散歩者goo 

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昨日記140321金(父の話 西天満の画廊回り 物性論の思い出 )

2014年03月22日 13時57分36秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  10.4/4.5℃
昨日は、春分の日であった。
一昨日の夜、昨日が春分の日であることを思い出し、確か春分の日又は前が父の命日で合ったと思い出し、古い日記帳のメモを見た。
父は1981年3月21日に亡くなったのだった。
もう、父が亡くなって30年余りになるのだ。
父が生まれたのは、明治34年(1901年)なので、今から110年以上前に生まれたことになる。
父が亡くなったのは、近くの病院で、肺炎が原因で亡くなった。
父は、田舎暮らしを望んでいたようで、私が会社に勤めだしてからは、父だけが一時期故郷の実家に戻っていた。

当時、父の実家には、父の実家の長男(私の伯父さんが、大阪でのサラリーマン生活を終え帰郷していて、その子供達は、大阪に出ていた。)がいたが、伯父さんは亡くなり、当時誰も住んでいなかった。
そこで、父は一人暮らしを始め、畑を耕したり、魚を獲って暮らしていたようだった。
父の夢は、故郷に家を建て、船や漁具を買い漁師をすることが夢で、私が中学生の頃私に漁師になれと、何度も言ってきたことがあったが、私と母は反対したので、父が一人で故郷へ帰り、その後父は故郷と大阪を行ったり来たりしていた。
父の実家は、網元で農地も持っていた。
しかし、長男は実業学校を出て大阪の製薬会社に勤務し管理職になっていて、父は長男の紹介で大阪に出て、百貨店や銀行の守衛をしていて、実家は跡継ぎがなくなったのであった。

戦時中一家は、父を除き父母の実家に疎開していた。
私の長男は、多分母方の実家から、工業専門学校(福山又は笠岡?)に通っていたようだ。
長男は、私が大阪で小児麻痺になる前に白血病で亡くなったといい、故郷の墓地に一人だけ先祖の墓と並んで、海の良く見える見晴らしのいい場所に墓標が立っている。
調べてみないと分からないが、当時原爆の後始末で動員された可能性も考えられる。
次男の兄は、父方の実家にいて小学校に通っていたようだ。
そして終戦を迎え、実家の農地は不在地主ということで農地解放で接収され、伯父さんもその後会社を退職したが、潤沢な退職金は、通貨切り替えで価値を失った。
戦後しばらくして大阪に戻った私は、当時流行していたという小児麻痺にかかるし、この時代は、一族多難の時だったのだろう。
近所に住む伯父さんは、私のために元勤めていた製薬会社から、多くのビタミン剤を調達してくれた。
なんとなく、ポリタミン等の名前は覚えている。
最近までそうしたことに思い至らなかったが、今このように書き出してみるとドラマさながらに大変だったであろうと思う。

父の生き方も変わっている。
実家の漁師を継ぐのが嫌で、朝鮮の鴨緑江で国境警備隊に行った。
そこで、親が決めた縁談で父の実家で結婚式をし、母が父のいる駐屯部隊に行ったという。
当時、満州国境では、馬族が頻繁に出没し、国境警備隊の駐屯所が襲撃され全滅した塞もあったようだ。
両親は、国境警備隊の勤務は、天国だったといっていた。
現地の人が親切にしてくれて、時には仕留めた熊なんかも持って来てくれて食べたという。
両親は、昭和10年以前(多分昭和のはじめから昭和8-9年)に国境警備隊をやめ、実家に戻り地元で小売商をしたが、失敗したらしい。
その後、伯父さんを頼り大阪に出て、昭和10年ごろ私が生まれ育った長屋に入居したという。
始めは、伯父さんの紹介で梅田の百貨店の守衛をしていて、その後御堂筋にある銀行の守衛をして、定年まで勤めた。

途中父は、招集されて中国戦線に従軍したという。
武漢サンチンの話をよくしていた。
日本軍の、富豪の家への略奪行為も、憲兵の目を逃れてよくあったと話していた。
実弾が飛び交う山野の戦場の話もしていた。
父は、病気(マラリア?)になり除隊され、日本に帰ったという。
兵士の中には、塹壕から足や手を出して弾に当たれば帰れると言って、出していた者もよくいたという。

父はよく、大阪大空襲の話をしていた。
当時父は宿直で銀行にいて、その様子を見ていたという。
あたり一面火の海となり、銀行の前にも焼夷弾が落ち燃え上がったという。
銀行を含め、百貨店等焼け残った石やコンクリート製のビルが、パラパラと焼け跡にたっていたという。

私が小学生の頃は、朝早く出て行く父が頬ずりをして出て行くので、いつもそれで起こされ、更にひげが痛くて嫌だった。

夏は、出島海岸に海水浴に行った。
一般の人は、少し南にある浜寺に海水浴に行き、小学校の友達からも、その話を聞かされていたので、両親に浜寺に行こうといっても、行かなかった。
浜寺の方には多くの人がいるようで、にぎやかなのに、出島はガラガラで寂しかった。
後で理解できたのだが、出島港は父の故郷の漁港と同じ空気を持っていたのだ。

そして、両親がそこで繰り返し言ったことが、堤防のある場所を指して、「ここでお前が急にガタガタ震えだして小児麻痺になったんだ」、という話だった。
そうした話は、当時何度も現地で繰り返し聞かされていたが、何も思わなかった。
20歳過ぎて人生経験を重ね、その話を思い出すにつけ、その後の両親の苦労が推察できるようになった。
今は、両親や周りの人に感謝しても仕切れないと思っている。

こうした話は、断片的に印象に残った話だが、本来父の命日に単独の話として書けばよかったのかもしれない。
改めた、我が家の思い出話も物語風にでも書きたいとも思うが、時間もかかるし資料も整理できていない。

昨日は午後に、食料品の買物を済ませ、夕方から西天満の画廊街を回った。
帰りに天満橋のファストフーズで読書と、お決まりのコースでその日を終えた。
帰宅後は、いつもの温野菜もなんとなく飽きたので、手間はかかるがカレーにした。
手間がかかるといっても、いつも使っている出汁をやめ、温野菜を水炊きにし、後でカレーのルーを加え、再加熱することと、カレー皿を使う程度である。

寝る前にTVを見ていると、Eテレ白熱教室で、量子力学の話をしていた。
特に不確定性原理の話は懐かしかった。
私は、工業高校の時にそうしたことを学んだことが、誇りだった。
下村先生という方が、教科書を作り当時最先端の量子力学・物性論の知識を分かりやすく教えてくれたのだ。
金属を軽く接触する程度で電流が流れることが、当時最先端の理論だったトンネル効果によるものであることも知った。
先生が作った教科書は、工業高校・短大の教科書として長い間使われていた。
我々は、ゲラ刷りの教科書を使い、ひょっとすると当時大学一部の大学でしか教えていなかったことを勉強していた可能性があった。
半導体の原理を知るのに必要な知識だったのだ。
(事実、当時大学の教科書を探しても、それに該当するような適切な本は無かった。)
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