Sightsong

自縄自縛日記

『けーし風』読者の集い(15) 上江田千代さん講演会

2011-10-29 23:36:00 | 沖縄

『けーし風』第72号(2011.9、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した。今回は編集者のSさん、Oさんのご尽力により、元「ひめゆり学徒」の上江田千代さんの講演会になった。

上江田さんは1929年、現在の那覇空港あたり、小禄村の生まれ。沖縄師範学校に入学、1年生ながら動員され、戦火のもと奇跡的に生き延びて、戦後は平和教育を行っている。なお、上江田さんの上の学年の子たちが看護要員として陸軍病院に動員され、のちに映画などになっている。

ヴィデオで『1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦』(1995年)の抜粋版を観たあと、上江田さんが話をした。

○5歳のころ、小禄に沖縄ではじめての飛行場ができた。接収は収穫前の農地を無造作に扱うなどひどいやり方だった。この飛行場は、次第に軍部が使うようになった。近くに予科練(海軍の練習設備)ができた。そのため、小さいころから予科練の歌を歌って育った。
○皇民化教育を受け、軍国少女になった。教育勅語では、いざという時には死んで国に尽くせと教わった。
○教師になりたくて師範学校に入った。ここは国がオカネを潤沢に支給するところで、それが裏目に出て、「看護要員を出せ」ということになったのだ。
○戦時中、食糧は配給制、衣類は切符制であり、米軍の攻撃により沖縄まで物資が届かなかったこともあって非常に辛かった。後で、国家予算の75-80%が軍備のためだったと知った。
○セーラー服は敵国の服であるから許可されず、そもそも衣類が足りないため、父親の着物をリフォームして着た。壕の中では白い服はご法度だった。戦時中のもので残っているのはその服だけ、もうぼろぼろだが、父親の肌のぬくもりを感じられるようで宝物だ。


上江田さんは父親の着物をリフォームして作った服を持ってきた

○動員され、学校のある首里から小禄飛行場まで8kmの道のりを2時間弱かけて毎日歩いた。そこでは堀を掘り整地する作業をさせられ、その後、高射砲の陣地造りなどもやった。食事は芋一切れと牛蒡、塩汁(「太平洋汁」と称した)。倒れる人がいなかったのは、消灯になると絶対に寝なければならず、睡眠を十分に取っていたからだろう。
○1944年10月10日の「10・10空襲」では、那覇の街が真っ赤に燃えるのが見えた。文字通り那覇は焦土になり、コンクリだけ残った。米軍は、飛行場、那覇軍港、那覇の街の3箇所を狙ったのだった。
○豊見城村名嘉地で両親の無事を確認、その後、イトコのいる豊見城村渡嘉敷に移動した。壕のいい場所は軍隊が使っていた。ここで師範学校生だとわかるや働けということになった。
○ところで、壕には2種類がある。南部に多い天然のガマと、斜面に横穴を掘った手作りのもの。戦時中、ガマは見たことがなかった。横穴式は非常に危険なつくりだった。この壕に入った瞬間に、尿と血と膿の臭いが押し寄せてきたが、じきに慣れた。
○食糧は塩むすびを1日に1個。
○負傷した兵隊に水を飲ませると、「ありがとう」の声が数日後に「あ、り、が、と、う」になり、次第に唇の動きだけになり、余命がわかった。生き地獄だった。
○壕の中では生理が止まる。恐怖や食糧状態のためだ。ひめゆり学徒の映画では生理のため女学生がおなかを押さえるシーンがあったが、まったくの誤認だ。許されない白衣を着ているシーンさえあった。
○ある日寝ていると、中年の将校が「家族のことが気になる」と話すのが聞こえた。そんな私的なことは話さなかった筈で奇異に思っていると、翌日、撤退命令が出た。要は歩ける者だけが南部に退くわけであり、そうでない者は殺すということだった。そして手榴弾が配られた。
○日本軍の兵隊たちの中には、逃げて生き延びろと言ってくれる者もいた。
○食糧の中では、栄養価の高い黒砂糖がもっとも役に立った。女性に必要な鉄分も含まれていた。
○夜中に逃げていて米軍の照明弾が上がると、道の周りにバラバラ死体が数多く見えた。死にかけた者が訴える「お水~」という声を忘れることはできない。そして、気がつくと死体の上を歩いていた。
○途中で伯父さんが脊髄をやられて草の上で亡くなった。イトコたちは泣かなかった。極限状態だった。
○すでにその頃、肉眼で米兵が見えるような距離に近付いてきた。彼らは民家に火を放っていた。
○「生きて虜囚の辱めを受けず」との教育を受けていたので、自決しようと救急鞄を開けたところ、あるはずの手榴弾がなかった。どうやら、自決しないよう父が無断で捨てていたのだった。沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。
○6月20日、父が壕を探していたところ銃で撃たれ即死した。母は見ていなかった。夜中のことであり(米軍は奇襲を恐れ昼間に行動)、また1発のみを発射する方法であったことから、日本兵が撃ったものだとわかった。直後に逃げる日本兵が見えた。
○実はこのことを戦後50年間誰にも言わなかったため、日本兵が民間人を殺した統計には入っていない。この統計は申告に基づくものだから、このようなケースや、一家全員が殺された場合などは含まれていない。
○壕の代わりに亀甲墓の中に隠れた。既にいた負傷兵たちは傷口をウジに食われ、痛がっていた。取ってやると感謝された。6月20日はウジとのたたかいの日だった。
○弾が来なくなり、それは近くに米兵が迫っている証拠であるから怖れていると、「抵抗しないで出てこい」との拡声器の声が聞こえた。そして爆弾が投げられ、中のほとんどが死んだ。自分は小さな穴に入っていて、母がかばってくれたので助かった。
○他の助かった女性が先に出て、外から「アメリカ兵は殺さないようだから出てきなさいよ」と叫んできた。もう3ヶ月も夜中だけ行動していたため、外に出るとまぶしくて目が開けられなかった。そこにまるで赤鬼のような米兵が立っていて、水をくれた。そして集められ、そこで殺されるのかと思っていると毛布をくれた。
○翌6月21日、トラックで知念村山里に移動させられた。ここには木々も水もあった。その後、那覇の宇栄原(ウエバル)に移った。
○まったくみじめではなかった。何しろもう弾が降ってこないうえ、青空のもとを堂々と歩けるのだ。たったそれだけで幸せだった。
○日本は変な方向にまた動いているとはいえ、まだそれほど怖ろしい状態ではない。いまの平和を大事にしてほしい。いっしょに平和を護りましょう。

