散歩者goo 

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昨日記170106金(風邪かなり回復 家電量販店へ 私と哲学・思想)

2017年01月08日 20時53分29秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低℃ 10.8  4.4 晴一時曇
6日は、咳やくしゃみも非常に少なくなり、体調も悪くはなかった。
3日の日に体温を測ろうとして、電子体温計を使うと電池切れで使えなかった。
そのため体調が回復してから、購入しようと決めていた。
それに数日前に気付いたのだが、洗濯機への継ぎ線が多分3-40年前に私が作ったもので、ビニルコードが硬化して非常に危険な状態と判断した。
そういうこともあって、この日午後から梅田の家電量販店へ、体温計用ボタン電池と、電源コードと、スマホカバーを買いに行くことにした。

体調もよさそうなので、地下鉄の駅まで歩くことにした。
歩き始めは快調だったが、10分近くなると体が重く感じるようになった。
かなり体調は回復しているようだが、まだいつもの「やるぞ!」と気合の入る状態にまでは回復していない感じだった。
駅前の銀行で出金してから地下鉄で梅田に出て、家電量販店に入った。
電池と、コードと、スマホカバーを探すのに、手間取った。
スマホカバーについては、以前に下見していたのでおおよその場所の見当はついていたが、この日行ってみると、当時アローM03用は1-2種類しかなかったが、この日行くと4-5種類に増えていた。
SIMフリーで、通信費はガラ携並みに安く、本体価格とSIMカードセットで3万円5千円前後(同じ富士通製でも販売会社<OCN イオン・・・>により差がある)するが、ワンセグ・おサイフ・1310万画素や、その他上位機と遜色ない機能をもっていて、落下や防塵や防水機能もあるのでそれなりに売れているのだろう。

家電量販店を出て、梅田のファストフードで、コーヒーを飲みながら、本を読んだ。
哲学関係の入門書のようなものを読んでいるが、多くの人名や主義思想の名称が出てきて覚えきれない。
そういう時に、スマホは非常に役に立ち、入門書ではさらりと書いてあることでも、その人の時代背景とか思想をスマホでかなり詳しく調べることが出来非常に役立っている。
その後、帰宅した。

そもそも、哲学関係に触れたのは、中学生の頃か、高校生の頃か忘れたが、河合 栄治郎の「学生に与う」を読んで、カント哲学の一端に触れたのが最初で、それ以来哲学に興味を持った。
20代初めの頃にNHK第二放送で大学講座というものがあり、哲学史をやっていたのを、欠かさず聞いたことがあり、それ以来近代哲学の新書版の本もたまに読んだりもし、弁証法やマルクスの断片もかじったりした。
その後仕事が忙しくなり、それ以降技術者としての最新の科学技術の勉強を優先し、哲学思想関係に接することは少なくなった。

そのころ、いつも休日にはよく映画を見に行き、名画(ミュージカルや西部劇や戦争ものが好きで、古いものはかなり見ていて、黒沢作品をはじめとする日本人の巨匠作品もよく見た。)をよく見に行った。
また、逆にATGといったの前衛的な映画も見たりしていたが、なんとなく物足りないので、それ以外に中学校の美術で学んだ仏像が京都奈良に多数あったので、試しに古寺を回るようになった。
当時は京都や奈良も観光化されておらず、ほとんどのお寺は訪問者もなくさびれ、殺風景で荒れていた。
そんなことをしている間に、古寺巡礼が注目されるようになり、NHKなどでも仏像鑑賞講座が放送され、NHKから出版された仏の心と形?を読み、和辻哲郎の古寺巡礼等を読んで、仏教にも興味を持った。
そのころ、日本人論もはやり、「菊と刀」とか「いきの構造」とか「縦社会の人間」といったいくつかの日本人論をよんだ。
そうしたことから、少し哲学的なものに興味を持つようになり、技術関連の勉強の合間に再び哲学関係も読むようになったが、フロイトの著作もその一つであった。

その後、40歳でアメリカに行ったときに、イリノイ大学付属英語学校の進級用のエッセイより進んだペーパーに書くテーマとして、教師と面談の上、高校の授業で印象に残っていた、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に関係することをテーマに選んだ。(哲学というより社会学になるが)
本来、大学図書館で本を読んでペーパーを書くのだが、それだけの英語力はないので、日本語の岩波文庫や親書の本を買い読んだ。
同時に、儒教や陽明学・朱子学関係の本も読んだ。
何故、このテーマかというと、当時欧米以外先進国で国民所得が多いのは、日本だけだった。
しかもヨーロッパでも、カトリック国とプロテスタント国ではGNP/キャピタ(国民一人当たりの所得――当時GDPではなくGNPだった)に差があった。
宗教と、国民一人当たりの所得に関係があり、それはウエーバーの言説が当たっていると思った。

