Sightsong

自縄自縛日記

内山田洋とクール・ファイブ『ゴールデン★ベスト』

2014-04-30 23:47:15 | ポップス

先日乗った飛行機のヴィデオプログラムのなかに、『歌のトップテン』があり、あまりの懐かしさにリピートまでして観てしまった。

番組には、内山田洋とクール・ファイブも登場。ふと自問自答した。「あれ?内山田洋・・・前川清・・・???」 そう、似ているふたり、ではない。内山田洋とクール・ファイブのヴォーカル担当が前川清なのであり、バンマス内山田洋は童顔のギタリストである。混乱したじゃないか。

何を今さら、じっくりと「恋さぐり夢さぐり」を聴いたわけだが、これが痺れる。前川清は、直立不動で、歌う前におもむろにマイクをすっと口の前に持ってきて、悠然と、しかも熱く歌う。他のメンバーによるサックスやハモりもまた良い。そんなわけで、忘れられず、ベスト盤を購入した。毎晩のように聴いては、なにものかに対して恥じらっている。

何しろ、「恋さぐり夢さぐり」だけでなく、「そして、神戸」、「長崎は今日も雨だった」、「噂の女」、「東京砂漠」など、いい曲揃いである。こっそり練習して、今度カラオケで歌ってみようかな。これでわたしも立派なオッサン。

それにしても、前川清の声は素晴らしい。憂いものびやかさもある。昔は、志村けんや欽ちゃんにツッコミを入れられるとぼけたオッサンとしか思っていなかった。

ところで、前川清のオフィシャルサイト「清にゾッコン!」がなかなか愉しい。物販サイト「KIYOSK」(笑)には、「長崎は今日も飴だった」という飴が売っている(笑)。


大西裕『先進国・韓国の憂鬱』

2014-04-30 07:52:09 | 韓国・朝鮮

大西裕『先進国・韓国の憂鬱 少子高齢化、経済格差、グローバル化』(中公新書、2014年)を読む。

韓国は格差社会だと言われる。本書の分析によると、確かに、高齢者の貧困とワーキングプア問題が大きい。また、働く意思を持たない若者も多い。

民主化以降の歴代大統領の政権が、福祉問題を放置していたわけではなく、むしろ積極的に取り組もうとしていた。しかし、それが、アジア通貨危機やリーマンショック、財政不足、イデオロギーの対立、既得権といった高すぎる壁によって、成果をあげることができなかったというのが、実状のようなのである。

とはいえ、韓国は、英米における「働かざる者食うべからず」(=脱商品化のレベルが低い)型の「自由主義」モデルから、市民に手厚く(=脱商品化)、かつ階層によらず平等に福祉サービスを提供する北欧型の「社会民主主義」モデルへとシフトしてきているという。これを、脱商品化を指向してはいるものの、福祉のサービスレベルが職業によって異なる「保守主義」モデルと比較すると、日本と韓国は両モデルの間に位置し、韓国が前者寄り、日本が後者寄り。

なぜか。それは、韓国において職業の流動性が極めて高く、自分自身の帰属する職業の既得権を守ろうとすることに、さほど熱心でないからだという。つまり、日本のように、抵抗組織としての経団連・業界団体やJAといった模式が成り立たないということになる。これには驚かされた。

であるからこそ、米国とのFTAや、最近ではTPPへの参加に熱心なわけである。これが社会として良いものかどうかは別として。

●参照
金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』


「描かれたチャイナドレス」展

2014-04-29 23:54:30 | 中国・台湾

ブリジストン美術館で、「描かれたチャイナドレス ―藤島武二から梅原龍三郎まで」展を観る。

本展には、大正から昭和にかけて、日本人によって描かれたチャイナドレスの絵が集められている。

明らかに、画家の「中国趣味」ブームの結果であり、そのことは、小出楢重が「支那服を描きたい、支那服を描きたい」と熱望し、それに応えるため、周囲の者が中国のモデルを連れてきたという逸話でもわかる(「周秋蘭立像」)。モデルは中国人ばかりではなく、チャイナドレスを着せた日本人のこともあった。安井曾太郎の有名な「金蓉」は、竹橋の国立近代美術館で幾度も観た作品だが、実はそのモデルも日本人であり、また、同じモデルが同じチャイナドレスを着た姿を、正宗得三郎も描いているのだった。