ところで戦後、上江田さんは糸満高校に入っている。そこで、米兵の服の生地に米兵の靴紐を刺繍して、校章を作ったのだという。上江田さんが持参した実物を見せていただいた。「IHS」(イトマン・ハイ・スクールの略)が刺繍されたそれは、丁寧に作られていた。上江田さんは、もう作れませんと繰り返した。

講演後、ごく短い時間ながら、全員でいつものように話をした。辺野古のことで気になる公有水面埋立特措法が本当に作られることはないのか、一坪反戦地主会のYさんに訊ねた。一応は全国を対象にしている駐留軍用地特措法と異なり、今度はあからさまに沖縄に特定した特措法になるわけであり、それはあり得ないだろうとの見解。まずはアセスの「評価書」を出さないよう防衛省に、受け取らないよう沖縄県知事に働きかけることが大事だとのことだった。

●ひめゆり
今井正『ひめゆりの塔』
舛田利雄『あゝひめゆりの塔』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(上江田千代さん)
沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会(上江田千代さん)

●けーし風
『けーし風』読者の集い(14) 放射能汚染時代に向き合う
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ
『けーし風』読者の集い(12) 県知事選挙をふりかえる
『けーし風』2010.9 元海兵隊員の言葉から考える
『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄

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山田典吾『死線を越えて 賀川豊彦物語』

2011-10-29 08:40:39 | 関西

山田典吾『死線を越えて 賀川豊彦物語』(1988年)を観る。科学映像館で配信しているのは40分の短縮版である。ちょうど隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波現代文庫、原著1966年)を読んだばかりだ。

>> 『死線を越えて 賀川豊彦物語』

映画は賀川が労働運動に取り組む前、一度は宣告された死を意識して神戸・新川の「貧民窟」に移り住み、キリスト教の伝道に勤しむ様を描いている。監督の山田典吾は、『はだしのゲン』三部作(1976、77、80年)を撮った人であり、映画的に光る何かは全くと言っていいほどない。むしろどん臭いと言うべきだ。スノッブな映画ファンには無縁か。

しかし、それはそれとして、よく出来た教育映画ではある。脇役には長門裕之や黒木瞳、そして美術監督が木村威夫である。ここでは木村威夫はオーソドックスに、スラムのリアルさ作りに徹している。

自分を含め、「ベタ」だと思うのであれば、なぜ「ベタ」だと思うのかを考えなければならないのかもしれない。キリスト教は自分の生まれ育った環境にはないものであったし(そもそも自分は無宗教・無信仰である)、スラムという社会だってそうだ。すなわち「外部」ということである。おそらく「外部」視してしまうことこそに焦点を合わせなければならない。

同じ科学映像館で配信している、山岸豊吉『賀川豊彦の生涯』(1980年)については、以前からよくあるエラーが出て観ることができなかった。他のソフトが邪魔している可能性があるらしく、Realplayerなんかをアンインストールしたのだが効果がない。

●参照
隅谷三喜男『賀川豊彦』
『はだしのゲン』を見比べる(山田典吾)

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)
『たたら吹き』、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(製鉄)
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(カワウ)
『花ひらく日本万国博』(大阪万博)
アカテガニの生態を描いた短編『カニの誕生』
『かえるの話』(ヒキガエル、アカガエル、モリアオガエル)
『アリの世界』と『地蜂』
『潮だまりの生物』(岩礁の観察)
『上海の雲の上へ』(上海環球金融中心のエレベーター)
川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(金大中事件、光州事件)
『与論島の十五夜祭』(南九州に伝わる祭のひとつ)
『チャトハンとハイ』(ハカス共和国の喉歌と箏)
『雪舟』
『廣重』
『小島駅』(徳島本線の駅、8ミリ)
『黎明』、『福島の原子力』(福島原発) 
『原子力発電の夜明け』(東海第一原発)
戦前の北海道関係映画

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『Number』の「決選秘話。」特集

2011-10-29 00:17:47 | スポーツ

『Number』(文藝春秋)が、「秋のプロ野球名勝負 決選秘話。」と題した特集を組んでいる。何しろジャイアンツの桑田ファンであったから、1994年の「10・8」が表紙であれば買わないわけにはいかない。

珍しく感情を剥き出しにした「10・8」の落合博満、89年のラルフ・ブライアントのホームラン連発、軟らかい今中慎二のピッチング、88年「ロッテ近鉄戦」の阿波野秀幸、ライオンズ商売カラーなんぞに浸されてしまった清原和博、92年日本シリーズでの杉浦享のサヨナラ満塁ホームラン、翌年の日本シリーズで清原を見事に抑えた高津信吾、いちいち懐かしくて、そのころの自分のことも思い出したりして、身動きが取れなくなってしまう。ああ、プロ野球は面白かったんだなあ。

もちろん今でも凝視したい選手は何人もいる。ダルビッシュ有や林昌勇や杉内俊哉のキレ、和田毅のタメ、鳥谷敬のシャープな打撃、金城龍彦の規格外の動き、藤川球児の渾身の球、阿部慎之介の天才的な振り。

