天気:晴―mm 31.4 20.2℃ 57% 1.8m南西
昨日の昨日記、また日付と曜日を間違えた。
同じワードのフォームを使っていて、修正するのを忘れたのだ。
昨日は、園芸や家事で忙しかった。
朝日が表の路地に充分差し込み始めたときに、園芸作業を開始し土の殺菌をした。
土の消毒作業は、真夏の強い日差しで高温のときが最適なのだが、狭い場所でどのような方法でするのか迷っていて、真夏の最適時期を遅らしてしまった。
それに、真夏の間は、すべてのプランターや鉢に使用し、空いた土は土嚢に入れてある一袋だったのも事実だ。
作業は、根腐れを起こした菊を処分し、その鉢と、土が入って植物は植えてない鉢の土を含めて日光消毒することにした。
消毒予定の土を、ごみ収集用のビニル袋の上に広げると、様々な土中の虫が日差しの強い朝日に照らされてのた打ち回っていた。
虫には罪は無いが、この土をそのまま再利用すると、虫に根をかじられ枯れたり、再び菌に冒され根腐れを起こす。
これから先も冬にかけて、順次使い終わったプランターや鉢の土から実施する予定だ。
この作業、まだ先は長い。
その後は、通常の昨日記を書いたり、三食の自炊作業以外に、冷凍ご飯が切れたので十数食分の米を炊飯し冷凍ご飯を作ったり、昨日するべき三食分の食材の切分が出来ていなかったので、結局6食分の温野菜の野菜や肉を切り分けて、3食分の温野菜セットを作ったりと、慌しく働いた。
それでも、4時にはプールに行った。
気温も31度と暑かったし、50m屋外プールは今日20日が今シーズンの最終日なのだ。
プールでは、クロールで400m以上と200m・100mと泳ぎ、最後に平泳ぎで100m泳いでトータル1000m近く泳いだ。
最近、なんとなくクロールで長距離泳ぐと、バタ足が下に下がる傾向があるように感じていて、バタ足を修正しようとして、泳ぎのリズムが崩れたりしたのでその原因を考えた。
そのことは、プールが終了して気がついた。
クロースで水をキャッチ(腕を前に伸ばし入水し水をかく動作)するときに、入水した手を、すぐに手前にかき寄せるのではなく、少し水を下に押して浮力をつけようとしていたのだ。
その動作は、泳いでいる最中に自分で気になっていて修正しようとしたが、同時に起きる足の下がりが気になって、逆に水を下にかき余計に浮力をつけようとした。
冷静に考えれば、浮いている長い物体の先端を持ち上げれば他方の端は沈む。
単純な話で、そのせいで足が沈む感覚を持ったのは正解であった。
悪い癖がつかないよう、25m温水プールで修正したい。
帰りは、いつものカフェ(ファストフード)に寄り、伽耶と倭に関連する本を再読した。
韓国の地名や遺跡は、なかなか覚えられない。
たまたま9月21日(土)の2時から「古代を偲ぶ会」の九月例会があり、「古墳時代の日朝交流」というテーマで、国立民族学博物館名誉教授の広瀬和雄氏の講演がある。
広瀬氏は、考古学者として多くの論文や本を発表し、様々な実証的新しい考え方を提起している考古学界での実績もある有力者である。
この講演会は、丁度私が今盛んに調査している、縄文晩期から古墳時代にかけての日朝関係にぴったりのテーマだ。
近年、韓国の遺跡調査が急速に進み、伽耶の新羅・百済の実態が考古学的に分かるようになって来た。
韓国には、日本特有の前方後円墳が伽耶と呼ばれた地域に多く発見されている。
一時は、倭人が伽耶に行って任那を治めたといった話も出たが、考古学的に見てもそのようなことはなさそうだ。
ただ、伽耶や百済と倭は、非常に親密な関係にあったのは事実で、百済滅亡後は、百済の官人が、多数日本に亡命しているし、関西に百済に関連した地名も残っている。
又弥生時代には、韓国南部(伽耶や、その前の馬韓・弁韓・辰韓)から北九州に多くの人が韓国から渡来して現地の縄文人と混血し、水田稲作農耕を生業とした渡来系弥生人となり、狩猟採集栽培農耕の縄文文化を残した、縄文系弥生人に分かれて共存したが、その後日本は渡来系弥生人が大多数を占めるようになり、水田農耕を生業とした今の日本の形が出来るようだ。
水田農耕は一人では出来ず、水が必要で、河川単位に集落が形作られ、そのためにはリーダーが必要となり、そうしたものが何らかの形で統合され、小さな国が各地で成立した。。
日本にはそのような小さな国が沢山あり、「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」の金印で有名な奴国もその一つだ。
魏志倭人伝にも、邪馬台国以外に多くの国があったことが記載されている。
そのような日本と韓国との交流は縄文時代からあったようで、それが弥生時代や古墳時代にもさまざまな形で続く。
ところが、韓国の古代史は非常に複雑で分からないことが多く、中国の漢が朝鮮半島に設けた楽浪郡の朝鮮文化に与えた影響もは大きい。
韓国の文化の一つである高句麗(百済は高句麗から分かれたという伝承もある)は元々今の鴨緑江以北の今の中国領にあった。
古代の中国東北部や沿海州一帯の文化も気になるところだ。
アイヌ語が日本語より朝鮮語に近いという学説もあるが、北海道と沿海州は近く、根拠はないが、なんとなくそうしたこともうなずけそうな気がする。
更に言えば靺鞨(まつかつ)や韃靼(だったん)とか渤海国(ぼっかいこく)と朝鮮文化(特に高句麗)との関係も気になるところだ。
