Sightsong

自縄自縛日記

ジム・ホール『The Complete "Jazz Guitar"』

2015-10-31 10:21:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジム・ホール『The Complete "Jazz Guitar"』(Pacific Jazz / Essential Jazz Classics、1956-60年)を聴く。

Jim Hall (g)
Carl Perkins (p)
Red Mitchell (b)
Bonus Tracks:
John Lewis (p)
George Duvivier (b)
Percy Heath (b)
Connie Kay (ds)

名盤として名高い『Jazz Guitar』(Pacific Jazz、1957年)は、ホール20代のときの作品。昔図書館で借りてイイカゲンにしか聴いていなかったこともあり、ボーナストラックが5曲も入った廉価盤をあらためて聴いた。

いくら音量を大きくしても大きくならないホールの音色は、やはりとんでもなく気持ちがいい。上品というのか、カシミヤのようだというのか、とても柔らかで、和音を通じて周囲と溶け合うような感覚である。かつてはそれが物足りなくて、いまひとつ熱心に聴かなかったギタリストなのではあるけれど。この後、ホールのギターは成熟を重ね、まるで、丁寧に漉いた和紙を何葉も何葉も重ねていくような素晴らしいものになっていく。

ボーナストラックがまたなかなか良くて、特に、変態男爵(と勝手に呼んでいる)ジョン・ルイスによる、沈思黙考の沼に沈んでいくようなピアノについ聴き入ってしまう(とくに「I Should Care」)。

ウィリアム・クラクストンによるジャケット写真も秀逸。

●参照
チャーリー・ヘイデン+ジム・ホール
ミシェル・ペトルチアーニの映像『Power of Three』
マイケル・ラドフォード『情熱のピアニズム』 ミシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリー


吉田野乃子『Lotus』

2015-10-31 00:35:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

ようやく聴けた、吉田野乃子『Lotus』(Nonoya Records、2015年)。この1週間というもの、巷でえらく評判が高い。

Nonoko Yoshida 吉田野乃子 (as)

アルトサックスの多重録音である。ヘンな音やヘンなテクらしきもの満載で、噴出する活力が暴発寸前である、というか、暴発をコントロールしている。どこを切ってもドキドキするのだが、たぶんそれは、常に<知覚の扉>が開かれているからだ。

知覚は現在であり、絶えず新しい語りを創出する。ブルースもジャズも<すでに語られたもの>でもあり、それはここにはない。過去があるとすれば、(彼女のお父さんが書いた解説のことばを借りれば)数曲の「哀愁歌謡」の中であり、過去であるからこそ抒情であり哀愁なのであり、そして、これが<知覚の扉>をうまくカモフラージュしているようだ。朗々とアルトを吹くときの血が通った音が、なぜか故・篠田昌巳を想起させる瞬間もあるが、篠田昌巳も、抒情と哀愁に流されず抒情と哀愁を提示した人だった、のかな。

確かに素晴らしい作品。11月にNYのThe Stoneで展開される吉田さんのレジデンシーに行ける人が羨ましい。

https://twitter.com/nonokoyoshida/status/652290188027162624

●参照
ペットボトル人間の2枚


柊サナカ『谷中レトロカメラ店の謎日和』

2015-10-29 23:31:42 | 写真

日本カメラ博物館のウェブサイトに紹介してあった、柊サナカ『谷中レトロカメラ店の謎日和』(宝島社文庫、2015年)を読む。

変人の男と謎めいた女とが繰り広げるカメラ・ミステリー。軽いのですぐに読めてしまうのだが、ツボを突かれていちいち愉快。

登場するカメラは、コダック・シグネット35、フォクトレンダー・ベッサII、ワンテンのハリネズミカメラ、リコー・オートハーフ、ニコンF、ステレオグラフィック、ローライドスコープ、ライカIIIf。古い銀塩カメラは人間的で、ひとつひとつが違って、やはり愛すべきモノなんだな。

しかも、舞台が日暮里~谷中墓地~夕やけだんだん~谷中銀座~へび道あたり。学生時代に住んでいた近くで、先日も「ザクロ」というペルシャ料理の店に行く道々で、ここは変わった、ここは前と同じだなどと呟きながら歩いていると、懐かしさでどうしようもない気持ちになってしまった。

