Sightsong

自縄自縛日記

ネッド・ローゼンバーグ@神保町視聴室

2014-08-31 22:38:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

久しぶりに来日するネッド・ローゼンバーグ(8年ぶりだそうだ)のプレイを観るため、神保町の視聴室というところに足を運んだ(2014/8/31)。わたしにとっては、1996年頃に六本木のロマーニッシェス・カフェでサインホとのデュオを観て以来。

Ned Rothenberg (bcl, cl, as, 尺八)
高良久美子 (vib,perc)
芳垣安洋 (ds)

これまで無機質だなという印象が強かったネッドさんだが、自分がそのような一面だけで視ていたことが勿体ない。かれのソロは、とくに長い循環呼吸のときに、顕著に多声・多音・多層的。そのような音のフローが次第に生命を持っていくようで、耳福だった。

芳垣さんは、玩具のような音からマーチのようなソロまで。高良さんのヴァイブも多彩で(弓で鍵を擦るなどはじめて観た)、3人による音の拡がりもまた快感。

第2セットは、かつてメールス・ジャズ祭で試したという、光を遮断したなかでの演奏(つまり真っ暗)。こうなると音もまた別の色を持つのだった。奇妙な体験だった。

※撮影はNikon V1、30-110mmF3.8-5.6

●参照
ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな(という、昔の感想)


永田浩三『NHKと政治権力』

2014-08-31 15:01:06 | 政治

永田浩三『NHKと政治権力 番組改変事件当事者の証言』(岩波現代文庫、2014年)を読む。

永田浩三さん(現・武蔵大学)は、NHKのプロデューサーとして、2000年から翌年にかけて、『ETV2001』枠において従軍慰安婦問題に焦点を当てたドキュメンタリーを制作していた。しかし、制作の終盤に、番組の内容を改変するよう極めて強い圧力がかけられる。その結果、番組からは、慰安婦のかたがたの生の声や、元日本兵の証言が削除され、ドキュメンタリーが根本から骨抜きにされてしまう。

圧力は、主に日本会議(特に現首相や故・中川昭一氏)による政治的かつイデオロギーに基づくものであった。NHKは、それに過剰反応したばかりか、解決ではなくトカゲのしっぽ切りを選んだ。

永田さんは、当事者のひとりとして、実際に起きたことを可能な限り検証しようとしている(ご本人も改変に加担してしまったことさえ、反省とともに書いているのである)。本書を読むと、NHKというメディアが、形の上では国営放送ではないとはいえ、実際には、歴史的にも政権の顔色をうかがいながら運営されてきたことが実感される。

そして、この傾向はまたエスカレートしている。いま読まれるべき本だろう。 

●参照
永田浩三さん講演会「3・11までなぜ書けなかったのか メディアの責任とフクシマ原発事故」
金平茂紀・永田浩三・水島宏明・五十嵐仁『テレビはなぜおかしくなったのか』
安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』
安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』第2弾、安世鴻×鄭南求×李康澤
新藤健一編『検証・ニコン慰安婦写真展中止事件』


ハン・ベニンク@ディスクユニオン Jazz Tokyo

2014-08-30 22:14:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハン・ベニンクが、御茶ノ水のディスクユニオンJazz Tokyoでインストアライヴをやるというので、いそいそと足を運んだ。

1998年に、「In "F"」(旧店舗の方)でソロ演奏に文字通り驚愕して以来、浅川マキ・山内テツとの共演、ICPオーケストラ、渋谷毅・井野信義とのトリオなどを観た。そうすると、今回はわたしにとって5回目か6回目くらい。

かれは時間前にやってきて、おもむろに着替え始めた。レジェンドが隣でシャツを脱いでいる(笑)。

演奏はスネアひとつに、スティックとブラシ。最初の一叩きは強烈であり、観客がみんなびくりと引く。そして、例によって、足をのっけてみたり、座り込んで床を叩いたり、ニッパー犬の人形と戯れたり(ディスクユニオンではグッズを扱っているのだ)、寝っ転がってみたり。笑いと強靭さとが見事に共存している。冗談たるもの、こうでなければならない。変わらない、素晴らしいハンさん。

