Sightsong

自縄自縛日記

チャーリー・ヘイデン+ヤン・ガルバレク+エグベルト・ジスモンチ『Magico』、『Carta De Amor』

2016-07-31 10:58:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャーリー・ヘイデン、ヤン・ガルバレク、エグベルト・ジスモンチの3人によるグループ「Magico」。2012年に発掘された『Carta De Amor』(ECM、1981年)を飛行機のプログラムで聴いてため息をついていたものの、ちゃんとしたオーディオで再生していなかった。先日、caruaru44さんと渋谷の「串カツでんがな」で話をしていて思い出した。

Charlie Haden (b)
Jan Garbarek (ts, ss)
Egberto Gismonti (g, p)

『Magico』(ECM、1979年)での「Silence」や「Palhaco」、『Carta De Amor』での「La Pasionaria」や、やはり「Palhaco」など、ヘイデンの名曲の数々に胸が一杯になってしまう(本当)。「Palhaco」を比べても、どちらかと言えば演奏があとの後者において信頼感と成熟が増しているように感じるのだがどうだろう。この間に記録された同一メンバーによる『Folk Songs』(ECM、1979年)はどのような雰囲気なのだろう。

ガルバレクのサックスは、テナーでもソプラノでも、井戸できりきりに冷えた天然水のようで、たいへんな透徹感がある。また、ジスモンチの循環しながら物語を紡いでゆく素晴らしさといったらない。そしてヘイデンは、その残響で3人をつないでいるようだ。それにしても、大きな歓びを描き出す、凄いトリオだったのだな。

ところでガルバレクは健在なのだろうか。ヒリヤード・アンサンブルと共演した『Officium』(ECM、1993年)発表後の来日公演(東京芸術劇場)を観たっきりで、それは照明のひどさもあって最悪の印象しか残っていないのだが、そんなくだらないことでこの個性的なプレイヤーをあまり聴いていないのは勿体ないことだった。

●エグベルト・ジスモンチ
エグベルト・ジスモンチ@練馬文化センター(2016年)

●チャーリー・ヘイデン
アルド・ロマーノ『Complete Communion to Don Cherry』とドン・チェリーの2枚(1965、88、2010年)
パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンのデュオの映像『Montreal 2005』(2005年)
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ(2006年)
アリス・コルトレーン『Translinear Light』(2000、04年)
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ(1998、2003年)
ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』(1996年)
チャーリー・ヘイデン+ジム・ホール(1990年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン(1990年)
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』(1989年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見(1985年)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(1979年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
アリス・コルトレーン『Universal Consciousness』、『Lord of Lords』(1971、72年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
オーネット・コールマン『Ornette at 12』(1968年)
オーネット・コールマンの最初期ライヴ(1958年)
スペイン市民戦争がいまにつながる

●ヤン・ガルバレク
ヨーロッパ・ジャズの矜持『Play Your Own Thing』(2007年)
マイケル・マン『インサイダー』(1999年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)


J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』

2016-07-31 09:10:18 | 中東・アフリカ

J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』(早川書房、原著2013年)を読む。

2013年に読んだ原著の内容を確認するための再読である。もっとも、訳者の鴻巣友季子氏があとがきで触れているように、スペイン語を母語としない登場人物たちがスペイン語で語り、その想定のもとにクッツェーが英語で物語を語っているのであるから、日本語による本書は異本のひとつだと言えなくもない。

あらすじはここに書いた通りだが(J・M・クッツェー『The Childhood of Jesus』)、受けた印象は少し違う。以前は、イエスを巡る物語をもとにした寓話なのだが、哲学的対話はいかにも浅く、突拍子もない展開によってのみ読ませる小説なのかととらえていた。ところが、再読によって別の印象が強くなってきた。すなわち、深みのない考察も、脈絡のない展開も、クッツェーの意図したものではないかというわけである。

人間的な欲を恥のようにとらえ、善意が支配しているが、よりよいヴィジョンを夢想もしない管理社会。そこに突破者として現れた少年の物語に、ハナから論理的な積み上げがあろうわけもないのだ。

突破者としての歩みと集団化をはじめた登場人物たちが、このあとどのように規範に背き、社会を揺るがしていくのか。本書の続編『The Schooldays of Jesus(イエスの学校時代)』が2016年秋に出されるのだという。確かにこの物語は、本書だけで終わるべきものではなかった。