カメラや写真のメカニズム的なものをネタにした小説といえば、高齋正『透け透けカメラ』『UFOカメラ』、真保裕一『ストロボ』。それから、ハヤカワ文庫の翻訳ミステリで写真家が出てきて、一見何も写っていないネガの秘密を解く話・・・作家名すら覚えていない。(思い出した。ディック・フランシス『反射』だった。)

●参照
コダック・シグネット35は色褪せたポスターカラー
フォクトレンダー・ヴィトマティックII


ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』

2015-10-29 06:52:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(clean feed、2012年)を聴く。

Nate Wooley (tp)
Josh Sinton (bcl, bs)
Matt Moran (vib)
Eivind Opsvik (b)
Dan Peck (tuba)
Harris Eisenstadt (ds)

帰着点があるような無いようなファンタジックなサウンド。ウーリーの音楽でイメージする世界は、やはり小劇場のような空間で現出される物語だ。

声高に苛烈なプレイで主張するタイプでない面々が集まっている。しかし、ジョシュ・シントンの静かなる変態性、ハリス・アイゼンスタットのきめ細やかなドラムス、アイヴィン・オプスヴィークの暖かいベースなど、皆が見事に個性的だ。聴く者を、つねに何かを言い足りないような、聴き足りないような保留状態にとどめ置くウーリーのトランペットも、もちろん気持ちがいい。

●参照
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)(ウーリー参加)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)(モラン参加)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)(シントン、モラン、アイゼンスタット、オプスヴィーク参加)
ヴィンセント・チャンシー+ジョシュ・シントン+イングリッド・ラブロック@Arts for Art(2015年)
Ideal Bread『Beating the Teens / Songs of Steve Lacy』(2014年)(シントン参加)
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)(オプスヴィーク参加)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas IV』(2011年)
トニー・マラビー『Paloma Recio』(2008年)(オプスヴィーク参加)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas III』(2007年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、12年)(オプスヴィーク参加)


上原善広『被差別のグルメ』

2015-10-28 22:45:46 | 食べ物飲み物

上原善広『被差別のグルメ』(新潮新書、2015年)を読む。

少数民族や、離島や、被差別などの出自であるために、かつて(あるいは今も)、いわれなき差別の対象になった人びと。その社会的、地理的な障壁が、独特の食生活を発展させてきた。本書は、知られざるそれらの食を体験し、味わい、背景と結びつけようとする。かつては広く取り上げるには困難なテーマであったものを、回避する視線を正すことによって、貴重な食文化として記録しようというものである。視線が逸れていくからこそ、たとえば、「ホルモン」は「放るもん」からきたという、それ自体が差別的でもある言説を生み出すことになる。

大阪の焼肉や、新大久保のアイヌ料理店「ハルコロ」など、知っている食もある。久高島のイラブー料理(いちど訪れたとき、その前日に何年かぶりにイラブー漁を復活させたと聞いた)や、粟国島のソテツ料理や、大阪のアブラカス(カリカリに揚げた大腸)など、知ってはいても体験したことがない食もある。聞いたこともない食もある。サハリンに樺太アイヌ以外の少数民族がいたとは知らなかったし、そのニブフやウィルタが伝える食文化にも驚く。なんと、鮭の皮からゼラチンを取り、果実とともにゼリー状のデザートを作っていたというのである。

何しろ滅法面白く、すぐにでも食べてみたくなる。食を見ることは人を見ることか。

●参照
新大久保のアイヌ料理店「ハルコロ」
行友太郎・東琢磨『フードジョッキー』
枝川コリアンタウンのトマトハウス
枝川コリアンタウンの大喜
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
鶴橋でホルモン(与太話)


ペットボトル人間の2枚

2015-10-27 07:06:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

吉田野乃子さんのサックス・ソロ・アルバムが巷で大評判である。わたしはちょうど海外出張していたので入手が出遅れており、ブツが届くまで、吉田さんがメンバーのバンド「ペットボトル人間」の2枚を聴きながら震えて待つ。

『Pet Bottle Ningen』(Tzadik、2010年)、『Non-Recyclable』(Tzadik、2012年)ともに、ギター、アルトサックス、ドラムスのトリオ。初作を耳にしたときにはスピード感がとても印象に残ったのだが、2作目(持っていなかった)と併せて聴くと、潔く出てきたものを一瞬で棄て去るようなアルトの潔いキレも、三者の混然一体感も、同じリフの執拗な繰り返しも、やたらと快感。

