Sightsong

自縄自縛日記

モラレスによる『先住民たちの革命』

2007-11-30 23:59:59 | 中南米

NHKで、『民主主義』という世界各地の映像作家に撮らせたドキュのシリーズを放送している(→リンク)。忙しいので、録画しては順次観ている。

南米については、ボリビアのエボ・モラレス政権について描いた『先住民たちの革命』(ロドリゴ・バスケス)が放送された。国際機関からの融資や外資の導入、米国への安いエネルギー供給、コカ栽培など先住民文化の抑圧、そしてそういった新自由主義(ネオリベラリズム)の結果として経済格差が拡大していること。そのような背景から、モラレスは先住民出身として南米初の大統領となる(自身はコカ農民であった)。

米国追従からの脱却、新自由主義からの脱却、社会主義的な政策、エネルギーを自国の最大の外資獲得手段として活用しようとしていること、それらに伴うナショナリズムなど、ベネズエラのチャベス政権と共通する点が多い。実際に、彼らはしばしば仲の良さを見せ付けている。

モラレス政権成立の経緯については、あまり一般人にとっての情報がないなか、太田昌国ら『グローバル化に抵抗するラテンアメリカの先住民族』(現代企画室、2005年)に収められた藤田護『2003年10月政変から改憲議会へ―ボリビア政治情勢への視点』が参考になった。

○1985年のパス・エステンソロ政権(アンチ軍事政権だったのだが)が発表した計画に端を発した自由化、規制緩和、公共部門削減、民営化を中心とする新自由主義経済が終焉している。
○ボリビアにおける課題は「資源」と「民族」だ。
○「資源」とは、少数の企業化・支配階層と外国企業のみを利してきたもので、90年代の国営企業の民営化がさらにそれを押し進めた。のちにヘリで米国に脱出し亡命したサンチェス元大統領は、極めて米国に依存していた。その認識が、資源に対する主権を取り戻そうとする揺り戻しになっている。
○「民族」とは、平等な社会の実現に失敗したという認識のもと、貧困層=自らに主権を取り戻そうという動きを象徴する。
○モラレス政権登場までの動きは、①特定の組織だけではなく各地域の多種多様な組織が同時多発的に結集した(その意味でモラレスが「麻薬テロリスト、扇動者」だというのは間違い)、②資源ナショナリズム、③貧困層だけでなく都市中間層も取り込んだ、④抗議という動きにおいて力を発揮した(対話という方法は成立しうるか未知)、といった特徴がある。

同時多発的なボトムアップの運動、社会主義への揺り戻し、対米追従からの脱却など、私たちにも無関係ではない側面には注目すべきだと思う。

『先住民たちの革命』は、40年前、社会革命を目指したチェ・ゲバラがボリビアで亡くなったことを紹介するところからはじまる。ゲバラを殺したのは軍事政権(および米国)だが、むしろ共闘したかった農民たちに受け容れられなかった側面があったはずだ。しかしここでは、モラレスの率いる社会主義運動党(MAS)とそれを支持する先住民・農民に、ゲバラの精神が受け継がれているのだと語られる。実際に、MASの旗にはゲバラの顔が大きく描かれている。

ドキュでは、モラレスを押し上げた要因のひとつとして、米国によるコカ栽培撲滅を挙げている。モラレスは、「米国は麻薬を口実にこの国に干渉している」と発言するわけだ。その根拠は、コカはコカイン製造だけでなく、茶や噛む嗜好品として使われている、ということだろう。しかし本当は、一部はコカイン、外資に化けているのではないか。このあたりは全く追求されずに終った。

むしろドキュでは、モラレス政権の政策として、一部の大地主の土地を再分配する土地改革、天然ガス企業の再国営化、貧困層への雇用創出対策「プラネ」が成立する過程を追っている。

土地改革では、資本層=地主=既得権層=米国派が上院を支配しており、必死の抵抗をみせたようだ。ボリビア東部の地主の反感を語る言葉に、ラテンアメリカ解放者シモン・ボリバルの肖像の映像をかぶせるのは、ゲバラと同じアルゼンチン出身のバスケス監督による皮肉だろうか、面白いところだ。

「プラネ」は、実施しようにも労働者に払うお金が国庫にないことが問題となって、なかなかすすまない。しかし、資源を自国の財産として取り戻したことによって、道がひらけてくる。世界のエネルギー価格は上昇し続けているが、私たちはガソリンなど自分たちの消費するものの価格だけでなく、エネルギーの出所にも考えを及ばさなければならないことを示している(もっとも、米国、ロシア、中東など多くの政治的要因がここには関連しているが)。フェアトレードは農作物だけではない。

1時間弱のドキュであり、甘い点も粗い点も目立ったが、なかなかラテンアメリカの地殻変動についての情報が少ないので、とても面白かった。アフガンやグアンタナモでの米軍による拷問を追ったドキュなど、他にも興味深いものがいろいろある。NHKハイビジョンのあとはBS1、総合でも放送されるようだ。

「国民の半数以上を先住民が占めています。 しかし、我々は歴史的に虐げられてきました。 侮辱され嫌われ軽蔑され―  死に追いやられました。 これがわれわれの歴史なのです。」 (『先住民たちの革命』より、モラレス大統領のスピーチ)


モラレスは新自由主義を正面から批判する


MASの旗にはゲバラの顔


「プラネ」で賃金がもらえないと反発する人々


農地改革のデモ


太田昌国ら『グローバル化に抵抗するラテンアメリカの先住民族』(現代企画室、2005年)

参考

チェ・ゲバラの命日
『インパクション』、『週刊金曜日』、チャベス


今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)

2007-11-30 23:59:29 | 沖縄
●山内徳信さん(参議院議員)

行動の人。先日の参議院議員選挙で、比例ながら記名投票を急激に集め、翌朝起きてみると当選していた、その驚きが記憶に新しい。この日は、多忙な中15分だけの登場だった。



