Sightsong

自縄自縛日記

佐藤さとる『だれも知らない小さな国』

2010-01-31 21:58:03 | 思想・文学

荷宮和子『バリバリのハト派』という本を読んでいたら、日本における独自のファンタジー変遷論を展開していて(アニメ『聖戦士ダンバイン』まで引用する愉快さ)、そのなかで佐藤さとるの「コロボックル物語」シリーズを高く評価していて、懐かしい思いにとらわれてしまった。小学生のときに図書室で借りては読んでいたのだ。そうすると、偶然にも、息子が、第1作『だれも知らない小さな国』(講談社、原著1959年)を借りてきていた。嬉しくなって、返す前に自分も読んだ。

子どもたちがモチノキの樹皮を剥いでトリモチを作るというくだりしか覚えていなかったが、やはりとても面白い。そうか、これは戦争中の話だったんだなというのは新鮮な発見。原著は1959年で、最初は100部余りの私家版だったという。この魅力的な挿絵は村上勉という画家によるもので、1969年の改版時に登場している。こういったものを読むと、自分はオトナになるまで何をしてきたんだろう、と、ちょっと感傷的になったりして。

ここに登場する小人=「こぼしさま」たちは、アイヌ伝説のコロボックルをルーツとしている(それで呼び方も似ている)。身長は3センチ程度。人間に対してはあえてゆっくり喋るが、ふだんは聞き取れないくらい早口で「ルルルル。」という声を発する。

これで思い出したのは、動物のサイズが小さいほど時間の進み方が早いという話で仰天させてくれた、本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書、1992年)である。佐藤さとるがこの理論を知っていたわけではないだろうが、「こぼしさま」が早口なのは生物学的にも正しいわけだ。

これによると、哺乳類にとっての時間は身長の3/4乗に比例する(マクマホンの説明)。身長3センチということは、人間の1/50程度。すると「こぼしさま」の寿命は2年程度ということになってしまう。一方、この物語では、主人公の男の子が大人になるまで、同じ「こぼしさま」が見ているということになっている。

従って、コロボックルは一般則よりも長生きだという結論。


『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える

2010-01-31 20:01:36 | 沖縄

『けーし風』第65号(2009.12、新沖縄フォーラム刊行会議)の特集は「新政権下で<抵抗>を考える」と題されている。

ここに収められた原稿が書かれてから現在までの間に、名護市長選で辺野古基地反対を掲げる稲嶺市長が誕生し、かたや、腹立たしいことに、高江住民の「通行妨害」に関して防衛省が本訴訟を行った。新政権だから必ずしも方針転換ということにはならない。

これまでの負の遺産に抗して日米軍事同盟の軌道修正を行うこと(ましてや根本的に見直すこと)自体が難事業であることは明らかなのであって、突然短期間で解決することを至上命題であるかのように前提視し、政権のブレのみを採りあげて云々することはあまりにも浅薄である。安次富浩「なぜ急ぐ鳩山政権?」では、まず危険な普天間を撤去し、県外移設を「鈍行で協議」すればよいと主張している。また、新崎盛暉「戦後の日米関係の本質と普天間問題」では、「鳩山ののらりくらりに、ある種の期待を持っている」と呟いている。この真っ当さにおいて、近視眼メディアとの落差は何ならむ。

「「最後は私が決める」と言いながら、決断を先延ばしにしているかに見える鳩山に対して、早期に決着しなければ、日米同盟が危うくなる、と批判する声が、マスメディアに溢れている。だが、実はわたしは、鳩山ののらりくらりに、ある種の期待を持っているのだ。彼は、集中砲火を浴びながらも、自らの理念を手放すまいとしているのではないかと。戦後の日米関係はあまりにも対米従属的だとの認識をもち、もう少し対等性を回復して、東アジア諸国とのバランスもとろうとしているのではないかと。」

最近の『世界』(岩波書店)と同様、我部政明「普天間基地に対するアメリカ政府の動きをどう見るか」においては、沖縄に戦略上海兵隊が必要なのだとする大前提に疑義を示している。このあたりは、他の指摘も含め、その<大前提>の矛盾を整理したいところだ。

メディアでは、沖縄での<基地経済への依存>を示すようなコメントのみを切り出しているが、これはグアムにおいて<基地拡大による経済効果>を期待するコメントばかり見られることと共通している。これに対し、上原こずえ「軍事化の進むグアムを旅して」によれば、まったくそれは実態と乖離していることがわかる。ここで感じられるのは米国内での南北問題であって、マージナルな地に汚れを塗りたくる点はきっと沖縄と共通している。