梅原龍三郎三岸好太郎藤田嗣治たちの作品も、それぞれのスタイルが面白い。また、久米民十郎という画家をはじめて知ったのだが、「支那の踊り」における流れるような独特のフォルムは、アヴァンギャルドと呼んでも全くおかしくない。調べてみると、関東大震災のために、30歳で夭折した人であるという。


バルテュス展

2014-04-29 23:25:09 | ヨーロッパ

東京都美術館に足を運び、「バルテュス展」を観る。

さまざまな先人たちの影響を受けたらしい20代前半までの作品は、さほど面白くもない。ところが、25歳以降に描かれた、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』のための挿絵にいたり、バルテュスがバルテュスになっていることに気が付く。この変貌は誰の目にもドラスティックなものであり、思わずニヤリとさせられる。

それ以降の作品は、多様化と円熟があるのみだ。バルテュスの本質的な幹が、あまりにも偉大なる個性として迫ってくる。倒錯と変態性は隠しようがない、というより、奇跡的に作品として昇華している。また、本来の意味でシュルレアリスティックでもある。

傑作を次々に観ていて、「運動」ということばが浮かんできた。身体のパーツおのおのが、バルテュスの目と脳と手を通過して、もっとも欲望を体現するように置かれ、曲げられ、配置される。その結果、全体の調和などよりも、違和感と緊張感とが突出する。そして、このときの作品化の乗り物が、バルテュスにとって、身体をあらわにした少女だったのだろう。


サン・ラの映像『Sun Ra: A Joyful Noise』

2014-04-29 00:39:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

これまで、サン・ラという音楽家=パフォーマーを、何となく敬遠していた。持っていたCDやレコードも、ほとんど手放して手許にない。だって、よくわからないから。

ところが、『Sun Ra: A Joyful Noise』(WinStar、1980年)というサン・ラの中古DVDが1000円で売っていて、入手してしまった。

この1時間のフィルムを観ている間、呆然としていいのか、笑っていいのか、どうしたらいいのか悩ましい無重力空間に連れていかれてしまう。

いい歳をした太ったオッサンが、ヘンにサイケデリックなシャツを着て、顔を微妙に青くペイントして、頭には金網やオスマン兵士のヘルメットのようなものをかぶり、さらに針金をくっつけている。アーケストラのメンバーも、みんなイカレポンチだ。ヴォーカリストは、「宇宙はわたしの声のなかに~」といった宇宙的な歌詞を、実に愉しそうに歌う。サン・ラ自身は、カメラに向かって、やはり宇宙的な抽象論とも駄洒落とも判断できないことを厳かに語っている。何なんだもう。

しかし、演奏が本格的に始まると、これが奇妙にカッコ良い。サン・ラのピアノはブルージーで、オルガンは激しかったり、やはり宇宙的(笑)であったり。セロニアス・モンクの「'Round Midnight」なんて、仮にライヴハウスで聴いていたなら、トリップしていたに違いない。アルトサックスをギターのように叩きながら吹くマーシャル・アレンにも仰天である。

世界がこうあってくれたら、確かに素晴らしいかもしれないと思ってしまう解放感。百聞は一見にしかずとは、このことだ。

以前、新宿ピットインでのライヴ3枚組を持っていた(移転前か)。かれらはどんな様子で新宿を闊歩したのだろう。


篠田正浩『はなれ瞽女おりん』

2014-04-27 23:42:49 | 東北・中部

篠田正浩『はなれ瞽女おりん』(1977年)を観る。

瞽女(ごぜ)とは盲目の女旅芸人。そして、はなれ瞽女とは、瞽女に禁じられている男との関係を持ってしまったために、仲間から追放され、ひとりで旅をしなければならない瞽女。

主人公の瞽女・おりん(岩下志麻)は、目が見えないために、あまりにも酷な生活を強いられる。ある日から、おりんは、陸軍の脱走兵(原田芳雄)と心を通わせ、一緒に、柏崎や長岡で旅をすることになる。やがて陸軍の捜索の手がのび、男は捕らえられる。救いようのない物語である。

撮影は、名カメラマン・宮川一夫による。おりんが初潮を迎え、雪の上に赤い血を落とす、それが紅い花になる(誰かがつげ義春を読んでいたのだろうか?)。また、夕刻、しゃがむおりんの肩に、花びらが舞い落ちる。目を奪われる、さすがの名人芸だ。