セパ交流戦やクライマックスシリーズは、確実に日本シリーズのかけがえのなさを奪ってしまったし、それがプロ野球の愉しさも減じてしまったような気がする。この雑誌にまるで神話であるかのように記された過去のドラマを反芻すると、なおさらそう思う。それに、西本聖や桑田真澄のような怨念の塊的な選手がいなくなってしまった。ジャイアンツの東野峻にあの怨念が少しでも乗り移ったなら凄い選手になると思うぞ。

でもWBCは楽しみだな。そのうち勝手なベストオーダーを作ろう。

●参照
平出隆『ベースボールの詩学』、愛甲猛『球界の野良犬』
パット・アダチ『Asahi: A Legend in Baseball』、テッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日軍』
2010年6月12日、イースタンのジャイアンツ
WBCの不在に気付く来年の春
山際淳司『ルーキー』 宇部商の選手たちはいま
『Number』の清原特集、G+の清原特集番組、『番長日記』
『Number』の野茂特集
北京にあわせて『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』
野茂英雄の2冊の手記

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隅谷三喜男『賀川豊彦』

2011-10-25 00:42:14 | 思想・文学

隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波現代文庫、原著1966年)を読む。賀川豊彦は実践をもって自らのアイデンティティを確立したキリスト者であり、オビにあるように、労働運動、農民運動、生協運動、平和運動をリードした人物である。彼の功績は米国で認められ、米国側の推薦により、ノーベル平和賞、ノーベル文学賞の候補にもなっている。ちょうど興味を持っていたところ、評伝が岩波現代文庫から再発された。

著者の故・隅谷三喜男は、賀川の思想のあやしい側面も充分に認めつつ、賀川の画期的な業績を評価している。それは、賀川が運動を先導してきただけではなく、自らの身体に鞭打ちながら、神戸の「貧民窟」に敢えて住み、全国津々浦々でキリスト教の伝導を続けたという「実践の人」であったからに他ならない。それに比べれば、「宇宙悪」のような壮大なヴィジョンも、無手勝流の理解に基づく科学の利用も、戦後の天皇制の支持も、業績を覆すほどの話ではない、というわけである。

賀川が貧民問題に頭を悩ませていたころ、大逆事件が起きた(1910年)。著者によれば、連座を免れたアナーキスト大杉栄と賀川とはその方向性が真逆であったという。大杉が直接行動での権力への対抗を是としたのに対し、賀川にとっては、それは短期的な闘争であって、心からの世界の変革ではなかった。従って、「極左」が入ってくる労働運動や農民運動には馴染めなかったのも当然だということができる。

「暴力や、武力や、金力で築き上げた、外面的な仮想的な権威の下に出来上った社会組織はすぐ潰れて了ふ。そんなものゝ上に我等は新社会を築きたくは無い。理想主義を捨てた時に労働組合は社会改造の動機としての使命を喪失して了ふのである。」

彼の説く主観経済学も、経済学などではなく、心の哲学であった。賀川にとっては、「労働者は単に商品ではない」ではなく、「労働者は商品ではない」が正しい考えであった。これではいくらなんでも経済の理解ができるわけはない。しかし、彼は生協運動をおし進めた。経済社会の理解と実践とは斯様にすり合わないものだ。

魂の救済は賀川にとっては抽象的なものではなく、生活と密着すべきものであった。その思想はあまりにもイノセントな、ヴァルネラブルな思想である。確かにおかしな面は多々あるのだろうが、資本主義経済がいびつな姿を見せ続けているいま、賀川の友愛の信念はすくいあげる重要なことを孕んでいるに違いない。とはいっても、鳩山首相が「友愛の政治」を改めて持ち出したときの社会の嘲笑をみると(これが内容や強度を伴うものであったかどうかは別として)、賀川の思想は永遠に異端のままであり続けるのかもしれない。

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西川伸一講演会「政局を日本政治の特質から視る」

2011-10-24 01:18:13 | 政治

西川伸一・明治大学教授による講演会「政局を日本政治の特質から視る」に足を運んだ(2011/10/23、文京区民センター)。レジュメのサブタイトルに、「「次」「副」「補」に注目して」とある。首相や閣僚だけではわからない政治的意図の見方についてのプレゼンだった。