○最近は話をするのが怖くなってきた。なぜなら主張すべきことが多くて長くなってしまうからだ。
○政治家という魔物対策は、おだやかにいこうと思っている。
○福田首相は生態系を大事にすると発言した。それを逆手にとりたい。
○石破防衛大臣は自分の言葉ではなく、誰かの書いた紙に沿って発言している。これ以上、沖縄のコミュニティをずたずたにし、札束と土足で人の心をずたずたに裂くのをやめてくれと伝えた。
○比嘉・前名護市長は、中央からの圧力により、基地受け入れを表明して辞任した。岸本助役(当時)は、その後、苦しんで亡くなった。基地が岸本氏を追い詰めたのだと噂された。そのような実際の状況を、高村外務大臣に訴えた。抑止力がどうだとか紙の上の話だけではないということだ。政治家には人間的な言葉を発してほしいのだ。
○SACO合意は、県民ぐるみ、国民ぐるみ、国際ぐるみのたたかいでつぶれていく。
○辺野古や高江のたたかいは、平和憲法の実践であり、助け合いいたわりあう崇高なたたかいだ。
○守屋前事務次官の責任を、その管理者たる大臣が職責に応じて負うのは当然のことだ。

●東京平和運動センター、東京東部実行委員会、沖縄戦教科書検定の撤回を求める練馬の会、『バスストップから基地ストップ』の会

それぞれの場所と目的を持った方々が、連帯のアピールをした。横須賀の原子力空母配備のこと。入間(埼玉)や習志野(千葉)に配備され、12月には新宿御苑や市谷で移動訓練がなされるPAC3(パトリオット)のこと。シビリアンコントロールを犯している軍備のこと。高江の実情。沖縄戦に関する教科書裁判のこと。本土のさまざまな地域が声をあげていること。座間(神奈川)への米軍司令部移設のこと。そして「本土の沖縄化」。



戦争と暴力の種は、沖縄だけでなく、あちこちに「まきびし」のように撒かれているのだろう。

この日、カンパは12万円以上集まったようだ。すべて辺野古と高江の意志に向けられる。

今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)

2007-11-29 06:28:37 | 沖縄


沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック主催の、「今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会」に参加した(2007/11/28、全水道会館)。会場は開始されるころにはとても混んできて、200人くらいいただろうか。

●高江現地のヴィデオ上映

まず『やんばるからのメッセージ 沖縄県東村・高江の記録』(ヘリパッドいらない住民の会)が上映された。那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)による、高江のヘリパッド増設に向けた作業強行の様子が中心。私が赴いたときには遭遇しなかった、ごく近くでのヘリ発着は、立地的にも視線的にもマージナルな場所でなされている「暴力」を、否が応でも明らかにしている。この映像(DVD)は、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックが安価に配布しているので、ぜひ多くの人に見てほしいと思う(→リンク)。

●安次富浩さん(ヘリ基地反対協議会)の発言

辺野古での座り込みをはじめ、多くの働きかけを10年間もされている安次富浩さんが、辺野古の基地建設の「ためにする」環境アセスメントが成立しえないこと、普天間基地代替というストーリーが嘘(それ以上の機能をもつ新設)であること、などを解説した。安次富さんには、辺野古を訪れたごくわずかな時間にも、いろいろと親切に教えていただいた。スピーチでも、強く柔らかい人柄があらわれていた。



○辺野古の「事前調査」(※環境アセス法には位置づけられない、違法な見切り発車調査)では、ジュゴンの生育状況を調査するため、海中カメラやパッシブソナーが用いられた。これはもともとジュゴンの生育数が多いタイで行われたものだが、生育数の少ない沖縄では意味がない。逆に、「ジュゴンは来ない」という「不在証明」として悪用されてしまう。
○辺野古に海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が派遣されたことは、沖縄戦の様子と重なってみえてしまう。21世紀の「琉球処分」といってもよい。
○環境アセス上の「方法書」は欠陥だらけだ。(もし普天間代替なら)普天間基地の何の機種が配備されるのか明らかでない。埋め立ての詳細が明確でない。大浦湾を埋立てることによる環境破壊が視野に入っていない。機器を真水で洗う「洗機場」や、普天間にはない装弾所のことが記載されていない。
(※方法書に対する多くの意見が、700頁を超える資料としてまとめられている。私の意見も入っているはず。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの方に資料データを頂いたので、じっくり読もうと思う。)
○辺野古の基地は、大浦湾を軍港として整備し、弾薬庫をかかえたものになる。まさに普天間を超える機能が考えられており、普天間代替などではない
○政府は「日米での協議中なので方法書には掲載できない」としている。これは環境アセス上、本末転倒である。
○守屋元防衛次官の意向もあったのだろうが、いま、政府はなかなか進まない辺野古基地建設について焦っている。
○環境アセス法違反に関して、裁判に持ち込むことを検討している
○「国策」は国民に明らかにされてこなかった。辺野古へのオスプレイ(※米軍の新型ヘリ)配備についても、政府は公式には否定しているものの米軍側から明らかになっている。しかし、以前おこなわれた名護市民投票(※辺野古の基地について住民が否定という結果)への影響をおそれ、オスプレイについて隠してきた経緯がある。
○いまでは、「国策」は、「国民をだます政策」だと思っている。
○それに対し、市民の私たちには、「抵抗権」がある。「抵抗権」を活用し発展させることが、民主主義を育てることになる。
○沖縄だけでなく、岩国や座間を含め、各地においてカネで住民を屈服させる政策が続いている。しかし、こんなものに従っていれば、戦争協力になってしまう。
○辺野古では苦しいときが多くあったが、そのときにたたかいの旗を降ろしていたら、いまではもう基地建設が始まっていたはずだ。
○辺野古も高江も、たたかいの旗を降ろさなければ住民が勝てるものだと信じている。
○守屋問題でガタガタになっている今、世論に訴えかけていくことも重要だ。
○全国からのカンパでゴムボートを2隻買うことができた。
○ぜひ現地にも足を運んでほしい。

●山城博治さん(沖縄平和運動センター)

山城さんは、山内徳信さん(参議院議員)を国会に送り込む応援や、教科書問題、嘉手納基地の「人間の鎖」などを引用しながら、現在の沖縄が置かれた状況について怒りとともに話をされた。