●参照
J・M・クッツェー『The Childhood of Jesus』(2013年)
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)


庵野秀明+樋口真嗣『シン・ゴジラ』

2016-07-30 09:08:26 | アート・映画

庵野秀明+樋口真嗣『シン・ゴジラ』(2016年)を観る。

巷では、本作が「改憲プロパガンダ」だとの評もあるようだが、それは一面的に過ぎるだろう。確かに突然ゴジラが東京に現れ、憲法と既存の法制度に照らして政権が苦しみ、馬鹿げた縦割りの対応に終始し、解釈と特別法とで対処していく姿が描かれている。しかし、タカ派(余貴美子、竹野内豊など)の描写などはむしろコミカルだ。

それよりも、実質的にアメリカの傀儡国家としての日本を描いた点に大きな価値があると言うことができる。その意味で、アメリカの意向で東京のゴジラを核攻撃しようとする事態に陥るプロットは、1954年版『ゴジラ』よりも1984年版『ゴジラ』を下敷にしたものとみるべきではないか(冒頭に無人のレジャーボートが発見される場面もそれを思わせる)。

(ところで、わたしが中学生のときに1984年版『ゴジラ』を観た映画館は、かつて宇部市にあった「宇部東宝」だ。同じ高校の美術部の先輩たる庵野氏は当時すでに上京してアニメーターとしての活動を始めていたというから、同じ映画館で観たわけではないのだろうな)

現代の日本を戯画化し、アメリカ傀儡を否定的に描き、それでは何を希望として見せようとしているのか。「みんなが無私のこころで頑張る日本」は気にはなるが、まあよい。フランスが驚いてみせる「狡猾」な外交力かもしれない。あるいは自主武装かもしれない。そのあたりは、日本を「スクラップ・アンド・ビルド」の国としたうえで、これから再度新しいかたちを作り上げるのだと意図的に曖昧にしている。

それにしても、この素晴らしい特撮には惚れ惚れする。蒲田や北品川あたりの古い東京が破壊される場面も、東京駅付近の新しい東京が破壊される場面も(グラントウキョウが倒されるところなんて声を上げてしまった)、これまでのゴジラ作品から引き継がれていて、しかも遥かにリアルである。もういちど観ようかな。

●参照
ギャレス・エドワーズ『ゴジラ』(2014年)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(1956年)
山本昭宏『核と日本人』


齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』

2016-07-28 23:20:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(Travessia、2010年)を聴く。

Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

故ペーター・コヴァルトのコントラバスを、コヴァルトがドイツの自宅を開放した場・ORTにおいて弾いている。

以前にどこかで、テツさんが、バール・フィリップスのコントラバスを弾くとバールさんの音が出る不思議さについて書いていたように記憶している。そうなれば、ここで聴ける演奏は、まるで絹のようなコヴァルトの音なのか。そのような気もするし、そうでない気もする。

どちらかと言えば、楽器の呪縛というよりも、場の強さに対峙して弾く切迫感を強く感じる演奏である。びぎん、げいんと弦がはじける音も、胴の共鳴が周囲のもろもろを呼び寄せるような感覚も、叩くと響くとが重なった音も、何か(コヴァルトか)に想いを寄せるような念も含めて、違う相のものがあい混じっている。

●参照
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン


フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』

2016-07-28 07:27:36 | スポーツ

フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』(新潮文庫、原著1973年)を読む。

何しろ長く、脈絡なくハチャメチャな法螺話が詰め込まれているので、読み通すのに時間がかかった。

ここにどかんと展開されるものは、アメリカ大リーグとは別にかつて存在したという「愛国リーグ」、その中でもひときわ弱く、シーズンの最初から50ゲーム差(笑)も付けられるようなマンディーズというチームについての、ウソの歴史である。語り手=騙り手は、クーパーズタウンの野球殿堂でも、誰の記憶とも重ならない知識を披露し、嘲笑される始末。それでも饒舌は延々と続く。ときどき、唐突にわけのわからぬ輩が登場してきて発作的な引き攣り笑いに襲われてしまう。