以下、講演の概要。

○内閣には、「次」「副」「補」がつくポストとして、①内閣官房副長官(議員2名+官僚1名)、②内閣官房副長官補(官僚3名)、③内閣総理大臣補佐官(議員5名)、④内閣総理大臣秘書官(首相が官邸に連れてくることのできる気心が知れた面々、官僚7名)、⑤各省の事務次官(歴史的な成立順=「建制順」で書かれる)、がある。
○「官邸」とは、狭義には、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣官房副長官(上の①、3名)の5名を指す。第1次小泉内閣(およびその第1次改造内閣)においては、福田官房長官、安部・上野・古川官房副長官という顔ぶれだった。
内閣官房長官は、「調整」(対等者間の折衝)がつかない場合の「総合調整」を行うミッションを持つ。閣議の進行役であり、日に2回の記者会見を行う。メディアで「政府首脳」と表現された場合、大抵それは官房長官のことである。
内閣官房副長官(上の①)は、自民党政権では若手の登龍門的なポストであり、小渕も、北朝鮮拉致問題で名を売った安部も、これを経験した。民主党政権になって、ポストの位置付けが不明確になっている。
内閣官房副長官(上の①)のうち「事務副長官」は官僚から選ばれる最高ポストであり、閣議事務次官会議(民主党政権になってから中止)の両方に出るのはこのポストだけ。「政官関係」の結節点がこのポストである。
内閣官房副長官(事務)には、通常、民間や政治との関係が深すぎないよう、旧内務省系(警察、総務省、厚生労働省など)から選ばれる。国土交通省は旧内務省系であっても偏っていると言われるおそれがあり、回避される。財務省は予算をおさえているため、さらに人事までおさえさせることへの抵抗が強く、やはり回避される。野田内閣の竹歳官房副長官は国交省出身であり、異例人事だった。
○安部政権での的場官房副長官(事務)は大蔵省(当時)出身であったが、この場合、本人が大蔵省を辞めて16年程度経っており、安部首相との仲が良かったという事情があった。安部はこれをもって「官邸主導」と称したが、16年も離れていた者に「総合調整」ができるわけもなく、これが安部首相辞任の一因であったとも評価されている。その前後、小泉政権と福田政権のときの二場官房副長官と安部とは女系天皇の問題で仲が悪く、福田政権時に再登用したのは秩序回復と、ひょっとしたら「当てつけ」のためであった。
事務次官会議では、閣議(火、金)にかける案件を最終チェックする(前日の月、木)。いずれかの省の事務次官が反対した案件は、閣議にはかけられない。菅直人はこのことを批判していた。
事務次官会議は内閣制度発足以降、法制度に基づかないにも関わらず、慣習として119年も続いた。議事録が作成されない、驚くべき会議である。
○鳩山政権になり、政治主導のため、事務次官会議が廃止された。しかし、やはりうまくいかないとの批判もあった。東日本大震災後に「各府省連絡会議」が設置されたが、これが事務次官会議復活的なもの。9月以降、テーマを震災に限らない「連絡会議」を行うと決められた。現在は金曜日だが、そのうち月、木になる可能性だってあるのではないか。
○野田内閣では、勝財務次官とのつながりが強く、片山虎之助が「財務省主導」「「直角内閣」ではなく「直勝内閣」だ」と揶揄している。勝次官は人望があり、「10年に1回の大物」であるとも言われている。
○増税路線については、勝次官を通じた財務省の刷り込みが効いているのではないか。野田首相はそれらの情報インプットにより「知識汚染」状態にあるのではないか。
○官僚が過去の失政の責任を負わない原因には、2-3年置きに異動することと稟議書文化が挙げられるのではないか(責任の所在があいまいなものになる)。

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イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』

2011-10-23 12:33:36 | 中東・アフリカ

イエメンサレハ大統領が辞める辞める詐欺を繰り返しているうちに、リビアではカダフィ大佐が殺されてしまい(1989年にルーマニアのチャウシェスク大統領が殺され、全世界に映像が流されたことを思い出した)、イエメンやシリアへの影響はますます不可避と見られている。

そんなわけで、思い出して、イエメンを舞台とした映画、ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』(1990年)を観た。原題は『Rules of Engagement』、すなわち「交戦規定」である。

チルダース大佐(サミュエル・L・ジャクソン)と退役軍人ホッジス(トミー・リー・ジョーンズ)とは、ベトナム戦争を共に戦った米海兵隊仲間である。ある日、イエメンの首都サヌアにある米国大使館で、市民によるデモが起き、チルダースはインド洋からアデン沖に移動した空母からヘリで派遣される。大使を逃がし、海兵隊員を撃たれたチルダースは、デモ隊の中に発砲者が大勢いることを確認し、群衆への発砲を命令する。これは80名以上の死者が出た無差別虐殺事件として国際的に報道されることとなり、米国政府は、国益維持のため、チルダースを犯罪者に仕立て上げようとする。あまりにも不利な情勢にあって、弁護を買って出たのがホッジスだった。

ざっくり言えば、米国の血塗られた歴史や軍部の汚点を誠実に晒す格好を取りながら、これまで汚れ役として国家を護ってきた者として海兵隊を讃える、そんな映画である。海兵隊の主役ふたり(ジャクソン、ジョーンズ)が、如何にも無骨で不器用ながら自らの役割をこなそうとしてきたのかを示そうとする、これはまさに軍隊の論理そのものではないのか。もちろんイエメン人はカリカチュア化されて登場する。北ベトナム軍の元将校が軍法会議の証人として登場するが、彼も、かつてベトナムのジャングルで見せしめのために戦友をチルダースに殺されたにも関わらず、仲間を守るためのチルダースの行動には深く共感している。片腹痛いとはこのことだ。

この映画では、イエメンの米国大使館がサヌア旧市街(世界遺産)にあるとの設定になっており、どうもちゃちなように見えたのだが、やはり、実際にはモロッコで撮影されたものであるらしい。新たな証拠集めのためにサヌアを訪れたホッジスが使うカメラは、おそらく35mm単焦点レンズを持つニコン35Tiであるが、なぜかズームレンズのように描かれている。勇ましい撮影をしている割には細部が甘い。


昔、サヌアで買ってきた旧市街のおもちゃ

実際に、アルカイダがサヌアの米国大使館に爆弾を仕掛けた事件がある(2008年)。サレハ大統領は米国の「テロとの戦い」という文脈でのつながりが強いと評価されており、それというのも、いまだ部族社会の力が強いことの要因となっている複雑な山岳地域での戦争が、他地域での展開を可能としていたからでもあったという(>> 参考①参考②)。すなわち、米国をターゲットと見たてたこの2000年の映画と、サレハ追放の現在の動きとは無関係でない、と言うことができるのだろうか。2001年の「9・11」前にこのような盗人猛々しい牽強付会の映画が撮られたことの罪だって、考えられなくはないわけである。

ところで、最近、アンドリュー・デイヴィス『コラテラル・ダメージ』(2002年)という映画を観た。「9・11」のために公開が延期されたという曰くつきの作品であり、やはり、『英雄の条件』と同じような雰囲気がある。コロンビアのテロリストが米国で爆弾テロを起こし、妻子を殺された主人公(アーノルド・シュワルツェネッガー)がパナマ経由でコロンビアに潜入、テロリストと戦うという話である。これにしても、米国の罪はアリバイのように言及されてはいるものの、「だからといって米国の市民の安全を暴力的に脅かす」存在は滅ぼされるべきだ、とする構造はまったく同じなのである。

