Sightsong

自縄自縛日記

フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』

2009-06-30 23:45:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

AACMの創設にも関わったフレッド・アンダーソンは1929年生まれということだから、いま80歳である。シカゴのデルマークから出されているDVD『TIMELESS, LIVE AT THE VELVET LOUNGE』は2005年の記録だから、このとき76歳。年齢のことばかりを言うのは間違っているが、それにしても驚異的である。アンダーソンは前傾姿勢でテナーサックスを重そうに持ち、しかし、アンダーソン節を吹き続ける。この人は何者だ。

メンバーは、ハリソン・バンクヘッド(ベース)、ハミッド・ドレイク(ドラムス)とのトリオ。コードに調和的な美しいメロディーを吹く人ならともかく、アンダーソンのような即興に賭ける音楽家は、テンションがピアノやギターのコードとぶつかるだろうから(この場合、何だか眠くなってしまう)、ピアノレスのサックス・トリオという編成が理想に近い。

冒頭の「FLASHBACK」からいきなり全開である。次の「ODE TO TIP」は、亡くなった友人の名前をタイトルに入れていることもあってか、やや叙情的になる。ここでバンクヘッドのベースの存在感が増す。3曲目「BY MANY NAMES」は、ドレイクが手持ちの大きな中東風の太鼓を叩き、いい響きのバンクヘッドと一緒にムードを盛り上げる。その中に、アンダーソンは絶妙とはとても言えないタイミングで入っていくが、なぜかすぐに一体化してしまう。ドレイクは唄いもする。最後の「TIMELESS」は、ドレイクの活力的なドラムスが煽り、アンダーソンはそれを受けて吹きまくる。

あるフレーズの種を見つけ、それを核として幾様にも発展させ、即興のひとかたまりの時間は長かったり短かったりする。解説のジョン・リトワイラーに言わせれば発見と冒険、そしてアンダーソンは「まさに人生のようなものだ―――人生は謎だ」と語る。これがアンダーソン節である。この、毎回異なる発見と冒険に立ち会うためには、シカゴのヴェルヴェット・ラウンジに駆けつけなければならないに違いない・・・・・・。

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島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』

2009-06-28 21:42:05 | 九州

島尾ミホ石牟礼道子という強烈な顔合わせの対談集、『ヤポネシアの海辺から』(弦書房、2003年)。対談は、1991年になされたものだ。以前に仙台の「火星の庭」というユニークな古本屋で見つけた。

2人の作家の共通点は、奄美水俣という海辺で生まれ、生活してきたというところにある。それぞれ海に対する想いは深い。石牟礼道子は、東京の魚屋に並べられた魚が釣られてから何日も経つため古くなっているにも関わらず、築地から上がったばかりだから新鮮だと怒鳴られ、海への距離の違いに呆然としたと言う。そして、島尾ミホは、加計呂麻の海辺で聞いた昼間の爽やかな音、深夜の怖い音について没入するように語る。

「海のささやきと申しますか、海のかなでるさまざまな音響は、海のおもてを渡る風の音や、岩に砕け散る波の音、そして岬の松籟などの響き合う音でしょうとは思いますけれども、目の前に手をかざされても見えない暗黒の闇夜では、とても不思議な音響となって、・・・(略)」

2人は、海そのものだけではなく、海辺というマージナルな場所の重要性についても説く。石牟礼は、石垣島で、「ちっちゃなちっちゃなヒルギの苗がずうっと海岸に育っている」のを見て、生態の連続性について実感したのだと思い出している。ヒルギの渚、島尾が思い出すのは、ヒルギの雄木の幹を削って煎じた液と田んぼの泥に、糸を交互に漬け込み、黒に染める方法である。シャリンバイなんかは聞いたことがあるが、ヒルギも染物に使っていたのか。

生態系、生活だけではない。加計呂麻では、赤ん坊が生まれたときの喜びの挨拶を「ハマグマへ行ってきたそうですね。おめでとうございます」と言うのだという。というのは、ハマグマという浜が神様が赤ん坊を連れてくる神聖な場所であり、それを知らされた女の人がハマグマに行っていただいてくる。ニライカナイのように、生死とつながる海辺。

石牟礼道子は、島尾敏雄が書き、ミホが付録のレコードに吹き込み、息子の伸三(写真家)がイラストを描いた本、『東北と奄美の昔話』(創樹社、1973年)を大変に気に入っていたらしい。島尾ミホの声、「アンマー」や「アセー」といった独特のことばと抑揚、発声である。

石牟礼のことばへの執着は、島尾敏雄『死の棘』(1977年)にも向けられる。特に、精神に異常をきたしたミホが敏雄を攻撃する際にまず使うことば、「謹んでお聞きなさい」。いつか使ってみたいと思っているそうだ。あの怖くて怖くてたまらない『死の棘』をユーモラスな復活の物語と評しているくらいだから、使ってみたいと考えるのも無理はないが、使われる方はたまらないぞ。

天から遣わされたような2人によることばが、ヤポネシアという概念を西と南からあらためて照らしているようで印象的だ。

●参照
島尾ミホさんの「アンマー」
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
『海辺の環境学』 海辺の人為
加藤真『日本の渚』
熱帯林の映像(沖縄のヒルギ林)
仙台の「火星の庭」、大島渚『夏の妹』

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サナイ方面の清志郎、多部未華子、蒼井優

2009-06-27 22:55:00 | 写真

太田出版では献本をインターネットで行いはじめたようで、忌野清志郎が表紙になった『本人』vol.10もアドレスをメールで頂き、パソコン画面で読んだ。(>> リンク ただし6月中)