終わった後に、DVDのジャケットにサインをいただいた。1998年時と比べ、大幅にシンプルなものになっている。愉快愉快。


今回いただいたサイン


1998年にいただいたサイン

※撮影はNikon V1、30-110mmF3.8-5.6

●参照
ハン・ベニンク『Hazentijd』
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8
レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
イレーネ・シュヴァイツァーの映像


船曳建夫『旅する知』

2014-08-30 10:50:19 | 思想・文学

船曳建夫『旅する知』(海竜社、2014年)を読む。

サンクトペテルブルグ、ニューヨーク、パリ、ソウル、ケンブリッジ、ロンドン。著者は、まだ海外旅行というものが珍しい行動であったであろう1970年ころから現在に至るまで、これらの土地に旅をし、あるいは定住し、変化を体感している。それによる「ああでもない、こうでもない」文集である。

わたしは大学に入った1989年に、1年間、船曳先生の「人類学」の授業を受けた(半年間だったか?もう一般教養のシステムを忘れ去ってしまった)。そのときも、「ああでもない、こうでもない」だった。授業の場で、思索を、わたしを含め成人前の馬鹿者たちと共有してくれるということが、極めて新鮮で、すこぶる愉しいものだった。船曳先生は、当時もこんなことを考えていたのかと思い返すと、腑に落ちるような気がする。

移動して、わが身を置く場を劇的に変えることは悪いことではないのだな、とも思える。もっとも、海外諸国に頻繁に足を運びながら、歴史や文化、人びとが背負っているものをまったく視ようとせず、偏見に満ち満ちた常套句のみを口にする人たちは多い。あたり前のことだが、その人次第だ。


アシフ・ツアハー+ペーター・コヴァルト+サニー・マレイ『Live at the Fundacio Juan Miro』

2014-08-30 08:35:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

アシフ・ツアハー+ペーター・コヴァルト+サニー・マレイ『Live at the Fundacio Juan Miro』(Hopscotch Records、2002年)を聴く。

Assif Tsahar (reeds)
Peter Kowald (b)
Sunny Murray (ds)

ツアハーのことはずっと気になっていたが、聴くのははじめてだ。このサックスの技巧が傑出している。ポリフォニックな音を、ときにはじゅんじゅんと、ときには高速で示す。また、泣き叫び、折伏しようとするような音色は、アルバート・アイラーやチャールズ・ゲイルとも共通するものを感じた。

ここに、絹のようなコヴァルトのベースが、「マモー、マモー」と参加し、断続的・小刻みにうねるようなマレイのパルスが入っていく。

●参照
ペーター・コヴァルト+ヴィニー・ゴリア『Mythology』
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
サニー・マレイ『Perles Noires Vol. I & II』
サニー・マレイのレコード
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』


ワダダ・レオ・スミス『The Great Lakes Suites』

2014-08-29 07:07:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

発売されたばかりの、ワダダ・レオ・スミス『The Great Lakes Suites』(TUM Records、2014年)を早速聴いた。何しろ、ヘンリー・スレッギルが参加しているとあっては放っておくわけにはいかない。

Wadada Leo Smith (tp)
Henry Threadgill (as, fl, bass fl)
John Lindberg (b)
Jack Dejohnette (ds)

そんなわけで、この2枚組を繰り返し聴いているのだが・・・。

確かに、スミスのトランペットは、空や地平線が見渡せる広大な空間で鳴り響くようなものであり、また、ジャック・デジョネットのドラムスも、「間」を感じさせるものである。この音楽は聴く者を自由空間において浮遊させてくれる。

