Sightsong

自縄自縛日記

石川文洋『ベトナム 戦争と平和』

2012-05-31 23:53:11 | 東南アジア

石川文洋氏はベトナム戦争の従軍カメラマンとして有名であり、その後も、ベトナムの様子を取材し続けている。『ベトナム 戦争と平和』(岩波新書、2005年)は、それによる豊富な写真とともに、いかに米国がベトナムにおいて無差別虐殺を行ってきたかを示すものだ。勿論その罪は、米国だけでなく、米国に追従してサイゴン政府を支援し、沖縄を米国の軍事行動のために提供した日本も負っている。

1883年、フランスがベトナム全土を植民地支配。
1945年、日本軍がフランス軍を武装解除、ベトナム帝国を樹立。
同年、ベトナム帝国は日本の敗戦によりすぐに崩壊。
同年、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国樹立の独立宣言。
1946年、フランスが再介入、戦闘開始。
1954年、北部ディエンビエンフーにおいてフランス軍敗退。
1955年、米国がベトナム共和国(南ベトナム、サイゴン政府)樹立。
1964年、米国による北ベトナム爆撃(トンキン湾事件)。
1965年、米国による北爆開始。
1969年、米国の撤退開始。
1975年、南ベトナム降伏、ベトナム戦争終結。
1979年、中越戦争。
1991年、中国とベトナムが関係正常化。
1995年、米国とベトナムが国交正常化。

冷戦構造にあって、フランスに代わる米国の介入は、戦争の泥沼化を引き起こし、数多くのベトナム住民を虐殺した。ジャングルにおいて、ベトコンと区別がつかないため、とにかく攻撃したのだった。

この過程で、米軍は枯葉剤を使用し、そのために、ベトナムでは今にいたるも多くの障害児・奇形児が生れている。そして、手こずるジャングルでの戦闘訓練のため、沖縄北部・やんばるの森に北部訓練場をつくりだし、今も返還されずに残されている。また、沖縄でも枯葉剤を使用していたことが判っており、その被害も次第に明らかになってきている。まさに、ベトナム戦争は現在につながっているのである。

本書に収録された写真群には、慄然とさせられる。相手側兵士の肝臓を生で食べるために腹がえぐられた死体(戦死しないという迷信)。見せしめのために放置された死体。米軍に怯える農民たち。武器など持っていないにも関わらず、不審な動きをしたために米軍に撃たれた住民。家族の死体を前に呆然とし、泣き崩れる住民。枯葉剤の影響で、腕や脚や眼球がない子どもたち。

それでも米国は敗れ、なお世界の各地で同じことを繰り返している。ベトナム戦争を歴史の記載にとどめず、そのことを顕在化させ続けるためにも、このような本は広く読まれるべきだ。

●参照
石川文洋の徒歩日本縦断記2冊
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
石川文一の運玉義留(ウンタマギルウ)
『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
東村高江のことを考えていよう(2007年7月、枯葉剤報道)
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
中国プロパガンダ映画(6) 謝晋『高山下的花環』(中越戦争)


アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』

2012-05-30 07:45:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

アート・アンサンブル・オブ・シカゴのライヴDVD、『LUGANO 1993』を入手した。

どうやら、『Salutes the Chicago Blues Tradition』としてCDで出されている演奏と同時期のものであり、同じ1993年7月、異なるスイスの都市で収録されている。ナレーションはドイツ語(意味は判らないが、ドイツ語であることは判る)、現地でのテレビ放送だろうか。

これまでアート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像は、『Live from the Jazz Showcase』(1981年)のVHSのみを持っていた。これがオリジナルメンバー5人による演奏であるのに対し、このスイスでのライヴは、吃驚するようなゲストを迎えている。

Lester Bowie (tp)
Roscoe Mitchell (reeds, perc)
Joseph Jarman (reeds, perc)
Malachi Favors (b, perc)
Don Moye (ds, perc)
with
Frank Lacy (tb)
James Carter (ts)
Amina Claudine Myers (org, vo)
Chicago Beau (harp, vo)
Herb Walker (g)

白衣を着てトランペットを楽しそうに吹きならすレスター・ボウイは相変わらずだ。ドン・モイエの素朴を拡張したようなタイコも、音の響きに味のあるマラカイ・フェイヴァースのベースも、相変わらず。勿論、音を聴いただけですぐにそれとわかる、 まるで雅楽のような音色もあるロスコー・ミッチェルのサックスも、やはり、相変わらず。

しかし、ジョセフ・ジャーマンのサックスは大勢の中では浮上せず、どうも分が悪い。それもあって、彼はある程度パーカッションに専念しているのではないか、などと思ってしまった。(個性があっても、少人数のなかでこそそれを発揮できる人はいるものだ。)

ゲストはそれぞれ見せ場を与えられている。フランク・レイシーの暴れるトロンボーンも、シカゴのブルースマンであるハーブ・ウォーカーやシカゴ・ボーも楽しそうにパフォーマンスを魅せる。

ジェームス・カーターは初リーダー作を出した頃であり、日本で凄いと騒がれるのもこの後すぐだ。ブルースが大排気量のエンジンを積んだようなスタイルはやはり気持ちがいい。ブルーノート東京では自分が引き立つように当て馬のサックスを連れて演奏したり、新宿ピットインではジョン・ヒックスの指示を無視して傍若無人に振る舞ったりと、馬鹿な様子をみてウンザリしていたが、また改めて聴こうかなという気にもなってくる。