「ロックで独立する方法」という、読み手の気分を高揚させるような2001年の清志郎の文章が掲載されている。それはともかく、佐内正史による清志郎の写真が何枚もあって、相変わらず巧い、というか、単純に良い。独特の間の取り方というのか・・・。ピンボケも含め、中判ならではの被写界深度の浅さが効果的。いまでは佐内写真を毎週のようにどこかで目にするほどだが、私は、『季刊クラシックカメラ』のペンタックス特集号(2000年)で、ペンタックス67を使った結婚式の写真を観て、はじめてこの写真家の存在を知った。

最近、毎日NHKの連続ドラマ小説『つばさ』を観ている(笑)。このオープニング画面も、最初、「なんだかサナイ方面だなあ」と思ったら本当にそうだった。特徴のひとつであるハイキーが独走していて、多部未華子の雰囲気を作り上げている。であるから、アンジェラ・アキの歌は趣味でないのに我慢してとばさず観る。

佐内正史の写真集はとくに持っていないが、蒼井優を撮った『BRUTUS』2006/12/15号は何となく大事に棚に入れている。これも雰囲気からしてペンタックス67だろうね。家族写真でもこんなのが撮れたら最高なのだが、そうはいかない。

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大城美佐子&よなは徹『ふたり唄~ウムイ継承』

2009-06-27 00:36:54 | 沖縄

大城美佐子&よなは徹『ふたり唄~ウムイ継承』(タフビーツ、2009年)は、前作『唄ウムイ』以来、大城美佐子の2年ぶりの新作となった。随分楽しみだったので、早速聴いた。

よなは徹とは40歳くらいの差がある。変わった組み合わせだが、那覇にある大城美佐子の店「島思い」のブログをときどき読んでいると、よなは徹が遊びに来て唄ったりしていることが書いてあり、接近は前からしていた。というと大袈裟だが、何年か前にお店でよなは徹の話題になったときに、唄いに来ることは言っていなかったから、やっぱり最近のことなのだ。

メンバーは2人だけなので、いまの唄声がじっくり聴ける。正直言って、期待以上でも以下でもないが嬉しいことは確かなのだ。大城美佐子は個性が突出しながら枯れまくっている印象である。たとえば、同じ「汀間当」を1997年の『絹糸声』(あばさーレコード)と、「仲島節」を1975年の『沖縄うらみ節』(ビクター)と聴き比べてみると、変貌は明らかだ。高い金属音のような声、ときにモンゴルのホーミーのように倍音として聴こえるあの音は姿を消し、凄みはなくなっている。しかし美佐子先生の声はたまらなく好きなのだ。

当然ながら、私には歌詞の意味がよくわからないので、歌詞カードを読みながらじっくりと聴く。よなは徹が唄う「全然駄目」なんて曲は初めて聴いた。えらく愉快だ。知名定男の父・定繁の作詞作曲である。「汀間当」には「丸目加那」(まるみかな)が登場するが、これは名護の旧・久志村の娘だったのか。「まるみかなー」という、国際通り沿いにあった店は、民謡の生き字引・小浜司さんが経営していた。店はちょっとはずれに移転し「いーやーぐゎー」という名前になったが、そっちで小浜さんと前作『唄ウムイ』の話をしていると、どうも「今風の作り方」に批判的なのだった。近作には文句はないと思うがどうだろう。こんど店に行けたら訊いてみよう。


大城美佐子、六本木(2006年頃) LEICA M3、ELMARIT 90mmF2.8、TMAX400+2、フォルテ(バライタ)

ところで偶然の話。よなは徹が唄うのをはじめて観たのは、やんばるの森の中、比地大滝だった。家族ではあはあ言いながら登って、滝つぼを覗き込むと、岩の上になぜか座って三線を弾いていた。あとで本人に写真を見せて確認したところ、ヴィデオの撮影現場なのだった。


よなは徹、比地大滝(2004年) PENTAX LX、FA77mmF1.9、Velvia、ダイレクトプリント

●参照
唄ウムイ 主ン妻節の30年
代官山で大城美佐子を聴いた
知名定男の本土デビュー前のレコード
Zeiss Biogon 35mm/f2.0 で撮る「島思い」
Leitz Elmarit 90mm/f2.8 で撮る栄町市場と大城美佐子
城間ヨシさん、インターリュード、栄町市場
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』

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与那原恵『まれびとたちの沖縄』

2009-06-24 23:57:54 | 沖縄

『街を泳ぐ、海を歩く』や雑誌のルポなど、割に好きなライターによる新刊が出たので、読みかけの本を脇にどけてこちらを先に読んだ。与那原恵『まれびとたちの沖縄』(小学館101新書、2009年)だ。

ここには、何人もの「まれびと」が登場する。いろいろな意味でのユマニスム溢れる奇人ばかりである。なかでも惹かれるのは、国語教師として沖縄に赴任し、教え子・伊波普猷に古琉球に関する研究成果を渡した田島利三郎だ。伊波を含め、多くの人たちに影響を与えたが、沖縄を踏みつけるヤマトゥへの反発などにより、若くして沖縄を追われる。その後台湾や中国へと流れ、その地その地で潔い姿を見せる。

伊波普猷の仕事は柳田國男に衝撃を与え、柳田ただ一度きりの沖縄への旅を経て、30年後、『海上の道』が世に出るという、何とも言いようのない時間と空想が紡がれることになる。(このあたりは、同じ与那原恵のエッセイ『柳田國男 椰子の実から海上の道へと続く旅』(Coralway、2004年7/8月)に叙情的に記されてあった。)

その伊波普猷だが、祖先は中国人であり、「魚」という姓を名乗った皇帝の侍医だったという。それが不老長寿の薬を求めて宮崎に移り住み、その3代目が琉球の読谷山に移住、伊波家の先祖となった。本書には、それだけでなく、琉球と中国との結びつきに関してそこかしこで言及してあることが特徴的だ。