○岩国基地からF18ホーネットが沖縄に派遣され、嘉手納のF15とともに訓練を行うとの報道があった。
○決して「基地の負担軽減」ではない状況に、皆怒っている。
○嘉手納基地の司令官は、「軍事基地から飛行機が朝だろうが昼だろうが飛ぶのは当たり前だ。沖縄でしか苦情を受けたことはない。」などと居直っている。これが米軍再編の中身を物語っている。
○嘉手納基地にはPAC3(※迎撃用のパトリオット)が配備され、その後、パラシュート訓練が行われるなど軍事行動が活発化している。
○F15は燃料タンクや風防が落ちるなどの空中分解の事故を起こし問題になっている。その原因がわからないまま、F15の活動が再開されている。
○まさに嘉手納基地周辺は、戦場の町になっている。
○キャンプ・ハンセンの日米共同利用について、金武・宜野座・恩納の3首長が受け入れに転じた。日米一体化をすすめ、戦争を沖縄に引き入れることは、首長の権限として許されることではない。
○現在、軍事産業は利権の巣窟となっているようだ。問題が顕在化しつつあるいま、沖縄の基地利権すべてを明らかにしてほしい。それによって歯止めをかけることができる。
○最近、米軍は、八重山での配備に向けて、住民との交流や事細かな調査を行っている。米兵がビーチパーティーを行い、子ども達に「おいしい肉だよ」と呼びかける風景は何か。何と、与那国の飲み屋の軒数やその儲け具合、診療所の数まで調べている。(与那国の「Dr.コトー診療所」のセットを診療所と間違えて写真を撮影していた。)
○米軍は中国を脅威として認めている。それがどの程度であろうと、沖縄にPAC3などが配備されることは、「沖縄がミサイル戦争の戦場になってしまう」ことを意味する。
○高江での教訓は、「遠い場所であろうと何かがあれば住民の力が集まる」ことだ。その意味で、政府はたかをくくっていた。
○辺野古と同様、高江でも、粘り強いたたかいが必要だ。

(続く)

●参考
高江・辺野古訪問記(1) 高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見

大ロボット博、「うさぎや」のどら焼き、イルフォードのモノクロ印画紙、環境アセスメント学会

2007-11-26 23:41:14 | もろもろ
週末、上野の科学博物館に、息子と「大ロボット博」を観に出かけた。朝早いのに、親子連れでもう結構混んでいる。展示は、ロボットの玩具、大学・企業などによる産業用や民生用のロボット、からくり人形、それから本田技研のアシモが目玉。



ガンプラを見ると平静ではいられなくなり、「いいねえ」を連発してしまう。周りの大人からも、連鎖して「いいねえ」が聞こえてきた。自分が小学生のころに作った、144分の1モデルのプリミティブさはもうない。ただ、半田ごてでパーツを溶かし、可動域を広げてエポキシパテなんかで何とかリアルな世界を再現しようとした(他愛もない)体験から言えば、ここまで完成されていることによって、楽しさが減っているのではないかと思った、悔しさで。

からくり人形は、工夫と精緻さが職人技で実現されていて、やはりこういったものが楽しい。お茶運び人形をはじめとして、西鶴が絶賛していた遊女・吉野太夫が所有したという「蟹の盃台」、からくり儀右衛門こと田中久重が製作した「弓曳童子」など、眼を奪われてしまう。貴重なものなので実演は難しいのか、ヴィデオ映像でその動くさまが流されていた。


遊女・吉野太夫が所有した「蟹の盃台」


田中久重「弓曳童子」

本田技研のアシモは凄い。いつの間にか進化しまくっており、ダンスどころか走ることさえできる。実演ショーが盛り上がっていた。会場には、アシモ前史ともいうべき「P2」(1996年、世界初の自律型歩行ロボット)やその後の「P3」(1997年)も展示されていて楽しい。


アシモの実演 ダンスし、走る


プレアシモ「P2」「P3」、アシモ


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帰りに、上野の「うさぎや」で、どら焼きを買って帰った。学生時代からときどき買った店だが、久しぶりに訪ねた。銅鑼の部分がさくさくしてとても旨い。この界隈では、上野の小倉アイスの店「みつばち」と、谷中のバニラアイスが旨い店「芋甚」が、自分にとっての甘味御三家だった。



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上野から秋葉原まで歩いて、ヨドバシでモノクロ印画紙を買った。倒産したハンガリーのメーカー、フォルテの製品を買おうと思ったら、もうカビネ判の在庫がなくなっていた。それで、使ったことがなかったイルフォードの印画紙を試してみようと思った。イルフォードのRCペーパーはすべて多階調で、光沢、サテン、パールの3種類がある。友人の結婚式の写真をプリントするので、何となくサテンを選んだ。しかし、帰宅して暗室でプリントしてみると、変に半光沢だからか、黒のしまりが悪く、眠い仕上がりになってしまった。3号フィルターを使ってこれだから、今度は4号か5号を調達して再挑戦してみようと思う。少しがっかりだ。



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環境アセスメント学会で、排出権や森林のことについて話すことになった。といっても、テーマ自体が環境アセスに関係するわけではない。この延長上にある緑地の保全策を考えるための手がかりとしてである。私もアセスについては素人なので、これをきっかけに、辺野古での環境アセス法破壊をもたらした根本的な欠陥について勉強しようと思っている。

環境アセスメント学会生態系研究部会第10回定例会「地球温暖化対策の枠組みにおける森林

牛街の散歩

2007-11-25 20:19:48 | 中国・台湾

北京で午後のフライトまで時間があったので、ホテルをチェックアウトして荷物を預け、それまで牛街を散歩しようときめた。

牛街は北京中心部、外城の西半分、宣武区の一角にある。宣武区は、北に座して南を睥睨する天子が位置する紫禁城から見れば、ちょうど南西部にあたる。つまり、皇帝に謁見するために到着した者にも、南の永定門から内城の正門である正陽門まで歩く1キロほどの間に左に見えたはずの、庶民の街ということになる。地図を見ると、内城の胡同は規則正しいのに対し、外城の胡同は無計画で乱雑な形をしている。

内城と外城との差は、とくに清代に入ると、民族的差別を含んだ身分的構成となったようだ。牛街は、イスラム系の回族の居住地となっている。(倉沢進・李国慶『北京 皇都の歴史と空間』、中公新書、2007年)

まず、北京でもっとも大きなモスクである「牛街礼拝寺」を参拝した。入口でもらった英語の解説文によると、996年、アラビア人の学者ナスルタンによって建立された。のちの15世紀、明朝の時代に、モスクとして正式に呼ばれるようになったらしい。そして1979年に再建されている。当然、モスクはメッカの方角を向いている。