そしてアミナ・クローディン・マイヤーズのオルガンとヴォーカル。においムンムンで素晴らしいのだ。彼女が参加していなければ、このDVDを入手したかどうかわからないが、それは正解だった。

●参照
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『苦悩の人々』
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』
ロスコー・ミッチェル+デイヴィッド・ウェッセル『CONTACT』
サニー・マレイ『アフリカへのオマージュ』(ミッチェル参加)
ムハール・リチャード・エイブラムス『Streaming』(ミッチェル参加)
ジョセフ・ジャーマン
ドン・モイエ+アリ・ブラウン『live at the progressive arts center』、レスター・ボウイ
マラカイ・フェイヴァースのソロ・アルバム
マラカイ・フェイヴァース『Live at Last』
アミナ・クローディン・マイヤーズのベッシー・スミス集
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75(マイヤーズ参加)
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス(マイヤーズ参加)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(カーター参加)


生野慈朗『手紙』と東野圭吾『手紙』

2012-05-30 00:05:15 | アート・映画

生野慈朗『手紙』(2006年)が、思いのほか沁みる映画だった。

強盗殺人を犯してしまった兄を持つ弟(山田孝之)。大学進学を諦め、川崎のリサイクル工場で働く。やがて、お笑い芸人として目が出てくるも、2ちゃんねるで兄のことを中傷され、その道を断たれてしまう。知り合った令嬢との結婚も、過去を調査した家族に断念させられる。次に働いていた大型電器店でもそのことが発覚し、倉庫へと配置転換される。自分には罪はない。すべては兄の所為だ。

手紙のやりとりもやめてしまい、絶望していた男の前に、電器店の社長が現れ、彼に言う。「差別があるのは当然だ。お兄さんはそのことも含めて贖罪しなければならない。しかし、君はここからはじめることができる」と。彼を支えているのは、ずっと彼を慕っていた女性(沢尻エリカ)だった。彼女は、兄弟の手紙を通じたつながりも維持し続けていた。そして、かつての芸人の相方が、兄のいる千葉刑務所に慰問に行こうという。兄は、弟の芸を見ながら、手を合わせ、涙を流し続ける。

差別のある社会を糾弾するのではなく、それを現実として受容し、その上でどのように生きていくか。答えはないのだが、周囲を責めることに解決策を見出すことの空疎さを突きつけてくる映画だった。

沢尻エリカはいい女優だな。何で(以下略)

その後に、映画の原作、東野圭吾『手紙』(文春文庫、原著2003年)も読んだ。設定の違いは多々あれど、基本的には同じストーリー展開だ。しかし、原作は映画よりももっと重い。少なくとも、まるで将来に希望を持てるかのような、感動によるカタルシスは得られない。それでも、すべてを宙ぶらりんにする方が、このテーマには相応しい。


金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」

2012-05-28 23:47:03 | 韓国・朝鮮

土日に働きすぎて振休を取っていた今日、東京外国語大学で金石範氏の講演会「文学の闘争/闘争の文学」があるというので、遠路はるばる足を運んだ。

会場には何も掲示がなく、何かの講義の一環として行われるようだった。学生たちの間に居心地悪く座った。(しかし、教室に枕持参で来て寝ていたり、講演中だというのに無駄話に夢中になっていたりと、やはり大学生の知性を疑ってしまう。わたしもそうだったのかもしれないが。)