「島では現在、開発業者による大規模な不動産関連の会議が活発に開催されている。植民地化・軍事化の歴史が繰り返されてきたグアムでは、基地の拡大イコール「経済開発」というイデオロギーを軍隊が喧伝してきた。しかし、基地はグアムの自立を支えてはいない。むしろ、米軍基地が島の土地や水などの自然環境を支配し、自立の可能性も奪ってきたのだ。」

山口県岩国市の井原・元市長のインタビューは興味深い。特に選挙において如何なる不正が行われているか。事前投票で集票田の企業がバスで投票に行き、他の候補には入れにくくするという方法については聞いたことがあったものの、さらに「会社に言われて相手方に投票し、投票所前で写真をとってお金をもらう」方法があったことが暴露されている。

今回の「読者の集い」は6人参加。終わった後に神保町の「さぼうる」でさらに話していたところ、もっと驚く方法を教えてもらう。何と、「2人1組で投票し、投函する前にお互いに見せ合う」のだそうだ。当然監視員は見ないフリ。日本中どこでも田舎は相互監視社会であるから(本当)、これは決定的である。

他に話題となったことは、次号『けーし風』を読んでいただくとして、例えば次のようなこと。

○ジョゼフ・ナイの論文において、沖縄の軍事問題は日米関係のひとつに過ぎないと書かれていること。
○アライアンスは曖昧な<同盟>ではなく<軍事同盟>と訳すべきではないかということ。当然のように<同盟>と使われ始めたのは小泉政権以降ではないかということ。
○基地跡地の利用に関連して、沖縄の付加価値を経済収入に結び付けられる方法があるのではないかということ。
○ツイッターはネット世論の形成に力を持つはずだということ。

●参照
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』

2010-01-31 09:35:31 | 思想・文学

インターネット新聞JanJanに、キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『美学 ジェンダーの視点から』

 芸術は政治である。そのような事実を、時には指の腹でなぞるように、時にはカーテンを乱暴に開けるように読者に示してくれる本だ。

 芸術界のヒエラルキーという意味でも、芸術の政治利用という意味でもない。芸術自体が、権力を体現したものなのだ。本書でその権力を解く鍵となるのはジェンダーである。

 生物学的な男女の違いではなく、文化的・社会的な性差。しかし、それは結果的に生じたものに過ぎない。性差が芸術において如何なる考えから生まれ、共同幻想として共有されてきたか。幾多の例を引用してそのテーマに迫る記述は静かでスリリングである。

 例えば、ここに裸の女性の絵がある。明らかに、男性たちの本能を隠そうとしない視線に晒されている。この非対称な現象が、きっと、歴史の結果としての性差であろう。では、なぜ私たち鑑賞者は、そのインモラルな姿を、実社会とは関係ないものとして平然と観ていられるのか。そこには、芸術権力ができあがるプロセスが起因しているという。

 芸術を鑑賞するとき、描かれた中身ではなく、ただ美学的側面だけに視線を注ぐこと。問いかけを禁じること。形式を評価すること。そのような、現在でも残る広い美学観こそが、ジェンダーという鏡には歪な姿となって映る。

 著者は次のように指摘する。「世界との関わりから芸術を切り離そうとする美的イデオロギーは、権力関係を刻印し教化するという芸術の力を覆い隠しているのだ。」と。さて、一歩引いてそのパラダイムを眺めた後、オフィスビルのロビーや、公園の片隅に設置されている裸婦像を、どのように観ることができるだろうか。これまで疑問にも感じなかった、あるいは無意識の蓋で抑えていた別の姿が、これまでと同じ世界に登場することが、本書による異化作用の醍醐味だ。

 芸術にはさまざまなジャンルがあり、男性の優位性には濃淡がある。例えば、視覚は対象から「美学的」に距離を置いた高級な、後天的なもの。味覚は生まれながらにして誰もが保有している、「美学的」に高級でない、先天的なもの。女性が参加を許される分野は後者であった。なぜなら、前者に必要とされる、対象を「美学的」に抽象化する能力が、男性にしか備わっていないと考えられていたからである。著者の慧眼であり、このことも、現在の社会に直結していることは言うまでもないことだ。

 もちろん現在の眼からは、もはや雲散霧消したかのような偏見があるかもしれない。しかし、私たちが共有する常識には、「美学」パラダイムの残滓が散りばめられている。それはもう残滓ではなく、鉄骨になっていたりもする。本書には、歪められてきた芸術は、批判に加え、芸術そのものによって捉えなおしてゆくのだ、という意志が込められているようだ。

●JanJan書評(2009年)