琉球は中国の冊封体制の一員であり、朝貢国であった。年号も、中国との関係が出来て以来中国のそれを使っている。そのアイデンティティを示すため、「江戸上り」においてもフォーマルウェアは中国服だった。薩摩侵攻の前後、「親日本派」と「親中国派」との対立が記録されており、前者ですら祖母を中国、祖父を日本としている。また日清戦争時には中国の衣装を身につけ、清国の勝利を願う「頑固党」があった。こうなれば、言葉が、琉球語、中国語、日本語を如何に使い分けていたのか、調べてみたくなるところだ。

かたや、琉球王のルーツは日本にありとする物語を作り上げるため、「源為朝が琉球に来ていた」という創作がなされてきた。本書のもっともスリリングな部分だ。

「琉球を血のつながりもある親しい隣国として見る時代は終わり、日本の一部として認識しつつあることがこれらの書物からよくわかる。為朝渡琉伝説はその証左として強化されていった。けれども、これまで紹介した琉球物刊本の著者は、琉球に足を一歩も踏み入れていないことがわかるだろう。誰も琉球を見ず、書物をわたり歩き、書き手の意にそって強調したい部分を取りあげてきたのだ。為朝渡琉伝説は、日本人の欲望にこたえて生きのびたのである。」

幕末の時代に沖縄に来たスロバキア人宣教師ベッテルハイムについての物語も興味深い。「犬眼鏡」と呼ばれ、感情が激しやすく、宣教という目的をほとんど果たすことなく黒船とともに去っていった。ただ、のちに姓を「牧志」に変えるインテリ、板良敷朝忠のように、ベッテルハイムに接触し、影響を受けた人物もいた。朝忠は投獄され、薩摩に引き渡される際の船から海に身を投げてしまう。嶋津与志(大城将保)『琉球王国衰亡史』(平凡社ライブラリー)において主人公として描かれた人物である。

語りは、海流に乗って、沖縄/琉球、日本、中国、朝鮮を行き来する。

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レニー・トリスターノ『ザ・コペンハーゲン・コンサート』

2009-06-24 00:19:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

毎日新聞の夕刊で、温室効果ガス中期目標に関して登場した。語り口調が軽くて別人格みたいである。

レニー・トリスターノによるソロ・ピアノの白黒映像が収められたDVD『the copenhagen concert』(STORYVILLE FILMS、1965年)を観た。リージョンコードが日本仕様でない中古品なので廉価だった。

異様な印象ばかりを残す。トリスターノの音楽は、『奇才トリスターノ』やリー・コニッツ『サブコンシャス・リー』を聴いたことがある程度だ。コニッツの師匠格というより、横ノリもレイジーな感覚も拒否してフラットにコード進行内の即興を突き詰めている音楽家、と感じていた。

ところが、今回はたと思ったのは、これはラグタイム・ピアノの独特な進化系なのではないかな、ということ。曲や展開によっては、左手でベースラインを作りながら右手で自在に即興を繰り広げていく。そこのところ、鍵盤を叩き続ける感覚がそのように思わせた。

随分昔、ある現代音楽の作曲家と話した際に、ジェリー・ロール・モートンに強弱の概念はないのかと尋ねた。いやそうでもあるしそうでもないのだ、自分はまさにジェリー・ロールのような色彩を取り入れようと思っているのだが、とのことで、はぐらかされたような気がしたのだった。ラグタイムを大して聴いているわけでもないしトリスターノの評価もろくに知らないのだが、さてどうなのだろう。

何となくライオン・スミスとかユービー・ブレイクでも聴こうかと思いついたが、全然見つからない(笑)。

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ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』

2009-06-22 00:57:44 | ヨーロッパ

ミルチャ・エリアーデは、自分にとっては、これからも格闘すべき『世界宗教史』を書いた宗教学者である。ただ小説も書いており、フランシス・フォード・コッポラの最新作『コッポラの胡蝶の夢』の原作にもなっている。この映画がわりに面白かったので、気紛れに小説『ムントゥリャサ通りで』(法政大学出版局、原本1967年)を古本屋で見つけて入手した。

老人はある官僚の家を訪ねる。自分はかつて小学校の校長であなたも教えたのだ、あなたと仲の良かった男の消息を知りたいと言うが、官僚は、自分は小学校になぞ行っていないと突き放す。その友人は、地下室で水に潜り、そのまま地下世界へ消えた別の友人の運命を探っていた。さらには、弓を天に向けて放ったが戻ってこなかったこと、2m40cmもある彫刻のような美しい女性の結婚式のことなどを、政府の高級官僚に請われるまま語り続け、憑りつかれたように何百枚もの紙に書き続ける。

『千夜一夜物語』では、シェヘラザードが王の女性殺しを止めさせるため、実はこの話には続きがございます、と、毎夜語り続けた。『ムントゥリャサ通り』では、まったく関係ないような仔細な話を延々と繰り出す老人に対し、聴き手が早く核心に触れろと迫ると、いえいえその話をするためにこの話が必要なのです、と、怯えながら迷宮に誘い込む。そして読み手にさえ、読み終わっても話の全貌はつかめない。

さらに否応無く想起させられるのは、ホルヘ・ルイス・ボルヘススティーヴ・エリクソンだ。ボルヘスは、『千夜一夜物語』を幾度となく引用している。エリクソンには、ヒトラーのためにポルノを書き続ける男を描いた『黒い時計の旅』や、相互にずれ連関する複層世界での愛を描いた『Xのアーチ』がある。並行世界の象徴としての紙とペン、そして書くというプロセスと読むというプロセスにより、並行世界が交錯する。