この手の映画に、米国の保守層の意思と予算がどの程度投入されているのか、ちょっと興味があるね。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方

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マノエル・ド・オリヴェイラ『The Strange Case of Angelica』

2011-10-22 14:13:22 | ヨーロッパ

マノエル・ド・オリヴェイラの最新作、『The Strange Case of Angelica』(2010年)をDVDで観る。(※リージョンコードが異なるので注意)

主役の男は前作『ブロンド少女は過激に美しく』(2009年)に引き続き、リカルド・トレパ。アンジェリカ役の女優ははじめて視る顔だが、他にも、レオノール・シルヴェイラルイス・ミゲル・シントラなどオリヴェイラ映画の常連が周りを固めている。

ユダヤ系の男・イサクは勤め人ながら自分で現像・焼き付けを行う写真好きで、ある日の深夜、さる金持ちの使いから撮影の依頼を受ける。その邸宅は敬虔なキリスト教の家で(そのため、イサクという名前について問いただされる)、亡くなったばかりの若い女性・アンジェリカのまだ美しい死に顔を撮ってほしいというのだった。イサクがファインダーを覗くと、突然、アンジェリカが眼を開けて微笑む。驚愕するイサク、しかしそれが視えたのは自分だけ。慌てて帰って焼き付けをしたばかりの写真を眺めると、またアンジェリカが笑った。それから毎日訪れるアンジェリカとの夢、彼はうなされ、憔悴し、奇行に走っていく。イサクが眠っていると、大家が飼っている小鳥が窓から入ってきて、ベッドの上にはイサクに手をさしのべるアンジェリカ、しかし手はお互いに手を伸ばしても届かない。イサクが起きてみると、小鳥が籠の中で死んでいた。イサクは狂ったように山のほうに走りだし、そして倒れる。

ファンタスティックな物語だが、それ以上に、「なにものか」の意思が世界に横溢しているようなアウラがある。背後でイサクを視る者たちだけではない。夜景にも、窓の下を走るトラックの風景にも、閉まる扉にも、石畳にも、彫像にも。考えてみれば、オリヴェイラ作品は常にそのようなアニミズム的なアウラを発散していた。『夜顔』におけるバーの鏡や風景。『メフィストの誘い』における森やパタンと閉じられるドア。『ブロンド少女は過激に美しく』の広角レンズを使った室内。『世界の始まりへの旅』における道路。この映画では、イサクもこちら側も、「なにものか」の視線と息遣いを感じさせられながら、ただ映画の世界に入るほかはない。

このときオリヴェイラは101歳。次第に、かつて心霊療法によるものとして体内から何かを取り出した映像のように、にわかには理解しかねる、あるいは「別のもの」を外部にまとった、映画なる奇怪な存在のコアを取り出す人になっているようだ。これは畏ろしい。

なお、イサクが使うカメラはライカM3、レンズはわからない。ファインダーを覗いたときの太く角が丸まったブライトフレームは確かにM3のものだが、二重像が真ん中だけでなくファインダー全体となっているのがヘンだ。白黒の焼き付け機に見える機械でカラー写真を焼いているのもヘンだ。イサクは露出計をまったく使わないが、それだけ「人間露出計」として習熟している割に、ピント合わせが素人っぽい。誰かチェックしてあげないとダメだろ。

DVDには、映画本編に重ね合わせる批評家・キュレイターのコメンタリーや、この映画に関するオリヴェイラへのインタビューも収録されている(実は、1931年のオリヴェイラ第1作『ドウロ河』も!)。しかし、それらのコメントに幻惑させられる前に一呼吸置こうと思った。まずは謎のまま受け止める映画であるから。

●参照
マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
『夜顔』と『昼顔』、オリヴェイラとブニュエル
マノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』

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ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐

2011-10-22 01:45:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

2011/10/21、東中野・ポレポレ坐
ミッシェル・ドネダ(ソプラノサックス)
ル・クアン・ニン(パーカッション)
齋藤徹(コントラバス)
工藤丈輝(ダンス)
上村なおか(ダンス)
柿崎麻莉子(ダンス)
矢萩竜太郎(ダンス)

何しろ4年ぶりに目の当たりにするミッシェル・ドネダである。今回、ツアーの最終日になってようやく足を運ぶことができた。会場は満員、ダンス派の人たちも多いのかなという印象だ。

やはりドネダのソプラノサックスの音は凄い。風、葉叢のざわめき、こすれときしみ、そしてサックスらしい共鳴音。ドネダの音が自ら世界を擾乱させる動きなのだとすれば、レ・クアン・ニンの奇妙なパーカッションは受けの動きのように感じられた。そしてテツさんの全身を使ったベースの響き。

閉ざされた空間における開かれた音楽なのかもしれない。3人がそれぞれ時空間に働きかけ、時空間自体がゆらぎ、どこからともなく音を連鎖的に響かせていく。会場では、その時空間にダンサーたちが凶区と狂区を創りあげては消していった(だって、舞踏は生命であり、同時に死体でもあるわけでしょう。狂とも凶とも言えるわけである)。

ツアーの「千秋楽」にあたって配られた「ご挨拶」には、「三人の共通意識は「倍音」です。そのため3人の内、誰がその音を出しているのかわからないというのがこのトリオの大きな特徴でしょう」と、テツさんが書いている。なるほど、聴く者としても印象がシンクロしたような感がある。