沖縄
『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』に見る「アメとムチ」
コント「お笑い米軍基地」芸人の『お笑い沖縄ガイド』を読む
『沖縄戦「集団自決」を生きる』
絵本
『おててたっち』の読み聞かせ
『ながいなが~い』と『いつもいっしょ』読み聞かせ
『みんな、絵本から』(柳田邦男)
環境
『地域環境の再生と円卓会議』(三番瀬)
『サステイナブル・スイス』
社会
『子どもが道草できるまちづくり』を如何に実践するか(クルマ社会)
『地域福祉の国際比較』
『ガザの八百屋は今日もからっぽ 封鎖と戦火の日々』
『農地収奪を阻む』(三里塚)
『嫌戦』(坂口安吾)
『オバマの危険 新政権の隠された本性』
『世界史の中の憲法』
アート
『ライアン・ラーキン やせっぽちのバラード』
『チャイナ・ガールの1世紀』
『幻視絵画の詩学』(ストイキツァ)


オサム・ジェームス・中川『BANTA』、沢渡朔『Kinky』後半

2010-01-30 23:55:26 | 写真

出かけたついでに銀座ニコンサロンに足を運び、オサム・ジェームス・中川の写真展『BANTA -沁みついた記憶-』を観る。『LP』の平敷兼七追悼号に寄せられた氏の文章が印象的だったからだ。『日本カメラ』最新号にもこの作品群が掲載されており、異形の崖という被写体に興味もあった。

ギャラリーに足を踏み入れて1枚目を観た途端、眼が崖の下にギュウッと落ちた。吸い込まれたとか惹きつけられたとかではなく、本当に眼球が落ちた。かなり吃驚した。

おそらくは全て、沖縄南部の崖である。虐殺と自死の記憶が「沁みついた」スポットに違いない場。崖の琉球石灰岩や、その上にこびりつく植物群から、眼が離せなくなる。リアルという言葉を超えたリアルさと言おうか。

どうやらキヤノン5Dに望遠系のレンズで撮られたデジタルデータを何枚も「明るい暗室」でつなぎ合わせ、加工したもののようだ。もちろん解像度が凄まじいのはハードの寄与ではあるが、大判フィルムと比べて遜色ないといった次元の評価は相応しくないだろう。望遠系のレンズでスキャンするように撮られた複数の視野が、同時に存在していることの恐ろしさである。観る者は、あまりにもリアルな崖を、やはりスキャンするように彷徨うことになる。それは落下を意味する。従って、本当に眼球が落ちる。

ギャラリーの一角には、中判のスクエアで撮られたと思しき、平敷兼七のポートレイトも展示してあった。

東京会場は2月2日までだからもうすぐ終わるが、これは観るべきだ。なお、中野のギャラリー冬青でも今年6月に展示があるようだ。

ところで、ギャラリー内で突然初対面の女性に「キヤノンギャラリーでは何をやっているのか知っていますか」と訊かれた。知らなかったのだが、これからBLDギャラリーで沢渡朔『Kinky』をまた観るつもりだと言うと、なぜか一緒に歩いて行くことになってしまった。

『Kinky』の展示は会期中に作品替えがあったので、後半のものも観たかったのだ。沢渡のスピード感・ライヴ感が発散しまくる35mmの写真群は、色気があってやはり素晴らしい。中判で撮られた、モデルに迫る親密さも良い。4千円以上する写真集が欲しかったが、ここはぐっと堪えた。

これも明日1/31までなので自分はもう行けないが、実はまた観たい。

●参照
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
沢渡朔『Kinky』と『昭和』(伊佐山ひろ子)
沢渡朔『シビラの四季』(真行寺君枝)
沢渡朔Cigar』(三國連太郎)


デレク・ベイリーvs.サンプリング音源

2010-01-27 00:46:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Play Backs』(BINGO、1998年)は私にとってデレク・ベイリーの愛聴盤のひとつだ。ヘンリー・カイザーやジム・オルークを含め、多くの音楽家たちが、「デレクと共演するようなリズムを作って送ってくれ」という要請に応えた変テコリンなリズム群。デレク・ベイリーは、ギター1本の即興で、そのレディメイドのサンプリング音源と共演する。印象としては、共演というより対決と表現すべきかもしれない。

しかし、ベイリーは、演奏後のコメントとして、「バッキングというよりアンサンブルとして、それぞれのトラックを扱うよう心がけた」などと言ってのけている。恐るべき人である。音楽家の意図によって再編集され生まれ変わった音源とは言え、「live musicians」とは全く異なる。何が出てくるかわからない散弾銃の嵐のなか、デレク・ベイリーは気を漲らせたヒクソン・グレイシーと化している。

この盤が作られる契機となったのが、『guitar, drums 'n' bass』(AVANT、1996年)だという。ずっと聴こうと思っていたのだが、つい先ごろ、中古レコード店で見つけてしまった。「ドラムンベース」という言葉がまだあるのかどうか、知らないけれど・・・・・・。