●参照
橋本照嵩『瞽女』
篠田正浩『処刑の島』
篠田正浩『悪霊島』


『けーし風』読者の集い(23) 名護から吹く風

2014-04-27 09:55:48 | 沖縄

『けーし風』第82号(2014.4、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2014/4/26、明治大学)。参加者は10人、プラス、飲み会に2人。

本号の特集は「名護から吹く風」と題されている。今年(2014年)の1月に、名護市長選において、辺野古反対を掲げる稲嶺市長が再選された。それを受けて、地域の自治や自立のあり方、さらに11月に予定されている沖縄県知事選をにらんだものとなっている。

以下のような話題。

高江のヘリパッド問題。映画『標的の村』の上映が全国で草の根的に行われ、問題についての理解がじわじわと広がっていることを期待。もとより、辺野古とは対照的に全国放送では避けられてきたテーマでもあり、もっと知られなければならない。
○高江での座り込みに参加している目取間俊氏は、本号で、「時たま」やってきて「絵になる場面」を取りだす「メディアや写真家、ドキュメンタリー作家」に対して、また現場に来なかった「県内の大学教員をはじめとした「識者」の人たち」を批判している(p.51)。それは、この作家のスタイルでもあり、そのことによる役割も大きいのだが、「オール沖縄」としての運動を許さないものでもないか。
○このことは、今度の知事選において、翁長・那覇市長を含め、いかに運動を収斂させるべきかという論点に直結する。先日の東京都知事選において、「反原発」を掲げた2候補が票を集約できなかったことも思い出される。
やんばるの森については、世界自然遺産登録という考えが従前からある。それだけでなく、国立公園・国定公園や、ISOなどの利用が考えうるのではないか。
宮古島の「九条の碑」にペンキが塗られた事件(p.2)。宮古を含め、先島ではこれまで見られなかった動きである。2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を潮目として、中国脅威論を語る者が増えてきたという。また、与那国島の自衛隊誘致は、もとより経済効果だけを期待してのものであった。しかし、それが進められた結果、同様の流れが生まれてきている。
○「軍隊は住民を守らず、軍隊自身を守る」という沖縄戦の経験は、歴史的記憶として残されてきた。しかし、この継承が十分でないことを、シビアにみるべきなのではないか。むしろ、忘却しようとする動きの方が大きいのではないか。
加藤直樹『九月、東京の路上で』では、関東大震災(1923年)直後に、朝鮮人・中国人だけでなく、沖縄人も虐殺の脅威にさらされた。このことを、山之口獏も「野宿」において書いている(『現代沖縄文学作品選』所収)。これも歴史の継承である。また、現在のヘイトスピーチに直結するものでもある。
○住民は、政策により厳しい立場に追い込まれ、さらに脅威やオカネで迫られると、諦めとともにその政策を受け容れてしまう。原発立地と同じ構造がある。
○その一方で、高橋哲哉『犠牲のシステム』前田哲男『フクシマと原発』などのように、沖縄と原発とを同列に論ずることへの批判が出てきている。(たとえば、冨山一郎『流着の思想』島袋純「辺野古新基地建設の是非」)。
○最近のアンケートでは、沖縄の首長の3割ほどが、仲井間知事の辺野古受け容れに賛成を示しているという。これは、「オール沖縄」としての「建白書」(2013年1月28日)(p.30)と矛盾するのではないか。首長はそこまで容易にスタンスを変更するものか。なお、「建白書」は政府において「請願書」ではなく「行政文書」として扱われ、2年で廃棄されるという。
○諦めや絶望に起因する「独立論」が伸びているという。このことは、新崎盛暉『沖縄現代史』およびその前の『沖縄戦後史』において、すでに見通しとして示されていた。
オスプレイは米軍機ゆえ、日本の航空法の対象外となっているが、自衛隊が購入する分については対象となるはずのものだ(前回の会で指摘)。しかし、その後確認したところ、これも対象外とされているのだという。
奄美は1953年末に日本に返還された(『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』)。このとき、沖縄との間には複雑な関係が生まれた。したがって、「オール沖縄」というときには、歴史的に自覚的でなければならない。