金石範氏は1924年大阪生まれ、現在86歳。『火山島』は東アジアにおける最長の純文学だとの紹介があった。

金氏は以下のようなことを、最初は静かに、しかし次第に熱く話した。

○在日朝鮮人が日本語で書くということは、帝国主義・植民地支配の問題と関連する、根本的な問題だ。
○1910年からの1946年までの36年間、日本帝国は、「朝鮮と内地は一体」とのスローガンのもと、地球上から朝鮮を抹殺しようとした。それには歴史も文化も言語も含まれる。1930年頃から小学校では朝鮮語の使用が禁止され、1940年頃から朝鮮語の新聞が禁止され(朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』のみ認められた)、そして1942-43年頃に朝鮮語による雑誌が禁止された(代わりに皇国臣民化を目的とした日本語による翼賛的な雑誌『国民文学』が出された)。出来上がりは、「日本人化」であった。
○日本は過去から自由でなく、忘れようとしている。歴史清算はなされておらず、歴史に鈍感である。
○1965年の日韓基本条約は不平等条約であり、いつか直さなければならない(強制徴用の賃金未払い、慰安婦問題など)。ましてや北朝鮮との間は正常化すらしていない。こんな国は日本だけだ。
○在日朝鮮人は、日本による侵略(「併合」とはきれい事だ)の落とし子、所産である。戦前の金史良(『光の中に』など)も、戦後の在日朝鮮人文学の嚆矢である金達寿も、日本語によって書いた。金史良などは朝鮮語を使うことができたが、朝鮮語を学ぶことができない環境で育った多くの者は、日本語でしか書けず、日本語を客観視できない立場であった。
○奪われた言葉の代わりに「敵性言語」で書くということは、必ず倫理的側面にぶちあたるものだ。
○最初に同人誌に書いた『鴉の死』(1957年)は、故郷の済州島における四・三事件(1948年)をテーマにした。このとき、言葉の呪縛については考えていなかった。現場に行くことができず、日本語で現地の方言を書くというものだった。この作品は、1967年に新興書房から発行し(1000部ほど刷った)、その4年後に講談社から出した。作家としては世に出るのが遅れた。
○1960年代に日野啓三と対談したとき、日野は、『鴉の死』を実体験に基づく凄い小説だと思い込んでいた。そこで「体験ではない」と言うと、「信じられない」と絶句した。なぜ日野ともあろう者が、それだけで驚くのか。それは、日本の小説の判断基準が私小説にあるからだ。自分の小説は異なり、外れ者だ。
○朝鮮総連で仕事をしていたとき(~1968年)、『火山島』を自由でない朝鮮語で書きはじめた。しかし、朝鮮語では飯を食うことができず、また、発表の媒体もなかった。
○岩波書店の田村義也(のちに『世界』編集長を務める)が、『鴉の死』にショックを受けたとして、『世界』への執筆を勧めた。これが『虚無譚』(1969年)となり、田村義也が講談社に持ち込んでくれた。通常ならこのようなものを出すはずがない出版社だったが、結局は、田村の素晴らしい装丁で出すことができた。
○その頃、日本語で書いていいのか、深刻な課題として随分悩んだ。日本語とは何か。在日朝鮮人と日本語との関係は何か。そこに作家としての自由がありうるか、自由を持ちうるか。
○言葉には、個別的なものと、翻訳可能なものとがある。個別的なものは、音や形など生活の中で長年培われた民族的な形式であり、これが朝鮮人としての内的なものに影響するのではないかと思われた。一方、翻訳可能なものは、概念性のように普遍的に開かれた部分であり、これが個別性を超えると思われた。そして、虚構(フィクション)の世界に上げることにより、個別性を超えることができ、それにより作家たりうるとの確信を持つに至った。
○さきほどの私小説の伝統と関連付けて言うなら、自分の文学は「日本文学」ではなく、「日本語文学」である。
○パッションとは、あらゆるものを創り、また破壊する源泉である。そして想像力とは、宇宙の彼方まで想像できるとんでもない力、目の前にあるものを否定できる力である。文学にはこの両方が必要だ。
○サルトルは、「想像力は欲望から来ている」と言った。人間の生命力の根源は欲望である。パッションも、欲望の別の出方である。パトスこそがいのちの発現であり、ロゴス、理性は後から出来た。
○パッションは、英語ではイエスの受難も意味する。これが情熱とどう結び付くのか。磔刑も情熱がなければできない。
○自分にもいまだパッションがある。あとふたつ位の長編を書きたい。しばらく書いていないと、身体の中から突きあげてくるような苦しさを感じる。書かないことは耐えられない、想像できない怖ろしいことだ。

会場から、過去の清算はどうあるべきなのかとの質問があった。金氏は次のように応えた。

○慰安婦にせよ、強制連行にせよ、過去の歴史の検証がなされていない。
○日韓基本条約を不平等条約として見直さなければならない。謝罪なく、5億ドルで決着させ、請求権を放棄した形はおかしいものであった。しかし、韓国の司法でも、請求権を見直すなどの動きが出てきている。
○2010年は日韓併合百年であったが、『世界』など一部を除いては、メディアはほとんどそれに触れなかった。
○まずは北朝鮮との国交正常化が必要である。拉致問題はそのプロセスで解決するものではない(主客転倒)。日中国交正常化(1972年)の前後で北朝鮮とも国交正常化していれば、拉致など起きなかった。小泉・安部政権になって、拉致が政治利用され、日本政府は急激な右傾化を見せた。そんなことでは拉致問題は解決できない。
○国交正常化は、北朝鮮の民主化の助けになるはずだし、統一にも貢献するだろう。

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金達寿『玄界灘』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
梁石日『魂の流れゆく果て』(大阪での金石範の思い出)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
波多野澄雄『国家と歴史』
鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
野村進『コリアン世界の旅』
『世界』の「韓国併合100年」特集
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真


『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』

2012-05-28 22:02:28 | 関東

小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)のDVDが、関係者による映像を観ながらの詳細な対談、シナリオ、小論を収めた本とともに、DVDブック『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』(太田出版、2012年)として出ている。これが小川作品はじめてのDVD化である。早速、解説を参照しながら、じっくりと観た。

三里塚は明治以降の開拓の地であり、戦後は引き揚げてきた満洲開拓民や土地を奪われた沖縄人たちも開拓に加わった。明治天皇の御料牧場もあったことは偶然ではなく、牧畜はできても農地には適さない場所であった。それを開拓者たちは10年以上かけて開墾し、土を育ててきた。そして1963年には、政府により、養蚕を推進するシルクコンビナート構想が開始される(映画にも、桑畑が映しだされる)。ところが、1966年、政府により突如として新空港用地として指定される。さまざまな利権の他、オカネで立ち退かせやすい貧しい農民だとする思惑もあった。これが、三里塚闘争のはじまりである。かけがえのないものとして育ててきた農地と人生を、ひとつの命令で簡単に左右しようとするオカミへの激しい怒りであった。

のちに三里塚闘争は分裂し、複雑化を辿ることになるのだが、小川プロの三里塚シリーズ第一作『三里塚の夏』が撮られた1968年は、「三里塚芝山連合空港反対同盟」、全学連などの学生、そして主役たる農民たちが協力し、闘争を激化させていった時期にあたるようだ。ここには、彼らが模索し、話しあい、真摯に理不尽な権力行使に向かいあう姿がある。

