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穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹「職業としての小説家」:2

2015-10-03 07:13:56 | 村上春樹

村上春樹さん、ヤクルトの優勝お目出度うございます。 

さて第二回(章)は「小説家になった頃」です。30歳で群像の文学賞をとった頃までの簡単な回想です。ふんふんと読んでおけばいいのですが、一つ留意してもいいのは、初めて小説を書いて戸惑ったときに、英文で書いてみたら、なんだかリシャッフルが頭の中でなされて、日本語でも自分の文体の卵が生まれたみたいな経験が書いてあります。

これは汎用性があるというか、だれにでも有効な方法だと思います。全く違う他の言語に触れる(使用する、勉強する)と自国語もうまくなるということは事実のようです。もっとも、これは書き言葉に限定されます。いくら外国語がペラペラしゃべれるようになっても、その人の日本語能力が向上するということは絶対にありません。せいぜい通訳として女の子に尊敬されるくらいでしょう。「読書人」には軽蔑され馬鹿にされるのがおちです。

こういう現象は維新後の日本で広く見られたことです。あるいは漢文が素養の基礎であった其の前の時代でも。昔の人の文章は、自由闊達で非常に力があります。教養形成の過程で外国語(文章)に晒されていた結果と思われます。

最初に本屋で立ち読みをしたときの印象を書きましたが、その時に250頁くらいの本と書きましたが、実際は310頁ほどでした。訂正します。

 

いま、半分くらいまで読みましたが、彼の小説「制作」の苦労とか長編小説を書くときのノウハウ、手順が出て来ますが、かれの中の認識では小説家として常に向上して来ていると感じているらしい。そう思うのは普通だし、無理もないが、私は彼の作品は初期の物が一番いいと思います。せいぜい「ハードボイルドと世界の終わり」ぐらいまでじゃないですか。

小説家には二種類あって進化型と劣化型があります。芥川龍之介なども明らかに劣化型と私は理解しています。これについては前に書きました。ドストエフスキーもどちらかというと劣化型ではないでしょうか。実質的な処女作「二重人格(ダブル)」が彼の一番の作品と思うし、中期の「罪と罰」や「死の家の記録」そして「虐げられたひとたち」あたりがピークじゃないでしょうか。

白痴あたりはまだ生気があるが、悪霊やカラマーゾフになると「抹香臭さ」が鼻につくんですけどね。

そこでチャンドラーの言葉を贈りましょう。・・・

小説制作のテクニックは年々うまくなるけど、小説の生気はだんだんうしなわれていく(記憶している趣旨を書きました。逐語的な正確さは保証しません)。

もっとも、彼自身の「ロング・グッドバイ」は例外です。

 


村上春樹「職業としての小説家」:1・・補遺

2015-10-02 20:21:40 | 村上春樹

村上氏によると「長年」小説家としてメシを食っている人物を職業的小説家という。そう言う意味ではチャンドラーも永井荷風も職業的小説家である。しかし「生業としている、あるいは、メシを食っている・・という条件を小説だけでメシを食っているという意味を含意するととるなら、チャンドラーも荷風も職業的小説家にはあてはまらない。

村上氏のいう意味は小説執筆だけで生計をたてている、という意味にとれないことがないから、確認するわけである。あえて異をとなえることもないのだが、前にも書いたがチャンドラーは20年間に長編7冊、それも大した部数が売れた訳ではない。これだけで生計をたてるのは困難ではないか。

ビジネスマンからスリラー作家になったチャンドラーにとって収入的には小説は生計の一部を満たしただけではないか、全くの推測である。ビジネスマンといっても『勤め人』の美称ではない。彼は石油販売会社の重役であった。金融、金銭運用の知識もあったに違いない。

永井荷風は銀行員であった。作家になってもその交友関係は財界関係が中心である。また、株等の資産を大規模に運用していたことでも知られている(戦前)。

戦後もブームで作家収入が増えると利殖にせいをだしていた。作家収入がどの程度の比重を占めていたのか。残念ながらその方面の評伝はないので分からないが。

もうひとつ、村上氏が論じている「小説家」というのはどういう種類の小説家なのか。小説家ならエンタメ関連であろうと、純文学であろうと関係なく当てはまると考えているのだろうか。まだ全部読んでいないが、目次を見るとこの点には触れていないようである。すこし鈍感なのではないか。