しかし、肝心のスレッギルのアルトサックスがいまひとつなのだ。吹きはじめた途端に周囲の色を一変させるスレッギル・カラーは健在なのだが、それは実に弱弱しく、かつて、ルーチョ・フォンタナの絵のように空間に斬り込んでいった勢いは、まったくもって感じられない。まるで、スレッギルの亡霊が、姿を見え隠れさせながら、自分自身の模倣をしているようだ。

●参照
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』
ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像
ヘンリー・スレッギル(1)
ヘンリー・スレッギル(2)
ヘンリー・スレッギル(3) デビュー、エイブラムス
ヘンリー・スレッギル(4) チコ・フリーマンと
ヘンリー・スレッギル(5) サーカス音楽の躁と鬱
ヘンリー・スレッギル(6) 純化の行き止まり?
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス
ヘンリー・スレッギル(9) 1978年のエアー
ヘンリー・スレッギル(10) メイク・ア・ムーヴ
ヘンリー・スレッギル(11) PI RECORDINGSのズォイド


クリフォード・ブラウン『Jazz Immortal』

2014-08-28 07:40:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

クリフォード・ブラウンの名盤と呼ばれる記録はいくつもあるが、『Jazz Immortal』(Pacific、1954年)はそれほど取り上げられることがない。昔、ジャズを聴きはじめたころ随分気に入っていた。じつに久しぶりに聴いた。

Clifford Brown (tp)
Zoot Sims (ts)
Bob Gordon (bs)
Stu Williamson (valve-tb)
Russ Freeman (p)
Carson Smith (b)
Joe Mondragon (b)
Shelly Manne (ds) 

このセッションが一風変わっているのは、西海岸の面々とブラウニーとの顔合わせだ。練られた気持ちいいアンサンブルのなかで、ブラウニーは、力強さと抑制との両方をみごとに保ちながら、次々にわき出るアイデアをトランペットの音にしていく。

もちろん、ズート・シムズの名人芸も、ラス・フリーマンの上品な色付けも聴こうと思えば聴けるのだが、ブラウニーの存在感が別格ゆえ、耳はトランペットの音ばかりを追いかけてしまう。こういうものに接すると、「輝かしい」、「ブリリアント」といった言葉が大袈裟な常套句でないことを実感する。


フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』

2014-08-27 07:20:14 | 北米

福岡から帰京する機内で、フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』(サンリオSF文庫、原著1982年)を読了。

エンジェルの夫ジェフは、自分の父親であり、かつ大司教でもあるティム(ティモシー)が、イカレた女性カースタンと関係を持ったことを機に、自殺する。一方、ティムは、イエス以前のユダヤ教が、幻覚キノコを信仰の中心に置いていたことを突き止め、異端へと突き進む。それを信じるなら、イエスさえもドラッグの普及者に過ぎないのだった。やがて、あの世からジェフが戻ってきては、ティムとカースタンとにメッセージを伝える。カースタンもティムも死に向かう。

『ヴァリス』3部作の掉尾を飾る本作は、前の2作(『ヴァリス』『聖なる侵入』)とは、ディックが妄想する「神」との距離感が大きく異なるようだ。前2作では、大いなる存在に気付き対峙する人間の姿が描かれていたわけだったが、本作では、そのことは当然視されている。むしろ、偉大さをどうとらえればよいのかわからない「神」は、不可視なだけにグロテスクでさえある。

ここでディックが妄想する「神」の時空間は、まるで膨大なアーカイヴの海。その中で、意識や記憶を含めて情報は共有され、「わたし」も「あなた」も確固たる別々の存在ではなくなっている。

読んでいると、あまりの毒々しさと、ヴィジョン倒れ手前のあやうさとで、意識が混濁してくる。『ヴァリス』に続き、そのうち、『聖なる侵入』と本作も、早川文庫から新訳が出される予定であるらしい。3部作を最初から再読するのが楽しみでならない。