ミナレットも礼拝殿も、そして門なども、中国風でもあり、装飾やアラビア文字に違和感と面白さを覚える。ただ、私はムスリムではないので、建物の中を見ることはできなかった。寺の人がムスリムか、と声をかけてくれたのだが。


牛街礼拝寺のアラビア文字 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街礼拝寺のミナレット Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街礼拝寺の門とエンジュの樹 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

寺を出て、宣武区のかつての文化をとどめる四合院や会館を見学しようと思ったのだが、市場や胡同があまりにも人くさくて、散歩ルートとして、お勉強ではなくそちらを選んだ。

少し歩くと、羊肉市場があった。羊肉の食文化が盛んな場所ならではだ。建物から買い物袋を持った人たちがぞろぞろ出てきていて、外側には肉の運搬に使うに違いないリヤカーや自転車がたくさんあった。出入り口から地下に入ると、羊肉だらけ、商店だらけだ。人びとが、交渉していたり、雑談していたり、肉を切ったり計ったりしている。ちょうどアメ横センタービルの地下が暗くなって肉だけになった感じだ。


牛街羊肉市場 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街羊肉市場 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街羊肉市場 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


市場の外では中国将棋 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

また外に出て大通りを少し歩くと、大きな市場「天陶市場」があった。目的がはっきりしている羊肉市場と違い、すぐ外でも大蒜だの蜜柑だのを売っていて大賑わいだ。横の路地では、饅頭をふかして売っていたり、自転車の修理をしていたりと、熱気に圧倒されそうになる。市場の建物の中では、野菜や果物を積み上げて商売していた。北京の冬の風物詩といわれていた白菜なんかは、ほとんど小山のようになっている。


牛街の「天陶市場」 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の「天陶市場」 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の「天陶市場」 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


場外には饅頭売り Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

市場を出て、そのまま、いつのまにか胡同に入り込んだ。やはり、内城の胡同とは違って、雑然としている。家も、四合院ではなく小さな雑院が多いのだろうか。生活の場と商売の場が渾然としている。白菜の積み下ろしもあった。練炭売りのおじさんもいた。猛烈に腹が減ってきた。しかし、時間がなくなってきたので、後ろ髪をひかれるような思いで空港に向かった。


牛街の胡同 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(貼り紙) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(子ども) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(老人) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(練炭売り) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(帽子の女性) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


牛街の胡同(白菜トラック) Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

この宣武区の文化のことを宣南文化という。上村幸司『中国路地裏物語―市場経済の光と影―』(岩波新書、1999年)によると、あたり一帯は、文化大革命の際、「四旧打破」(古い思想、文化、風俗、習慣の打破)を叫ぶ若い紅衛兵によってかなり破壊されたらしい。さらに市場経済の波に飲まれ、実際に表通りと裏の胡同とはまったく様相を異にしている―――もっとも、内城で感じたほどの建て替えの勢いは見られなかったが。この胡同は、文革と開発の波にあってなお残る場所なのだろう。しかし、宣武区政府は、宣南文化の復興を目指して再開発と観光化を目指しているらしい。北京オリンピックのこともあり、内城、外城ともに、胡同は次第によそ行きの顔になっていくのだろうなと思った。


ムハール・リチャード・エイブラムスの最近の作品

2007-11-22 23:58:56 | アヴァンギャルド・ジャズ
ムハール・リチャード・エイブラムスはシカゴの重鎮ピアニストだ。マラカイ・フェイヴァースとのデュオ『Sightsong』(BlackSaint)や、アンソニー・ブラクストンらとの『Creative Construction Company (CCC)』(Muse)、若いチコ・フリーマンをサポートした『Morning Prayer』(WhyNot)、『Beyond the Rain』(Contemporary)など、私には魅力的な作品が多い。実はブログのタイトルも拝借した。

その『Sightsong』やチコの『Beyond the Rain』で演奏しているエイブラムスの曲「Two Over One」はメロディアスでありながら構成主義的、演奏家を試しているようでとても面白い。グレッグ・オズビーも『Zero』(Blue Note)においてアルトサックスで挑んでいるが、ギターによるサポートが曲の硬質なイメージを損ねているように感じた。

エイブラムスの最近の作品、『Streaming』(PI Recordings、2005年)や、『Vision Towards Essence』(PI Recordings、1998年)を聴いた。

『Streaming』は、トロンボーンのジョージ・ルイス、サックスのロスコー・ミッチェルと組んだトリオ作である。2人とも巨匠の域に入った素晴らしい音楽家だと言ってよいのだろう。ロスコーの抽象的だったり叙情的だったりするサックスが見事なのは従来通りだが、ジョージ・ルイスはトロンボーンのほかにアップルのラップトップを使っている。電子音、抽象的な生音、硬質なピアノ、それらがやはり構成され、繰り返され、発展していく様は凄い。テクノ的な要素もあるのだろうか―――このあたりは全く知識がないが、テクノもシカゴと関係深かったはずだ。作曲家本人の口から「ミニマル・テクノ」だと聴いた、平石博一『プリズマティック・アイ』(fontec)を少し思い出した。ただ、エイブラムスの音楽は構成主義的でありながら生々しく、敢えて破綻も見せており、「生肉のテクノ」か。(テクノと言っているだけで、私はその世界を全く知らない。いい加減な比喩である。)

『Vision Towards Essence』は、カナダのゲルフ・ジャズ・フェスティヴァルで行われたピアノソロの記録である。決してビートではない、低音による「うねり」に絡み、「Vision」や「Essence」が、そしてエモーションが構築され、解体されていく。これを聴いた後で反芻することは不可能であり、「何か素晴らしいことがあった」記憶が残る。

エイブラムスはその存在感と比して、決して日本できっちりと評価されているわけではない。言い方は悪いが凡百のジャズ評論、「哀愁のメロディがどうじら」「白人的なヴォーカルがどうじら」「これはギョーザの味でどうじら」という水準の「彼ら」が扱う音楽家ではないのだろうなと強く思う。

先ごろ亡くなった清水俊彦氏の『ジャズ・アヴァンギャルド』(青土社、1997年)をひもといてみると、エイブラムスの音楽について、「宇宙的」「精神拡大」といったキーワードを用いつつ、彼の音楽に迫ろうとしている。詩人だったということもあるのかもしれないが、言葉を探しつつテキストを構築していくスリリングな過程が見えるようだ。あらためて、ジャズ評論家としても比類のない存在であったのだと感じる。