ここでは、ベイリーはD.J. NINJと共演している。当然ながら、『Play Backs』のように多彩なリズムではない。分裂と発散を目指すサンプリング音源のオペは、どうあがいても分裂にも発散にもなりえないものだ。しかしここに、分裂と統一という一見矛盾するふたつの要素を併せ持つデレク・ベイリーが登場すると、奇妙な疾走感が生まれている。

生ドラムス、例えば人間の営みを凝縮し、カリカチュア化したようなハン・ベニンクとの共演盤と聴き比べると、あまりの違いにあらためて驚いてしまう。分裂vs.分裂は、対決にならない(勿論、それも魅力的だ)。ヒクソンとプロレスラーとの異種格闘技戦は、ヒクソンの存在感を際立たせた。

心底から、デレク・ベイリーの実際の演奏を観たかったと思う。新宿ピットインに来るというので、大友良英とのデュオ、吉沢元治とのデュオの連日を予約したのだが、本人の体調が悪いとかでキャンセルとなってしまった。あれが最後のチャンスだった。

●参照
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
トニー・ウィリアムス+デレク・ベイリー+ビル・ラズウェル『アルカーナ』
デレク・ベイリー『Standards』


菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』

2010-01-24 22:02:12 | 中国・台湾

菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(2005年、講談社)を1週間近くかけてじっくりと読む。清国の終焉、辛亥革命、中華民国の成立を経て、延々と続く権力闘争と内戦、満州国の成立、そして日中戦争の開始前夜までを描いている。

清代末期において、日本がパワーゲームの視線を向けた先は、中国本土だけではなかった。李氏朝鮮や琉球の支配に至るプロセスからは、韓国併合100年という不連続な歴史の捉え方では不充分なことや、沖縄抑圧という現代の状況が近現代日本の軍国化の流れから脱却できていないことを如実に示すことなどを明らかに読み取ることができる。逆に、そんなことを敢えて言わなければならないほど、罪深き無自覚の根は深いとも言うことができるかもしれない。

著者は、太平天国の洪秀全孫文袁世凱蒋介石、そして毛沢東に至るまで、強権的・独裁的なストロングマンが登場し続け、中国近現代史を牽引したのだと見ている。これを著者の言うように「中国文化はこうした荒ぶる暴力を内在させていた」というのは言い過ぎの感があるが、 中央集権、開発独裁による近代化革命という点で孫文も袁世凱も大差なかったという指摘は興味深い。ある太い幹だけを動かさざるを得なかったということと、中国という「天下」の巨大さとは無関係ではないはずだ。実際に、中国革命の父として奉られ、大アジア主義を唱えた孫文でさえ、「国家」に対する認識は、辛亥革命以前には「漢人中心の国家」程度であったという(加々美光行『中国の民族問題』)。また本書でも、「辛亥革命後に唱えられた「五族共和」のスローガンも少数民族への蔑視にもとづく同化対策という面が強かった」と指摘している。

本書では、魯迅についても大きく取り上げている。私の心の中にいる魯迅は、眼から耳から口から、皮膚から、血を流しながら、なお寒い荒野に倒れずに立っている人である。読んでいるうちに、なぜ魯迅に惹かれるのかわかったような気がした。魯迅は、「暴君治下の臣民は、たいてい暴君よりも暴である」と述べたという。『阿Q正伝』でも他の作品でも描かれた、愚かなるマスの姿である。いまの日本において、マスを作り出す政治家たち、メディアの姿と重なるのではないか。

辛亥革命に続く第二革命、第三革命については、さほど多く触れられてはいない。李烈鈞山中峯太郎(山中のことは言及されていない)が革命にどのように関わろうとしたか、これからちょっと調べてみたくなった。まずは、エンターテインメントではあるけれど、山中峯太郎自身の書いた『亜細亜の曙』や、大島渚がドラマ化した『アジアの曙』をもう一度追ってみることにする。

●中国近現代史
平頂山事件とは何だったのか
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
小林英夫『日中戦争』
盧溝橋
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』
池谷薫『蟻の兵隊』
天児慧『巨龍の胎動』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件
加々美光行『中国の民族問題』
竹内実『中国という世界』
●魯迅
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅グッズ
丸山昇『魯迅』
魯迅『朝花夕拾』、イワン・ポポフ『こねこ』
井上ひさし『シャンハイムーン』 魯迅と内山書店


ジョニー・トー(8) 『PTU』

2010-01-24 01:59:29 | 香港

ジョニー・トー『PTU』(2003年)のレンタル落ちDVDを安く入手した。『ターンレフト、ターンライト』と同年に作られた作品である。ちょっと調べただけでも、ジョニー・トーはこの年に4本、翌年に傑作『ブレイキング・ニュース』など3本を撮るという、プログラムピクチャーばりの多作漢だ。しかも、同じような作品群ではなく、演出にいちいち手が込んでいる。