終了後に近所の「謝謝」で飲み会。奄美ご出身の方から、里国隆の話を聴くことができた。

●参照
これまでの『けーし風』読者の集い


山岡淳一郎『インフラの呪縛』

2014-04-27 08:45:04 | 環境・自然

山岡淳一郎『インフラの呪縛 ―公共事業はなぜ迷走するのか』(ちくま新書、2014年)を読む。

土建国家、公共事業の暴走。それが、これまでの日本を表現するためにしばしば使われてきた言葉である。

本書には、それを裏付けるように、さまざまな事例が紹介されている。佐久間ダム九頭竜ダム八ッ場ダムといった巨大ダムによる電力供給、治水・利水、環境破壊、地域破壊、不正。満州時代からの野望ともいえる高速道路の建設。本州四国連絡橋の誘致合戦。国鉄の肥大化。

インフラ整備の過程は、需要との整合性がはっきりせず、事業性や効率よりもはるかに政治的合意のほうが重視され、それだからこそ、非民主的で、不透明であった(である)。

しかし、その一方で、本書は、公共事業への極端な批判を行き過ぎだとする。そして、必要なことは、中長期的なインフラの姿というヴィジョンを掲げて国土整備し、産業や経済もそれによって活性化させることである、と。わたしも、そのことには賛成である。

それでは、どのようにインフラ整備の過程に関わる問題を解消するのか。それなしに「新たなヴィジョン」を示すだけでは、従来の問題構造が解消されるわけはない。(そうではないのだが、)本書のメッセージは、現実を必要悪として是認するように読まれてしまうのではないか。

●参照
熊井啓『黒部の太陽』
姫野雅義『第十堰日誌』 吉野川可動堰阻止の記録
『八ッ場 長すぎる翻弄』
八ッ場ダムのオカネ(2) 『SPA!』の特集
八ッ場ダムのオカネ
ダムの映像(2) 黒部ダム
ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム
天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集

 


アルド・ロマーノ『New Blood Plays "The Connection"』

2014-04-25 07:31:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

アルド・ロマーノ『New Blood Plays "The Connection"』(Dreyfus、2012年)を聴く。

Aldo Romano (ds)
Baptiste Herbin (as)
Alessandro Lanzoni (p)
Michel Benita (b)

言うまでもなく、『The Connection』は、シャーリー・クラークによって映画化された演劇であり、そこには、ジャッキー・マクリーンフレディ・レッドらが出演して演奏している。その演奏集は、フレディ・レッドをリーダーとする有名なアルバム『The Music from "The Connection"』(1960年)として出されている。また、翌年には、ハワード・マギーが、同名のアルバムを出してもいる。

ロマーノによるこの盤も、過去の2枚も、何と、すべて同じ曲を同じ順番で演奏している。違いは、本盤のみ3曲後ろに追加していることだが、それはさほど面白くもない。

60年盤は、オリジナルだけあって「初物」の勢いに満ちている。聴きどころは、すべて秀逸なレッドのオリジナル曲と、レッドのピアノが湛える独特の悲哀的な雰囲気と、そして何よりマクリーン節だ。

61年盤でもレッドが参加し、素晴らしい存在感を見せつけている。サックスは、マクリーンのアルトではなく、ティナ・ブルックスのテナー。兄弟的に語られることもあった2人だけに、雰囲気には共通するものが確かにある。そして、リーダーのマギーがトランペットで参加し、2管になることによって、よりハード・バップならではの気持のよい勢いを生み出している。これはこれで、何度聴いても飽きることがない。

そして12年盤。わたしにとって、ロマーノのドラミングは、引き締まったミドル級ボクサーが小気味よく、力強く繰り出すジャブとワンツーなのである。スピーカーから前さばきのボクサーの音が飛び出てくると、やはり嬉しい。アルトサックスのバティステ・エルバン(と読むのか?)は、もともとそうなのか、あるいはオリジナルへの敬意によってなのか、マクリーンを思わせる粘っこい音色である。アンディ・シェパード『Trio Libero』(2012年)にも参加していたミシェル・ベニータの、残響を大事にしているようなベースも良い。

コンセプトも曲も何ら新しくないが、演奏は紛れもなく現代のものだ。


アルド・ロマーノ(2010年、パリ) Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+2増感)、フジブロ4号