村上氏自身の作風がジャンルのごった煮を思わせる。芥川賞との関連で話題になるからには一応「純文学」、古くさい言葉だが、なのだろう。また、オカルト、怪奇、ファンタジーなどのエンタメ味もふりかけている。だから小説ならなんでも彼の理屈はあてはまる(勿論体験的理論だが)というつもりなのか。

このあたりははっきりと述べた方が良いのではないか。あえて「職業的」と「非職業的」作家を区別するくらいなら*、シリアス系かエンため系かぐらいは(あるいは両方)明言すべきではないか。

*この区別はきわめて特異で、あるいはユニーク、独創的で村上的である。ジャンルについても一言あるべきだろう。ジャンルに関係ないか、あるかでも。

私の印象では無意識のうちに「純文学」に限った話をしているように見える。

うそか本当か、村上氏が書中で引用しているチャンドラーの手紙ではチャンドラーはノーベル賞をぼろくそにけなしているが、これは少なくともチャンドラーはノーベル賞を意識していたということなのだろうか。この辺ももう少し膨らましてもらえるとよかった。おもしろく、かつ、意外な話題なのでね。

 


村上春樹『職業としての小説家』:1

2015-10-02 08:14:18 | 村上春樹

第一回 小説家は寛容な人種なのか

さる小規模リブロで買った。まだ第一刷だった。この間大規模リブロ書店で見た時には第二刷だったが、まだこの書店では第一刷が捌けていないようだ。出版社が変わっている。スイッチ・パブリシングというところだ。素人の私には初めて目にした名前だ。売り方も変わっているし、出版社も変わっている。 

この本は12章(回)になっているが、それぞれ雑誌に掲載された短文を集めた物のようだから書評も一つずつやった方がやりやすそうだ。

この本は小説論でもあるが、タイトルにあるように「小説家」論である。それも「職業的小説家論」である。職業的とはなにか。センサスの定義と同様に報酬を得て行う仕事である。それも過去一週間とか一ヶ月ではなくて長い間、一生それで食って行く仕事である。これは村上氏の定義である。 

一作で終わる作家は職業作家ではない。最低10年以上小説執筆だけで食っていかなかければならない。村上氏は35年間小説だけで食っている。この立ち位置ははっきりとしていて、それを説明するために「職業的でない小説家」も詳述している。

それは作品の程度の高さではない。一作だけ、あるいは比較的短期間で水準を抜いた複数の作品を発表する人はかなりいる(歴史的に見て、という意味だと思うが)。あくまでも長期間小説だけで生活している「職業的小説家」という人種はいかなるものかを、網羅的にではなく、村上氏の体験に即して記述している。

さて、この章のタイトルであるが、職業的小説家は長い間筆一本で遣って行く苦労を知っているから、異業種からの新規参入者にも寛大であるという。そうなのだろう、芸人が芥川賞を取ってミリオンセラーになっても「やあ、いらっしゃい」と暖かく受け入れるというのである。すごく説得力のある説明だね。どうせすぐに去って行くだろうと思っているから寛大なのである。

この考えは昔からの村上氏のものらしい。どこかで似たようなことを書いていたような。

しかし、この基準でいくと、チャンドラーも永井荷風も「職業的小説家」でなくなる可能性がある。長くなったね。その説明は次回。この「めざまし執筆」は一息で書けるところでしめている。大体A4一枚である。このごろは何か書かないと脳が活性化してこないんだよね。朝の行事みたいになった。

 


村上春樹「職業としての小説家」

2015-09-25 09:15:14 | 村上春樹

表題のタイトルは多少違うかも知れない。記憶で書いているので。まだ買っていないのだ。先日書店で後書きを読んだだけである。 

1800円という値付けに興味をひかれた。薄い本でたしか250頁くらいだ。これまでの村上春樹の(本の)値段が高いと思ったことはない。安いとも思わないが大体出版屋が付ける標準的な値段という感覚がある。この本は、なにも本は目方や活字数で値段が決まる訳ではないが、大体1400円か1600円の本だ。

