Sightsong

自縄自縛日記

イラクの「石油法」

2008-07-30 23:50:11 | 中東・アフリカ

イラクで成立に向けた動きがある「石油法」にちょっと興味があったので、石油法に反対する主旨の集会に参加してきた。

「平和と民主主義をめざす全国交歓会」(ZENKO)が主催する、『イラクから全占領軍撤退!石油法反対! 7/30イラク石油法戦線議長スブヒ・アルバドリさん来日歓迎集会』(2008/7/30、星陵会館)だが、スビヒ・アルバドリ議長自身は、ビザの発行が間に合わなかったとのことで現れなかった。主催者の説明によると、日本にはヨルダンを経由して来るが、イラクにはヨルダン大使館が現在なく(運送会社が代行している)、難民流入の防止や、治安維持の観点からビザ発行には1.5~2ヶ月くらいかかっているという状況らしい。

開会前には、阿部知子衆議院議員(社民党)がことばを選びつつ、今年末にイラク駐留に関する国連安保理決議が終了してしまうこと、戦争を止めたいという大勢の思いを形にしたいこと、などの挨拶をされた。

次に伊藤成彦・中央大学名誉教授による短いスピーチ。

○米国の軍事介入から5年。大量破壊兵器の存在が虚構であったことが明白になった今、狙いは石油であったことがわかった。
○撤退によって治安が回復するのは明らかだが、米国の主張は逆であり、どうもオバマ候補もその方向にゆらいでいるようだ。
○侵略者が撤退し、イラクにまかせるべきだという世論を形成したい。日本にも米軍がいるが、それをモデルにイラクを永久占領しようとしている。
○石油法は国会で通らない状況。石油収入の60%が外資、40%がイラクという構図だが、後者にしても有力者に流れ、国民は使えない

主催者側の基調講演では、国連安保理決議が年末に終了することにかわる、見えないところで調整されている米軍駐留協定の内容を整理していた。まだよくわからないとしつつも、米軍の無期限駐留、恒久基地の保持、不公平な地位協定、イラクの「安全保障」のコントロールなど、いかにもと思わせる内容ばかりが列挙されている。

イラクからは、議長が間に合わなかったため、子どもの教育に携わっているというアザト・アフメド氏と、カナダで労働組合の活動をしているアムジャド・アルジャハリ氏が報告をした。

●アザト・アフメド氏(イラク子ども保護センター代表)
○センターの活動としては、キルクークでの新しい方法による教育、遠隔地の村でのコンピュータ・美術教育、写真や絵をバグダッドで見せたりする平和モニュメント、キルクークでの子どもへの暴力に関する教師への教育、手術が必要な子どもへの経済的支援、などを行っている。
○子どもへの暴力に関しては、協力的な教師と、歓迎しない教師とがいる。後者に対しては、その実情をメディアを通じて開示すると言いつつ、正しいあり方を上から教えつける。

●アムジャド・アルジャハリ氏(IFC北米支部代表)
○イラクの労働運動は分裂している。これには、占領軍が民族や宗派で分割して統治していることも原因として挙げられる。
○例えば北部の労働組合はクルド人のみ、南部の労働組合はシーア派のみといった具合であり、実際には大っぴらな差別はしないが背景の異なるメンバーの入会は歓迎されない(入れない)という状況である。
○誰でも入ることができる労働組合をつくりたい。
○労働者自らが発言できる環境をつくりたい。
○この理想に向けた大きな会議を、2009年2月に開催する。既にイラク国内では15以上の組合が呼応しており、また米国などの団体からも反応があった。
○石油法に関しては、企業は倫理を謳っていても、「カネは原則を持たない(Money does not have principle normally.)」が真実だとおもう。実際に、人権重視を謳っている商社は、35年間もサダム・フセインと付き合っていたではないか。イラクの富や未来について干渉したところで、今後民主的な選挙に基づく政権ができたとき、それが無に帰する可能性はある。
○イタリア政府がリビア政府と最近合意し、占領時に奪っていたものを返す(pay back)することとなった。イラクにも同じことがあってほしいと信じる。
○石油法は、イラクにおいては、別の種類の占領(経済占領)だと信じられている。国会で通過しないままにとどまっているのは、メディアを通じた活動が奏功していることが大きい。

実際に、大西圓(JETRO)『イラク石油法を巡って』(中東協力センターニュース、2007/10/11、>>リンク)を読むと、(石油という)国富の放棄、同時に米国などの利益の増大、宗派・民族問題の複雑化などを密接に関連していることが少し見えてくる。

