sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

若い活動家たちのその後を見て

2023-09-21 | Weblog
6月、SEALDsの元メンバーに取材した記事を読んで、なんともやるせなかった。
中傷され嘲笑され攻撃され、かつての活動を隠したいと思う人が半分以上だと。
安保法案が強行採決された時の「敗北」はわたしも共有した。
もう「日本社会には期待しなくなりました」と聞くと、活動の敗北と共に、社会への敗北でもあったのか。

社会が、出る杭を叩く社会が、彼らを攻撃し続けたせいだろう。
彼らの勇気の十分の一も持たない大勢の人々が、匿名をいいことに
デマや誹謗中傷で卑劣に攻撃し続けた結果、
敗北に敗北を重ねて振り返りたくないと思わせるほど彼らを、彼らの人生を傷つけたのだなぁ。

彼らの敵であった体制側とは別に、わたしの左派の友達にもSEALDsを毛嫌いしている人が多く、
(安全保障についてであったり、ナショナリズムについてであったり、
ポピュリズムについてであったり5件についてであったり…)
どうしても許せない、譲れないという点が、若い彼らに対してあったのだろうけど、
わたしは彼らの未熟さを責めたくはなかったし、
最初から許せないことが多すぎると、運動はうまくいかないのではという気持ちもあった。
わたしだって彼らの活動に丸々賛同するわけではなく、
見解や姿勢の相違も目指すものの違いもあったけど、
どちらかの側しかないならわたしは彼らの側に立ちたいと思っていたし、
結局はなんて勇敢な若者たちだろうと感心しないでいられなかった。
わたしがもし日本人の若く元気な有権者であっても、あれだけ戦うことなんて絶対できない。

そんな彼らが、もう期待しない、関わらないと言うのは、もう絶望したということだ。
すっかり絶望させられてしまったのだな。活動の敗北の後もずっとずっと。

その後の安倍政権では、ますます閣議決定で一方的に決められることが増え、
その度にわたしも小さく絶望を積み重ねて来たけど、個人として攻撃されることはもちろんなかった。
でもSEALDsの一員だった彼らのその後の苦しさや絶望は想像異常のものだったろうと思うと
彼らのためだけでなく、日本の社会に対して、やるせなさしか感じられないわ、もう。

8月にもSEALDsのメンバーだった別の人のインタビューを新聞で読んだ。
あっちからもこっちからも叩かれてもう忘れたいと苦しんだ人のインタビューを読んだあとで、
8月に読んだインタビューの元SEALDsの牛田さんは、デモ以外の持続可能な新しい市民運動を模索し、
そのための勉強を続け知識やスキルを蓄えていると話していた。
(安保法案を止められなかった)SEALDsの失敗を言われることに対しては、
どの立場から言うのか、戦わない人は負けることもできないし負けるのだって大変、
負けることもできない人が勝ち負けに言及するなと思う、と言う。
そうよね。わたしもそう思ってきたよ。
彼らより真摯に活動し努力した人だけが彼らに石を投げられる。
だけどそんな人は(わたし自身も含めて)多くないでしょう。
多くないから安保法案も成立してしまった。

デモを意味がないと冷笑する風潮に対して、
(デモをする自らに対して)「冷笑的」であることも大事だし、
長い時間かかるだろう事実を受け止める胆力、徒労を続けることが生きることだという諦めが
市民運動にも必要と言う、この辺の強かさやバランスも悪くないのではと思う。

自分への批判も忘れずに、でも自分では何もしない外野からの誹謗中傷には負けずに
柔軟にしたたかに理想を追い続けてほしいと選挙権もない在日外国人のわたしは思うのです。
もちろん批判するべきところがあればするべきだし、
彼らもそれを受け入れながら成長する人たちであってほしいものです。