おそらく日米の野球文化の違いはこんなところにあらわれている。ゲームを直接楽しむ者=野球選手については変わらないのだとしても。かたや求道的、精神主義。かたや、何かおかしなことをやり、話し、笑い飛ばす者たちの集合体。読売ジャイアンツの選手たちの間で『海賊とよばれた男』が流行したことがあったそうだが、そんなもんよりこれを読んではどうか、坂本選手。

原題は『偉大なるアメリカ小説』。つまり騙りの対象はアメリカ小説でもあり、この面でもやたら可笑しい。ヘミングウェイをただの下半身の人にしてはダメでしょう、と眉をひそめてはならない。

●村上柴田翻訳堂
ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(1940年)
カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(1946年)
コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』(1976年)


ビリー・ホリデイ『At Monterey 1958』

2016-07-27 22:16:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

ビリー・ホリデイ『At Monterey 1958』(Black Hawk Records、1958年)を聴く。

Billy Holiday (vo)
Mal Waldron (p)
Eddie Khan (b)
Dick Berk (ds)
and guests:
Gerry Mulligan (bs)
Benny Carter (as)
Buddy DeFranco (cl)

1958年10月、第1回モンタレー・ジャズ・フェスティヴァルに出演したビリー・ホリデイ。野外のステージということもあってか、少なからず解放感が声にあらわれているような気がする。何しろ30分ほどのパフォーマンスの間にも2回ほど、飛行機が轟音を立てて飛んで来たりするところなのだ。同年2月に吹き込まれた『Lady in Satin』があまりにも痛々しい気持ちを込めた作品であるだけに、この違いは拍子抜けするほどである。ビリーにとっても愉しかったステージではないのかな、と想像する。

マル・ウォルドロンの伴奏も、その後の沈んだようなトーンよりも明るめに聴こえる。そして豪華ゲスト陣、とくにジェリー・マリガンのバリトンサックスも愉しそうだ。

もちろん最晩年の記録である。翌1959年の3月にはレスター・ヤングが亡くなり、7月にはビリーも亡くなる。ここで聴くことができるビリーの声にはもはや張りがなく、エッジもぐすぐすに崩壊してしまっているようだ。しかし、だからこそかもしれないのだが、ビリーの魂のそのまた核の部分を耳にしているような気がする。余裕をもって節回しを崩し、チャーミングにところどころ上げ、そして全体の声質は聴き間違えるわけがない。特別な人だとしか言いようがない。

ジャッキー・マクリーンは、ビリーの晩年の声について、「かつての声の影に過ぎなかった」「彼女の歌声は失われ、唯一の表現手段としてエモーションが残った」とも綴っている(『Let Freedom Ring』のライナー)。

●参照
スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』
ホセ・ジェイムズ『Yesterday I Had the Blues』
ホセ・ジェイムズ@新宿タワーレコード
ジャッキー・マクリーン『Let Freedom Ring』
ドン・モイエ+アリ・ブラウン『live at the progressive arts center』、レスター・ボウイ
与世山さんの「Poor Butterfly」
ジョー・マクフィーの映像『列車と河:音楽の旅』
ニコラス・ローグ『ジェラシー』


サインホ・ナムチラック『Like A Bird Or Spirit, Not A Face』

2016-07-26 22:20:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

サインホ・ナムチラック『Like A Bird Or Spirit, Not A Face』(Ponderosa Music & Art、2016年)を聴く。

Sainkho Namtchylak (vo, g)
Eyadou Ag Leche (b, g, vo)
Said Ag Ayad (perc)
Ian Brennan (loops)

ベースとパーカッションのふたりはマリ共和国を拠点とするトゥアレグ人のグループ・ティナリウェンのメンバーである。それゆえ、ジャケットの裏側には、ティンブクトゥにある砂のモスクが印刷されている。もちろんサインホはモンゴル文化圏のトゥヴァ共和国出身のヴォイス・パフォーマーだ。

このまったく異なる文化を背景に持つ者たちが、驚くほど親和性をもった音楽を展開している。サインホの喉歌はもともとトゥヴァのホーメイだが、ここでは、アフリカの女性が鳥の叫びのごとく甲高い声で鳴らす喉歌に近いものも披露している。

