを恐れて、そんなに韜晦するのか。そんなライフスタイルをとるのか ??


村上春樹プロとコン2

2009-08-08 08:06:59 | 村上春樹

どういう表現だったか忘れたが、最も影響を受けた作家だったか、はフィッツジェラルド、チャンドラー、ドストエフスキーという。

影響を受けた、感銘を受けたからといって似たところがなけらばならないということはないが、ドストエフスキーと村上春樹に通底するところはありえない。長い小説、目方の重い長編を書きたいと言うあたりが村上がドストエフスキーを目標にする理由かもしれない。

彼にはチャンドラーの訳が二冊ある。なかなかいい訳だと思う。しかし、村上の創作と似ているところはない。

わずかにフィッツジェラルドと、甘苦い青春の感傷のムードが似ているといえないことはない。主人公が出所不明なところも似ている。

ほかのところで、ヴォネガットの影響を受けたと述べている。こちらのほうは見えやすい。唐突に火星人が出て花火みたいにあっという間に消えてしまうところなど。


村上春樹プロとコン

2009-08-08 07:30:46 | 村上春樹

これから何回かコンのほうを書こうかと思う。もっとも小生はきわめて中立的なつもりだが熱狂的な村上ファンにはコンととられるかなと。なにしろ村上ファンの属性データが手元にないので、まっぴら御免なすって。

村上春樹って少女小説っぽい。少女小説とはどんなものかと言われると困ってしまう。読んだことがないから。だけど世の中にはよくあるでしょう。詳しくなくても、あれってあれねー、てのが。そして大体当たっている。

この頃書店は少女小説とマンガの植民地が急速に膨張している。大型書店はとくにそうだ。表紙、背表紙くらいは目に入ってくる。村上小説のにおい(おっと香りか)はあんな感じがする。

実際若い女性の読者はむかし少女小説を読んでいたんじゃないかな。


シャッフルはいつ終わったんでしょうか

2009-08-07 20:45:49 | 村上春樹

仮説をたてましてね。別に村上春樹を読むのに仮説もいらないわけですが。

風の歌を聞け、1973年のピンボールあたりでシャッフルが終わったんでしょうか。

世界の終わり、あたりが洗い出しで、それから後が本格生産という仮説はどうでしょうか。

何をシャッフルするかって、手持ちのカードですよ。それは記憶しかありませんな。頭骨に入っているものです。夢という言葉を使う場合もあるようです。私は感心しませんが。

本格生産というのは某女にはネタの使いまわしに見えるわけです。


だんだんよくなる法華の太鼓

2009-08-07 06:25:12 | 村上春樹

村上春樹読書実況中継:

現在「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(以下「世界のおわり、」)192ページ。

前回退屈だと書いたが千野帽子さんの情報を得て、少し進んだところですが、これは法華の太鼓だね、だんだん良くなってきた。

村上作品には最初から固定ファンがいたというから、そのへんからの読者には「世界の終わり、」を受容する下地は出来ていたのだろう。それともいきなりの処女作でもあの調子でいけたのかな。ちょっとわたしにはわからないところだ。


象と一角獣のはなし

2009-08-06 20:15:53 | 村上春樹

この前のシリーズで村上春樹さんを象に例えたわけだが、べつに村上氏が偉大だとか巨大だとかいうつもりではない。一つの作品に蟻のように無数の書評家が群がり、瑣末なことをあげつらっているだけで、結局1Q84という小説の全体的つかみを読者に与えていない有様を評したまでのことである。1260円をかえせ。

さて、この「1Q84をどう読むか」の中に千野帽子さんの文章がある。二つのプロットが相互に提示されて交わることなく進行するというのは、村上氏の作品でも他にあるそうで、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だそうだ。

ほかにも「1973年のピンボール」や「海辺のカフカ」も同じスタイルらしい。

偶然だがこの間何となく本屋の書棚の前でカンが働いてこの「世界の終わりと、」を買ったわけ。いま最初のところをちょこっと読んだところだが、まったく退屈な文章。それに交互に関係のない話が延々と入れ替わるが、どこで二つの話が交わるのかまったく分からないと言うのもばかばかしくなる話だ。

それでも、ちりばめられたエピソードとか章のそれぞれが面白ければいいのだが、全然面白くない。

ところが書評家以外の人達の声をブログで拾うと、1Q84は断然面白いという意見がおおい。あっというまで、気がついたら読み終わっていたなんてのがある。それじゃ「世界の終わり」から[1Q84」の間に文章がうまくなったんだ。あるいはストーリー・テリングが。

それとも、純文学からエンターテインメントになったのかな。