1800円という値段はそうは売れないだろうという出版社の見積もりの結果だろう。そうは言っても一般の作家の本よりかは売れるわけで、取り次ぎを通さないで紀伊国屋にまとめて卸すという「うけ狙い」も効果があったのか、いまではどの書店でも山積み(平積みというのかな、業界用語では)だし、早くも第二刷となっている。だから売れないというのは村上氏の本としては、という相対的な商売感覚だと理解した。

さて、書店であとがきだけ立ち読みした。たしかに地味な内容だ。誠実に書いているようだ(後書きを読むと)。体系的な(網羅的かつクロノロジカルな)職業的自伝というのではない(ようだ)。といってどうしたら小説が書けるか、とかの内容でもないだろう。村上氏がそんなハウツー物を書くこともあるまい。 

ま、いずれ買うかも知れない(本文を読むかも知れない)。このブログは読む前書評とか、進行形というか10頁読んだところで書評を書くとかいうのが得意でね。今回はとりあえず、表紙(値段)と後書きで得た感触に基づく書評?である。

それにしても、来月早々にはノーベル賞の発表がある。それにタイミングを合わせた出版なのかな。出版業界というのは千三つ屋(不動産屋)以上にあざとい商売をするところだからな。

 


村上春樹『1Q84』文庫版5

2012-05-29 09:57:24 | 村上春樹

単行本1、2はとっくに処分してしまった。内容もきれいに忘れた。しかし、文庫版5を読むのにどうという支障もない。そういう小説である。

一般小説家(つまりエンタメ作家より腕がたしか)が書いた一種のマンハント小説かな。

犯罪小説というのではない。犯罪小説『味』である。

ファンタジー小説ではない。ファンタジー小説『味』である。

SF小説ではない。SF小説『味』である。

一般小説家であるから、特定分野に特化したジャンル小説家より腕は確かだし、さして退屈もしないで読める。

以上は文庫本5の200ページ当たりのポジション・レポートである。

緊迫感はないが、長編であるからしょうがないかもね。

村上春樹氏はチャンドラーの翻訳なんかよかった。オイラはむしろ翻訳家として評価しているのだ。英米小説の翻訳家として翻訳するかどうかは別にして、いわゆるSF、スリラーの類は相当読んでいるようだし、その分野のテクニックも援用しているようだ。

ま、地の文がエンタメ特化作家よりはるかに腕が上なことは確かだ。あとは630円かける6冊の原価をどう評価するかだろう。


村上春樹1Q84新潮文庫版にひっかかりそうに

2012-05-29 09:40:56 | 村上春樹

新潮社はいい商売をするね。あやうく表題3を買うところだった。何年前だったか単行本で1,2の書評をしたことがあった。そのあとで3が出たのを書店で見たが食傷気味で買うこともなかった。

最近ちょうど活字中毒でヤクが切れていたとこrで、文庫の3が並んでいたのでてっきり単行本対応だと思って手に取ったがどうもパラパラやって変だなと。これ単行本の一冊を二つに分けているんだね。

だから文庫の三は単行本の二巻の前半らしい。値段が630円だったかな。だから二冊で1300円くらいになる。単行本でも1400円か1600円くらいだった記憶がある。新潮社は商売ががめついな、というのがその時の印象で買わなかった。

普通単行本を文庫にするときには少なくとも元の単行本は何年の発行で云々というのが巻末にあるが、これは何もなし。意図的なんだろうな、新潮社としては。ちょっと、フェアじゃないな。

以上新潮社の商売のやり方だけを述べたが次回はちょっと内容を。


村上春樹とハリー・ポッター

2009-09-05 19:45:06 | 村上春樹

村上春樹がどこかの座談会で総合小説が書きたい、と言っていた。さまざまな人間が出てきて総体としてその時代の社会が浮き彫りになるような小説(彼の言葉は失念、小生がそのように記憶しているというだけだが)、が総合小説なんだそうだが、彼は一つも総合小説を書いていない。

いろいろなジャンル、とくにエンターテインメント系のサブジャンルをごった煮として使うという点では、まさに総合小説だ、彼の小説は。

ただ、ホラーならホラー一筋というわけではないのだね。海辺のカフカなんかもナタカさんのパートにホラーっぽい話があるが、ほかにも読んでいてスティーヴン・キングを思い出すところが多い。