そしてサインホ自身のヴォイスは、かつての、壁も窓ガラスも鼓膜も突き破るような、また地の底から低音で唸るような突破的なものでは、もはやない。もちろんそのような要素はたくさんある。恐ろしさもある。しかしその一方で、愛らしさもある。

これは成熟と呼ぶべきなんだろうね。優しく英語で唄う「The Snow Fall Without You」など、サインホの活動の到達点と言ってもいいのではないか。

●参照
サインホ・ナムチラック『TERRA』(2010年)
サインホ・ナムチラックの映像(2008年)
モスクワ・コンポーザーズ・オーケストラ feat. サインホ『Portrait of an Idealist』(2007年)
テレビドラマ版『クライマーズ・ハイ』(2003年)(大友良英+サインホ)


マリオン・ブラウン『Five Improvisations』

2016-07-26 06:00:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリオン・ブラウン『Five Improvisations』(B.Free Records、1977年)を聴く。ドイツのレーベルによる発掘盤のようである。

Marion Brown (as)
Brandon Ross (g)
Jack Gregg (b)
Steve McGreven (ds)

ブランドン・ロスの参加が目を引くが、必ずしもマッチしているとは思えない。ドラムスのスティーヴ・マグレイヴン Steve McGrevenは、アーチー・シェップともよく共演したステファン・マクレイヴン Stephen McCrevenと同一人物ではないのかな。

音はさほど上等ではないが、マリオン・ブラウンの音色を聴くことができるから問題ではない。パワーで鳴らすのではなく、どちらかと言えば細くてよれる。マウスピースから発する甲高いノイズも、息を強く吹き込んでアルトを鳴らし切る付帯物として出てくるのではなく、弱く口の脇から漏れる感じ。音色は柔らかくもなく生硬である。この音がマリオン・ブラウンの抒情になっているから偏愛。

●参照
マリオン・ブラウンが亡くなった(2010年)
November Cotton Flower
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(1965、1995年)


『Illegal Crowns』

2016-07-25 22:35:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Illegal Crowns』(RogueArt、2014年)を聴く。

Mary Halvorson (g)
Tomas Fujiwara (ds)
Benoit Delbecq (p, prepared p)
Taylor Ho Bynum (cor, flh)

どこまで吹くも弾くも叩くも自由、まるで限りない自由と公平性を与えられた4つの遊星がどのように動くか。誰かのエゴを押し進めた突破力があるわけではない。しかし、お互いの重力を感じながら、自由に相互干渉しながら繰り広げる音の連なりは、落ち着いていて、また同時に刺激的でもあって、聴けば聴くほど味が出てくる。

それはまあ、発する性格がまるで異なる楽器であるから、運動の軌道も揺動の仕方も異なっている。テイラー・ホー・バイナムは全方位に音を振りまき、ブノワ・デルベックはいろいろな形に割れた結晶を射出する。揺動といえばトマ・フジワラ。時空間の歪みならメアリー・ハルヴァーソン。

●メアリー・ハルヴァーソン
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
トマ・フジワラ+ベン・ゴールドバーグ+メアリー・ハルヴァーソン『The Out Louds』(2014年)
メアリー・ハルヴァーソン『Meltframe』(2014年)
アンソニー・ブラクストン『Ao Vivo Jazz Na Fabrica』(2014年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
『Plymouth』(2014年)
トム・レイニー『Hotel Grief』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
イングリッド・ラブロック『Zurich Concert』(2011年)
メアリー・ハルヴァーソン『Thumbscrew』(2013年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)
ステファン・クランプ+メアリー・ハルヴァーソン『Super Eight』(2011年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)
アンソニー・ブラクストン『Trio (Victoriaville) 2007』、『Quartet (Mestre) 2008』(2007、08年)

●トマ・フジワラ
トマ・フジワラ+ベン・ゴールドバーグ+メアリー・ハルヴァーソン『The Out Louds』(2014年)
トマ・フジワラ『Variable Bets』(2014年)
Ideal Bread『Beating the Teens / Songs of Steve Lacy』(2014年)

●テイラー・ホー・バイナム
アンソニー・ブラクストン『Ao Vivo Jazz Na Fabrica』(2014年)
Book of Three 『Continuum (2012)』(2012年)
アンソニー・ブラクストンとテイラー・ホー・バイナムのデュオの映像『Duo (Amherst) 2010』(2010年)
アンソニー・ブラクストン『Trio (Victoriaville) 2007』、『Quartet (Mestre) 2008』(2007、08年)