香港の夜。料理屋でマフィアが殺される。組織犯罪課の刑事(常連ラム・シュー)は、その手下たちに襲われ、気がつくと拳銃を奪われている。マフィア間の復讐に盗まれた銃が使われたら不祥事になってしまう。そして、PTUこと特殊機動部隊のリーダー(これも常連サイモン・ヤム)は、朝まで銃を探そうと言う。部下たちは、刑事の不祥事隠しに加担するのかと反発する。

『エレクション』と同様に、携帯電話の使い方が巧い(中国人も香港人も、携帯が手放せないのだな)。マフィア、マフィアを狙うヒットマン、刑事が睨み合い、力関係に応じて席を譲り合う料理屋では、携帯が鳴るたびに、全員がポケットに手を伸ばす。そして、いま奴は何をしているのか、携帯による探り合い。すでに死者となった者の携帯が鳴り、疑心暗鬼が増幅する。

ヘンなチンピラたちの登場も愉快だ。ラム・シューの刑事に苛められ、路上で腕立て伏せを強いられたチンピラは、刑事の車に黄色いペンキをぶちまける。そして映画の最後まで、汚く黄色い車が疾走する。PTUの過剰防衛によって死にかけたチンピラは、人工呼吸(そのための器具を出すところが良い)で蘇生したかと思うと、おもむろに喘息の吸引薬を吸ってみたりする。

ジョニー・トーはインタビューに答え、組織維持のため、仲間内だけで問題を片付けようとする警察の体質を描いたのだと語っている。他の部署に知られてはならぬという緊張感に加え、物語は深夜から夜明け前までだときている。ところが、挙げるときりがないほどの、そしてニヤリとしてしまうような仕掛けによって、まったく暗さと重さに耐え切れなくなることがない。何しろ、ラム・シューの刑事は同じ場所で2回もバナナの皮に足を滑らせて路上に後頭部を打ち付けるのだ。

のちに撮られる『エグザイル/絆』、『エレクション』、『ブレイキング・ニュース』などには届かないような気がするが、これも傑作である。

ところで余談だが、監督紹介の映像では、ジョニー・トーはツァイスイコン・ホロゴンウルトラワイドを握り締めている。『エグザイル/絆』でのコンタレックス・ブルズアイ、『文雀』でのバルナックライカローライ二眼レフ、『イエスタデイ、ワンスモア』での何かの二眼レフ、『フルタイム・キラー』でのペンタックスZ-1Pと、ジョニー・トーの作品では何のカメラが出るかという点も楽しみなのだ(これは本編ではないが)。

●ジョニー・トー作品
『エグザイル/絆』
『文雀』、『エレクション』
『ブレイキング・ニュース』
『フルタイム・キラー』
『僕は君のために蝶になる』、『スー・チー in ミスター・パーフェクト』
『ターンレフト・ターンライト』
『ザ・ミッション 非情の掟』


沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会

2010-01-22 00:13:52 | 沖縄

「ヘリパッドいらない」住民の会/沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの主催による「沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会」に参加してきた(2010/1/21、全水道会館)。それほど狭くもない部屋に参加者がぎっしり。100人弱は集まっていたのではないだろうか。このような集会の参加者の年齢層は概して高いが、今回は若い人たちもかなり多かった。一坪反戦地主会のYさんには、「何気なくやって来たみたいだ」と笑われてしまった。

今回の主旨は、沖縄やんばるの森、高江の米軍ヘリパット建設強行に反対して座り込みを続けている人々に対して、沖縄防衛局が那覇地裁に対して「通行妨害禁止の仮処分命令の申し立て」を行ったことに起因する。要は、権力による暴力に抗して住民として・市民として反対する人々(無造作に15人が指定された)に、邪魔だからどけと命令してくれ、と、司法を利用しようとしたわけである。もちろんこれは、三権分立の精神からは対極のところにある。

地裁の判決(2009年12月)は、ほとんど却下、但し2人については仮処分の命令を下すものであった。「仮処分」であるから、2月1日までに沖縄防衛局が提訴しない場合には、「仮処分」は取り消される。


高江で四方山話をしてくれた人も、「生活の柄」を歌ってくれた人も、カフェでピザを作ってくれた人も。

高江住民の5人が、それぞれ短く主張した。住民の当然の権利として反対しているにも関わらず工事を強行されたことに関して、あまりにも理不尽だという怒りである。一方、政権交代後、明らかに対応が変わってきたという。集会の前にも、防衛副大臣に会い、法務大臣に書類を渡している。防衛副大臣は、高江のこの方々が「非常に暴力的」だと周囲から吹き込まれていたらしい。実際には、非暴力を原則としている。


瑞慶覧チョービン・衆議院議員(民主党)、保坂展人・元衆議院議員(社民党)