測量に来る「新東京国際空港公団」とそれを装った私服警官、機動隊の判断停止による暴力は凄まじい。それは昔も今もそうかもしれない。しかし、下校してきた子どもたちを通すため、機動隊が左右に道を開ける場面を視ると、そうでもない、非人間性はさらに進んでいるような気がしてくる。沖縄県高江でヘリパッド建設に反対し座り込む人びとに対し、国は通行妨害禁止仮処分の申し立てをしたが、その中には当時8歳の子どもも含まれていたという悲しい事実を思い出してのことだ。もはや、権力行使は個々の相手が視えない形でなされている。

それはともかく、剥き出しの暴力や、闘う者たちの顔を撮る大津幸四郎のカメラは怖ろしいほどの緊張感を今に伝える。至近距離での撮影の挙句、狙われて逮捕されてしまうのだが、そのあとを受け継いだ田村正毅が機動隊員たちの顔をアップで撮る迫力もすさまじい。

カメラのことが色々と書かれている。ボレックスでは連続撮影に難点があり、基本的にはアリフレックスSTを使っている。但し、放水車からの水を浴びながら撮る場面では水に強いスクーピック、最後の三里塚空撮は16mmではなく35mmのアリフレックス。この作品は、モノクロ撮影と非シンクロ撮影の掉尾を飾った作品だといい、このことが、ドキュメンタリーとしての特性に影響している。このあと、小川紳介はシンクロ撮影により1ロール1カットの実験に入っていくのだという(その過程で、ボリュー200を使うも、シンクロが厳密ではなくてうまくいかなかったらしい)。

映画としての完成度はもとより、カメラの技術も、状況と密着した緊迫感も素晴らしい。そして、対談を読みながら観るとさまざまな発見がある。大推薦である。

●参照
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(萩原氏も映画に登場する)
鎌田慧『抵抗する自由』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
前田俊彦『ええじゃないかドブロク(鎌田慧『非国民!?』)
大津幸四郎『大野一雄 ひとりごとのように』


ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』

2012-05-27 21:54:52 | 小型映画

青山のブティックの2階が「テアトルタートル」と称し、定期的に映画の上映を行っている。ギャラリー「ときの忘れもの」の案内で、ここで、ジョナス・メカス『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』(1977年)の上映があると知り、直前に予約を入れて足を運んだ。定員20人の20番目だった。

行ってみるとバーのような狭い空間に、16ミリの映写機が置いてある。これは嬉しい。

『リトアニアへの旅の追憶』(1971-72年)では、女性の脚を見つめているうちは結婚なんてできないと言われた、と呟いていたメカスだったが、その後、50歳を超えてホリスという女性と結婚し、長女ウーナが生まれている。この映画は、ウーナが3歳を迎えたころの様々なフッテージからなる集合体であり、メカスの典型的な映画作りのスタイルだ。

約90分の間(もっとも、リールを2回取り変えるのだが)、何度となく、「Life goes on」、「These are the fragments」という活字のボードが示される(ドイツ語のウムラウトだけは手書きなのが愛嬌)。その通り、あらためて言うまでもなく、すべてはフラグメントであり、そんなことを言っている間にも人生は進んでいく。

カメラは揺れ動き、瞬き、視線を彷徨わせる。その先には、ホリスや、ウーナや、皆で再訪したリトアニアでのお母さんや、親戚たちや、ペーター・クーベルカなど友人たちがいる。メカスのフィルムを何度観ても、自分の人生となぜか重ねあわせてしまうメカス体験があるのはなぜだろう。それは、メカスのフィルムが徹底的に個人的なものであるからだと思える。

メカスは映画の冒頭で、確か、ウーナにこのように語りかける。「Oona, be idealistic... not be practical.」と。なんていい言葉だろう。

映画は、雪のニューヨークで、ニコラス・レイの死を知ることで締めくくられる。もちろん、このことと映画とは関係がない。それゆえにこの映画が独自なものとして成立している。

ところで、リトアニアでは、ミカロユス・チュルリョーニスの生家を訪れる短い場面があった。『リトアニアでの旅の追憶』での印象深いピアノ曲を作曲した音楽家であり、また、ユニークな画家でもあった。思い出すと何か聴きたくなってきた。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの


久高島の映像(5) 『イザイホー~沖縄の神女たち~』

2012-05-26 10:11:10 | 沖縄

NHKで1979年3月23日に放送された『イザイホー~沖縄の神女たち~』が、先日、再放送された。1978年12月14日からの5日間行われた、久高島の祭・イザイホーの記録である。女性たちが神女になるための通過儀礼であり、12年に1回行われてきた。しかし、過疎が進み(この前回の1966年には600人、このとき370人、現在200人)、久高島の両親を持つ30-41歳の女性という資格を満たす人がいなくなってきて、このときが最後の開催となった。

なお、この1978年のイザイホーは、『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1979年)というドキュメンタリーにもなっており(科学映像館が無料配信、>> リンク)、比べてみると、フィルムとヴィデオとの映像の違いは置いておいても、テレビ番組としての落とし所を提示していることが異なる。故・比嘉康雄も、写真において貴重な記録を残している。

1966年にさかのぼると、野村岳也『イザイホウ』(1966年)という白黒映像が残されているほか(>> リンク)、岡本太郎も訪れて写真を残している。もっとも、まるで土足で踏み入って独自の説を展開した岡本太郎については、いまだ沖縄において批判の声が受け継がれている。