『けーし風』読者の集い(31) 「生きる技法」としての文化/想像力

2016-07-24 08:33:24 | 沖縄

『けーし風』第91号(2016.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2016/7/24、神田公園区民館)。参加者は8人。

主に以下のような話題。

●参院選の沖縄選挙区で伊波洋一氏が自公推薦の現職・島尻安伊子氏を大差(35.6万、対、25.0万=10万票以上の差)で破った翌日から、その「民意」とは正反対の高江の工事があからさまに強行された。
●これは、2014年沖縄県知事選における翁長(36.1万)、対、仲井眞(26.1万)の票差よりも大きかった。沖縄の「民意」が容易に変わることはない。日本との溝がさらに目立ってきた。
●高江の状況が済州島四・三事件と重なってみえる。かつて捨て石とされたマージナルな島で、過剰にアメリカの意を汲んだ暴力装置が発動され、そのことが不可視にされようとしているという点で。
●高江がこのような強権政治のターゲットとなり、一方、辺野古はどうなのか。やはり参院選後に、政府は沖縄県を相手取り、辺野古の違法確認訴訟を起こした(2016/7/22)。本誌には、北上田毅氏により、防衛局は辺野古の埋立工事に入ることができないとする理由が挙げられているのだが。
●日本の「基地引き取り論」。先日の「AERA」の沖縄特集でも、対談において、論を手動する高橋哲哉氏に対して、目取真俊氏は現実性のない話だとした。
大城立裕『カクテル・パーティ』が映画化された。アメリカの困窮から海兵隊に入ったはずの黒人兵が、沖縄においては、沖縄人を差別する。この「権力の中二階」。高江においてはどうなのか。
●保守与党の支持者には、自分では「差別意識」を持っていないと考えている市民が少なくない。それは事実認識と歴史認識が決定的に足りていないからだろうが、さて、それをどのように解決すればよいか。教育現場さえ上から決められたこと以外を話せない状況で。
●大きな経済にのみ呑みこまれることのない、コミュニティ単位・地域単位の経済とは。それをナショナリズムに利用されないようにするには。
●参院選では、市民が直接痛い目にあった地域(沖縄、福島)では既存の政治に否を出した。では、痛い目をみないと解らないのか。
SNS(特にFaceBook)における雰囲気は世論ではない。そのひとつが三宅洋平現象ではないのか。
●現場を通じて沖縄から日本へ広まっていった役割はとても大きかった。従来の「戦争は嫌」という漠とした一般論から、より個人の論へと移行しなければ力を持たない。本誌巻頭言では、若林千代氏が先日の沖縄での被害者が「私だったかもしれない」とのことばを書いた。屋嘉比収氏は、「<自分だったらどうするか>を繰り返さなければならないと説いた(『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』において説いている「分有」とも関連か)。仲宗根政善氏は、戦地に置き去りにした教え子と生きて再会し、ひめゆり学徒たちの体験記(仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』)をまとめることを決意した。石牟礼道子氏は、水俣病で死にゆく人の姿に接し、そのことが『苦海浄土 わが水俣病』などを書かせる力となった。
●本誌に登場する山城知佳子氏の「アーサ女」(「沖縄・プリズム1872-2008」)は、身体のアートによって生政治にもコミットするものだった。その後の映像作品「肉屋の女」は、嘉手納の黙認耕作地において撮られた作品であり、これもまた同様に沖縄でなければ出来ない作品だった。
シンポジウム「コザ暴動プロジェクト in 東京において、倉石信乃氏は、「本土」を媒介せず沖縄から自律的につくられたアートとして、山城知佳子氏に加え、石川竜一(>> 木村伊兵衛賞受賞)、ミヤギフトシ(「六本木クロッシング2016展」に出展中)、根間智子の各氏の名前を挙げた。こういったアートの力は社会にどうコミットし変えていくか。
●いま、アイヌ新法制定の検討を前にしている。1984年の北海道ウタリ教会(現・北海道アイヌ協会)でのアイヌ新法要望決議はどうだったか。民族特別決議の要望は、議席数が多すぎるとして自ら取り下げることになった。また自立化基金も縮小された。