「ペットボトル人間」にはもうひとりエレクトロニクス担当が加わっているようであり、さらに、この11月にNYのStoneで繰り広げられる吉田さんのレジデンシーの一夜では、テナーとベースを加えて「ペットボトル "メガ"人間」をお披露目するらしい。ちょっとStoneには行けないので、ぜひそれも音盤化してほしいところ。

Dave Scanlon (g)
Nonoko Yoshida (as)
Dave Miller (ds, cymbals)

https://twitter.com/nonokoyoshida/status/652290188027162624


スーツケースの魔除け


玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』

2015-10-25 23:03:29 | ヨーロッパ

玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』(ちくま新書、2015年)を読む。

本書に描かれている歴史は、ヨーロッパが、数百年をかけて如何に世界を征服していったかという移り変わりである。

中世までのヨーロッパは、アジアに比べて軍事的にも経済的にも弱い地域であった。モンゴルにもイスラームにも、陸から勝つことはできなかった。世界を変えた手法は、海路というインフラ整備である。そして、それを利用したアフリカ大陸とアメリカ大陸からの収奪構造を構築し、ようやく、経済がダイナミックに成長をはじめた。

過度に奪うところを作らなければ回らない、血塗られたシステムのはじまりである。すなわち、開拓という名のもとに「ただ取り」する対象は、アフリカの奴隷という人的資源であり、南米の銀であり、ブラジルの金であり、ブラジルやカリブ海地域の砂糖であった。南米の銀は、石見の銀と同程度に中国の需要を満たし、それでこそアジアからものを買うことができた。一方、16世紀以降、明国では、銀本位の市場が成立していた(杉山正明『クビライの挑戦』)。

その概念がファジーではありながら、15世紀以降、はじめに主導権を握ったスペイン、ポルトガル、オランダといった海洋国家から、如何にイギリスが世界支配の帝国と化していくかについての分析は面白い。前者は国家がというより商人たちの欲による開拓に国家が付いてくる形、後者は国家主導の形。さらに、通信、保険、言語という新たなインフラによって、他者がそれに乗っかってくるしかない構造を作り上げた。ルールを作る奴が強いという、いまでも通用する法則である。

「ただ取り」構造を作り上げなければ、このような資本主義システムは回り続けることができない。それは例えば、アメリカが南米に、中国が内陸にその「資源」を求めたこと(デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』)、国家の内部でも格差を絶えず作りあげてきたこと(トマ・ピケティ『21世紀の資本』)。「ただ取り」資源は永遠に出てくるわけではないから、このシステムは今後も同じ構造ではありえないというのが、著者の見立てである。

この先を予想することは難しい。読後、では「ただ取り」資源が枯渇するなら、別の形で作り出せばよいのだと想像した。これまでは、戦争を企図せぬものとしながら、あえて緊張状態を作り出して、あるいは起きてしまった戦争への対応として、それに伴う活動(軍事産業)が成立していたのだとすれば、さらなるシステムの発展形は、先のことを視野に入れての破壊そのものである。そうすれば、さらにこの血塗られたシステムが回り続ける。

●参照
トマ・ピケティ『21世紀の資本』
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集
ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』
白石隆『海の帝国』、佐藤百合『経済大国インドネシア』
杉山正明『クビライの挑戦』
上里隆史『海の王国・琉球』


カウエル+ハーパー+ワークマン+ハート『Such Great Friends』

2015-10-25 08:50:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ビリー・ハーパーのファンだが、スタンリー・カウエル、レジー・ワークマン、ビリー・ハートと組んだ『Such Great Friends』(Strata-East、1983年)を持っていなかった。そんなわけで最近の発掘品。

Stanley Cowell (p)
Billy Harper (ts)
Reggie Workman (b)
Billy Hart (ds)