これで『千夜一夜物語』、ボルヘス、エリアーデ、エリクソンが勝手に系譜としてリンクした。

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ダムの映像(2) 黒部ダム

2009-06-20 23:26:59 | 環境・自然

NHK『プロジェクトX』で放送された、黒部ダムの特集を2巻借りてきた。「厳冬 黒四ダムに挑む ~断崖絶壁の輸送作戦~」(2000年)と、2週連続での「シリーズ黒四ダム 第1部・秘境へのトンネル 地底の戦士たち」「同 第2部・絶壁に立つ巨大ダム 1千万人の激闘」(2005年)であり、続けて見ると、関電本社の移転を挟んでいる(笑)。「黒四ダム」とも称するのは、ここからの水による地下の発電所が「黒部川第四発電所」だからである。大きな弧を描く「アーチ式コンクリートダム」であり、水圧を両岸の岩盤で支える。そのため峡谷に限られる。

人がほとんど立ち入ることができない秘境・黒部に資材を運ぶため、1年以上かけてトンネルを掘り、また山の上からブルドーザーをソリで降ろす。トンネル掘りは地盤が危ないが、通常を遥かに上回るペースで進める。これが、石原裕次郎主演の『黒部の太陽』の舞台であるらしいが、大スクリーンでしか見せないという方針であったため、観る機会はない。佐久間ダム建設において川の迂回路となるトンネルを掘った者がここでも携わったようで、番組では、記録映画『佐久間ダム』の一部分が使われていた。

また、地下の発電所を掘削するとき、高熱の岩盤であったため、掘削現場は100℃前後となった。そのため、後ろから裸の掘削者に放水するという方法がとられた。なお、この前に建設された「黒部川第三発電所」でも高熱岩盤に苦しめられたようであり、吉村昭『高熱隧道』でその建設の様子が小説化されている(私は読んでいない)。

コンクリートを流しいれる方法にも驚かされる。崖の上のクレーンで、コンクリートを入れた籠を操作し、崖下に落とす。このときにあまりにも揺れて場所が定まらなかったが、ひとりの名人の手によって解決している。それをブルドーザーで均し、クレーンとの時間の競争となった。

どの工程もいちいち信じ難く、驚嘆する。もはやこのような土木工事は不可能に違いない。7年間の工事で、雪崩や落石などによって171人が亡くなっている。越冬の厳しさや恐怖で精神が参ってしまった者もいる。当時を回顧する方々は皆、勇気がなければだめだった、おそれたら終わりだった、と口をそろえる。そして、亡くなった方々を弔う記念碑に手を合わせる。

観ながら痛感した。これは戦争に出征した兵士たちなのだ、と。番組のつくりは戦争ドラマと変わるところはない。必要な電気のためだったが、多数の死者を生むことが最初からわかっていた戦争だった。そして他の選択肢があったかもしれないことについては、当時も今も触れられない。もちろん侵略戦争とは根本的に異なる。途轍もない事業である。だが、このような形で美談にすることには大きな違和感がある。

『黒部の太陽』は、巨大ダム造りを進めるプロパガンダとして、各河川の漁協説得に使用された歴史を持つ。そして、不思議なことに毎年建設省(当時)が資金を提供する各地のダム自治体の「湖水(ダム)祭」などは、石原プロの企画が多かったという(天野礼子『ダムと日本』)。『プロジェクトX』にも同じプロパガンダに利用されるにおいが漂っているような気がするのだ。

●参照
ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム
天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集

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満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』

2009-06-20 14:06:15 | 中国・台湾

日本軍事政権の傀儡国家として存在した満州国(1932-45)は、その植民地軍隊、関東軍とともにあった。島田俊彦『関東軍 在満陸軍の独走』(講談社学術文庫、原本1965年)は、その生い立ちから失速までを描いている。すなわち、日露戦争後、日本軍は遼東半島南端(関東州)とのちの南満州鉄道(満鉄)の権利を奪い、満州国建設を経て、大戦での南方重視に沿って急速にしぼむという運命を辿る。なお、「関東」とは、現在の河北省秦皇島にある万里の長城の東端近く、山海関の東という意味である。

「独走」の代名詞のように使われる関東軍だが、それが決して思うが侭ではなかったことを、本書は示している。様子見を重視した幣原外交などの中央政府、さらには大本営の意向からも離れたことが多くあった。そのようななかで、「大日本帝国の尖兵という過剰意識に増幅された」行動が行われていく。

知らなかったことだが、満州という存在は、当初「いわば柄にもない大荷物をかかえこんだようなもの」であった。日露戦争後、政府は関東州経営のため、毎年一般会計から多額の補充金を繰り入れ、それは例年歳出の6割にも相当した。そのため、初期の満鉄経営のような外資導入のほかに植民地経営の方策はなかった、という。満鉄は鉄道経営だけでなく、炭坑採掘(平頂山事件に関係する撫順炭坑もそのひとつ)、水運、電気、倉庫などの事業も営むことができ、その土地での行政権や徴税権までも持っていた。

張作霖爆殺(1928年)ののち、石原莞爾と板垣征四郎が関東軍参謀として赴任する。本書でもっとも不可解なのは、石原の奇怪かつ誇大妄想の世界最終戦論(最終戦は個人という戦闘単位での殲滅戦争となる)や満蒙領有論(日本こそ満蒙発展が可能な者であり、それが現地の幸福となる)に一定のシンパシーを寄せているところだ。これらを「すぐれた洞察力」と表現し、また、満州国が理想を失い傀儡化の一途を辿るのは、1932年に石原が満州を去ってからだとしている。この発想には、あの幕僚長のトンデモ論文と通じる面があるのではないか。

関東軍がソ連軍に敗れたノモンハン事件については、これが局地戦争にとどまり、また日本軍の「汚点」として覆い隠されたがために、自らの軍事力を認識する機会を逸したものと評価している。そのために、実は現場では勝っていたのだとする辻政信の手記などがある(何を今さら、今週の『週刊新潮』にも写真入りで取り上げられていた)。

満鉄には、大規模な調査セクションがあった。シンクタンクといえば、決まってロバート・マクナマラ(米国元国防長官)の名前が取り上げられるが、満鉄調査部こそがその拡がりや偏りを見る上で参考になる。マクナマラの理想は、官僚に左右されない政府のためのシンクタンクであった。満鉄調査部は、民間のため、政府のためといった枠を超え、かつてない情報収集力を抱え、破天荒の挙句に潰された。その人材は戦後、調査機関や大学、社会運動家へと流れている。