●紹介された本・映画・集会・食べ物
●洪ユン伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会)
●陣野俊史『テロルの伝説』(河出書房新社)
●進藤榮一、木村朗編『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)
●「あけもどろ」2014・15年合併号 特集「歴史を拓くはじめの家うちなぁ20周年特別号」
●第1回与那国映画まつり in 東京 『与那国カウボーイズ』『はての島のまつりごと』 2016/8/13 14:30/17:40 北とぴあ
●辺野古新基地建設断念を求める全国交流集会 2016/7/31 10:00-18:00 連合会館、全電通会館ホール
●「辺野古土砂搬出反対」全国連絡協議会ニュース 
●「平輪ちんすこう」(若竹福祉会)。ラードが使われておらず、また黒糖の味が際立っていてとても旨い。普天間飛行場を、いっそのこと、食べてなくしてしまえ!という願いがこめられている。

●参照
『けーし風』


レンピス/エイブラムス/ラー+ベイカー『Perihelion』

2016-07-23 08:54:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

レンピス/エイブラムス/ラー+ベイカー『Perihelion』(Aerophonic、2015-16年)を聴く。

Dave Rempis (as, ts, bs)
Joshua Abrams (b, cl)
Avreeayl Ra (ds, wooden fl)
Jim Baker (key, electronics)

シカゴの面々による魅力的な2枚組アルバム。ジョシュア・エイブラムスによるサウンドを包み込むようなベースも、エイブリアイル・ラーによる不定形のドラムスもそれぞれ良いのだが、どうしても、デイヴ・レンピスのサックスに耳が貼りついてしまう。

フレーズによりサウンドを構築していくというよりも、これと決めた(しばしばヘンな)トーンに執着し、引っ掻くような低音と中音と高音で、強力に粘っこく鼓膜を突破していく感じである。2枚目にはジム・ベイカーのキーボードが参加しており、さらにカラフルな中でレンピスは突破者ぶりを誇示している。

●参照
GUNWALE『Polynya』(2016年)


梅津和時『竹の村』

2016-07-22 07:20:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

梅津和時『竹の村』(Next Wave、1980年)を聴く。

Kazutoki Umezu 梅津和時 (as, ss, bcl)
Masahiko Togashi 富樫雅彦 (perc)
David Friesen (b)

梅津和時31歳のときの初リーダー作である。とは言え初々しいといったような印象は希薄で、梅津さんは既に堂々としたサックスを吹いている。この流れるようで艶やかな、上品も下品もあい混じったような音。ここに笑いや余裕や雑多さを積み重ねていった結果、さらなる「梅津和時」が次々に生まれていったのだろうなと思える。

デイヴィッド・フリーゼンの軽く中音域で歌うようなベースもいいが、何よりも感じ入ってしまうのは、富樫雅彦のパーカッションである。音の連なりは表面を端正に整えたように美しく、間もあって、まるで霧がかかって静かに時間が過ぎてゆく自然の風景のようだ。何度聴いても、誰にも似ていない偉大な匠だったのだなと実感する。なかでも、富樫のオリジナル曲「How Are You」がパーカッションを浮き立たせる繰り返しの構成で聴きどころ。

●梅津和時
くにおんジャズ(2008年)
『鬼太郎が見た玉砕』(2007年)
金石出『East Wind』、『Final Say』(1993、1997年)
梅津和時+トム・コラ『Abandon』(1987年)

●富樫雅彦
富樫雅彦が亡くなった(2007年)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』(2000年)
富樫雅彦+三宅榛名+高橋悠治『Live 1989』(1989年)
内田修ジャズコレクション『高柳昌行』(1981-91年)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(1979年)
富樫雅彦『かなたからの声』(1978年)
翠川敬基『完全版・緑色革命』(1976年)
富樫雅彦『風の遺した物語』(1975年)
菊地雅章クインテット『ヘアピン・サーカス』(1972年)
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1968年)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(1963年)


纐纈雅代@Bar Isshee

2016-07-21 07:24:30 | アヴァンギャルド・ジャズ

千駄木のBar Issheeに足を運び、纐纈雅代ソロ(2016/7/20)。

Masayo Koketsu 纐纈雅代 (as)