会場には、瑞慶覧チョービン・衆議院議員(民主党)、保坂展人・元衆議院議員(社民党)、山内末子・沖縄県議会議員(民主党)が姿を見せた。

瑞慶覧・衆院議員は、旧政権から受け継いだ負の遺産を解消し、政権交代が起きて本当によかったなと思える社会をつくりたいと述べた。

保坂・元衆院議員は、普天間の移設先がどこかではなく、「何が移るのか」を問うていきたいのだと述べた。つまり、オスプレイの配置を隠してきたことなどを開示してもらうことを求めていくとした。重要な視点としては、辺野古も高江のある北部訓練場もすべてパッケージだから、EIAも全てを対象とすべきだという考え方があった。

また赤嶺政賢・衆議院議員(共産党)は、翌日の予算委員会準備のため出席できないとしながらも、権力の住民に対する暴挙を許せないというメッセージを寄せた。

その後、沖縄平和運動センター、沖縄県統一連、平和市民連絡会、日本平和委員会などによるスピーチがあった。

沖縄平和運動センターの山城事務局長は、住民2人に対する仮処分判決として「自らまたはその意を通じた第三者をして妨害してはならない」という文言に反応した。「意を通じた」とは何か。たとえばこの国家暴力に疑問を感じて私やあなたが高江のゲートに足を運んだとしたら、私やあなたはその「第三者」となるのか、ということである。なるほど、巧妙で高圧的な、双方向ではなく一方向的な支配装置はあちこちに姿を見せている。

●高江
ヘリパッドいらない東京集会
高江・辺野古訪問記(1) 高江
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』
沖縄県東村・高江の猫小
東村高江のことを考えていよう 


浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像

2010-01-21 01:29:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

浅川マキ唯一の公式映像作品が『幻の男たち LIVE 1984』(東芝EMI)であった。1984年6月30日、池袋の文芸座と、同年9月29・30日、京大西部講堂。40代前半の頃である。

文芸座ル・ピリエには解体前にいちど足を運んだことがあるが、西部講堂の中には入ったことがない。高校生のころ、屋根に描かれたオリオンの三ツ星にわけもなく憧れた。残念ながら試験に落ちてしまい、京都生活は夢に終わった。

映像はライヴ中心ながら、白黒写真を挟んだりと、随分俗っぽいつくりだ(もちろん悪くない)。浅川マキはまだサングラスをかけておらず、もの凄いつけ睫毛、そして猫背で歌う。「暗い眼をした女優」において、ドライアイスの煙の中からマキが現れる瞬間には「ぞくり」とする。やはり魔力があるのだ。

あらためて気付くのは、浅川マキは曲のテンポやリズムにあまり頓着していなかったということだ。そこがまた独自世界の一因でもあるが、優れた伴奏者たちに恵まれていたと言うこともできる。

近藤等則は相変わらずふざけまくるが、あまり面白くない。「IMA」バンド、世界中の聖地で吹くという行為を含め、思いつきのようにしか感じられない。しかし、浅川マキ初期の傑作『灯ともし頃』では、ストレートで良いトランペットを吹いていたのだが。

板橋文夫の名曲「グッドバイ」では、本多俊之がアルトサックスのソロを吹く。これがまた、味も何もなくて実につまらない。やはり見所は渋谷毅、川端民生、セシル・モンローのソロだと思うのだが、さほど出番は多くない。

ファンとしては大事な映像だが、もっと良い記録があるはずだ。誰か残していないのだろうか。

●参照
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ
浅川マキが亡くなった
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』


『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ

2010-01-20 01:49:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

円谷プロが『怪奇大作戦』の後に製作したドラマ、『恐怖劇場アンバランス』。実際に観ることができたのは数年前、「チャンネルNECO」で放送したときだ。もうDVD化されているが、そのときの録画は大事に持っている。

第7話「夜が明けたら」(黒木和雄!)は、タイトルを浅川マキの名曲から取っただけでなく、ライヴハウスで実際に浅川マキが歌う場面がある。吉田拓郎が聴きにきていたという曲である。1973年だから30歳ころ、当たり前だが若い。可愛いという印象さえ受けてしまう。

このあと変貌を続ける音楽家・浅川マキだが、フォーク+アングラといった雰囲気のこの頃も悪くない。私がはじめて浅川マキを観たのは1995年ころだから50代前半だったわけだ。年齢不詳で、亡くなってからはじめて判った。