「・・・エイブラムスも、基本的に神秘主義や詩的宇宙論の立場に立っている。彼によれば、人生は《具体的》な局面と《抽象的》な局面から成り立っている。前者は、人間が物質的な環境で生きていく上でなくてはならない要素であり、後者は、機械論的なものと正反対の要素である。古来、音楽は最も抽象的な芸術といわれてきたが、エイブラムスはさらにこうつけ加えている。「ミュージシャンはこの抽象的な特質をずっと遠くまで連れ出すことができるが、その時、メロディックなものはどんどん大きくなって宇宙にまで広がるだろう。具体的なものはプログレッシヴな人間を支えることはできない」と。」
清水俊彦『ジャズ・アヴァンギャルド』(青土社、1997年)より

ジャズ評論家の横井一江さんのブログ『音楽のながいしっぽ』で、ジョージ・ルイスがシカゴAACM(the Association for the Advancement of Creative Musicians)の歴史について大著『A Power Stronger Than Itself: The AACM and American Experimental Music』を書いているということを知った。エイブラムスのことも、もちろんヘンリー・スレッギルやアンソニー・ブラクストン、フリーマン親子たちのことも書いてあるだろう。amazon.comでは発売日がどんどん遅くなっている(→リンク)。早く読みたい。





盧溝橋

2007-11-21 23:59:02 | 中国・台湾

北京では盧溝橋にも行ってきた。1937年、いまだ不明とされる銃声により日中戦争に突入した、その場所である。北京中心部から地下鉄で40分くらい、さらにそこからタクシーで20分以上はかかった。

12世紀、金朝は盧溝河(現在の永定河)の大工事を行った。水運など大規模な都市改造により、北京を全国的な統治の中心都市にしようとしたわけだ。盧溝橋もそのときに建造された。のちの元朝時に庇護されたマルコ・ポーロは、世界一の優れた橋と呼んでいる。

「「盧溝橋の獅子とかけて何と解く?」盧溝橋はまた、欄干の柱の上の千姿万態の獅子像で知られる。柱の上の獅子二八一、その獅子にじゃれつく子獅子など合わせて四九八(文化研究所一九八三年調査)などと答えるのは、野暮というものであろう。謎なぞの答えは「数え切れない」である。」 (倉沢進・李国慶『北京 皇都の歴史と空間』、中公新書、2007年)

夕刻にもかかわらず、橋の上は中国人、欧米人など観光客がとても多かった。もちろん、無数の獅子像はフェンスで保護してある。形が崩れているものもあった。


盧溝橋の獅子 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


永定河 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


盧溝橋の獅子 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


記念写真 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

橋の東側には、宛平城がある。盧溝橋事件のあと、日本軍が占領したことがあったようだ。城は城壁でぐるりと囲まれており、中に歩いていくと「中国人民抗日戦争記念館」がある。外庭には戦車が展示してある。盧溝橋にいた人たちも来ているのだろうが、若いカップルや軍人らしき人たち、それから日本人もいた。この幅広さはちょっと意外だ。展示は中国語のみでなされていたが、レンタルの音声ガイドは英語も日本語もあった。

展示されているものは多彩だ。ジオラマや、南京大虐殺の場所を光で示すパネルなんかもあった。正視に堪えない写真も多い。私たちから見れば極端だが、これを反日教育とのみとらえることは本質を見失うだろう。この存在と、その背後にある無数の記憶を正視すべきなのだろう。

展示の最後には、村山元首相の「歴史を直視し日中友好永久の平和を祈る」との筆や、鹿児島県高等学校教職員組合による「教え子を再び戦場に送るな!」と書いた寄せ書きがあった。

 
抗日戦争記念館入口のレリーフ Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


西安事件の号外 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


関東軍が使った武器 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


南京大虐殺にはやはり30万人と表示されている Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


化学兵器 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用

「張学良が蒋介石を監禁したという事実は、共産党にとってはまさに青天の霹靂ともいえる出来事であった。 共産党幹部の中には、蒋介石を殺すべきだという強硬意見もあったが、大勢はモスクワの態度を打診すべきだ、当分は張学良と楊虎城の態度を見るべきだといった慎重な意見であった。翌朝、張学良から共産党に、「兵諫の説明、周恩来の招聘、紅軍の南下」を求める電報が届いた。」 (NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』、角川文庫、1995年)

「三七年七月七日、北平市の西南郊外の豊台に、前年の増兵によって駐屯していた支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊に属する第八中隊は、盧溝橋の北方の永定河左岸において夜間演習を行っていた。その中隊に属する一人の二等兵の行方不明事件に端を発する、日本軍と中国第二九軍(司令・宋哲元)第三七師との間の日中両軍の偶発的小衝突は、八月一三日、上海の日本租界における市街戦(第二次上海事変)に発展し、全面戦争化した」 (加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』、岩波新書、2007年)

帰り道に、宛平城の城壁にのぼってみた。城壁は相当長く歩くことができ、城内を見下ろすと生活風景があった。


宛平城内 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


宛平城内の女の子 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


魯迅の家(2) 虎の尾

2007-11-20 23:54:59 | 中国・台湾

北京魯迅博物館の横に、かつて魯迅が住んだ家が保存されている。(いや、逆か。)

不仲な人と喧嘩別れし、母が安心して住める家を探していた魯迅は、1923年にこの家を買った。800元だったようだ(単純にいまのレートでは13,000円ほど)。翌年から魯迅の設計により改修し、庭樹にかこまれた小さな四合院が出来上がった。魯迅が1925年に自ら植えたライラック(白丁香)が、まだ大事に手入れされている。

北側に凸型の棟があり、これを魯迅は「虎の尾」と呼んでいた。ここに母の部屋、妻の部屋、自分の部屋があり、いまでも中には立ち入れないものの、管理人が鍵を開けて覗き込むことができる。当時は電気がひかれていない片田舎で、雨が降るとぬかるむような場所だったが、魯迅が住んでからは客人が増えて付近が一変したらしい。また、魯迅は給料日に必ずフランスパン屋からクリームのいっぱい入ったケーキを買って来て、妻と母に食べさせていたそうだ。