この番組では、祭祀を司る者が女性であることをことさらに強調しているようだ。それも、一般論として、原始の祭祀は女のものであったというように、「かつて祭の主役は女たちであった・・・しかし、武力によって人びとを支配することが行われるにつれて、祭の中心は男になった」との語りを挿入する。久高島の女系社会を論じた吉本隆明『共同幻想論』が1968年、その文脈も意識していたのだろうか。

さて、番組では、まず、アマミキヨの琉球開闢神話や、土地の私有禁止・過疎、久高ノロ・外間ノロを頂点とした神組織など、久高島の特徴を手短に説明する。久高ノロこと安泉ナヘさん(当時77歳)、外間ノロこと内間カナさん(当時68歳)の姿がある。琉球王国では、ノロは村あたりにひとりであったが、明治政府が久高島がふたつの村をひとつにまとめたという経緯があるようだ。

そして、イザイホーについて映像を使って示されていく。神女になるナンチュ(30-41歳)は、洗い髪に白装束で「御殿庭(ウドンミャー)」に集まり、甲高い声で「エーファイ、エーファイ」との声をあげながら、「七つ橋」を渡り、クバの葉で覆われた「神アシャギ」に入っていく。この世から神への橋である。その先の「七つ家」に三日三晩籠り、出てきたときには、男の神・根人(ニーチュ)が、それぞれのナンチュの額と両頬に赤い印を付け、そこにノロが「スジ」という白い団子を押し付ける。これによってナンチュは神女となる。

4日目には、神女たちと一般の男たちが、一本の綱を向かい合って持ち、舟をこぐように押し引きする(「アリクヤーの綱引き」)。このとき男たちは「ヤーシコーネーラン」(ひもじくはない)と言い、神女たちはおもろで返す。これが、豊漁豊作に対する感謝なのだという。

テレビ的なのが、イザイホー前後で、ひとりのナンチュにインタビューしていることだ。その女性は、イザイホーを経た後では、「神様がいらっしゃる」、今までは好きではなかったが、これで「大きく振る舞える」と語っている。実際のところどうであれ、これはテレビ番組としての「落とし所」ではあろう。

コメンテイターとして登場する女性史研究家は、イザイホーが島の女性たちを取りまとめる「統制機関」であったのだろうと述べている。祭祀における女性の価値を強調する勢いでの発言だったが、琉球における権力構造も関連していたものかとも思わされた。吉本隆明が喝破したのは女系社会についてだけではない。久高島の琉球開闢神話は、ヤマトゥにおける記紀神話と同様に、権力を支えるものとして位置づけられるのである。


斎場御嶽から望む久高島(2005年) ミノルタオートコード、コダックポートラ400VC

●久高島
久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
久高島の映像(4) 『豚の報い』
吉本隆明『南島論』
久高島の猫小(マヤーグヮ)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』


『テルマエ・ロマエ』

2012-05-25 23:09:42 | アート・映画

所用で足を運んだ大阪で、夜中ヒマだったので、近くの映画館で、『テルマエ・ロマエ』(武内英樹、2012年)を観る。

古代ローマ帝国ハドリアヌス帝(市村正親)の時代。風呂技師のルシウス(阿部寛)は、現代の日本にタイムトリップしては、銭湯、自宅の風呂、露天風呂、ウォシュレットなどのアイデアと技術に感嘆し、ローマに戻ってそれを活かす。

最初から最後まで爆笑。阿部寛、市村正親、北村一輝、宍戸開らのローマ人風の濃い顔も面白いが、風呂とともに生きるおっさん、お爺さんたちの顔がもう絶妙である。なかでも、やーさん役の竹内力が、露天風呂で酒を呑むたびに「腐ってる!」と吐きすてるのがツボを突き、痙攣してしまう。

ところで、ルシウスは銭湯でフルーツ牛乳を飲み、「果汁入りの牛の乳か!」と驚いて、ローマの風呂でもそれを出すのだが、その頃にガラス瓶なんてあったのか。そう思って、「日本ガラスびん協会」のサイトを見ると(>> リンク)、何と、その利用は紀元前1500年頃のエジプトや西アジアに遡る。ローマ帝国でも使われていた。

映画館のロビーには、大阪にある世界の温泉こと、スパワールドとタイアップしたキャンペーンの応募券が置かれていた。「ミテマエ・フロマエ」だって、さすが大阪。


ジョルジォ・ガスリーニ『Gaslini Plays Monk』

2012-05-24 08:05:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョルジォ・ガスリーニ『Gaslini Plays Monk』(Soul Note、1981年)は、ソロピアノによる、かなりヘンなセロニアス・モンク集だ。モンク自身がヘンを超えた唯一者であり、モンクにインスパイアされたモンク集は数多いのだが、それにしてもこれはヘンである。

Giorgio Gaslini (p)

ガスリーニはイタリアの巨匠であり、本作も、イタリアそして欧州に立脚する者からのモンクへのオマージュだと語っている。

本人による演奏曲の解説がマジメなのかフマジメなのか微妙で愉快だ。

「Monk's Mood」「Ask Me Now」「Epistrophy」は、「テーマとヴァリエーション」ではなく「構造配列とテーマ」に沿ったもの。最初に奇妙な構造が構築され、どこに連れて行かれるのかと思いきやテーマに戻ってくる面白さがある。