●参照
フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(1981年)
フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(1981年)
フィリップ・K・ディック『ユービック』(1969年)
フィリップ・K・ディック『空間亀裂』(1966年)
フィリップ・K・ディックの『ゴールデン・マン』(1954年)と映画『NEXT』


スコット・ラファロ『Pieces of Jade』

2014-08-26 06:57:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

スコット・ラファロ『Pieces of Jade』(Resonnance Records、1961年)を聴く。

Scott LaFaro (b)
Don Friedman (p)
Pete LaRoca (ds)
Bill Evans (p) (only 6)

1曲だけ、1960年におけるラファロとビル・エヴァンスとの「My Foolish Heart」のリハーサル録音が収録されているが(翌年のヴィレッジ・ヴァンガードのライヴを思い出しながら聴くと少し興奮する)、主に、ドン・フリードマン、ピート・ラロッカとのトリオによる演奏である。すなわち、名盤と称される『Circle Waltz』(1962年)のベースが、ラロッカの夭折により、チャック・イスラエルに交代したという形になっている。

たとえば、両盤に共通する「I Hear a Rhapsody」を聴いてみると、フリードマンは1961年にはまだ生硬なソロを取っているのに対し、『Circle Waltz』ではより洗練されている。しかし、それ以上に、ベーシストの違いが大きく、ここでの録音はラファロの存在感のみを目立たせているように感じる。ラファロは、従来のコード進行に沿いながら(もちろん、ベースはコードを主導しなければならない)、同時に、緊張感をびりびりと保ちつつ、奔放極まるソロを展開している。

ラファロがあと1年か2年生き永らえていたら、『Circle Waltz』は、もっと違ったものになったに違いない。

●参照
ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』
岡田暁生+フィリップ・ストレンジ『すごいジャズには理由がある』


セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー

2014-08-25 22:49:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

セシル・テイラー、ビル・ディクソン、トニー・オクスレーのトリオによるライヴ録音『Cecil Taylor / Bill Dixon / Tony Oxley』(Victo、2002年)。

Cecil Taylor (p)
Bill Dixon (tp)
Tony Oxley (ds)

これはまあ、大した組み合わせである。期待して再生するのだが、どれだけ大音量にしても、こちらが勝手に期待するようなカタルシスは欠片も得られない。ここから、今井俊満や白髪一雄の絵のような怒涛のエネルギーを感じ取ることは難しい。

ディクソンのトランペットは空間をふわふわと浮遊するようであり、音響君と化しているのみ。テイラーのピアノも、まったく懐にもぐりこんでくることはなく、当然、ボディ・ブローは打ち込まれない。相棒オクスレーも、ひとりだけが突出するわけはない。

もはやこの時点で、テイラーはテイラーのエッセンスだけを取り出して、卵の殻の上で演舞をみせるだけになっていたのだろうか?昨年(2013年)に来日したテイラーを観た多くの者が、これをさらに押し進めたような「空中に浮かぶエッセンス」に、多かれ少なかれ、ショックを受けたはずだ。わたしはこの演奏(2002年)よりあとの2004年、アントワープで、テイラーとオクスレーとのデュオを観ているが、ひょっとしたら、そのときも、テイラーはテイラー旨味調味料と化していたのだろうか?

●参照
セシル・テイラー+田中泯@草月ホール(2013年)
ドミニク・デュヴァル セシル・テイラーとの『The Last Dance』(2003年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年)
セシル・テイラー『The Tree of Life』(1991年)
セシル・テイラー『In Florescence』(1989年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979~1986年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』(1976年)、『Aの第2幕』(1969年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)


小林英夫『ノモンハン事件』

2014-08-24 00:36:39 | 北アジア・中央アジア

小林英夫『ノモンハン事件 機密文書「検閲月報」が明かす虚実』(平凡社新書、2009年)を読む。

ノモンハンは、モンゴルと旧満州国との国境に位置する。ここでは、国境線の引き方を巡り、日本側とソ連側との間で頻繁に紛争が起きていたのだが、1939年、ついに大規模な衝突に至った。外モンゴルは、革命を経て1924年に独立していたが、事実上、ソ連の傀儡国家であった。なお、日本では「事件」と呼ぶが、モンゴルでは「戦争」と呼ぶという。実態はもちろん後者である。