数少ない浅川マキの貴重な映像である。

●参照
浅川マキが亡くなった
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』


浅川マキが亡くなった

2010-01-19 00:38:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

2002年5月23日、新宿ピットイン。山内テツとのセッションは最高だった。

ひとつの時代の終わりのような気がしてならない。


浅川マキ+山内テツ Canon IVSb改、Canon 50mmF1.8、スペリア1600


浅川マキ(トリミング) Canon IVSb改、Canon 50mmF1.8、スペリア1600

●参照
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』


『世界』の「普天間移設問題の真実」特集

2010-01-17 22:00:00 | 沖縄

『世界』2010年2月号(岩波書店)は、「普天間移設問題の真実」特集を組んでいる。

まず印象的なのは、移設先の見直しを検討しているだけで、米国の機嫌を損ねてしまう、日米同盟にヒビが入ると 多くのメディア(沖縄の2紙や『東京新聞』などごく一部を除く)が喧しいことに関して、何人もの論客が熾烈な批判をしていることだ。もっとも、その批判は当然すぎるくらい当然なのであって、米国の恫喝外交をそのまま流すばかりか、なぜか身体を反転し、米国のスポークスマンになったかのような新聞やテレビの姿には眼を覆いたくなる。

寺島実郎は、「日本の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰」と表現している。

西谷修(琉球大学)は、「まるで日本のメディアはアメリカ・タカ派の代弁者か、その幇間のようである」と皮肉って、「政府や官僚が(それに染まってメディアも)「自発的隷従」を決め込んで、米国の一部の顔色をうかがって「日米同盟」維持に汲々としたり、あるいは「米国の意向」なるものを盾に自分たちの都合でしかないものを国民に押し付ける、といったやり方」だと断罪している。

外岡秀俊(朝日新聞)は、浅い報道に対し、「今ここに至って袋小路に入ったのではなく、この13年間の迷走の積み重ねが現在につながっている、という認識」に立つべきだとしている。

皆イラついているのだ。旧政権与党の懲りない面々が、辺野古にすべきだなどと嘯いたところで、どの口でそれを言う、と批判するメディアは極めて少ない。

私たちに刷り込まれた固定観念、

①米国は日米軍事同盟のために最善の策として辺野古移設を主張している、
②米国の軍事戦略上、沖縄という地政学的な要所に基地を置かなければならない、

についても、実に疑わしいものだ、とする主張は議論の中心に置く必要がある。

伊波洋一・宜野湾市長が、沖縄の米軍海兵隊はみなグアムに移転する計画なのだと調べ上げている(普天間が辺野古に移るという図式はそこにはない)。既に昨年から大きな議論になっているにも関わらず(>> 参照『「癒しの島」から「冷やしの島」へ』)、すぐに忘れ去ったようなフリがなされる。旧政権与党が(ひょっとしたら今の政権の一部も)、米軍に居続けてほしいがために神話をつくりあげたのだということを、いかに常識化していくか。 

●『世界』における沖縄
『沖縄戦と「集団自決」』(2007年臨時増刊)
「誰が教科書記述を修正させたか」(2007/11)
『「沖縄戦」とは何だったのか-「集団自決」問題を中心に』(2007/7)


シヴァン・ペルウェルの映像とクルディッシュ・ダンス

2010-01-17 00:10:08 | 中東・アフリカ

クルド人の歌手シヴァン・ペルウェルの映像『EVINA AZADIYE』(SesFilm、2003年)を、以前にトルコのセラーから入手した。16曲の野外でのライヴ風景と、ペルウェルの語りが収録されている。VCDのため、画質・音質はそれなりだ。

クルド人として歌っているから、サダム・フセイン政権下のイラクでは、ペルウェルのカセットテープを持っているだけで死刑に処せられたという存在である。現在は欧州で活動している。私は何年か前に、ブリュッセルでライヴを観た。

歌も語りもクルド語であり、まったく解らない。しかし、ビブラートとこぶしを効かせた歌声はとても魅力的で、言葉の問題はこちらにとって致命的ではない(もちろん意味はいつか知りたいけれど)。弦楽器、鼓のような小さな太鼓、直径が1m弱はあり片手で持つ薄い太鼓。旋律やリズムは独特だ。ペルウェルが用いるオリエンタルコードは「maqams」と言って、D majorからはじまり、あがるときは、例えば 3/4 - 3/4 - 1 - 1 - 1/2 - 1 - 1 という並びとなる。この場合、DとFとの間がドリアンスケールなら全音-半音となるのに対し、maqamsでは3/4 - 3/4と同間隔ということになる。かなり親しみやすく、癖になる。

なお、山下洋輔の有名曲に「クルディッシュ・ダンス」があり、独自のリズムを採用しているが、実際にクルド音楽にそれがあるわけではない。何年も前のNHKのドキュメンタリー『山下洋輔のクルド音楽紀行』では、トルコ東部を山下洋輔や与那原恵が訪れ、地元の音楽家たちと交流しながらそれを確かめようとしていた。