「Let's Cool One」は、「ミクロな構造」からテーマへの発展。「Ruby My Dear」「Let's Call This」は、テーマの和音構造の拡張。と言っても、ヘンな方向に拡張していくのであって、何だか聴いていると、パラノイア的なダリの蟻を思い出す。

「Round About Midnight」「Epistrophy」は解体。プリペアド風でもあり、これは遊戯だ。

「Blue Monk」では、休止とピアニスト本人による咳が大きな要素となり、やはりテーマに戻ってくると安心する。この音楽家が、モンクに匹敵する強度を持つ証拠ではなかろうか。

「Pannonica」は、「Take The A Train」のイントロから始まり、美しいテーマを大事にした演奏である。

何度聴いても何かを発見したような気になる。ガスリーニの演奏はこの盤しか持っていないのだが、他にも聴いてみたいところだ。

●参照
ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』
『失望』のモンク集
セロニアス・モンクの切手
ジョニー・グリフィンへのあこがれ
『セロニアス・モンク ストレート、ノー・チェイサー』


『沖縄からの手紙』

2012-05-24 00:38:54 | 沖縄

「NNNドキュメント'12」において放送された、『沖縄からの手紙 祖国復帰40年の今』(2012/5/20)を観る(>> リンク)。

沖縄の日本への施政権返還(1972/5/15)から40年が経った。そのとき「復帰」との高揚を利用する形で、時の佐藤政権は政治的成功を演出し、その裏で、米軍基地を温存した。今なお残る基地問題の象徴として、このドキュでは、東村高江の反対の様子や、普天間基地近くの小学生が騒音で耳をふさぐ様子や、日本・沖縄の主権が奪われた沖縄国際大学ヘリ墜落事故の映像を示している。祖国復帰運動に身を投じた青山恵昭さんは、「まだ祖国復帰していない」とさえ語る。

沖縄を切り離したサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日は、沖縄にとっての「屈辱の日」と呼ばれた。それはずっと、復帰運動にとって大事な日であり続け、1967年の同日には、日本と沖縄とが国境の海で握手を交わす「沖縄返還要求海上集会」が行われたり、また「復帰」40年後の今年の同日には、国頭村と与論島が協力した記念式典が行われたりしている。この文脈において、沖縄本島最北端の辺戸岬はやはり大事な場所でもあり、あらためて、かがり火が焚かれている。

「復帰」への多くの人による想いと、現在も続く矛盾とが、対照的に描かれた短いドキュメンタリーである。しかし、何のためらいもなく「本土」という言葉を使ったり、「復帰」という言葉自体が孕む亀裂に何も触れなかったりと、深みのなさに不満が残る。

●参照
『沖縄が日本に還った日~1972.5.15~』
『世界』の「沖縄「復帰」とは何だったのか」特集
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
小森陽一『沖縄・日本400年』

●NNNドキュメント
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『風の民、練塀の町』(2010年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』

2012-05-23 06:50:00 | 北米

ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』(1974年)

土木工事労働者ニック(ピーター・フォーク)と、その妻メイベル(ジーナ・ローランズ)。メイベルは、溢れ出る感情をとどめる術を知らない。人への愛であったり、からかいであったり、憎悪であったり。感情を受け容れる者がいないと、メイベルは暴走を始める。周囲の者は、それを狂気とみなす―――夫のニックを除いては。ニックも感情を時に爆発させ、しかし、どんな時でもメイベルを抱擁する。このことが確信に変わるラストシーンは、人と人との間で形成される、奇跡的なミクロコスモスをあまりにも無防備に提示してくれるものだ。

ジョン・カサヴェテスは、本作、『ハズバンズ』、『オープニング・ナイト』、『ラヴ・ストリームス』など多くの作品において、押しとどめようもない感情の奔流にもだえ苦しむ人々を描いた。彼は、これこそに人間の特質そのものを視ていたのではないか。奔流がスクリーンと網膜を通じて私たちの中に入ってくるとき、私たちは、きっとニックやメイベルを「私」だと思うに違いない。

息遣いと空気を感じさせるカメラワークも見事な映画である。

>> 「Webdice」のクロスレビュー
(実は急用で試写会に行けず、手持ちのVHSを再見した)

●参照
ジョン・カサヴェテス『グロリア』
ACT SEIGEI-THEATERのカサヴェテス映画祭


『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』

2012-05-22 23:51:06 | 沖縄

テレビ朝日の「ザ・スクープ」で、『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』という特集が組まれた(2012/5/20)(>> 動画サイト)。

2007年7月に、かつて沖縄の北部訓練場において枯葉剤が使われていたと報道されたことには驚いたのだったが、わたしはそれ以降の動向を把握しないでいた。この番組を視てさらに驚愕。ちょっと散布しただけではないし、場所もやんばるの森の中だけではなかった。何と1960年代から70年代にかけて、ベトナム戦争を想定して訓練のために使用し、また日常的に除草剤として散布し、さらには大量に埋めたりもしていたというのである。

それだけではない。太平洋戦争末期、米軍は日本での枯葉剤散布を計画していた。もし実施されていたら、ベトナムのように、多くの人が奇形や障害で苦しみ続けたであろう。

枯葉剤は「エージェント・パープル」や「エージェント・オレンジ」というタイプが主で、甘い匂いのする油性の液体であった。「エージェント・オレンジ」のドラム缶にはオレンジ色のラインが描かれていた。