仲良く各人の曲を1曲ずつ、計4曲。カウエルのオリジナル「Sweet Song」では、宝石のようなカウエルの長いイントロのあとに入ってくるハーパーのテナーに、やはりぞくりとする色気を感じる。ハーパー得意の「Destiny Is Yours」では、ハーパー臭ムンムン。ビリー・ハートの「Layla Joy」では一転して明るい曲調。最後のレジー・ワークマン「East Harlem Nostalgia」も変に明るく、弦を緩く張っているのか、低音を長く震わせて全体をドライヴする感覚のワークマン節。これは聴いてよかった。

なお、紛らわしいことに、このメンバーにソニー・フォーチュンが加わって『Great Friends』(1986年)という盤も吹きこまれている。実は改めて聴いてみないことには、そちらの印象が稀薄なのだが、ハーパー・ファンとしてはワンホーンのほうが良いかな。

本盤は良かったのだが、仲良しこよしセッションというものがどうも苦手である。チコ・フリーマンらの「The Leaders」なんて緊張感を決定的に欠くグループだった。ハーパーが参加している「The Cookers」には、いまだ手を伸ばさないまま。

●参照
ランディ・ウェストン African Rhythms Sextet @Jazz Standard(2015年)(ハーパー参加)
ランディ・ウェストン+ビリー・ハーパー『The Roots of the Blues』(2013年)
ビリー・ハーパーの新作『Blueprints of Jazz』、チャールズ・トリヴァーのビッグバンド(2009年)(ハーパー、カウエル参加)
ビリー・ハーパーの映像(2007年)
ランディ・ウェストンの『SAGA』(1995年)(ハーパー参加)
マリオン・ブラウンが亡くなった(カウエル、ワークマン参加)
トリオ3@Village Vanguard(2015年)(ワークマン参加)
トリオ3+ジェイソン・モラン『Refraction - Breakin' Glass』(2012年)(ワークマン参加)
ソニー・フォーチュン『In the Spirit of John Coltrane』(1999年)(ワークマン参加)
レジー・ワークマン『Summit Conference』、『Cerebral Caverns』(1993、1995年)
マル・ウォルドロンの映像『Live at the Village Vanguard』(1986年)(ワークマン参加)
アリス・コルトレーン『Huntington Ashram Monastery』、『World Galaxy』(1969、1972年)(ワークマン参加)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(ワークマン参加)


ジョルジュ・アルヴァニタス+デイヴィッド・マレイ『Tea for Two』

2015-10-24 23:33:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョルジュ・アルヴァニタス+デイヴィッド・マレイ『Tea for Two』(Fresh Sound Records、1990年)を聴く。

George Arvanitas (p)
David Murray (ts)

ちょうどこれが出たあと間もなくだったと思うが、秋葉原の石丸電気(昔、よく輸入盤を物色していた)で見かけ、ああ聴きたいなあと思いそのままになっていた。最近レコ屋で、500円で見つけてしまい、一も二もなく確保。さほど珍しいものでもないのだろうけど、音楽も本も出会いである。

アルヴァニタスはフランスの粋なピアニスト。かれの伴奏で、マレイがスタンダードをじっくり吹くという趣向のライヴ録音である。曲は「Chelsea Bridge」、「Polka Dots and Moonbeams」、「Star Eyes」、「Body and Soul」、「Tea for Two」、「La Vie En Rose」といったど定番ばかり。ちょっと「バラ色の人生」が珍しいのかな。

マレイのテナーは、臭い音色で過剰なほど堂々とヴィブラートを聴かせ、ブルージーに攻め、たまに高音に駆け上っては戻ってくる。要するにいつもと同じである。マレイがローランド・ハナと組んで、やはりスタンダードを中心に吹いたアルバム『Seasons』があって、結構好きでよく聴いたのだが、まあこれも同じである。それでもいいのだ、マレイだから(笑)。

●参照
デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド featuring メイシー・グレイ@ブルーノート東京(2013年)
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』(2012、2009年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(2009年)
デイヴィッド・マレイの映像『Saxophone Man』(2008、2010年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年) 
デイヴィッド・マレイの映像『Live in Berlin』(2007年)
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』(2001年)
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集(1996年)
デイヴィッド・マレイの映像『Live at the Village Vanguard』(1996年)
デイヴィッド・マレイ『Special Quartet』(1990年)