小林英夫『満鉄調査部 「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』(平凡社新書、2005年)は、その実態を描いていて非常に面白い。

出入りする人間の名前が凄い。大川周明(のちのファシスト)、佐野学(のちの共産党最高指導者)、山本条太郎(三井物産出身)、松岡洋右(のち外交官として国際連盟脱退)、尾崎秀実(のちにゾルゲ事件で死刑)。何でもありという印象だ。

その尾崎秀実も関与して、満鉄調査部にはマルクス主義の大きな動きがあった。しかし彼らは、関東憲兵隊によって次々に検挙され、転向に到る。この手記が掲載されているが動悸動悸するほど興味深い。

大東亜戦争について判断するには人間理性以前の事実である日本精神を理解することが必要でありますが、合理主義に立脚する限り日本精神を理解することは不可能であり、従ってまた大東亜戦争に関する合理主義的判断が次第に破綻を来たしたのはまことに当然のことであります。(中略) 日本精神は学問によって学ばれるものではなく日本人が日本人として心を正しくし己を空しくすれば自然に体得できる性質のものであります。それ故日本精神は日本人以外には体得することが困難であると共に日本人ならば誰でも体得することが出来るのであります。従ってまた日本精神の根源をなす我国体を合理主義的理論を以て解釈しようとするのも大きな誤りであります」(石田精一の転向声明)

論理と理性に限界があるとするこの声明は、もちろん、本人の裡から出た発想に基づくものではないだろう。論理と理性に基づく知の集団は、当然のように瓦解した。このことが現在においても歴史にとどまらないことは、例えば、佐藤優の発言(>> 「沖縄の未来を語る 大田昌秀×佐藤優」)と比較してみると実感できる。

●参照
万里の長城の端ッコ(秦皇島)
平頂山事件とは何だったのか
小林英夫『日中戦争』
盧溝橋

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ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム

2009-06-18 00:23:39 | 環境・自然

以前、日本映画専門チャンネルで岩波映画の特集を組んでいて、『佐久間ダム 総集編』(1958年)も観ることができた。電源開発がスポンサーとなり、日本の記録映画としてはじめてカラーフィルムを使ったものらしい。

佐久間ダムは静岡県、天竜川の下流のほうに建設された。典型的な重力式コンクリートダム(直角三角形の断面となるよう大量のコンクリートで造り水圧を支える)であり、1953年に着工。米国の技術もあって、3年程度の早さで完成している。映画は90分以上の長さだが、発破また発破。掘削するといっては発破。仕事が終わって疲れていることもあり、この眠さたるや拷問に近い(なら観なければいいのですが)。それにいかに岩とは言え、天竜川に砕石ががらがら落ちて行くのはちょっと観ていて辛い。

映画では、まず開発前ののどかな風景を紹介し、その後に天竜川水域の地図を示し、特に下流域が「日本でもっとも開発の進んでいないところ」というような導入を行う。時代性だが、開発に対する盲信と自然破壊への無自覚は凄い。やはり石原裕次郎主演『黒部の太陽』と同様に、他の地域でのプロパガンダ的にも利用されたのだろうか。

技術的に面白いのは、コンクリートの発熱対策である。特にコンクリートを多用する工法であるから、固まる際に60℃以上まで発熱し、収縮するときにひび割れをおこすことが無視できない。ここでは、いくつものブロックに分けることによってそれを解決している。

ついでに、建設産業図書館で借りてきたヴィデオ、『RCD工法の集大成 宮ヶ瀬ダム』(カジマビジョン)を観る。鹿島建設による紹介映像である。

宮ヶ瀬ダムは神奈川県・中津川に建設された、佐久間ダムを上回る規模の巨大な重力式コンクリートダムである。ここでのミソはコンクリートの打設であり、「RCD工法(=Roller Compacted Dam-Concrete)」を用いている。要は、普通の生コンのようなどろどろのものを流しいれるのではなく、「超かたねり」の土砂のようなコンクリートをダンプで運び、それを振動するローラー車で押し固める方法のようで、確かに効率的に見える。またコンクリートの発熱に対しては、一定間隔で板を押し入れ、そこに内部の応力を集中させる方法を採用している。理屈としては、佐久間ダムでユニットに分けたのと同様だろう。

映像は20分程度と短い。これなら、仮に研修や見学で見せてもらうとしても居眠りはしない。

●参照 天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集 

damu
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平頂山事件とは何だったのか

2009-06-17 00:24:22 | 中国・台湾

沖縄平和ネット首都圏の会が旧「満州」連続学習会として開催した「平頂山事件とは何だったのか」を聴いてきた(2009/6/16、岩波セミナールーム)。講師は大江京子弁護士。

平頂山事件はあまり知られていないが、旧満州の撫順近くにある平頂山において、関東軍が中国の住民約3,000人(諸説あり)を虐殺した事件である。本多勝一『中国への旅』でもとりあげられているようだ(私はまだ読んでいない)。講師の大江弁護士は、生き残った方々―――これを幸存者と呼ぶ―――が日本を訴えた裁判の弁護団の一員として関わっている。

結果的には、2006年に最高裁が上告を棄却し、原告敗訴という形になっている。ただし、賠償について認められなかったということであって、関東軍の犯した虐殺という事実については、地裁・高裁ともに認定している

以下、講演の要旨。

1928年6月、張作霖爆殺。1931年9月、柳条湖事件。1932年3月、満州国建設。智謀として関東軍参謀となった石原莞爾は「満蒙領有論」者であった。すなわち、中国人よりは日本人のほうが「満蒙」を発展させることができ、それは現地の幸福にもつながるという、極めて偏った構想である。事件の起きた撫順炭坑は、東北地方随一の出炭量を誇っていたため、権益上重要だった。