○米軍は、太平洋戦争末期、東京、横浜、大阪、名古屋、京都、神戸の稲作地帯に、チオシアン酸アンモニウム(枯葉剤の前身)を散布する計画を立てていた。しかし、原爆投下により、計画は中止された。
○ベトナムでは、いまだ何代にもわたって奇形児や障害児が産まれ続けている。医師は「いつになれば終わるのかわからない」と言う。結合双生児として産まれたグエン・ドクさんもそのひとり(もうひとりのベトさんは2007年に亡くなった)。
○沖縄の北部訓練場は1958年につくられた。ベトナム戦争の訓練場を目的とするものだった。そこでは架空の「ベトナム村」が設置され、ベトコンを想定した黒い衣装の人を小屋に配置した。そして何と、ベトコン役として、米兵のみならず多くの地元民が徴用された。そこで米兵は2週間~1ヶ月昼夜を分たず訓練し、ベトナムへと向かった。(米国立公文書館所蔵の「ゲリラ・トレーニング」という1962年撮影の映像が紹介される。)
○北部訓練場近くの東村高江では、湧水を飲料水として利用していたが、当時、多くの人が若くして亡くなり、ほとんど60代、70代の人はいなかった。また、やんばるの森の中では、奇形のカメやカエルが数多く見られた。
○北部訓練場だけでなく、嘉手納基地嘉手納弾薬庫キャンプ・シュワブ(辺野古)泡瀬通信施設ホワイトビーチキャンプ瑞慶覧キャンプ・コートニーなど、多くの米軍基地で、枯葉剤がフェンス近辺の除草目的で使われていた。被害は米兵のみならず、周辺住民にも及んだ。また、野菜の奇形などもあった(1968年、嘉手納弾薬庫近く)。
○枯葉剤は、ベトナムへの途中にすべて沖縄に運ばれた。那覇軍港やホワイトビーチから、多くの基地に輸送された。荷役担当の米兵は、そのときに漏洩した枯葉剤を浴びた。
○沖縄には1962年頃から持ちこまれた。米国は1971年5月にベトナムでの枯葉作戦中止を決定し、また、1971年1月のレッド・ハット作戦(嘉手納弾薬庫の化学兵器をジョンストン島に輸送)において、おそらく枯葉剤も輸送した。しかし、それ以降も枯葉剤は使われ続けた。伊江島では1973年に、普天間基地キャンプ瑞慶覧では1975年頃まで、散布されていたことがわかっている。
キャンプ・シュワブ(辺野古)では、枯葉剤は海に流れ出し、その影響で砂浜が漂白したような様子になり、サンゴは灰のようにぐずぐずとしたものになり、また、ハマグリはコールタールのようにまっ黒となっていた。2011年9月、名護市議会は米国に対する環境調査の要請を決議している。
○1969年1月、那覇港のリーフで輸送船LST600が座礁し、そのときにダメになった枯葉剤のドラム缶が、北谷町(キャンプ桑江返還地)に埋められた。なお、日米地位協定においては、返還後に米国は土地回復の責任を問わないこととされている。
○米国政府は、沖縄で枯葉剤を使ったことはないと完全否定している。その一方で、退役軍人省は、元米兵たちの発症した病気(糖尿病、皮膚障害、癌、多発性骨髄腫など)を、枯葉剤によるものだと認めてきている。
○日本政府は、米国の公式見解を確認するにとどまっている。韓国では、2011年5月に「ハンギョレ新聞」の報道により、1978年にキャンプ・キャロルに枯葉剤を埋めたことが明らかとなった。そして抗議運動が高まり、即座に米韓合同調査が実施されている(地下水から枯葉剤の成分が検出されたと発表)。この韓日の違いは、対照的な政府の姿勢を如実に示すものだ。

●参照
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
東村高江のことを考えていよう(2007年7月、枯葉剤報道)
戦争被害と相容れない国際政治
森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(毒ガス兵器のジョンストン島への輸送)


『LP』の豊里友行特集

2012-05-21 00:52:19 | 沖縄

沖縄の写真雑誌『LP』(H18、2012年春号)が、豊里友行さんの特集を組んでいる。それらの写真群は「カーニバル」と題されており、主に、米軍基地公開時の「カーニバル」を捉えている。

ここに焼かれている写真には、沖縄の家族たちが、憩いの場として米軍基地に佇み、米兵たちと無邪気に交流し、あろうことか子どもたちに殺人兵器をゲームパークよろしく触らせる姿がある。おぞましいからといって現実だ。もはや風景と化した米軍基地や米兵が、プロテストの対象となるわけはない、のである。写真群は、世界の裂け目をみごとに捉えている。

中には、『沖縄1999-2010』に収録されている写真もある。大きな違いは、前作が、政治や社会問題への直接的な言及を志向していたこと、そしてその視線の先にある問題群があまりにも多様のため、写真が、問題の説明のための存在と化していたかもしれないことであろう。

そのことが、写真という芸術にとって(これらは記録も兼ねるとはいえ記録のみを志向したものではない)、邪道なものであったか。北井一夫さんは、豊里さんの写真を評して、もう政治の季節は終わったのだ、政治に過度に依存すべきではない、と繰り返していた。わたしはその意見には半分しか共感しない。写真芸術を独立的なアートだとするのはナイーヴに過ぎるからだ。