以上の話は、竹中憲一『北京における魯迅』(不二出版、1985年)による。魯迅の足跡をひとつひとつ辿っていて、巻末には大きな「北京における魯迅の足跡」という地図が畳み込まれている。次の機会にはこれをもって北京をうろうろしてくれと言わんばかりだ。小さな楽しみがひとつできた。

 
魯迅博物館のオブジェ Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


小さな四合院 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


虎の尾 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


ライラック Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、TRI-X、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、3号フィルタ使用


魯迅グッズ

2007-11-19 23:59:22 | 中国・台湾

ちょっと集まったら嬉しい、子どもみたいなものである。

●『魯迅形象選』北京魯迅博物館編印

魯迅のポストカードが10葉、束になっている。1頁目は日本留学時の若い時分。永瀬正敏みたいだ。旧家の管理と案内をしている女性から買った。確か7元(約120円)。

●魯迅ピンバッジ

これは博物館横の本屋でレジ横に置いてあった。確か9元(約150円)。何に付けるのだろう(笑)。

●魯迅の切り絵

太原(山西省)にある道教の寺院、純陽宮(→前回訪問時の写真)に売店があり、切り絵職人の女性がいた。つい毛沢東や京劇ものなどとあわせて入手した。「あっ魯迅」というと、「うん魯迅」との返事、言葉が通じた。切り絵に使う鋏を見せてもらったら、とても小さかった。

魯迅グッズは以上である(笑)。

ところで今日、神保町すずらん通りの「東方書店」で、『新編・北京生活地図冊』(中国地図出版社)という本を発見した。これがあれば、あちこちで道に迷わなくてすんだ。魯迅博物館の場所もわかりやすい。次回は北京に持っていこうと決意した。


魯迅の家(1) 北京魯迅博物館

2007-11-17 23:59:34 | 中国・台湾

北京の城内西側、地下鉄阜成門駅の近くに、魯迅がかつて住んでいた家がある。場所はやはりわかりにくく、うろうろして辿りついた。敷地内に、博物館と旧居とがある。入場料は5元(85円ほど)だが、とても立派に管理されている。

博物館には、数々の代表作の原稿や本のほか、魯迅が使った筆や机、手紙、愛蔵品、日本留学時の資料など、さほど熱心な読者でない私も興奮させられるものが並べられている。デスマスクさえもある。

『阿Q正伝』(1921年)の展示されている原稿は、「第六章 中興から末路まで」の部分だ。城内から戻ってきて妙に羽振りがよくなった阿Qが、それまで阿Qを馬鹿にしていた人々から手のひらを返したようにちやほやされるところである。哀れな阿Qは、何を言われても、痛めつけられても、弱者として自分の居場所をしたたかに見つけ続ける。阿Qも、周囲の住民たちも、愚かで卑劣である―――それでも愛すべき人びと、などとは決してならないところが魯迅ならではだ。


『阿Q正伝』の原稿

『中国路地裏物語―市場経済の光と影―』(上村幸治、岩波新書、1999年)によると、この家に引っ越す前に魯迅が住み『阿Q正伝』を書いた四合院には、いまでは一般の家族が暮らしているらしい。その四合院の模型も、博物館には展示されている。執筆した部屋と暮らした部屋は異なり、また、『あひるの喜劇』に登場させた池も、同じ敷地内にあったようだ。なお、『あひるの喜劇』の主人公であるエロシェンコは、かつて日本に滞在したロシアの盲目詩人であり、竹橋の国立近代美術館に、中村彝が描いた肖像画がおさめられている。


『阿Q正伝』が書かれた家 左奥が執筆場所、右奥が暮らした場所、右手前に『あひるの喜劇』の井戸

『野草』(1927年)が連載された機関紙は、「過客」(竹内好の訳では「行人」)が展示されている。もともとこの連作は、統一感がなく、「過客」も唯一戯曲形式となっている。魯迅研究で知られる竹内好は、『野草』を、魯迅の根源をあらわしているものと評価している。確かに、ひとつひとつの生々しさ、書き手の意志の発露とそれに伴うノイズ、そして強靭さには圧倒されるものがあると感じる。魯迅は徹底的に愚なる大衆を描きつつも、それを告発したという単純なことではなく、自らを偽善も欺瞞も排した「孤独者」として追い詰め続けたのだろう。なかでも、「影の告別」は、暗黒=孤独、死、に向けて進んでいく男のマニフェストを切り詰めた文章にまとめた作品として、メキシコの作家オクタビオ・パスの『見知らぬふたりへの手紙』にも匹敵するものだ、と私は思っている。

「おれのきらいなものが天国にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが地獄にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが君たちの未来の黄金世界にあれば、行くのがいやだ。 だが、君こそおれのきらいなものだ。 友よ、おれは君についていくのがいやだ。とどまることが。 おれはいやだ。 ああ、ああ、おれはいやだ。無にさまようほうがよい。」 魯迅「影の告別」より


『野草』が連載された機関紙


日本留学時に描いて持っていた地図


『狂人日記』


ノーベル文学賞は要らないと知人に書いた手紙


魯迅自身のX線写真と体温のグラフ


存命中最後に書かれた手紙(内山完造に充てた手紙)


デスマスク


岩波文庫版『阿Q正伝・狂人日記(吶喊)』と『野草』


『マイティ・ハート』の非対称さ

2007-11-16 23:59:50 | 北米

中国からの帰り便に、『マイティ・ハート 愛と絆』(マイケル・ウインターボトム、2007年)を観た。日本公開は11月23日からだそうだ。

カラチでイスラム過激派のテロリストに拘束・殺害される米国人ジャーナリストを救出しようと手を尽くす妻と、それを支える仲間達の物語。夫の「偉大な心」を讃える、それはいいが、あまりにも構造的な歪みと非対称性に無自覚な「個人」を描く無邪気さがとても気になった。

テロリストの妄信ぶり。メディアの非人間性。インドとパキスタンの不仲。見えない情報を西側に知らしめるジャーナリストの存在意義。こういうものを、それらしく描いてはいる。しかし、テロリスト(の容疑者)を追い詰めていく過程では、パキスタンのテロ対策組織の人間は平気で拷問を行う。勿論、米国人はそれに与しつつも一歩離れて見ているのがミソだ。