では、なぜ日本が例外なのか、欧米でも議論されていて、解答は出ていなかった。
私は、日本の儒教受け入れ精神にそのカギがあると感じた。
アメリカ人も、中国人、朝鮮人の友人たちもすべて、儒教は宗教と断定していた。
しかし日本人にとって、儒教はある意味倫理であり哲学であった。
しかも実践の方法が他のアジア諸国と違っていた。
そこで日本の儒教受容と実践構造に鍵があると見て、日本語の本を購入して読んだのだ。
そうした本を読んで考えを進めると、プロテスタントの構造と日本の江戸時代に多くの商人や武士に支持された石門心学やその他儒教の影響を受けた考え方の構造(質素倹約・勤勉)と実践行動が、プロテスタントの精神構造に類似性があるのだ。
中国や韓国の儒教は、単に形式を守るだけと同時に宗教になっているが、日本では倫理・哲学として議論され赤穂浪士や大塩平八郎のように間違っていれば正したり、身をとして反抗するすといった姿勢があるが、他国では服従のみ。
そうしたことを、ペーパーにして提出した。(提出前徹夜した。)
(偶然だが、ウエーバーの問題は、シカゴ大学に行ったアメリカ人の友人Eの研究テーマの中にも含まれていた。<彼の研究は、南米におけるカトリック社会とプロテスタント社会といったような話で、その後彼は、南米の都市でフィールドワークを行い、学位をとったようだ。>)
そんなこともあって、ウエーバーの考え方や、儒教も少しだけ知るようになった。
同時にそうした物は、哲学思想にも共通したものがあった。

帰国後、美術に係わりだしてからは、現代美術の見方考え方が分からず、専門家のアドバイスもあり、記号論関係の入門書や専門書をいくつか読んだ。
実存主義は、アメリカに行く前からある程度理解していたが、記号論を知ってから、新しく構造主義に触れた。
しかし、構造主義に対し、現象学や実存や認識論の系譜が、対立するものとして全く理解していなかった。
その後構造主義やフーコーの解説書なんかも読み、それ以降現代美術や芸術に関する考え方が、随分整理され、自分自身考え方を整理し、自分なりの芸術観を持つようになった。
美術の考え方の中には、様々な時代の思想、思考回路が重層的にまとまりなく存在していて、それらが断片的にあちらこちらの場面で引用されているのが実態だ。

最近イグノーベル賞を受賞したというソカール事件なるものを知ったが、哲学や現代美術に関して、深く考えさせられる重要な問題だと思っている。
言説の言いっぱなしと、論証とは違う。
間違った前提や定義の明確でない前提にいくら複雑な論理を重ね展開しても、全く意味がなく価値もない。
自然科学では、一定の条件の下で絶対はあるが、文化芸術においては絶対はないので、単純に権威に頼ることは危険である。
何故なら、文化芸術は価値観により形成されていて、価値観は論理ではなく、民族、宗教、風土、歴史・時代、慣習、伝統、美意識、経済・・・その他多様な要素で人間集団が好き嫌いで決まるものであり、従って絶対はない。(芸術に関しては専門家の間でも常に意見が分かれ、無数の意見が出る(=絶対がない)が、科学では一つの結論に収束し、再現性が無ければならない。)
我々が今芸術といっているのは、主に欧米文化の下での芸術であるが、各時代地域でそれぞれの芸術が存在していたし、そもそも芸術という意識が生まれたのはルネッサンスよりのちの時代の話しであり、芸術家が生まれたのは、もっと後のことである。(それまでは職人 科学者も同じ)

私は権威や専門家の意見は大いに尊重し参考にしているが、それに従っているわけではない。
全ての、過去の文化芸術評論で今から考えると的外れな評論をしている例は無数にあるのではないだろうか。(実態を調べたことがないので正確なことは言えない。)
論理・科学は、ある一定の条件では正しいが、文化芸術は、価値観により、時代や地域・風土で常に変化するので絶対的なものはない。
又他の価値観で、別の価値観による芸術を評価することはできない。(例えば山水画の芸術観でキュビズムを評論評価することは不可能である。)

私はこうした議論をするときに「パラダイム」を言う言葉を使い、人文系でも枠組みを含む一連の体系といった意味で使っている場合も見受けられるが、「パラダイム」は科学技術体系として使われる用語のようで適切ではないらしい。
どちらかというと「エピステーメー」に近いのかもしれない。(これはフーコー提唱したものだが、)
芸術には、文化・技術・思想・宗教・風土を背景とした一つの体系・枠組みがあり、切り離すことが出来ないし、時代とともに変化する。
その総体として特有の価値観が存在する。
価値観は、論理ではないので、正しいとか間違っているとかは言えないと考えている。(文化人類学的思考でもある。)

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