ほかの人はどうかなと、グーグルで「村上春樹、キング」とやるとやはりみんな感じるんだろうね、類似を、相当の数がある。

1Q84とハリー・ポッターの売上の比較がニュースになるが、内容も酷似している。ファンタジーという点では。別に各編終りがあるわけではなくて、カトリックの女房が毎年こどもをひりだすように延々と、あとから後から出てくるところも同じしかけだ。

SFっぽいパートもある。パーカーの初冬を思わせるところもある。

やはりグーグルで「村上春樹、ハリー・ポッター」で検索すると結構な数ヒットする。村上春樹はパッチワークの得意な仕立て屋さんというところかな。ヴォネガットとの比較も言われているしね。

純文学だっていっているけど、何なんだろうね。ま、並の作家より大分歯ごたえがあるのは事実だ。

>> 彼の小説は純文学でもいいが、本質はエンターテインメントだ。わたしなんかがユニークに感じるのは、二人のまったく交わることのない視点が東経10度と150度くらいに離れて並行して話が進行していて、きまって小説の真ん中あたりで二つが交差する。すべての経度が極点で交わるように。ま、スタイルというか、形式美というか。

もちろん、この手の手法は先人の例があるのであろうが、彼の場合は実験的に意欲的にトライして成功しているようだ。その努力は評価してもよい。ジャンル的にはごった煮的であり、その総合はエンターテインメント的なところである。

作中に頻繁に小道具として出てくる哲学的言辞やギリシャ悲劇の解釈は危なっかしいところが多い。オカルト、セックス・マジック、無意識(フロイト、ユング)に関する知識はいずれも新書で手に入る通俗入門書の域を出ていない。

ついでだが、「海浜のカフカ」に出てくる夏目漱石「坑夫」の解釈はおかしいね。もっとも作中人物大島さんの説ということなのだろうが。これが作者の解釈とすれば浅い。

ひと月前までは村上春樹なんて知らなかったのに、振り返ってみるとずんぶん書いたね。社会ニュースネタから入ったんだが。

おっと、間違えた、ロング・グッドバイは読んでましたよ。それでニュースになったときに読む気になったんだね。


村上春樹結論を出すのはまだ早い?

2009-09-04 21:06:06 | 村上春樹

海辺のカフカを100ページほど読んだところで、文章に1Q84よりよほど艶があると書いた。

さらに読み進んでほめすぎかなと思い始めた。一巻の終わり近くでオイデプス王が出てきてゲンナリだ。エディプス・コンプレックスさえ出せば恰好がつくと思うのは三流の作家だけかと思っていたのにね。いまさら芸のないはなしだ。

筆はたしかに「世界の終り、」ころに比べると年の功で軽くなっているが、中身がない。世界の終り、は苦労して書いたらしく生硬なところはあるが、とにかく一つのプロトタイプを出している。

ユング言葉で言えばアーキタイプの試みがあった。そこで評価だ。ドストエフスキーに星五つをつけたから、いくらなんでも、村上氏に星五つはむりだ。そこでこうなる。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 星四つ

海浜のカフカ 星三つ半(上の終りまで読んだところの評価)

1Q84 星三つ

念のために言うが、エディプス・コンプレックスすなわち人間はだれでも自分の母親とセクシャル・インターコースをしたいという潜在的願望を持っている、それがソフォクレスのオイデプス王のテーマだというのはジムクンドのフロちゃんの解釈だ。

そんなこととは夢知らず、運命のいたずらでそれとは知らずに予言どおりに結果的に父親を殺し、母親と結婚して子供まで作ってしまった、という宿命を悲劇として描いたのがソフォクレスであり、フロちゃんの解釈とはまったく関係ない。大体フロちゃん流のいやらしい妄想では悲劇でもなんでもなかろうが、喜劇だ。あるいは変態性欲者のポルノに貶められてしまう。

父親とは知らず街道で行きあったときのトラブルで相手を殺すわけ、そして母親とは知らずに結婚するのだから。よく読みなさいよ。まとも解釈できる人間がほとんどいないのは嘆かわしい。


村上春樹における匿名性と講釈過多

2009-09-03 19:02:12 | 村上春樹

相変わらず社会現象として取り上げているのだが、

村上春樹の大きな特徴は匿名性、あるいは記号性であらうか。主要人物になるほど匿名性が高くなる。どうでもいい端役にはしっかりと浮世の通り名をつけている。場所についても地名の匿名性に特徴がある。いつでも、どこでも、ということでもなかろうが、通約するとそう言えるだろう。

