

3月末からの長い会期で、いつでも行ける、まだまだ大丈夫、…そう思っているうちに最終週になっていた。
日を追うごとに人気が高まり、それを伝えるマスコミの影響でさらに混み、長蛇の列の記事を見て一度は行くのをよそうかとも思ったが、今後100年門外不出らしく、たとえ奈良興福寺まで行ったとしても拝観できるのは正面からだけ。会場では像を一周してつぶさに鑑賞できるので、平日の午後から夕方が狙い目というネット情報を頼りに出かけた。
列の最後尾についたのが午後3時15分。入館できたのがちょうど5時。
「待ち時間100分」の看板はほぼ正確だった。
阿修羅像は会場の奥深く照明を最小に抑えた暗がりに、大勢の人にぐるりと囲まれて屹立していた。
信心深いわけでも仏教に詳しいわけでもなく、正直なところ仏像もアートとして鑑賞している(バチが当たりそう…)。
数ある仏像の中でこの阿修羅像は、中宮寺、広隆寺の弥勒菩薩半伽像と並んで大好きで、ようやく実物を見ることができた。

三つの顔をいただく身体は細い胴をしてやせっぽちの少年のよう。
六つある腕はさらに細く長く、正面の一組は合掌、ほかの四本は中空にしなやかに広げ、何かを意味しているのだろうか?
よく考えれば異形であるのに、360度回って見てもどこも破綻なくバランスのとれた美しいフォルムだった。
阿修羅の表情は、悟りに至った菩薩の穏やかなそれとは全く違う。
眉根を寄せた正面の顔はあまりに有名だが、左側にある顔は下唇を噛んでいて、その微かな噛み具合がなんとも言えない。
印刷物でもあまり紹介されてなく残念である。
勝手な解釈をするなら、悩み、憂い、惑い、怒り、哀しみ、悔い、怖れ、妬み……、人間の煩悩を一手に引き受け、三つの顔で表現しているのかもしれない。
広隆寺半伽像のことを詠った清岡卓行氏の「思惟の指」という長い詩がある。
読むと「そう。そう。自分は言葉を見つけられないけど、それ。」と膝を打つ思いがする。
そして仏像鑑賞と同じように陶然とし、さすが詩人は違うと思う。
自分はただため息が出るばかりである。
ほかにも八部衆像、十大弟子像など素晴らしい展示物が多数あり、堪能した。