●参照
オーネット・コールマン集2枚(アルド・ロマーノ『To be Ornette to be』)
マイケル・ラドフォード『情熱のピアニズム』 ミシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリー(ロマーノ出演)
アルド・ロマーノ、2010年2月、パリ
ジャズ的写真集(5) ギィ・ル・ケレック『carnet de routes』(ロマーノ出演)
ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー(ロマーノ出演)
キース・ティペット+アンディ・シェパード『66 Shades of Lipstick』、シェパード『Trio Libero』(ベニータ出演)


長沼毅、井田茂『地球外生命』

2014-04-22 07:43:38 | 環境・自然

長沼毅、井田茂『地球外生命 われわれは孤独か』(岩波新書、2014年)を読む。

どのような条件下で、生命が誕生し(約40億年前)、存在しているのか。わたしの知識はずいぶん前の聞きかじりに過ぎない。本書を読むと、科学的な知見やデータが吃驚するくらい蓄積されていることがわかる。

生命の誕生については、長年、「原始スープ説」が主流であった。有機物が多い海の中で、電気などのショックにより、長く結合していったという説である。これに加え、深海の熱水近くで、鉱物の表面で有機物が反応したという「原始クレープ説」、火星で発生した生命が隕石に付着してやってきた「火星起源説」、彗星(実は有機物に富んでいる)の上で太陽にあぶられて反応が進んだという「彗星起源説」といったさまざまな説が提唱されている。根拠なき話ではない。

生命が、高度な生物に進化していくためには、陸域の存在、酸素の大量発生が重要なファクターであるという。そのため、海のある惑星において、仮に生命が存在していたとしても、なかなか知性が生まれるには至っていないのではないか、とする。いまの段階では、地球が如何に奇跡的な環境にあったのかを示すものだといえる。

もちろん、生命の存在自体が、科学史における最大級の発見となる。しかも、候補は冗談のように多く、夢物語ではないようだ。この分野の伸びしろはとても大きいのだということが、実感できる本である。


赤塚不二夫『マンガ狂殺人事件』

2014-04-20 21:58:42 | もろもろ

この間、サンリオSF文庫を物色しようと入った古本屋で、隣に、赤塚不二夫『マンガ狂殺人事件』(作品社、1984年)というものがあった。つい、衝動的につかんでしまった。

トキワ荘やら、スタジオ・ゼロやらで、殺人事件が起きるが、犠牲者の松本零士や横山光輝は実は仮死状態。そのすべてに、つげ義春が関与しており、犠牲者の横には「ねじ式」だの「ゲンセンカン主人」だのといったメモが落ちている・・・といった、まったく内輪ネタばかりの実にバカバカしい話。(面白かったけれども。)

この中で、つげ義春の肩からはライカが下がっている、とあるが、ここにはリアリティがない。つげ義春の収集したカメラは日本製の渋いものばかりの筈で、実際に、「芸術新潮」誌のつげ義春特集(2014年1月号)に掲載された写真の中にも、ライカはなかった(たぶん)。つげ義春の妻・藤原マキの画文集『私の絵日記』に、つげ義春がカメラをいじくっている絵があったが、別に細密に描かれたものでもなく、どんなカメラかの手掛かりはなかった。

ところで、作家でない有名人に「○○狂殺人事件」を書かせる「RADICAL GOSSIP MYSTERY」シリーズがあったようで、巻末にはヘンなものがいくつか紹介してある。タモリ『タレント狂殺人事件』、山本晋也『ポルノ狂殺人事件』、ビートたけし『ギャグ狂殺人事件』、荒木経惟『写真狂殺人事件』、おすぎとピーコ『映画狂殺人事件』、立川談志『落語狂殺人事件』・・・。ああ、あほらし。


ホレス・シルヴァー with ルー・ドナルドソン『Live in New York 1953』

2014-04-20 11:02:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

ホレス・シルヴァー with ルー・ドナルドソン『Live in New York 1953』(Solar Records、1953年)という、未発表音源が出ていた。

Horace Silver (p)
Lou Donaldson (as)
Jimmy Schenck (b)
Lloyd Turner (ds)

録音が1953年9月14日。ニューヨーク・バードランドでのシルヴァーやルー・ドナルドソンのライヴ録音といえば、アート・ブレイキー『A Night Birdland』をどうしても思い出すが、それは1954年2月21日。つまり、ブレイキー、シルヴァー、ドナルドソン、クリフォード・ブラウンらによる歴史的なセッションの5か月前の録音ということになる。