意図的なものだろうが、普通はそうすると非常に書きにくい。そこを腕力にものを言わせて押し通してしまう。筆力か。

匿名性という言葉は使っていないが、評論家連中も当然この特徴に注目していろいろ言っているようだ。なるほどなというのもあり、へえ、そうかい、というのもあるという具合。

作者の狙いをオイラが僭越ながら予測すると、意図的に読者夫々の解釈にゆだねるため、また物語に多義的な解釈を可能にするためだろう。あるいは重層的な意味をもたして、読者に投げかけるためかな。一度おいしい、二度おいしい、というわけだ。注

その代わりというか、代償行為なのか、モノに対する名前がくどすぎる。これが無駄のない「必然性」なのだろうか。衣装について描写するときにやたらにブランド名をつける。わたしはそういうことに関心がないから本当のブランド名なのか、いい加減につけているのかわからない。いい加減につけているならしゃれっ気があると前に書いた。

男子専科かドレスメーカー的知識をひけらかしているだけなら嫌味以外のなにものでもない。

カクテルやアルコールの名前もカタカタの羅列だ。どんなグラスを使ったかもしっかりといちいち書き加えている。格調高い酒の飲み方を教えているのだろう。これはバーか喫茶店のマスターという経験が生きているにちがいない。

間違えたりすると嫌味できざな客にどやしつけられるからね。真剣勝負だ。バーテンダー稼業もつらい。

それから音楽(レコード)を一つを聞いた、という場面でもやたらに細かく書く。あれは何かなレコードの商品番号というのかしら、レコードの商品名を特定するために、数字と記号の羅列が延々と続く。本で言えばISBNナンバーをかならず付記するようなものだ。不思議なのはこれをやるのはレコードだけなんだね。本の場合は付けなくても気にならないようだ。

これも音楽喫茶のマスターをしていたときに、客のリクエストを処理するときの経験をひけらかしているのかな。

本に対する描写もあるんだが、その時にはISBNナンバーは書いていないんだね。どういうことかな。

とにかく、本にしろ、レコードにしろ講釈が過多だ。もっともこれがいいんだろう。読者には。ベストセラーの一つの条件なんだろう。

それで思い出したが、私の嫌いな「国民的作家」に司馬遼太郎というのがいる。これが一ページ書くと二、三ページ講釈を垂れる。煩わしいだけだし、ホントかなというのが多いのだが、「国民的読者」にはこれがいいところなんだね、きっと。

1Q84のバカ売れも異常以上(超異常)だが、誰もかれもが司馬遼太郎を「いいわぁ」というのは異常ではないのかね。

ところでモノ好きにもカフカを百ページ弱よんだが、1Q84よりツヤがあってはるかにいい。村上春樹のアクメはこの辺で終わっているね。

注:(手法としての匿名性);最初からそのつもりだったかどうかはわからない。最初はおそらく作者個人の何らかの事情で匿名性の高い方法を始めたのだろう。そのうちにそれが意外に作品の効果上も、読者の受けもよかった。それに何回か書いてそのスタイルが手の内に入ってきた。というのが真相かもしれない。意図的に用いるようになったのは後からかもしれないが。


1Q84;BOOK3

2009-08-25 08:30:43 | 村上春樹

村上春樹の1Q84、BOOK2を読み終わった。なんとかまとめたね。

ちまたの書評を見るとBOOK3が出るだろうというのが多い。理解に苦しむ。

謎をばらまきすぎたとか、まだ続けないとすっきりしないことが多すぎるというのだが、この辺でやめておくのが無難だろう。

前作「海辺のカフカ」はまだ文章に艶が残っていたとも聞く。艶というのはポルノ調というのではない。女性を描かずとも、セックスを書かずとも、恋愛を物語らずといえども、艶のある文章と、ない文章がある。

それが古来言う「枯れてくる」ならまだいいが、無理やりバイアグラを飲んで書き続けるとゴツゴツしてくる。

世間では、NHKあたりのマスコミではノーベル賞候補というのだが、彼の作品のどういうところが対象になるのか。もしかりに受賞したとして(それもあるだろう、大江健三郎も貰うくらいだから)、ノーベル賞選考委員会が授賞理由をなんというか興味があるところだ。