また、テロリストたちが人質解放の条件として出す「グアンタナモの囚人たちに対する人道的な扱い」に関しては、コリン・パウエルを米国政治家として登場させ、「そもそも人道的な扱いをしているので条件にすらならない」と言わしめている。これが、前作『グアンタナモ、僕達が見た真実』を撮ったウインターボトムの意志による演出なのだろうか。

グアンタナモで何が行われているか、ではなく、他ならぬキューバに米軍基地が置かれているという歪んだ構造に視線を向けないことが問題だ、というべきだろう。もちろん、「中東」や「イスラム」が米国によって追いやられた位置、それから受苦、こんなものにも視線は向けられない。アルカイダが、ある意味では米国によって生み出されたことを思い出すなら、こんな感動作は噴飯物だ。立場を逆転させればあまりにも不条理な非対称性。国策映画と見られても仕方がない作品だろう。


武漢的芸術覗見

2007-11-15 23:59:39 | 中国・台湾

出張先の北京で少し時間ができたので、「SOKA ART CENTER」に、武漢(ウーハン)の現代美術を観に行った。国内移動の際に、中国東方航空の機内で読んだ「China Daily」に、紹介記事が載っていたのを破りとっておいたのだ。

城内の北、巨大なラマ教寺院の雍和宮(ようわきゅう)の近くにあるはずと思い歩いたが全く発見できない。そのうち孔子を祀った孔廟があったので拝観した。出たら夜、もう北京は寒い。薬局で道を尋ねたが誰も英語を喋れない。10元(170円くらい)で麺を食い、ギャラリーに直接電話した。英語を話せる女性が「タクシーをつかまえて運転手に電話をかわれ」というのでそうしたら、微妙に違う場所に降ろされた。座っている人に尋ねたら「カンボジア!」との答え。小奇麗なホテルがあったので尋ねると、胡同をひとつ間違えていた。結局、オフィスビルの1階にあったのだが、外からそれがわかるわけもなく、警備員に訊いてようやくたどり着いた。私は方向音痴だが、そうでない人でもまっすぐ行くことは不可能だろう。

入ったら30歳くらいの綺麗な女性が迎えてくれた。電話で話した、営業主管のApple Kengさんだった。ギャラリーは2箇所に分かれていて、Appleさんに横で丁寧に解説してもらった。それどころか80元(1,400円くらい)もする立派なカタログを頂いてしまった。

カタログにAppleさん自らが書いた文章によると、中国の現代美術界は「誰かの模倣」をすることが主流だが、武漢はアートの中心地でないだけに、模倣ではない個性が出てきているということだ。それが、このタイトルの「非・集体意志(UN-COLLECTIVISM」に反映されているのだろうか。アーティストは70年代生まれ以降の若い人たちばかりだった。

高虹(Gao Hong)は、出産を終えてまた武漢で創作している女性。グレーをバックに透明感のある肖像を描いている。時間とか内面を透徹する眼を持っているように見えて、少し怖い作品だった。

劉波(Liu Bo)と李鬱(Li Yu)のコンビは面白い。地方紙「楚天都市報」で報道されたヘンな記事を元に、実際にシミュレーション的にカリカチュアライズした再現を試み、それを写真に撮っている。例えばラマ教の信者が巡礼の旅の途中に間違って高速道路に入ってしまった話、村の建築便場で有毒ガスが発生し作業員がばたばた倒れた話、美容院にならず者が闖入して暴れたが二人の女性は悠然と座っていた話、など。森村泰昌や澤田知子など「なりきり写真」のアーティストはいるが、これはこれで違ったユーモアがあってしばらく眺めてしまった。

王晶(Wang Jing)の絵は、ペンティングナイフを多用して、具体的なイメージを茫漠と描き出すものみたいだ。動物の顔をした男4人がパンダに乗っかっている作品など、楽しくて味がある。

唐永祥(Tang Yongxiang)による、女性が水中やガラスの中に封じ込められている作品も良い。写真的に、リアルにイメージを可視化する方法は、武漢アートのひとつの流れになっているそうだ。

作品数は手ごろで、居心地の良いギャラリーである。雍和宮駅を使うより、開通したばかりの地下鉄5号線を使うほうが便利かもしれない。北京を訪れる方には、場所探しも含めておすすめする。

◎「SOKA ART CENTER」→リンク(作品の画像がいくつもある)


立派なカタログを頂いた


「China Daily」の記事


高虹の「緑野仙踪」(左)と「栄光的歳月」(右)


劉波/李鬱の「狗年十三個月」


王晶の「大取経No.16」


寒いので麺を食べた


朝日ソノラマのカメラ本

2007-11-08 22:48:33 | 写真
朝日ソノラマは2007年9月末をもって廃業した。ここからは、おそらく41冊の「クラシックカメラ選書」が出版されている。いくつかは持っているが、最近のものは読まずにいた。そうすると、自由価格本として、神保町の三省堂やすずらん堂で安く叩き売られていた。定価1,900円が700円前後だ。姿を消す前に、3冊ほど入手した。

大竹省二『大竹省二のレンズ観相学 距離計用レンズ編』(2006年)は、いまも『アサヒカメラ』で続いている連載のうち、レンジファインダー用レンズの作品とコメントを集めたものだ。以前『アサヒカメラ』の薄い別冊として出ていたものよりも多くのレンズ記事が含まれている。ズミター50mmF2については、絞ると「真綿が絹糸のように繊細になる」、エルマリート90mmF2.8については「柔らかでまろやかなトーン」、自身が開発にも関与したペンタックスL43mmF1.9については「ライカ・マニアの好むシャープな解像力とカラーバランスの良好なレンズ」などと、言いえて妙であり、語り口は芸となっている。キヤノン50mmF1.8は、後期型になるとさらに高画質になっていることは知らなかった。朝日ソノラマの商標権を引き継いだ朝日新聞社が、『一眼レフ用レンズ編』も出してくれないだろうか。

白澤章茂『トプコンカメラの歴史』(2007年)は、たぶんシリーズ最終巻。トプコンで設計をされていた方の著作だけに信頼性が高い。私の持っているトプコンレンズは、カメラ事業の晩年に、RM-300というペンタックスKマウントのカメラの標準レンズとして出された55mmF1.7のみだ。これが、すぐのちに事業を譲渡されたシマ光学による設計・製造との噂話をきいたことがあるが、この本によれば、トプコンの手によるということだ。少し嬉しいが、ただ、写りは何の変哲もない。