嬉しい時間だった。

ところで会場に居合わせたジャズ評論の岡島豊樹さんによると、12月初旬にセルゲイ・レートフが再来日するそうだ(>> リンク)。何とか行きたい。

●参照
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」
齋藤徹、2009年5月、東中野
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm
ユーラシアン・エコーズ、金石出
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』(ドネダに言及)

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岸上伸啓『イヌイット』

2011-10-21 02:21:39 | 北米

ロバート・J・フラハティ『極北のナヌーク』とNHKの『日本人イヌイット 北極圏に生きる』というすぐれたドキュメンタリーを観て俄然イヌイットの生活に興味が出てきて、神戸・大阪と東京との往復時間に、岸上伸啓『イヌイット 「極北の狩猟民」のいま』(中公新書、2005年)を読んだ。フラハティ作品と同様に、カナダのイヌイットについて紹介している。

本書によれば、「エスキモー」という他称が侮蔑的であると見なされ、「イヌイット」という名称が使用されはじめた背景には、1960年代の米国公民権運動を受けて1970年代に先住民運動が盛り上がりをみせたことがあった。それは視線とアイデンティティの問題であったとして、それでは実際のイヌイット文化はというと、太古からのものではないという。かつては鯨食の定住的な生活であったが、12-17世紀に寒冷化が起こり、適応のためホッキョククジラ以外を狩らなければならなくなった。アザラシ猟をし、雪の家に住むというのは、15世紀頃に形成された文化だというのである。そして現在ではまた定住文化となっている。

ただ、寒いといっても、湿度が低いため、体感温度はモントリオールのほうがよっぽど厳しいらしい。確かに一週間ほどモントリオールに滞在したとき、あまりの厳しい寒さに圧倒された記憶がある。夜になれば石畳の道はつるつる滑り、風が吹いて顔がこわばり、目的地に何とか安全に辿り着くだけで精一杯だった。そのモントリオールにも、多くのイヌイットが住むようになっており、少なくない数がホームレスであるという。そうか、イヌイット文化圏は普通は足を踏み入れることがない地域かと思い込んでいたが、そうでもないわけだ。(これを固定観念という。)

本書が興味深いのは、欧米文化と接触を重ねることによって、イヌイット社会が変貌していく様を書いていることである。毛皮の交易、それと引き換えのオカネや銃によって、イヌイット社会は否応なく西側経済に組み込まれていく。そしてキリスト教、伝染病、酒、電気、消費。

著者は、こうなってくると国家との関係性が重要になってくると指摘している。著者の評価は、カナダ・イヌイットは国家とうまく付き合い、利用しながら、政治的な自律性を獲得してきた先住民族だというものであり、イヌイットであると同時にカナダ国民というアイデンティティも持っているとする。この関係性構築のプロセスを大きく左右するのが国家権力であるとするなら、琉球やアイヌの自律性を認めないどころか同化を前提としてきた日本は、実に、前近代的な国家であるというべきだろう。

いろいろと肉の食い方を読んでいると、猛烈に肉食欲が湧いてきて、大阪で所用を済ませたあと、鶴橋に足を延ばしてレバ刺を食べてしまった(関係ないが)。しかし鶴橋駅近くの店の数は半端でなく多く、誰か地元の人に案内してもらいたいところだった。

●参照
ロバート・J・フラハティ『極北のナヌーク』、『日本人イヌイット 北極圏に生きる』
寒くて写真を撮らなかったモントリオール

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ユセフ・ラティーフの映像『Brother Yusef』

2011-10-20 00:39:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

ニコラス・フンベルト&ヴェルナー・ペンツェル『Brother Yusef』(2005年)のDVDを観る。ユセフ・ラティーフはこのとき84歳、田舎に引き籠ってたくさんの楽器とともに暮らしている。マエストロではあるが、あまりにも怪しいテナーサックスの音は、彼の評価をぐらつかせている、おそらく。そのラティーフが、自宅の扉を開けてくれたという作品である。

ジョン・コルトレーンについての思い出話。亡くなる2週間前にラティーフの家に来て、新しい家を物色する相談なんかをしていて、ラティーフはコルトレーンが病気であることを知らなかったのだ、という。涙目になっている。

室内、独りでのテナーサックスやフルートの演奏はもちろん見所で、怪しい音色は健在だ。ピアノを弾きながら、「時には母のない子のように」を歌ったりもする。そして、キャノンボール・アダレイのセクステット在籍時、1962年のライヴ映像が挿入される。ラティーフはフルートとバスーンを吹く。このブルージーな面々とキャノンボールの笑うアルトサックスと組むと、なおさらラティーフのヘンさが浮いてくるようだ。

そんなわけで面白いものではあったが、何しろ眠くなる。野外での奇妙な自作詩「Leaves」の朗読やレストランでピザを齧る姿はいいとして、暗い室内での精神論、しかも結構な時間は考えこんで黙っている。奇妙な男の胃の中で溶かされたような気分である。フンベルトとペンツェルは、フレッド・フリスらを追った傑作『Step across the Border』(1990年)を撮ったコンビではあるが、これはとても傑作とは言い難い。充分に睡眠を取って、余裕のあるときにまた観ることにしよう。

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プリーモ・レーヴィ『休戦』

2011-10-19 08:01:29 | ヨーロッパ

プリーモ・レーヴィ『休戦』(岩波文庫、原著1963年)を読む。アウシュビッツに送られたユダヤ系イタリア人プリーモ・レーヴィは、ロシア軍によりポーランドからソ連(当時)に送られ、ルーマニア、ハンガリー、チェコスロヴァキア(当時)、オーストリア、そして他ならぬドイツを経て、イタリアへと帰郷する。本来はポーランドから南西に進めば最短であるところ、東進、北進、南進と迂回して西進、先の見えない何カ月もの長い旅であった。