鶴見俊輔『アメノウズメ伝』

2015-10-24 10:10:26 | 思想・文学

バンコクからハノイに飛ぶ機内で、鶴見俊輔『アメノウズメ伝 神話からのびてくる道』(平凡社ライブラリー、原著1991年)を読了。

アメノウズメは、アマテラスが引きこもった天岩戸の前で、なんとか呼び出そうと、エロチックでコミカルに踊る。そしてまた、ニニギノミコトが天孫として日本に降りるときに立ちはだかっていた怪神サルタヒコに、まるで恐れず、お前は何者だと問う(やがて結婚する)。

安本美典『日本神話120の謎』によると、記紀神話に沿って、アメノウズメの満たしているべき条件は以下の6点。

●手に笹の葉または矛を持つ。
●裳(スカート)をつけている。
●ヒカゲのカズラでタスキをしている。
●マサキのカズラまたはサカキを髪飾りとしている。
●乳房をかき出している。
●紐が陰部に垂れそうになっている。

まあ開けっ広げであり、まったく陰湿さのない開放された性と笑いだ。そして、サルタヒコという異なる外見とルーツを持つ者に対しても、接し方は普段と何ら異なるところはない。鶴見俊輔は、このようなアメノウズメのキャラクターに、近代の日本が失っている力を見出している。そして、その系譜に連なる者として、瀬戸内寂聴、田辺聖子、北村サヨ(戦時中に神がかりになり、天皇の苛烈な批判をはじめた女性)を挙げる。

面白く納得できる見立てである。その一方で、このようなトリックスターが居てこその政治的な日本神話の強化だろうという気もするのだがどうか。


及部恭子+クリス・スピード@Body & Soul

2015-10-24 09:21:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

南青山のBody & Soulで、及部恭子さんのNYからの帰国ライヴを観る(2015/10/23)。何しろクリス・スピードが共演。

Kyoko Oyobe 及部恭子 (p)
Chris Speed (ts, cl)
Michael O'Brien (b)
Gene Jackson (ds)
Special guests:
Makoto Ozone 小曽根真 (p)
Branford Marsalis (ts)

及部さんのプレイに接するのははじめてだが、1曲目の「How About You」から素晴らしいピアニストであることが伝わってきた。まるで踊るように、愉快そうにピアノとメンバーに対峙し、タッチは柔らかい。まるで俊敏な猫のようだ。弾くか弾かないかのところで出し入れするときの優雅さと愉しそうな表情といったら。

ジャズスタンダード「Donna Lee」は、チャールス・ミンガスにふたりの妻がいたという話から、チャーリー・パーカーまたはマイルス・デイヴィスが作曲したという。その話から妄想を膨らませ、話しながらユーモラスに展開する「Donna and Lee」。クリス・スピードのクラリネットが渋い。また、ワインのことを想像しながら作ったという「I Remember Bourgogne」は、「I Remember Clifford」を引用する。さらに、及部さんのご実家のうどん屋をモチーフにした「Udon」。終始遊び心が溢れるライヴだった。

クリス・スピードのテナーサックスは、音量も押し出しも強くはない。むしろ、ドライで、隙間のある中空の物体のようで、聴けば聴くほど面白くなった。

ところで、途中で小曽根真さんが聴きに入ってきたのが見えたのだが、最後の曲でスペシャル・ゲストとして飛び入り参加。しかもなんと、ブランフォード・マルサリスとともに(!)。セロニアス・モンクの「I Mean You」の途中で、小曽根さんが交替し、さすがの貫禄、超高速のカッチョいい和音の塊を炸裂させた。ブランフォード・マルサリスも、テナーらしいテナーの、目が覚めるようなソロ。隣に立ったクリス・スピードが、アイドルであるかのようにブランフォードを見つめていた。

帰り際に、先日、Mezzrowでの穐吉敏子さんのライヴを観ていたでしょうと訊くとビンゴ。

Nikon P7800

●参照
ブリガン・クラウス『Good Kitty』、『Descending to End』(クリス・スピード参加)
三田の「みの」、ジム・ブラック(クリス・スピード参加)
ハリー・コニック・ジュニア+ブランフォード・マルサリス『Occasion』
デイヴィッド・サンボーンの映像『Best of NIGHT MUSIC』(ブランフォード・マルサリス登場)


