老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

原発再開を巡る裁判所の判決  ~危険を自分のこととして考える~

2017年04月04日 22時13分53秒 | 原発関係
 昨年春に大津地裁が下した高浜原発3・4号機の運転差し止めの仮処分判決を不服として関電が控訴していた件については、3月28日に大阪高裁が関電の言い分を全面的に認める内容で、運転停止を取り消しました。

◆最大の争点は、原発の安全性で、
・大津地裁が“福島原発の原因究明がまだ完全にできておらず、この事故を踏まえ、厳格な安全性の確保を求めた”のに対して、
・大阪高裁は“福島原発の事故に対する原因についてはほぼ明らかにされており、最新の科学・技術的知見に基づく新規制基準は合理的であり、相対的な安全性は許容されている。原発に絶対的安全性を求めるのは相当ではない”と一変したことです。
・特に、“住民側による、安全性欠如の証明はなされていない”として“高浜原発3・4号機の安全性が欠けているとは言えない”とまで言っています。

◆また安全審査の対象になっておらず、住民が不安を持っている避難計画などの災害対策に対しても、“まだ改善の余地はあるが、取り組みの姿勢や計画の具体的内容は適切”としています。


 更に、愛媛県の伊方原発3号機についても、住民から求めていた運転差し止め仮処分申請を、広島地裁は3月30日に同様の理由で却下しました。


 このような判決を見て感じることは、裁判官の言い分は、「新規制基準や事業者の言い分が合理的なのに、住民側がこれに対抗できるだけの証拠を示していない」という事です。

・こんなことは当然ではないでしょうか。莫大な予算で活動している規制委員会や営利企業である原発事業者は、金目をいとわずに、色々な資料を作成するでしょう。
しかし、そこには福島事故に対する真摯な反省などはなく、未だに金を掛けることで自然に立ち向かえるとの幻想があるだけです。

・これに対して何の資金的な裏付けもない住民側は、科学的事実ではなく、現実に福島事故での自然の脅威と、万一の場合の原発事故に伴う住民への破壊的な影響という事実を自分のこととして受け止め、原発を危険なものとして絶対的な安全を求めているのです。

 要するに、争点の土俵が全く違うのです。
これを解決する究極の策は、敢えて無理を承知で言うと、

・福島第1原発でのあの破壊的な事故は、「相対的安全」で対応できると考えていた、行政や事業者などいわゆる専門家の妄想に基づいた原発推進に起因したことを関係者は認める。

・その上で、尚も原発推進に拘るなら、企業の本社や公務員など(含、安全性の規制責任者)は、原発立地場所に事務所を移動してその地に居住した上で、住民を説得する。

・また、裁判官などについても、単なる机上の法律解釈ではなく、自分なり身内の人間が原発立地場所に居住しているような状況を前提に判断をすべき。

・あるいは、あくまで原発の安全性が保たれているというのなら、原発を電力消費地である大都会に誘致する。

ことではないでしょうか。要は原発立地場所の住民の不安を、如何に切実に感じられるかという事でしょう。

 これは沖縄の基地問題を巡る争点にも当てはまることでしょう。(まさ)