1932年9月、抗日義勇軍(関東軍はこれを「匪賊」と称した)が撫順を攻撃し、炭坑は大きな被害を受けた。これは幼少時撫順に住んでいた李香蘭の自伝にもある。同年5月に関東軍参謀長の通達として出されたところによると、「匪賊」に対しては、厳重処分を独断専行で行うものとされた。これは武力を用いること、「処刑」と解された。

警戒態勢にありながら攻撃された関東軍は面子をつぶされ、「住民が抗日義勇軍に通じていて日本軍に通報しなかった」ものとして、3,000人ほどの住民を皆殺しにせよという決定を下した。「写真を撮る」などと騙して集め、機銃による一斉射撃を行った。さらに「生存者狩り」として、息のある者を次々に刺殺した。その後、証拠隠滅のため、全住居を燃やし、崖をダイナマイトで発破して土砂で死体を覆った。一連の作業に、炭坑夫までが手伝わされ、その手記が残されている。そして現場には、800体ほどの遺骨が発掘され残っている。

原告のひとり楊宝山さん(当時10歳)は、射撃されている間、母親に庇われた。母がまったく言葉を発しなくなり、「しょっぱく、熱いもの」が口の中に入った。母の血だった。そのことを話すとき、楊さんはいまだに涙が溢れ言葉に詰まってしまう。

原告のひとり方素栄さん(当時4歳)は、一旦は弟とともに生き残った。死んだ振りをしていたが、軍人が血だまりを踏んで「ぐしゅっぐしゅっ」という音をさせながら近づいてくると、弟が母を呼ぶ声をあげてしまった。弟は軍人に刺され、投げ捨てられた。

この虐殺は外国特派員などの目にとまり、隠しおおせなくなった。日本ではまったく報道されず、中国での日本紙でもそうだった。李香蘭も近くに住んでいたがこのことを後年まで知らなかった。

1994年、長野法務大臣(当時)が、南京大虐殺は無かったという旨の発言をし、大きな反発があった。そのとき、別件で中国に居た日本の弁護士たちは急遽記者会見を開き、その発言が史実に反し問題であるとの表明をした。その流れから、「たまたま」本件の弁護団になってしまった。ただ当時、七三一部隊や南京大虐殺と違い、日本に平頂山事件の専門家がいなかったため、非情に苦労した。

裁判の第一の目的は、事実を司法により認定させることだった。それに基づき賠償を請求することができるという目論見であった。そして東京地裁、東京高裁では、虐殺の事実を詳細に認定した。しかし賠償は認められなかった。理由は、戦前に行った行為について責任を問われないという「国家無答責の法理」であった。実際には、戦争行為と直接的に関係しない報復・見せしめの殺戮行為であり、筋の通らない判決であった。2006年、最高裁は上告を棄却した。

裁判を開始した頃、弁護士であっても、日本人だということで原告側の不信感は大きいものだった。原告のひとり莫徳勝さん(故人、当時7歳)は、1997年はじめて来日する際、「生きて帰れない」という覚悟だった。ところが、話を聴いて涙を流す人やいること、平和を愛する人がいることに衝撃を受けた。帰郷して撫順でその話をしても誰も信用してくれなかったという。また、裁判費用も日本の市民カンパなどでまかなわれていることがわかってきて、交流を通じて信頼感が生まれてきた。賠償という点で裁判には負けたが、オカネなどは大きな問題ではない、国境を越えて信頼関係が築かれたことが成果だとの発言もあった。市民レベルでのこうした交流がなければ、国交も空疎なものとなろう。

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ジャズ的写真集(6) 五海裕治『自由の意思』

2009-06-16 00:53:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

PSF Recordsが出版している音楽雑誌『G-Modern』が好きで割と持っている。いつも巻頭には写真家・五海裕治による音楽家の写真と、インタビュー記事が掲載されている。写真は、顔をアップで撮ったポートレートと、状況的な風景とのセットだ。これを集めた写真集が『自由の意思~アンダーグラウンド・ミュージシャンたち~』(P.S.F.、2003年)で、限定500部、CD付きである。定価が7,000円とかなり張るものだったので当時買えず逡巡していると、しばらくして、古本が格安で出ていた。一も二もなく確保した。

掲載された音楽家は、順に、吉沢元治・沢井一恵・Butch Morris・井上敬三・金大煥・金子飛鳥・大友良英・Derek Bailey・天鼓・Barre Phillips・友川かずき・George Lewis・向井千恵・Steve Beresford・灰野敬二・Han Bennink・今井和雄・山崎比呂志・Peter Brotzmann・豊住芳三郎・Lee Konitz・Charles Gayle・三上寛・Arthur Doyle・浦邊雅祥・白石民夫・福岡林嗣・石塚俊明・川仁宏。CDに収められたのは、順に、今井和雄・吉沢元治・大友良英・Derek Bailey・石塚俊明・灰野敬二・川仁宏・向井千恵・三上寛/浦邊雅祥DUO。

フリー・アヴァンギャルド・ジャズのファンならば必ず知っているはずの名前もあり、馴染のない名前もあった。しかしこうして見ると迫力のある面子だ。吉沢元治、井上敬三、金大煥、デレク・ベイリーは既に鬼籍に入っている。何しろ初回の吉沢元治は1992年、もう17年も前ということになる。

写真は秀逸でかなりツボを突いてくる。おそらくは絞り開放に近い設定での被写界深度が浅いポートレートが良い。レンズをキッと見つめるデレク・ベイリー、不敵にニヤリと笑うハン・ベニンク、意外とやさしい表情のペーター・ブロッツマンなど最高である。