ノーベル賞でも、平和賞と文学賞はいんちきくさい。だれが仕切っているのか。横綱審議委員会のメンバーはユダヤ人なのか。その筋のものを押さえての工作次第だと聞く。村上春樹の場合はどういうマシーンが工作しているのか。


1Q84;ジャンルにこだわる人のために

2009-08-24 06:22:47 | 村上春樹

村上春樹の1Q84だが、SFなのに月が二つあるのはおかしいなんて書評家大森望氏はクレームをつけている。

二つ問題がある。これがSFなのか、ということ。もうひとつはSFには月が二つあってはいけないか、という問題。

最初の問題に対する答えは否である。二番目はSF業界仲間内の教条論争なので論評するに値しない。

ジャンルに関していえば、「総合小説」だ。SF味もにおう。しかし、基本的にはファンタジー味がベースだろう。オカルト色も強い。通俗的なセックス・マジック本をだいぶ勉強したあともみられる。通俗ユングものの影響も強い。これは「世界の終り、」以来のものだろう。

時代風潮、思想を織り込もうとした形跡もある。これは全く成功していない。

基本はおとぎ話すなわちファンタジー風味だろう。それにセックス・マジックを中心とするオカルト趣味だ。

荒唐無稽でもいい。それをもっともらしくまとめるのが作家の腕力の見せどころだろう。前提から言えば「世界の終り、」のほうがもっと記号的で荒唐無稽である。しかし、なんとか最後まで読ませる腕力は見せていた。

1Q84では村上春樹の腕力が著しく衰えたのを感じる。マラソンでからだを鍛えても、脳みその陳腐化は止められないものらしい。リアリズムとの妥協が著しく、その割には、その効果はまったく表れていない。

これがあっという間に200万部突破とは、これも仕掛けのあるマジックかな。

大森望氏は月が二つあることに「SFの権威」として文句をつけているが、それでも「面白かった」とおべっかを使っている。書評家の常である大勢順応主義なのだろう。

麻生首相じゃないが、みんなでパイを大きくして一緒に食べましょう、ということだろう。


村上春樹とチャンドラー

2009-08-23 17:01:07 | 村上春樹

口直しにチャンドラーのロング・グッドバイを読み返してみた。読みにくく、異様な、あるいはangularというかな、1Q84を読んだあとではほっとするね。

なぜチャンドラーか。あまり関係ないのだが、二、三年前だったかな、村上春樹の訳が出たので読んだ。そんなことの連想かな。前に読んだVintage Crime版ではなくて最近出たPenguin Crime Fiction版なんだが。

実を言うとこれまでに村上春樹の文章に接したのは翻訳ロング・グッドバイだけなのだ。だからせいぜい二、三年前。

村上春樹の訳はさらりとして水のようでなかなか良かった。それで今回評判の1Q84を読む気になった。ブログというのは世間ではやっている事象を取り上げるのが習いのようだしね。

ま、翻訳でいい印象を受けた文章を創作でも期待するのは筋違いなのだろうが、受けた印象の格差ははなはだ大きかった。

小さな話になるが、村上春樹氏が翻訳のあとがきでバーで首をつる、というのはおかしいのではないか、と指摘していたがペンギン版では

They have hanged themselves in barns(not bars)

となっている。誤植というものはあるものだ。

1Q84 BOOK2はあと百ページだ。がんばれ !


村上春樹は女性が描けない

2009-08-23 07:46:27 | 村上春樹

タイトルを見て、えーっと思うかもしれない。そうならアイキャッチングな効果があったわけだ。

1Q84だが、下巻に取り掛かったが、どうもすんなり読めない。また、真ん中あたりで止まってしまった。前にも書いたが問題は青豆パートだ。下巻になって、ある章ではすこし改善がみられるが全体としては相変わらずだ。

どうしてだろうと考えたんだが、村上春樹は女性が描けないのではないか。もっと正確に言えば女性の視点からは、ということだ。

村上は女性の読者の共感を得ているらしいが、それは登場人物、あるいはナレイターの男性の視点からの描写だろう。女性に視点を据えた小説が彼には1Q84以前にあるのだろうか。