英語解説があるCD、『Min beriya te kiriye』(Kurdistan、2003年)でも、この映像で歌っている曲が収録されている。

「heybenin」は南部クルド方言で、結婚式の歌。新婦は他の誰かを愛している、といった内容。

「Naze」は愛の歌。男性のナゼと女性の私とは散歩に出るが、いつものように口論になり、彼に移り気をやめるよう言うのだという内容。

「Cane, cane」は愉しみの歌。老いも若きも一緒に村の広場で踊ろうよ、という内容。カネ、カネではなく、ジャネ、ジャネと発音している。

ここで嬉しいのは、聴衆たちの踊りを沢山観ることができたことだ。手をつないで(小指同士を絡ませたりして)、横並びの列になり、「ドリフのヒゲダンス」のように前に進んだり後ろに下がったり。ハンカチかリボンのような布を、上に向けてくるくると回したりもしている。

ブリュッセルでペルウェルを観たとき、皆が後ろで楽しそうに踊っていたのが、これだった。


ペルウェルの歌で踊るひとびと(2004年、ブリュッセル) Leica M3、Summitar 50mmF2、スペリア1600


シヴァン・ペルウェル(2004年、ブリュッセル) Leica M3、Summitar 50mmF2、スペリア1600

●参照
クルドの歌手シヴァン・ペルウェル、ブリュッセル


陳凱歌『花の生涯 梅蘭芳』

2010-01-16 01:07:19 | 中国・台湾

早稲田松竹で、陳凱歌(チェン・カイコー)『花の生涯 梅蘭芳』(2008年)を観る。心待ちにしていたのに去年見逃していた作品なのだ。

京劇の天才女形、梅蘭芳(メイ・ランファン)は、改革を欲し、邪気のなさゆえ師と対決する。3日間の興行の結果、師は敗れ、そのまま死を迎える。梅には、その演技に魅せられた男が常に義兄弟として寄り添い、多くの犠牲を払ってまでも芸術性を高めることだけを追い続けた。日本の中国侵略。日本軍のプロパガンダに利用されそうになった梅は、演技をやめてしまう。そして終戦。

陳凱歌の演出はダイナミックかつ繊細(ステレオタイプな言い方だが、本当にそうなのだから仕方がない)。特に、梅のリスキーな米国公演がはじまるなか、裏切り者として罵倒された義兄弟が、雪の降る劇場の外で死と生の間、そして過去との間を行き来し、スタンディングオベーションの中へ入っていく場面などは、あまりの素晴らしさに身動きできなくなってしまった。

チャン・ツィイーの大根ぶりは愛嬌として、レオン・ライの眼の周りに漂う雰囲気は悪くない。義兄弟を演じたスン・ホンレイ、梅の師を演じたワン・シュエチーが素晴らしく芸達者だ。

陳凱歌には、やっぱりワイヤーアクションよりもこのような映画を撮ってほしい。


中国の映画館にあった『梅蘭芳』の看板(2009年1月)

●参照
陳凱歌『人生は琴の弦のように』、『さらば、わが愛/覇王別姫』、『PROMISE/無極』


江戸川漂流と慈悲地蔵尊

2010-01-15 00:39:04 | 関東

浦安の当代島に大川端公園があって、勝手に<象公園>と呼んでいる。象の鼻の形をした滑り台があるからだ。本当の名前の通り、旧江戸川沿いである。その公園の横には小さな祠があり、中に<慈悲地蔵尊>が祀られている。


慈悲地蔵尊 Pentax MZ-S、FA50mmF1.4、Astia、DP

曰く、

此の地蔵尊の建立してある地域は浦安町当代島字大川端と称し、堤外地であり此の地域内に居住している宅地は往古河川なりしが江戸川の屡々の洪水により土砂が堆積して陸地となり、此の地が陸地となる迄での長い過程には江戸川に漂流してきた人畜の佛體が数多く漂着し此の地に埋没されしと傅えられる。尚此の地区内にても災難事故にあわれた方も多数あり、依って此處に此の有縁無縁の霊魂が成佛する事を祈念し、併て地域の住民が不慮の災難にあう事なく、家内安全幸福な生活が永久に営まれる事を祈念して建立せり

『男はつらいよ・望郷篇』では、寅がボートで居眠りを決め込んでいる間に漂流し、柴又から浦安まで流れ着いてしまう。そこで、浦安の豆腐屋に住み込みで働き、妹のさくらに調子よく油揚げを送ったりもする(当然、到着したときには腐っている)。勿論、豆腐屋の娘に惚れてしまっている。

漂着するのが寅ならいいわけではないが・・・・・・。

地蔵は元来、ムラの入口や分かれ道の辻などに祀られていた。結界の守護神であった。何基もの排水機場で常に水を吸い出さなければならないこの地にあっては、川が道だということか。


旧江戸川 Pentax MZ-S、FA50mmF1.4、Astia、DP

●参照
浦安・行徳から東京へのアクセス史 『水に囲まれたまち』