デレク・ベイリー

また、<動き>や<位置>を強く印象付けるもうひとつの写真が愉快だ。畳の部屋に座る井上敬三、暗闇でピンボケ、こちらを見つめるバール・フィリップス(表紙の写真)、歌舞伎町コマ劇場近くの立ち食い蕎麦屋前に佇むチャールズ・ゲイル。このゲイルは、近くのナルシスでソロ演奏をした前後に撮られたもので、幸運にも私もその場に居合わせた。狭いナルシスがぎゅうぎゅう詰めになり、前の人の椅子で膝が痛かったことを覚えている。


井上敬三

カメラとレンズは何を使ったのかまったく書いていない。だが、たとえば室内のジョージ・ルイスを撮った写真なんかを見ると、光の滲み、焦点があった場所以外の独特なボケ、これはライカのズミルックス35mmF1.4ではないか、などと思ってしまう。

インタビューからは、デレク・ベイリーなど自らの方法論そのものをアウラとして身に纏い、高い知性を感じさせられる人が多いのが印象的だ。

デレク・ベイリー(抜粋)
「でも、語るということはちょっとトリッキーだ。重要で無いことを話すのは易しいけれど、重要なことを話すのはとても難しい。今、君は重要なことは何だと尋ねるだろうね。だから、それに答えるのはとても難しい。特にインタビューなどでは簡単にフィクション化出来るわけで、自分のやっていることを素敵な話に巧くまとめてしまうことが出来る。それが必ずしも真実では無くてもね。」

付属のCDでも、大友良英の音を聴いた直後に登場するデレク・ベイリーの手癖は素晴らしく、その瞬間は確実に感動する。

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胡同の映像(3) 『胡同の一日』、『北京胡同・四合院』

2009-06-15 00:28:36 | 中国・台湾

先日、北京からの帰路、『胡同の一日』(鈴木勉)という短編映画も観た。「ANA MEETS ARTS」という若手アーティスト支援プログラムに選ばれた作品ということだ。

ある胡同に住んでいる漢方薬医の男は、店の取り壊しを機に別の土地に引っ越すことを考える。最後に残った大きな薬箪笥を買ってくれる人を見つけ、なんと自転車にそれを載せてよろよろと走る。途中何度も、路上で薬を処方する破目に陥る。人と触れ合ううちに、胡同での漢方薬医という商売を続けることを決意、箪笥を売るのをやめる。もう店はないので、自転車にがっちりと箪笥を据えつける。

あんな塗り壁のようなものが胡同を移動しても、皆声をかけはしても文句は言わない。不自然でもない。胡同の雑然とした様子が、ミニミニのロードムーヴィー風に示される。あたたかくて面白い・・・・・・のだが、長いドラマCMを見ているような気分。きっと日本人が作ったことと無縁ではない。

汐留の建設産業図書館には、なぜか中国を紹介するDVDもそろっている。『北京胡同 四合院』(中国中外文化交流中心、2000年)は20分ほどの紛う方なき観光映像で、日本語を含め10言語の吹き替えが用意されている。

たいした期待もせずに観たが、いつ撮られたのかわからない、きっと最近ではないフィルムの映像がとてもよい。クリアなテレビカメラで撮られるよりも、埃っぽい空気、陽だまり、色褪せた装飾なんかの雰囲気が抜群で、兼高かおるの番組を思い出してしまう。

言われれば当たり前なのだが、いままであまり意識しなかったこと。胡同は南北に走る道路から横に入り、東西に伸びていることが多い(皇帝は北から南を睥睨するので当然だ)。また、四合院も主人の居る場所は北側、門は南側。ということは、胡同を歩くと北側にばかり門があるということか。そんなことはないと思うが。

現在、北京には2,000を超える数の胡同があるという。元朝の時代には400だった。また、狭い胡同には幅40cmほどのものがあるらしい。そのような猫道的な胡同の映像はなかったが、ぜひ探してみたいところだ。

●胡同の映像
胡同の映像(1) 『胡同のひまわり』
胡同の映像(2) 『胡同の理髪師』

●写真 北京の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の散歩(4) 治国胡同、三源胡同
牛街の散歩
盧溝橋

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水島朝穂「オキナワと憲法―その原点と現点」 琉球・沖縄研

2009-06-14 02:07:36 | 沖縄

早稲田大学琉球・沖縄研究所では、総合講座「沖縄学」として、毎週金曜日夜に講義が行われている。今回、水島朝穂・早大教授による「オキナワと憲法―その原点と現点」に足を運んだ(2009/6/12)。

「自分は典型的なヤマトンチュである。それがなぜ沖縄なのか」という意義付けからはじめ、1時間半の饒舌だった。実は「沖縄返還時の憲法受容」についての講義かと考えていたがそうではなく、憲法や法制度において沖縄がどのような位置にあるか、といったものだった。

重要なポイントは以下のようなもの。

■日本という国家と国民との関係

ほんらい国民を護らなければならない国家=軍は、沖縄戦において、自決用の手榴弾を国民に配った。この行動の底にある考え方は、軍や政府の内部資料においていくつも見られる。たとえば、中曽根政権時の政府検討資料『国土防衛における本土避難』(1987年)では、結果として多くの在留邦人が「自決」したサイパン戦の前に、大本営が行った検討内容を示している。そこでは、直接命令しても住民はなかなか自決しないため、自ら自決に追い込むよう方向づけるべきであり、それにより住民を敵の手に渡さず「大和魂を世界に示す」ものとされた。そしてこれが、沖縄戦において「女子供」を扱う上で「前例となる指導」として上奏したいと議論された。

ジュネーヴ条約においては、相手の軍隊は民間人を保護しなければならない。1945年6月23日に沖縄で自決した牛島中将は、ほんらいその前に民間人を米国に引き渡すべきであった。日本という国家のあり様を表現すれば、「放置国家」であった。