つまり村上の女性に対する優しさであって、いってみればエレベーターから降りるときに女性に示す敬意、配慮みたいなものが行き届いているということなのだろう。

それが西欧流で、バタ臭いレディ・ファーストであり、アフター・ユーのマナーが気に入られているということだろう。もっとも、西欧ではレディ・ファーストは女性を弱者と認定して保護する、習慣化されたエチケットにすぎないが。

村上春樹の場合、は日本人の大半が字句通りに信じ切っている民主主義への信奉みたいなところがある。つまりどこかあか抜けない。

喫茶店のマスターとして人生を始めたという村上春樹がカクテルの知識やサンドイッチの切り方について蘊蓄を披露するのと同じことではないか。

以上仮説おわり。


村上春樹1Q84;東アジア・マーケット

2009-08-20 08:06:03 | 村上春樹

もうすこし青豆パート。べつに小豆フェチでもいびつ乳房フェチでもないんだが、いまのところ天吾パートは無難に来ているので、オマメをいじくりまわすことになる。

日本の作家の一部の人たちは東アジアマーケットで結構いい商売をしているらしい。森村誠一なんかもそうらしいが。村上春樹にも大切なマーケットのようだ。それには一定の叩頭跪拝のエチケットをシナ、半島から強要される。

ほぼ一巻を読み終わりかけたんだが、気がついたところで二か所村上は叩頭跪拝している。青豆は歴史フェチというんだが、これがとってつけたような属性なんだね。ピンとこないと思っていたら、ありました。二か所袖の下を差し出している。そのためのキャリアとして歴史書を読むのを趣味にしたんだね。

最初はホテルのバーで男を物色する場面、青豆は「南満州鉄道史」を読んでいる、ふりをしている。唐突な場面だが、ちゃんと目的はある。村上は書いている。満鉄(南満州鉄道)は日本の中国侵略の先兵となった(侵略という言葉に注目)が1945年満州に「侵攻」したソ連軍に解体された。ちゃんと侵略と侵攻を使い分けている。

これが書きたくて「満鉄」なんて場違い、年齢違いなものを持ち出したんだ。御苦労さま。

教科書検定にいちゃもんをつけるシナ、半島のターミノロジーを忠実に守ってみせる。

もう一か所は一巻525ページにある。編集者が優秀で臆病なのか、村上春樹が卑屈なのか、どちらかだろう。

これって相当におかしい話だよ。全然必然性がない。村上春樹が好きなチェーホフ流にいえばまったく必然性がない(小説内で)。シナの検閲にこびるためにだけでっち上げたことは明白だ。国辱ものだよ。もちろん主義者として自分の歴史認識を示すのは自由だろうが、この小説でこういう形で入れるのは専制国家、アジアの後進国家に自ら検閲を求めてご機嫌取りに貢物を差し出すような行為で唾棄すべきことである。自分の小説の販路を広げるためにだけ行ういやらしい弁解のできない行為だ。

満鉄がどう1Q84と関係するのだ。

525ページもあゆみの幼児の性的虐待の話の連想で加害者は忘れても被害者は忘れない、とどこかで聞いたような媚中派政治家のセリフを持ち出してくる。連想が奇異だし、比喩にもなっていない。

これで1890円分回収したかな。村上春樹もたまったものじゃないだろうが。


村上春樹1Q84は1985-1

2009-08-19 20:00:11 | 村上春樹

結局村上春樹は初心に戻ったらしい。1985年に「世界の終りと、」を発表したが、その一年前に舞台を戻して、リセットして新しいバージョンを書き上げたわけだ。

「構造的」にはウロボロスの尾のように二つの作品は円環をなしているわけだ。

世界の終りの、の「僕」のいる「壁のなか」は、さきがけの「塀のなか」になる。

「心」と「記憶」を捨てれば壁の中で平和に暮らせる > 世界の終りと、

「個人の意思」を捨てれば、さきがけの塀の中で幸せに暮らせる > 1Q84

二作品のもうひとつに共通点、村上氏の強迫観念の一つに「世界の終末」という観念がある。1Q84でも両パートで「世界の終末の予感」が繰り返し語られている。

村上春樹はハルマゲドン信者なのかね。