しかし、今回の写真群は、前作よりもアートとしてそこに存在しているように見える。共通する写真が多いにも関わらずである。だからといって、現実の問題との距離が遠くなったわけではない。テーマが絞られたからだろうか。それ以上に何かがあるように思える。

●沖縄写真
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』
豊里友行『沖縄1999-2010 改訂増版』
石川真生『日の丸を視る目』、『FENCES, OKINAWA』、『港町エレジー』
石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
比嘉豊光『赤いゴーヤー』
東松照明『南島ハテルマ』
東松照明『長崎曼荼羅』
「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
森口豁『アメリカ世の記憶』
仲里効『フォトネシア』
沖縄・プリズム1872-2008


『沖縄が日本に還った日~1972.5.15~』

2012-05-20 10:24:53 | 沖縄

NHK-BS1で放送された『沖縄が日本に還った日~1972.5.15~』(2012/5/18)を観る。

40年前の1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還された。その際、「復帰」を受けとめた沖縄人たちの振り返りをまとめた番組である。ある者は呑みながら過ごし、琉球電電公社は電話のつなぎ直しに追われ、那覇港の船は一斉に汽笛を鳴らし、車は一斉にクラクションを鳴らし(警察は道路交通法に違反するためできなかったという)、ある者はまだ間に合うと赤線に駆け込んだりして、そしてランパート高等弁務官は嘉手納を後にした。

しかし、嘉手納基地などから米兵が繰り出してくる街・コザ(現、沖縄市)では、なんら雰囲気は変わらなかった。ある「Aサインバー」は、ベトナム戦争に派遣される米兵たちが、その前にあるだけのオカネを使っていく場と化しており、1日2000ドルもの売り上げがあった(家が建つほどの金額)。経営者たちは、基地はあってほしいと呟く。「復帰」に伴い公共施設が建設され、軍用地代が入ってきて生活が成り立つようになった伊江島では、「ここに限っては基地があったほうがよい」と明言する方もいる。また、ロックバンド・のドラマー宮永英一さんは、アメリカになった方がよかったと言う。

そのような声がありつつも、沖縄は「復帰」を切望する盛り上がりを見せ、そのうち、「復帰」前後から、米軍基地がそのまま残されることが明らかとなりその声が失望に変わっていったのだとする。佐藤栄作首相が「復帰」という成果を誇らしげにアピールする一方、屋良朝苗(初代知事)は、基地のない沖縄を求めた建議書を日本政府に門前払いされ、怒りの露わにしていた。そして、復帰記念式典が行われた那覇市民会館の隣にある与儀公園では、土砂降りの中、激しい反対運動が繰り広げられた。行政側に身を置いた方々も、身を切られるような思いであった。

経済的な打撃は大きいものだった。基地が残る一方で基地労働者は大量解雇され、ドルから円への通貨切り変えで資産価値が目減りし、コメの輸入禁止によって食べられるコメが「古米」「古古米」となり、住民たちは引き裂かれた。

元「ひめゆり学徒」の島袋淑子さんや、1987年に読谷平和の森球場で行われた沖縄国体において日の丸を燃やした知花昌一さん、アイデンティティを日本ではなく沖縄に求める佐渡山豊さん(インタビューは「どぅたっち」かな?)、沖縄県教職員組合の先生たちが登場し、その実状を口々に語っている。特に、沖縄にとって、平和憲法の受容は自らの意志として、その意義を捉え直してのものだったということが印象的だ。

さまざまな立場や考えの声を紹介する、一見良い番組である。しかし、基地経済への依存度が年々小さいものとなり、いまでは5%程度に過ぎないことは言及されていない。まるで、現在でも基地を残してほしい立場と出て行ってほしい立場とが同様に存在するような印象を抱かせることに、大きな違和感を覚える。40年前と現在とのつなぎがいかにも恣意的なのである。おそらく、何を批判されてもかわせるよう、反対の要素をバランスよく配置したのだろうね。

●参照
『世界』の「沖縄「復帰」とは何だったのか」特集
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦『闘争する境界』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
森口豁『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』
森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』
森口豁『アメリカ世の記憶』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
テレビドラマ『運命の人』
澤地久枝『密約』と千野皓司『密約』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
久江雅彦『日本の国防』
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
終戦の日に、『基地815』
『基地はいらない、どこにも』
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
押しつけられた常識を覆す
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』
アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』


ジャック・ラカン『二人であることの病い』

2012-05-18 07:00:00 | 思想・文学

ジャック・ラカン『二人であることの病い パラノイアと言語』(講談社学術文庫、原著1930年代)を読む。ラカンのごく初期の論文集である。

精神分析論は趣味でもないのだが、おそらくはラカンの作品が文庫化されるのははじめてであろうこともあって、手に取ってみた。

ここには、ラカンが精神科医として向き合った「エメ・A」や「パパン姉妹」の症例とその分析がある。後年よりも明晰というがやはり晦渋な表現であり、あまり魅かれるものではない。しかし、この分析は私たちの日常に潜むものであることは痛いほど伝わってくる。

自らの理想像を他者に投影し、他者が自己そのものになり、そのことが自己の形成を支配する。「エメ・A」は華やかな有名人の姿において、「パパン姉妹」はお互いの姿において、自己を育てた。いずれ発現する矛盾は、被害妄想と、それを解消するための他者への暴力や自罰へと向かうのである。

ああ怖ろしい。もうこんなもの読まなくてもよい。