ドイツは残虐行為の挙句に戦争に敗れ、ロシア軍がポーランドに侵攻してくる。常に理不尽な死を目の当たりにしていたレーヴィの胸に去来したものは、単なる解放の歓びではなく、<恥辱感>であった。正しい者が他人の罪を前にして感じる<恥辱感>、自分の善意も正義も圧倒的な罪の前では無力になってしまう<恥辱感>。それは帰郷の旅の最期になってウィーンに入っても、消え去ることはなかった。

「破壊されたウィーン、屈服させられたドイツ人を見ても、いかなる喜びも感じられなかった。むしろ苦痛を感じた。それは同情ではなく、ずっと広範な苦痛の念で、私たちのみじめさと混じり合っていたが、さらに、取り返しがつかない決定的な悪が存在するという、のしかかるような重苦しい感覚とも混じり合っていた。」

何が「休戦」なのか、レーヴィの考えはこの記録の最後になって記される。もはやアウシュビッツ後には、すべてに<アウシュビッツの毒>が流れている。圧倒的な罪は圧倒的な死の存在でもあり、常に背後にいていつなんどき囚われるか誰にもわからない罪=死を直視してしまった者にとっては、安寧も、休息も、人間らしい悦びも、すべては死=罪の幕間の「休戦」に過ぎないのだった。レーヴィにとっては、アウシュビッツからイタリアへの寒く苦しく飢えていた旅も、まるで<贈りもの>に感じられるものだった。

レーヴィは頻繁に不安定な夢を視る。夢の中では穏やかな日常生活を送る、しかし、かすかな不安を抱き、迫りくる脅威を感じ取っている。そして周囲は混沌と化し、消え去る。

「私はこれが何を意味するか分かる。いつも知っていたことが分かる。私はまたラーゲルにいて、ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない。家庭も、花咲く自然も、花も。」

帰還の長い旅の途中にレーヴィが遭う人びとは、度を越して鷹揚であったり、偏屈であったり、異常な言動を取ったりする。変人こそが魅力的な人間なのだ。ときに残忍になることはあっても、権力奴隷とは違っていた。この体験がレーヴィを作家にした。しかし、ジョナス・メカスが映画を創り続けているのとは対照的に、レーヴィは1987年に自死を選んだ。

●参照
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)
徐京植のフクシマ(レーヴィに言及)
『縞模様のパジャマの少年』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
アラン・レネ『去年マリエンバートで』、『夜と霧』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)

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ついに辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出か(怒)

2011-10-17 23:33:49 | 沖縄

名護市辺野古において、国家自らが文字通り人権を蹂躙し、なりふり構わず進めてきた米海兵隊の新基地建設。メディアは国家と結託し、普天間移設というストーリーを執拗に広め続けた。日本政府は抵抗する住民に対し、あろうことか国軍(海上自衛隊)を差し向けた(2007年)。

この国家意志は民主党政権になっても変わりはしない。鳩山政権は、これを覆そうと試みたものの、結局は完全に屈服した。菅政権は、面倒な問題として無視した。そして野田新政権は、自民党時代の似非環境アセスメントを踏襲しようとしている。あまりにも愚かな為政者である(怒)。

防衛相、普天間アセス評価書「年内に提出準備」
来県中の一川保夫防衛相は17日午前、県庁で仲井真弘多知事と会談した。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた環境影響評価(アセスメント)の最終段階である評価書について、防衛相は「年内に提出の準備を進めている」と正式に表明した。 具体的な提出時期は県側と調整の余地を残したが、地元意見を踏まえた評価書の補正を含め、来春を目標にアセス手続きを完了させる政府の方向性を明確にした。
(沖縄タイムス、2011/10/17)

これが何故ダメか。「方法書」以前に事前調査を行い、それを「方法書」に基づき行うべき現地調査の成果として組み込み、欠陥だらけの「方法書」と「準備書」を通過させる、という環境アセスメント法破りを、国家自らが行っているからである。もちろん、本来はオスプレイ配備をはじめとする「後出しジャンケン」など認められないのであり、「方法書」の作成にたち戻らなければならない。「評価書」を出すなど論外であり、早々に撤回しなければ、彼らは歴史上に汚点として名を残すことだろう。


辺野古の環境アセスのフロー

【追記】
なお、最終評価書の公告後、政府は沖縄県知事に埋立を申請できるが、知事が許可しなければ着工できない(公有水面埋立法)。『東京新聞』(2011/10/18)では、その場合に特措法を制定して強制着工する可能性があることを示唆している。過去にその危険性が指摘されていたことであり、その経緯は、由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』に詳しい(>> リンク)。

●参照
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』(アセス後に県が埋め立て許可を出さない場合の特措法の危険性について指摘)
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)

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ロバート・J・フラハティ『極北のナヌーク』、『日本人イヌイット 北極圏に生きる』

2011-10-16 21:59:12 | 北米

ロバート・J・フラハティ『極北のナヌーク』(1922年)が思いのほか面白かった(DVDを250円で買った)。最初の日本公開時には『極北の怪異』というひどい邦題が付いていたが、戦後、GHQの占領地政策の一環として東京で再公開されたときに、原題に近いこの邦題に変えられている。ドキュメンタリー映画史に名を残すサイレント作品である。

映画の舞台はカナダのハドソン湾岸の地域である。先住民族イヌイットはカナダ、アラスカ、グリーンランドの一部に居住しており、エスキモーという「生肉を食う者」という呼称を拒否している。そのため、この映画でも日本語字幕ではすべて「イヌイット」表記に変えられている。

とは言え、実際に彼らは昔も今もアザラシセイウチの生肉を食べるのであり、このフィルムでも、銛で突いて殺したその場で解体し、凍る前に貴重な栄養源として食べている姿が捉えられている。もちろん問題はそれを特出させて呼んだ視線にある。当時、米国人フラハティが撮った同じ大陸の生活の様子を、米国人たちはどのように観たのだろう。