この戦争において、日本軍は大敗を喫した。特に、戦闘の中心を担った第23師団の死傷・生死不明・捕虜を含めた損害率は7割近くにものぼり、全滅に近い結果であった。しかし、無惨な結果とは正反対に、日本や満州においては、まるで勝ったかのような報道が繰り広げられた。

著者は、関東軍による検閲記録をもとに、隠蔽の実態に迫っている。通常はこのような記録は出てこないが、戦後、吉林省での工事中に、地下から発見されたのである。関東軍司令官は、敗走時に記録を残さないため機密文書を焼却処分することを命じたが、この場合は、間に合わずに地中に埋めたケースであった。

検閲ぶりは想像を超えるほど徹底的なものだ。本書に挙げられている件数でいえば、戦争が本格化した1939年8月において、75万件の電報を検閲して1000件を処置、また69万件の郵便物を検閲して900件を処置。その中には、当然、ソ連軍が質量ともに日本軍を圧倒したことが、外部の相手に向けて綴られたものが多数含まれていた。また、撤退したり、捕虜交換によって帰還した将校には、自決勧告がなされ、このことも実態を消し去ることに貢献したという。

仮に、実態が外部に伝わっており、肉弾戦で戦車を多数破壊したとか、空中戦では日本が圧倒的に強かったといった虚像(実際には、戦争初期のみの話)が拡大再生産するようなことがなければ、さらなる日本軍の暴走が、多少なりとも食い止められたのではないかと思えてならない。 

●参照
小林英夫『<満洲>の歴史』
島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
小林英夫『日中戦争』
田中克彦『草原の革命家たち』


馮小剛『唐山大地震』

2014-08-24 00:34:58 | 中国・台湾

馮小剛『唐山大地震』(2010年)を観る。(>> 英語字幕版

1976年、河北省の唐山でマグニチュード7.5の直下型地震が起きた。24万人もの犠牲者を出す大惨事となった。

被害者数が多い理由は、建物が非常に脆弱だからだろう。中国内陸部では、ときおり大地震が起きるが、程度の差こそあれ、しばしばこのような事態が引き起こされている。それぞれの場所にとっては、地震が稀であり、耐震構造などにはなっていない。今年(2014年)、雲南省で起きた地震でも同様の状況であったことが報道された。映画でも、いとも簡単に建物が崩落していくさまが再現されている。

映画は、このとき瓦礫の下敷きとなった姉弟の明暗を描いている。弟は片腕を失い、母を支えて生きる。姉は亡くなったものと思い込まれるが、実は生きており、子のない夫婦に養子として引き取られた。そして、2008年、四川大地震にボランティアとして駆け付けたふたりは、偶然再会する。

出来過ぎの物語ではあるが、登場人物それぞれの心の痛みを絡ませていて、引き込まれる。

●参照
馮小剛『一九四二』
馮小剛『戦場のレクイエム』 


『海鳴りの果てに~言葉・祈り・死者たち~』

2014-08-23 07:58:33 | 韓国・朝鮮

NHK「こころの時代」枠で放送された『海鳴りの果てに~言葉・祈り・死者たち~』を観る(2014/7/6放送)。

詩人の金時鐘さんは、済州島で皇国少年として育ち、17歳のときに終戦を迎えた。やがて、四・三事件(1948年)に関与した咎で追われ、日本に密航する。辿りついた大阪・猪飼野(現・生野区)では、朝鮮に近い日本語が使われていたという。

流麗な日本語を使っていた金時鐘さんは、ことばの限界を知り、ことばへの復讐をはじめる。かれが幼少時より親しんでいた唱歌は、いまも心に響く。それだからこその限界と復讐である。批評を持たない日本語、情感だけの日本語ではない日本語によって、かれは詩を書き連ねた。ことばに挑み、殺すことなくしての、ことばの再生はない、ということか。