陸田三郎『中国のクラシックカメラ事情』(2006年)は、ほとんど断片しか知らない中国のカメラ史をさらってくれている。毛沢東の書を刻印し、夫人である江青が作らせた高級機「紅旗20」のこと、ペンタックスK1000にそっくりな「PENTAREX K1000」など、底なし沼という感じだ。私はというと、北京で買った「長城PF-1」(フジカST-Fのコピー!)や、かつて安原製作所が中国で委託生産させたテッサー型の標準レンズ「YASUHARA 50mmF2.8」を使ったことがあるくらいだ。描写はまったくたいしたことがないように思ったので、もう手元にはない。いまでは中国は急速にデジカメ社会にシフトした。大量の銀塩カメラはどこに埋もれているのだろう。




池田卓(2005年) ライカM3、YASUHARA 50mmF2.8、シンビ200

ナツコ

2007-11-07 23:59:01 | 沖縄

『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司、文春文庫、2005年)を読んだ。あわせて、『けーし風』読者の集いで女傑(?)Uさんに頂いた、「ヒストリーチャンネル」で放送された同名のドキュメンタリー番組も観た。

戦後、1946年頃から1951年頃まで、多くの沖縄人たちが密貿易を行った。著者の奥野氏は、物資も食糧もない戦後の沖縄にとって、これは必要悪であったことを語る。そして、多くの人に畏れられ愛されたナツコが、商売だけでなく義侠心に溢れ、同時に家族愛という面では非常にアンバランスでもあったことを、魅せられたようにひもといていく。

密貿易の舞台は、糸満、本部半島、与那国島、伊江島、石垣、台湾、香港などだ。そして対象となったものは、海人草(回虫の駆除薬になる)、砂糖、小麦粉、鰹節、ペニシリンなど様々だった。また、米軍から物資を盗み出す「戦果」、戦争の落し物である薬莢の真鍮などが、リスクと引き換えにオカネに化けていったという。

番組では、石原昌家氏(沖縄国際大学)は、伊江島で多く見つかる薬莢が香港ルートから中国の国共内戦に使われていくこと、そして身内を虐殺された沖縄人が「戦果」を利用することをしぶとさ、図太さを表しているのだと語っている。

こういった繁栄はすぐに過ぎ去ったものの、「アメリカ世」でも「大和世」でもない「ウチナー世」であったのだ、とする著者のノスタルジアには少し抵抗を感じなくもない。沖縄のマージナル性は、現在の問題でもあるのだから。沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫、1977年)では、まさに日本と中国お互いの淵に存在する与那国と台湾との関係について、鋭い視線を投げかけている。

「ぼくが与那国を訪れる以前、この島について知っていることは僅かだった。ハイ・ドナン伝説と花酒とヤミ景気時代。しかし、その僅か三つのエピソードが、全て<国家>とか<法>といったものに鋭く拮抗するエネルギーを秘めていることに気がつく時、与那国においてついに変容しなかったひとつのものの存在に思いは到る。 
(略) 
 与那国が、この「記憶」の休火山を秘めている限り、日本という国家にとって与那国島は同化できぬ「異物」でありつづける。与那国島自体が、日本という国家にとっての休火山でありつづけるのだ。」

沢木耕太郎『人の砂漠』より

ところで、番組では、沖縄密貿易を扱った映画『海流』(堀内真直、1959年)や、海人ならではの追い込み漁を記録した『海の民 沖縄島物語』(村田健二、1942年)が紹介されている。『海流』は、那覇の桜坂劇場で2005年に上映されたようだ。いつか機会があったら観てみたいと思う。


『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(ヒストリーチャンネル)より


久高島の映像(4) 『豚の報い』

2007-11-04 23:59:42 | 沖縄

又吉栄喜の小説を崔洋一が映画化した『豚の報い』(1999年)は、「真謝島」という主人公の故郷が舞台となっているが、ロケは久高島で行われている。数年前に観たのだが、あまりの汚さと淫猥さに辟易して途中でやめた。小説では面白くても、映画になると生々しすぎるのだった。しかし、今日は途中でやめなかった。

沖縄本島のスナックで主人公の男が酒を飲んでいると、トラックから逃げ出した豚が闖入する。その騒ぎで、ホステスがマブイ(魂)を落としてしまう。そのホステスも、他の2人のホステスも、それぞれ個人的な業や罪の意識を背負って屈折している。それで一緒に、「真謝島」の御嶽に御願に行こうということになる。ところが、宿泊した宿で食べた豚が原因で、皆ひどい下痢に襲われる。主人公の目的は、風葬された父の遺骨を拾いにくることだった。そして、突然、石や砂や塩で、個人的な御嶽を作る行動に出る。 そんな勝手につくった御嶽に効き目があるのかと問うホステスたちに対し、男は、「いまの御嶽も誰かがはじめたんだ」と答える。そのような、個人の心と行動へのフィードバックがとても面白い。

「「ママ、スコップを見ただろう?父の遺骨があったから御嶽を造ってきたんだ。俺は自分を救うのが精一杯だ。・・・・・・この島には本物の御嶽がたくさんあるから、申しわけないけど、あなたたちのいいようにしてください」 「・・・・・・私は正吉さんの御嶽を信じるわ。淋しくなった人が巡拝する場所よ」と和歌子が力強く言った。「信じない人は帰って。私ははるばる救われに来たのだから」」
又吉栄喜『豚の報い』より

登場人物たちが映画で宿泊する民宿は、私も泊まった、強烈な「ニライ荘」だ。何が強烈かというと、以下省略。いまでは昔からの「ニライ荘」や「西銘荘」に加え、新たな民宿やコミュニティセンターでも泊まることができるようだが、じつは「ニライ荘」にはもう一度泊まりたいと思っている。

映画には、家々や宿のほかに、船が着く徳仁港、墓地、日を遮るものが何もない道、モンパノキなどの植物群落などが現れる。エログロは我慢するとして、久高島のいまの風景を観ることができる。


家々とニライ荘(映画では「まじゃ荘」)


又吉栄喜『豚の報い』(文春文庫、1995年)