2015年10月、ハノイ

2015-10-23 07:29:19 | 東南アジア

10か月ぶり、たぶん7回目のハノイ。M42のヤシノン開放でまるで夢の中のように写った。

Bessaflex、DS-M Yashinon 50mmF1.4(開放)、Fuji 400H

●参照
2014年12月、ハノイ
2014年10月、ハノイ(2) 朝の市場
2014年10月、ハノイ(1) 朝の湖畔
2013年1月、ハノイ
2012年8月、ハノイの湖畔
2012年8月、ハノイ
2012年6月、ハノイ
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
ハノイの文廟と美術館
2008年10月、ハノイの街


旨いハノイ その3

2015-10-22 13:10:48 | 東南アジア

たぶん7回目のハノイ。一泊だけであり、簡単なものしか食べる時間がない。

■ Pho 24

何度も入ったフォーのチェーン店。かつては大森など東京にも3店舗出店していた。

夜遅くに到着して空腹になり、まだやっているだろうと入った。ところが客は他におらず(もっとも、フォーは朝に食べるものだ)、フォー・ボーを頼んでみると、ほとんど牛肉が入っていない。味も大したことがない。こんなものではないはずなのだ。それとも店舗によって違うのか。

■ Pho Thin

地元で働く方が、評判良いと言って連れていってくださった。たしかにフォー・ボーが冗談のように違う。スープも、鶏と牛の出汁が出ていてとても旨い。大満足した。

■ Quan Nem

春巻とブンチャ(米の細麺をつけ汁で食べる料理)を売りにしている店。ここも評判が良いとのこと、こぎれいな店だった。中には「CNN推薦」などと書いてあった(笑)。

ブンチャの汁に肉汁が混ざっていってたまらない味になってくる。さらに、巨大なカニの春巻が旨いこと旨いこと。中身がぼろぼろこぼれて勿体なくて、全部食べた。

Nikon P7800

●参照
旨いハノイ
旨いハノイ その2


スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』

2015-10-21 08:34:20 | 北米

スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』(ちくま文庫、原著2012年)を読む。

わたしにとって久しぶりに接するエリクソン作品だが、なぜ『Xのアーチ』以降放っておいたのだろうと後悔させられてしまうほどのインパクトを持つものだった。読み進めるのが怖い気持ちのなかで何日間も夢中になり、バンコクのホテルでようやく読み終えた。

これまでも、エリクソンは、ジェファーソンやブッシュ(父)などを通じて、<アメリカ>の遺伝子と血塗られた歴史を描いてきた。本作で登場するのは、兄の死後大統領にならずして暗殺されたロバート・ケネディと、バラク・オバマだ。<白>と<黒>との間に絶えず介在してきた呪いの交接点に浮上した人物として。ロバートは、キング牧師と同じ1968年に殺された。

白人のザンとヴィヴは、エチオピア生まれの女の赤ん坊シバを養子として迎え入れる。人類のはじまりの地の血を持つ娘は、話さないときにさえも、身体から音楽を発する者であった。彼女は、常にまた棄てられるのではないかという怯えを抱え、自分を受容する者を過激に求めていた。息子パーカーは、チャーリー・パーカーにより命名され、またザンの恩師はビリー・ホリデイの愛人でもあった。ここでは、政治と生きることと音楽とが分かち難く描かれ、また、それらを分つことの愚かしさまでも明白に示される。

ヴィヴはシバのルーツを求めてひとりエチオピアに向かい、失踪する。シバに寄り添う家政婦モリーの母ジャスミンは、やはりエチオピアで生を受け、ロバート・ケネディの最後に深く交錯する。作家ザンが作品として妄想する「X」はナチス的な者に襲われ、モリーがジャスミンから受け継いだイコンとしての絵を引き継ぐ。すなわちそれは妄想する将来でもあり、過去でもあった。

時間と場所と意識を飛び越え結わえるアーチが、何本も何本も、複雑に生起する。20世紀の初頭に、21世紀に、戦前に。アメリカに、ロンドンに、ベルリンに、パリに、エチオピアに。大統領選挙の記憶に、<9・11>の記憶に、<3・11>の記憶に。アーチの交錯から浮かび上がってくるものは、常に他者から想像されるヴィジョンとしての<アメリカ>、その名前を盗まれ血と愚かさとで汚された<アメリカ>、そして、それでもエリクソンが信じようとする<アメリカ>なのだった。