●参照
『海鳴りのなかを~詩人・金時鐘の60年』
金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』
細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』
尹東柱『空と風と星と詩』
文京洙『済州島四・三事件』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
オ・ミヨル『チスル』、済州島四・三事件、金石範
済州島四・三事件と江汀海軍基地問題 入門編
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
仲里効『悲しき亜言語帯』
梁石日『魂の流れゆく果て』
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』
鶴橋でホルモン(与太話)
林海象『大阪ラブ&ソウル』


キース・ジャレット『Arbour Zena』

2014-08-23 00:00:13 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレット『Arbour Zena』(ECM、1975年)。ようやく平常心でチャーリー・ヘイデンを聴くことができるようになった。

Keith Jarrett (p)
Jan Garbarek (ts, ss)
Charlie Haden (b)
String Orchestra

特に、パブロ・カザルスと太陽とに捧げられた「Solara March」。この頃、インパルスとECMに多く吹きこんでいた時代のキースの曲からは、過剰な抒情性が溢れ出る。ヘイデンのベースの残響感は他にないものであり、また、ガルバレクが静かに入ってくるソロは遥か向こうを見ることができるようだ。

70年代のキースは、アメリカン・カルテット、ヨーロピアン・カルテット、そしてソロと、傑出した録音が多いと思うが、それだけではないことが実感できる。素晴らしい。不覚にも泣きそうになってしまう。

●参照
キース・ジャレットのインパルス盤
70年代のキース・ジャレットの映像
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 
キース・ジャレット『Standards Live』


ソニー・シャーロック『Ask the Ages』

2014-08-21 23:33:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

ソニー・シャーロック『Ask the Ages』(Axiom、1991年)。ジャケットの表裏を見ただけではわからないが、なかなか豪華なカルテットなのだ。

Sonny Sharrock (g)
Pharoah Sanders (ts, ss)
Elvin Jones (ds)
Charnette Moffett (b)

1曲目からファラオ・サンダース節満開である。というか、いつもの「ぎょべー!ぎゃー!」という「叫びながら吹き」。ええ、いきなり何でしたっけ。

90年代初頭といえば、ファラオが『何やらラヴ』とか『愛の何やら』とかいった、軟弱コルトレーンの情けないコピー商売に乗っかっていたころだ。わたしは脱力しまくって、もうファラオなんて聴いてもしかたがないと勝手に見限っていた。こういうことは早く言ってほしかった。実は、テレビ放送されないヘビー級タイトルマッチでは、朝顔から唾を飛ばしまくっていたわけである。

もっとも、ヘビー級タイトルマッチの主役は、リーダーでもファラオでもなく、エルヴィン・ジョーンズである。牛刀か斧のようなものを、軽々と振り回す。しかもときには繊細に。エルヴィンが叩くだけで、時空間が、身体全体をゆっくりと揺らすような大きなノリに支配される。いやあ、凄い。

●参照
ファラオ・サンダースの映像『Live in San Francisco』
エルヴィン・ジョーンズ+田中武久『When I was at Aso-Mountain』
エルヴィン・ジョーンズ(1)
エルヴィン・ジョーンズ(2)
『Stan Getz & Bill Evans』(エルヴィン・ジョーンズ参加)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(エルヴィン・ジョーンズ参加)
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』(エルヴィン・ジョーンズ参加)
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット(エルヴィン・ジョーンズ参加)
ベキ・ムセレク『Beauty of Sunrise』(エルヴィン・ジョーンズ参加)
ソニー・シモンズ(エルヴィン・ジョーンズ参加)
チコ・フリーマン『Elvin』
チコ・フリーマンの16年(セシル・マクビー参加)
ソニー・フォーチュン『In the Spirit of John Coltrane』