40分ほどのサックスソロを2セット。この日は「曲の日」ではなく「フリーの日」というわけで、後半に少しバップフレーズが登場することがあったが、炸裂するのは纐纈雅代フレーズ。小さい音から始まりながら、やがて楽器全体を震わせて鳴らし切る。倍音も出るし、アルトの管体が持ちこたえようとして不協和音も出る。その駆け上がるときの艶やかなヴィブラートと全身飛翔感が独自なもので、聴いていて気圧されつつ気持ちが良い。耳と脳が覚醒していく感じである。

訊いてみると、リードは2半だそうである。比較的薄目のリードでの繊細な音と身を震わせてのブロウなのか。

●参照
板橋文夫+纐纈雅代+レオナ@Lady Jane(2016年)
纐纈雅代『Band of Eden』(2015年)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)
秘宝感とblacksheep@新宿ピットイン(2012年)
『秘宝感』(2010年)


マリリン・クリスペル『Storyteller』

2016-07-20 06:54:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリリン・クリスペル『Storyteller』(ECM、2003年)を聴く。

Marilyn Crispell (p)
Mark Helias (b)
Paul Motian (ds)

この異常な時間感覚は何だろう。最初から最後まで、時空間のどこに位置しているのかわからないほどである。錨から解き放たれてこの人たちは怖くないのかな。聴くわたしは少し怖い。

もちろん曲というものはある。それにしても、個々の曲の構成をもってトータルにジャズとして完成させるというよりは、無限にあるひとつひとつの瞬間の美的なものをのみ追及しているような感覚だ。もちろん魔術師はマリリン・クリスペルとポール・モチアン。

●マリリン・クリスペル
マリリン・クリスペル+ルーカス・リゲティ+ミシェル・マカースキー@The Stone(2015年)
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)
ゲイリー・ピーコック+マリリン・クリスペル『Azure』(2011年)
ルイス・モホロ+マリリン・クリスペル『Sibanye (We Are One)』(2007年)
マリリン・クリスペル+バリー・ガイ+ジェリー・ヘミングウェイ『Cascades』(1993年)
ペーター・ブロッツマン
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
映像『Woodstock Jazz Festival '81』(1981年)

●ポール・モチアン
ベン・モンダー『Amorphae』(2010、2013年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
ポール・モチアン『The Windmills of Your Mind』(2010年)
ポール・モチアンのトリオ(1979、2009年)
ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』(2006年)
ポール・モチアン『Flight of the Blue Jay』(1996年)
テザード・ムーン『Triangle』(1991年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン(1990年)
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』(1989年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975、1976年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、1976年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(1961年)


チェット・ベイカー+ポール・ブレイ『Diane』

2016-07-18 23:41:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

チェット・ベイカー+ポール・ブレイ『Diane』(SteepleChase、1985年)を聴く。

Chet Baker (tp, vo)
Paul Bley (p)

チェット・ベイカーは1929年末の生まれだというから、このときまだ55歳。薬物や不摂生のためか、そうとはとても思えない外観であり、それは、2年後の1987年からブルース・ウェーバーによって撮られはじめたドキュメンタリー映画『Let's Get Lost』(1988年)に生々しく焼き付けられることになる。そして、チェットがアムステルダムのホテルから転落死するのは、1988年のことである。

ここで聴くことができるトランペットの音も、やさ男のヴォイスも、どう聴いてもチェットのものだ。しかし勢いや跳ねるような溌剌さはもはや微塵もなく、まるでこの人が消えゆくときの残響だけを聴いているようにさえ思える。時間に取り残されてもいいと決めたような、たとえば「Everytime We Say Goodbye」なんて、そんな音楽の魔を渡されても怖い。 

ポール・ブレイは、思索と触発に身を任せるでもなく、ただチェットの消えゆく響きを音楽のなかにとどめんとしているように聴こえる。

●ポール・ブレイ
ポール・ブレイ『Solo in Mondsee』(2001年)
ポール・ブレイ『Homage to Carla』(1992年)
ポール・ブレイ『Plays Carla Bley』(1991年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
ポール・ブレイ『Barrage』(1964年)
ポール・ブレイ『Complete Savoy Sessions 1962-63』(1962-63年)