1951年にニューヨークに出てきたばかりのシルヴァーは、このとき25歳。また、ドナルドソンは26歳。この録音はあまり音質がよくないが、かれらの勢いと個性は十分すぎるほど感じ取ることができる。

シルヴァーの延々と続くピアノソロは文字通り熱い。同じ音をしつこく繰り出すスタイルは、当時のシーンにおいて、どのように受けとめられ、歓迎されたのだろう。ここではジャズ・スタンダードが中心だが、その後、ユニークな作曲により、さらに魅力を増していく。昨年末(2013年)、シルヴァー死去のデマが流れたことがあった。そんな事件で思い出していないで、もっと、この不世出のピアニストを聴かなければならない。

ドナルドソンは、その後のまったりと艶やかなスタイルよりも、火が出るようなアルトソロを取っている(これはブレイキーの名盤においても同じ)。わたしも昔、「Blues Walk」のコピー譜をせっせと真似したこともあって、親近感がある人なのだ。90年代前半だったか、「マウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァル」において、「Misty」や「Alligator Bogaloo」を聴いて、ずいぶん気持がよかった。その後は演奏を観ていないが、どこかの雑誌で、「ケニーG!」と自己紹介してゲラゲラ笑うという記事を読み、オヤジめと思った記憶がある。もう87歳、今年来日するようだ。また観てもいいか・・・。


E・L・ドクトロウ『ダニエル書』、シドニー・ルメット『Daniel』

2014-04-20 00:59:07 | 北米

ようやく、E・L・ドクトロウ『ダニエル書』(サンリオ文庫、原著1971年)を読み終えた。

時空間も、語り手も、話題も、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするスタイルがドクトロウの特徴のようだが、そのわかりにくさに加え(これを英語で読みこなす自身はない)、翻訳が生硬で読みにくかったのである。とは言え、後半になるに従って、だんだん面白くなってきた。

戦後、米国ではマッカーシズムという名の反共産主義=赤狩りの嵐が吹き荒れた。その状況下で、ローゼンバーグ事件(1950年)が起きる。左翼活動を行っていたローゼンバーグ夫妻が、FBIによって突然逮捕され、死罪に処せられた事件である。ソ連への情報提供というスパイ容疑であったわけだが、これは、冤罪かつ活動弾圧であるとして激しい反対運動を起こすことにもなった。(もっとも、夫妻は実際にスパイであったようである。)

小説の主人公・ダニエルの両親アイザックソン夫妻は、このローゼンバーグ夫妻をモデルとしている。まさに、当時の苛烈な弾圧と、社会全体での同調圧力や反共ヒステリーとが、これでもかと言わんばかりに執拗に描かれており、現在の日本と共通する雰囲気をも感じさせるものだ。また、その一方で、弾圧される側=リベラル左翼の、あまりにもナイーヴで教条主義的な姿も描かれている。現実社会で生きるとは、多かれ少なかれ、清濁併せ呑むことでもある。

この小説が優れている点は、さまざまな立場で動いた者たちを、パラノイア的に、ミクロな権力の流れを集積することで描いてみせたことだ(つまり、権力関係は、フーコーの言うように、隣り合う小さなモノの間にも発生する)。読みにくいのは仕方がない。

ドクトロウは、最新作『Andrew's Brain』(2012年)でも、この独自なスタイルを続けている。あまり好みではないが、異能の作家と言えるのかもしれない。

『ダニエル書』は、シドニー・ルメットによって、『Daniel』(1983年)として映画化されている。日本未公開ゆえ、北米版DVDを入手した。

ほぼ原作のストーリーを踏襲しており、さすが名匠ルメットの手によるものだけあって、それなりに面白い。

ただ、原作の精神からのつながりでみるならば、この映画は、表面をなぞっただけの代物だと言うことができる。ストーリーや、50-60年代の米国の風景や、社会運動の様子などを見せてくれるわけだが、それは本来不要な要素だった。パラノイア的なミクロな権力関係や、ドグマにとらわれた人びとの挙動こそが原作小説の核なのであり、それらは、この映画の中にはない。アイザックソン夫妻の死刑場面が映画のクライマックスであるなど、くだらぬ限りである。脚本もドクトロウによるもののようだが、本人はどう考えていたのだろう。

●参照
E・L・ドクトロウ『Andrew's Brain』