■戦後の沖縄の扱い

サンフランシスコ平和条約第3条には次のようにある。

「日本国は、北緯29度以南の南西諸島・・・を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

しかしそのような提案が米国から国連になされることはなく、1956年、日本は国連に加盟した。国連加盟国は信託統治制度が適用されない。ここから沖縄返還の1972年まで、奇妙な暫定統治が続いた。その後も、特措法などのあり方は「暫定性」そのものであり、これは壮大なるウソの連鎖であった。

■日米安保条約

条約6条(基地の使用条件)は、「極東条項」となっており、その範囲をフィリピンから北、グアムから西としている。明らかに現在の様相とは反しているにも関わらず、条約が解除されることはない。安保条約が改定されたのは1960年の1回だけであり、その際も衆議院で強行採決、参議院では審議されず未了により自然承認という経緯であった。その後、自動延長、「ガイドライン」などによる解釈・拡張が行われ続けている。

ここまで毎年、自国民が苦しんでいるにも関わらずろくな交渉さえしない日本のような国家はない。ドイツでは環境対策や地位協定に関して交渉し、自国の不利益を改善している。韓国でも特に盧武鉉政権以降、米軍に国内法を適用させるよう交渉を続けている。

1959年に「砂川事件」を巡り東京地裁が下した「米軍駐留は憲法違反」との判決に関しては、マッカーサー大使(当時)が最高裁長官と密談し、最高裁での一審判決破棄に結び付けている。すなわち、安保に関しては、憲法に反しているにも関わらず、極めて危ういことを行って存続させてきた。

従って、問題は安保堅持vs.安保破棄などではなく、それ以前の位相にある。

■南北問題と東西問題の連鎖

日本の南北問題における沖縄、沖縄の南北問題における名護市、名護市の東西問題における辺野古、そしてキャンプ・シュワブは知的障害者更正施設・名護学院の重症者病棟の真下に見える。

■国防問題は国の専管事項ではない

岩国市や名護市では、住民投票によって、「国の専管事項」と中央政府によって決められてきたあり方に「ノー」を提示した。負の影響が多大な自治体による、そのような「自治体の対外交渉権」が大事になってきている。さらには、対人地雷禁止条約、クラスター爆弾禁止の「オスロ・プロセス」などでNGOが果たした効果は多大だった。いまや、外交や安全保障を「国の専管事項」とことさらに強調することは時代錯誤である。

■人的交流の効果

欧州の「ヘルシンキ宣言」に盛り込まれた「家族の絆を基礎とする接触および定期的会合」「家族の再結合」が、やがては東西ドイツで分断された家族たちの「会いたい」という力を強め、ベルリンの壁崩壊にもつながった。

それでは大戦が生み出した残留孤児、朝鮮戦争と冷戦が生み出した家族分断や拉致被害者はどうか。六カ国協議は厳しい状況にあるが、いまだASEAN地域フォーラムには北朝鮮は入っている。なお議論はできる。そのとき沖縄が果たすことができる役割は何か。人的交流の拠点を創造できるのではないか。

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セルゲイ・クリョーヒンの映画『クリョーヒン』

2009-06-13 18:49:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

英国のLeo RecordsからDVD『クリョーヒン』(ウラジーミル・ネペヴヌイ、2004年)の購入を勧めるメールがあり、冷静を保てなくなって入手したのが今年のはじめころ。到着してみると、日本語字幕まで用意されているにも関わらずPALフォーマットで、手持ちのDVDプレイヤーでは再生できなかった。あれこれ苦労して調べ、安い再生専用の全フォーマット対応のプレイヤーをようやく探し出した。

『クリョーヒン』は、42歳で亡くなったロシアの天才音楽家、セルゲイ・クリョーヒンに関するドキュメンタリーだ。冒頭、おそらくは8ミリフィルムで撮られた赤ん坊の時代の白黒映像がある。私もロシア製のスーパー8白黒フィルムを1本試してみたことがあるが、妙に固い素材で、しかも最初のあたりは乳剤がしっかりしていないのかちゃんと写っておらず落胆した。しかし当時ロシアでこんなフィルムを撮ってもらっていたということは、裕福な育ちだったのだろうか。クラシックピアノのもの凄い技術があるのも、それなら頷ける。

クリョーヒンは若い頃、ジャズ・ミュージシャンとして評価されていたが、ジャズ仲間からはロックだろと言われていた。逆にアクアリウムなどのロック・グループでは、ジャズと見なされていた。クリョーヒンは、そのように「互いに相容れないもの」を共存させることが好きだったのだと語る。そして、決まった様式での音楽は形式の組み合わせに過ぎない、とまで言う。ポップ・メハニカの信じ難いほど多彩でふざけた詰め込みは、まさにクリョーヒンの音楽だったということだ。

そのポップ・メハニカの映像も多く収録されている(ボーナス映像も1時間近くある)。セルゲイ・レートフがサックスを吹きまくっている。蛇を身体から何匹も出す女性がいる。変な軍人がいる。ウサギなんかの格好をした子供たちが飛び跳ねる。マネキン人形が銃を構えている。動物がうろうろしている。男同士がスローモーションのように格闘を続ける。そんな中を、クリョーヒンが何度もジャンプしてリズムを作っていく。

もう唖然としてしまうほどだ。しかし、中には会場で立ち上がって非難する人たちもいる。そして時には共産党中央から派遣されてきて、お墨付きを与えたという。それに関してクリョーヒンは、イデオロギーの一部になってしまったのだと淡々と振り返っている。

クリョーヒンが出演し、音楽も担当した映画『TWO KAPTAINS 2』の撮影シーンもある。さらには娘と同じピアノを弾く晩年の姿もある(これは、一昨年のイベント「ロシア・ジャズ再考」で上映された)。

沢山の写真を含め、大事な映像が満載だ。嬉しくなってしまった。


『TWO KAPTAINS 2』(映画のサントラ)

●参照 
ロシア・ジャズ再訪―セルゲイ・クリョーヒン特集
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ

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