昨日の昨日記、また日付と曜日を間違えた。
同じワードのフォームを使っていて、修正するのを忘れたのだ。
昨日は、園芸や家事で忙しかった。
朝日が表の路地に充分差し込み始めたときに、園芸作業を開始し土の殺菌をした。
土の消毒作業は、真夏の強い日差しで高温のときが最適なのだが、狭い場所でどのような方法でするのか迷っていて、真夏の最適時期を遅らしてしまった。
それに、真夏の間は、すべてのプランターや鉢に使用し、空いた土は土嚢に入れてある一袋だったのも事実だ。
作業は、根腐れを起こした菊を処分し、その鉢と、土が入って植物は植えてない鉢の土を含めて日光消毒することにした。
消毒予定の土を、ごみ収集用のビニル袋の上に広げると、様々な土中の虫が日差しの強い朝日に照らされてのた打ち回っていた。
虫には罪は無いが、この土をそのまま再利用すると、虫に根をかじられ枯れたり、再び菌に冒され根腐れを起こす。
これから先も冬にかけて、順次使い終わったプランターや鉢の土から実施する予定だ。
この作業、まだ先は長い。
その後は、通常の昨日記を書いたり、三食の自炊作業以外に、冷凍ご飯が切れたので十数食分の米を炊飯し冷凍ご飯を作ったり、昨日するべき三食分の食材の切分が出来ていなかったので、結局6食分の温野菜の野菜や肉を切り分けて、3食分の温野菜セットを作ったりと、慌しく働いた。
それでも、4時にはプールに行った。
気温も31度と暑かったし、50m屋外プールは今日20日が今シーズンの最終日なのだ。
プールでは、クロールで400m以上と200m・100mと泳ぎ、最後に平泳ぎで100m泳いでトータル1000m近く泳いだ。
最近、なんとなくクロールで長距離泳ぐと、バタ足が下に下がる傾向があるように感じていて、バタ足を修正しようとして、泳ぎのリズムが崩れたりしたのでその原因を考えた。
そのことは、プールが終了して気がついた。
クロースで水をキャッチ(腕を前に伸ばし入水し水をかく動作)するときに、入水した手を、すぐに手前にかき寄せるのではなく、少し水を下に押して浮力をつけようとしていたのだ。
その動作は、泳いでいる最中に自分で気になっていて修正しようとしたが、同時に起きる足の下がりが気になって、逆に水を下にかき余計に浮力をつけようとした。
冷静に考えれば、浮いている長い物体の先端を持ち上げれば他方の端は沈む。
単純な話で、そのせいで足が沈む感覚を持ったのは正解であった。
悪い癖がつかないよう、25m温水プールで修正したい。
帰りは、いつものカフェ(ファストフード)に寄り、伽耶と倭に関連する本を再読した。
韓国の地名や遺跡は、なかなか覚えられない。
たまたま9月21日(土)の2時から「古代を偲ぶ会」の九月例会があり、「古墳時代の日朝交流」というテーマで、国立民族学博物館名誉教授の広瀬和雄氏の講演がある。
広瀬氏は、考古学者として多くの論文や本を発表し、様々な実証的新しい考え方を提起している考古学界での実績もある有力者である。
この講演会は、丁度私が今盛んに調査している、縄文晩期から古墳時代にかけての日朝関係にぴったりのテーマだ。
近年、韓国の遺跡調査が急速に進み、伽耶の新羅・百済の実態が考古学的に分かるようになって来た。
韓国には、日本特有の前方後円墳が伽耶と呼ばれた地域に多く発見されている。
一時は、倭人が伽耶に行って任那を治めたといった話も出たが、考古学的に見てもそのようなことはなさそうだ。
ただ、伽耶や百済と倭は、非常に親密な関係にあったのは事実で、百済滅亡後は、百済の官人が、多数日本に亡命しているし、関西に百済に関連した地名も残っている。
又弥生時代には、韓国南部(伽耶や、その前の馬韓・弁韓・辰韓)から北九州に多くの人が韓国から渡来して現地の縄文人と混血し、水田稲作農耕を生業とした渡来系弥生人となり、狩猟採集栽培農耕の縄文文化を残した、縄文系弥生人に分かれて共存したが、その後日本は渡来系弥生人が大多数を占めるようになり、水田農耕を生業とした今の日本の形が出来るようだ。
水田農耕は一人では出来ず、水が必要で、河川単位に集落が形作られ、そのためにはリーダーが必要となり、そうしたものが何らかの形で統合され、小さな国が各地で成立した。。
日本にはそのような小さな国が沢山あり、「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」の金印で有名な奴国もその一つだ。
魏志倭人伝にも、邪馬台国以外に多くの国があったことが記載されている。
そのような日本と韓国との交流は縄文時代からあったようで、それが弥生時代や古墳時代にもさまざまな形で続く。
ところが、韓国の古代史は非常に複雑で分からないことが多く、中国の漢が朝鮮半島に設けた楽浪郡の朝鮮文化に与えた影響もは大きい。
韓国の文化の一つである高句麗(百済は高句麗から分かれたという伝承もある)は元々今の鴨緑江以北の今の中国領にあった。
古代の中国東北部や沿海州一帯の文化も気になるところだ。
アイヌ語が日本語より朝鮮語に近いという学説もあるが、北海道と沿海州は近く、根拠はないが、なんとなくそうしたこともうなずけそうな気がする。
更に言えば靺鞨(まつかつ)や韃靼(だったん)とか渤海国(ぼっかいこく)と朝鮮文化(特に高句麗)との関係も気になるところだ。