サイレントながら、目が釘付けになる映像の数々だ。セイウチが群れで眠っているとき、一頭だけ起きて見張りをしている奴に気付かれないよう近づき、銛で突く。あまりにも重く、大勢でその一頭のみを引きずりあげる(『おおきなかぶ』のようだ)。アザラシは定期的に氷の空気穴の下に寄ってきて呼吸するため、待ち構えて、やはり銛で突く。糸の先にセイウチの牙をルアー代わりに付け、鮭を引っかけて、これも銛で突く。そして毛皮が貨幣経済に取り込まれる。

イグルーという丸い家の作り方も面白い。ナイフで雪の塊を切りだして器用に積みかさねていき、隙間を雪で埋める。一か所だけ氷を使い、これが明り取り窓になる。これが1時間くらいで終わるそうで、寝るときには、飢えた犬が子犬を食べないよう、一緒に入れるのである。

ところで、カナダよりもさらに北、グリーンランドの地球最北の村に、日本人一家が住んでいる。NHKスペシャルで2011年8月に放送された『日本人イヌイット 北極圏に生きる』(>> リンク)で、その様子を紹介していて、かなりの驚きではあった。この人は、大学の探検部時代に訪れたこの地の生活の虜になり、猟師に弟子入りし、いまでは孫が小学校に通っている。

彼らはもはやイグルーではなく家に住んでいる。十年以上前に近くに発電所ができ、子どもたちは家の中でゲームをして遊んでいる。アザラシやセイウチを獲るのは銛ではなく銃である。そして最大の驚きは、なんと長い棒の先に付けた網で、岩場すれすれを飛ぶアッパリアスという鳥を獲る姿だった。

こんな生活を見せられると、もちろん苦しいことは多々あるのだろうけど、都市住民の自分は何をやっているのだろうという気になるね。

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ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン

2011-10-16 09:31:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

ペーター・ブロッツマンが来日していて、「生誕70周年記念ツアー」と銘打たれている。最近も頻繁に日本で演奏しているにも関わらず、もう何年もブロッツマンの演奏に接していないこともあり、ようやく新宿ピットインに足を運んだ(2011/10/15)。

ペーター・ブロッツマン(sax, cl)
ポール・ニルセン・ラヴ(ds)
フレッド・ロンバーグ・ホルム(cello)
ジム・オルーク(g)
八木美知依(21弦箏、17弦箏)

脳内にある姿と比べると、随分と歳を取ったものだなあと思う。たぶん90年代後半に観て以来(ヨハネス・バウアーとのデュオ、羽野昌二とのバンド、近藤等則とのデュオなど)であるから、当時のブロッツマンは50代だったはずだ。この日、ブロッツマンは主にテナーサックスを吹き、1曲ずつ、メタルクラリネットとアルトサックスを手にした。主観的な印象に過ぎないが、暴力的なほどのエネルギーは多少減じているように思えた。それにしても、70歳にしてあのブロウはあり得ない、驚愕にあたいする。

エネルギーの放出というなら、はじめて演奏に直接接するポール・ニルセン・ラヴのドラミングである。叩く1音1音あたりの音圧が凄まじく、石矢のように突き刺さってくる。ジョシュ・バーネットかというほどの筋骨隆々とした体躯、これは格闘技だ。居合わせた@Cat Cooperさん@Eigen Kinoさんも、普段よりもパワープレイに徹していたと圧倒されていた。やっぱり演奏家の個性を体感するにはライヴに尽きる。

もちろん他3人の共演者の演奏も愉快で、座った場所も良かったのか、全員の音が同レベルで耳に入ってきて至福だった。八木さんの21弦箏はまるでエレピのようでもあり・・・。

ちょうど来ていた評論家の横井一江さんに、ミシャ・メンゲルベルグのポストカード(『アヴァンギャルド・ジャズ』の表紙)を貰ってしまった。ウフフ。


ニルセン・ラヴにサインを頂いた

●参照 
ペーター・ブロッツマン
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ブロッツマン参加)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(ブロッツマン参加)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ブロッツマン参加)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ブロッツマン参加)
ジョー・マクフィーとポール・ニルセン・ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』
4 Corners『Alive in Lisbon』(ニルセン・ラヴ参加)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』

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ガトー・バルビエリの映像『Live from the Latin Quarter』

2011-10-15 09:16:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

ガトー・バルビエリのDVD、『Live from the Latin Quarter』(Image Entertainment、1999年録画)を観る。ガトーは1932年生まれだというから、このとき60代後半である。

ジャケット写真と実際の映像とは違うのだが、まあ似たような伊達男ぶりで、黒い帽子、サングラス、赤い柄物のマフラー、はだけた胸元と胸毛、ぴしりと折り目のついたズボン、サックスを吹きながらも手からはなさない煙草。『LEON』のチョイ悪オヤジなんてどこかに吹き飛んでいくし、「スターにしきの」よりも遥かにエグい。

コールマン・ホーキンスとはまた個性の違う塩っ辛いサウンドは相変わらずだ。いきなりロングトーンばかり、うわこれはずっとロングトーンで通すつもりかこのオヤジ、と怖れながら聴いていると、一応細かなフレーズもまじえてくる。そしてときどき意味不明な叫びを発する。ほとんどこれは、最初から最後までクライマックスのようなものだ。もしかするとこのオヤジは、黒メガネの向こう側で、自ら感涙を浮かべているのではないか。

そして十八番の「Last Tango in Paris」。これまでヨアヒム・キューンのピアノトリオによる演奏が好きだったが、やはり本家は盛り上がる。

黙っていてもここまで意味不明な存在感を発散できれば本望である、キャラ違いの私には永遠に無理だろうが。

●参照(ガトー・バルビエリ)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ
ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー
スペイン市民戦争がいまにつながる

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