たぶんこれだけでは視点が偏っているので、気をつけて追っていくべきかとおもっている。


元ちとせ『カッシーニ』、多部未華子、神谷千尋

2008-07-28 23:59:45 | ポップス

元ちとせの新しいアルバム『カッシーニ』を繰り返し聴いている。前作『ハナダイロ』はもう2年前。同じように、聴いていくうちに、いいところが残っていく。「カッシーニ(土星に輪がある理由)」では、「・・・もしあなたが消えてしまったら」など、抑え気味に気持ちを込める箇所の声の音塊がとてもいい。シングルで聴いていた「蛍星」の魅力は、同じ文字数のリフレインを厚くしていくことかとおもった。「空に咲く花」のウェットな声は締めくくりにぴったり。

来年のNHK連続ドラマ小説の主演が多部未華子になったというので、思い出して、『ゴーヤーちゃんぷるー』(松島哲也、2005年)と、『夜のピクニック』(長澤雅彦、2006年)を続けて観た。(NHK連続ドラマ小説なんて、『おしん』しか観たことがないけど・・・。)

『夜のピクニック』は高校生の青春映画なのでなんともいえず、置いておくとして。やはり西表島を舞台にした『ゴーヤーちゃんぷるー』は、大城美佐子鳩間可奈子が登場し、主題歌の「ティンジャーラ」を神谷千尋が唄う嬉しい映画。(ちょっと文科省推薦映画みたいだが。)

真夏の名護で暑くてたまらず、もう看板を下ろした「名護シアター」で観た。懐かしいなあ。名護にまた行きたいなあ。

神谷千尋は、この『ティンジャーラ』(2004年)以来、アルバムを出していない。その前の、民謡とポップスとがちょうどよく混じった『美童しまうた』(2003年)の路線に回帰することを期待しているが、それは望み薄だろう。


神谷千尋(2006年) Leica M3、Summicron 50mmF2、Tri-X、フジブロ2号

もういちど観たい映画(1) ゴーヤーちゃんぷるー


『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済

2008-07-27 21:54:45 | 沖縄

『けーし風』第59号(2008.6、新沖縄フォーラム)(>> リンク)の「読者の集い」に参加してきた(2008/7/26@神保町区民館)。参加者は次第に増えて7人。よくこの会でお会いする方々に加え、先日「森口カフェ」(>> リンク)でお誘いした新聞記者のDさんや、児童文学作家のMさんなどが参加していて、話が膨らんでくるのが非常に面白い。終わった後の飲み会には24wackyさん(>> リンク)もお誘いして乱入してもらい(笑)、また盛り上がった。

今回の特集「沖縄の18歳に伝えたいオキナワ」だが、そもそも『けーし風』自体がその層に多く読まれているのか、よくわからないところではある。長く平和活動をやっている方によると、イベントなどへの参加者は、学校で参加報告をしなければならない高校生と、年齢がかなり上の層になってしまい、その間がいないという状況らしい。実際に労働者は忙しく、情報も伝わらない実情があるようだ。参加した高校生がその後継続して何かに興味を持っているかどうかはわからないながら、仮にそれが一過性のものであっても、若い人にとってはその「出会い」は大きいに違いない、という意見があった。

沖縄とヤマトゥとの、相互のまなざしのずれについては、特集でも触れられているところだ。ひとつにはメディアの問題が関連しているとおもうが、沖縄以外の全国紙・地方紙においては、沖縄に関する<事象>はあっても<言説>はない、ということが実態だとの現場からの声。自主規制、読者の要望など要因は複層的なのだろうか。

沖縄にかんしては、<当事者>以外の関与を拒否する声が強い(意図はそれぞれ異なるが、野村浩也、目取間俊、知念ウシ、といった方々のスタンスが想起される)。「5.18シンポジウム<来るべき自己決定権のために>」における佐藤優発言(>> リンク)とは別の意味で関連するとおもう。それらの声は、たとえば目取間俊の「ヤマトゥで喋っていることが実は全く伝わっていないことのむなしさ」のように、<当事者>の真実の声なのだろうと認めるほかないものかもしれない。

一方では、『インパクション』163号(インパクト出版会)座談会において提起されていたように(>> リンク)、抵抗の身振りにおいて、「地元」だからという言い方は、NIMBY(Not In My Back Yard)と見なされてしまう危うさがあり、住民運動を外に開かれた形で展開する意義がある(そもそも短期的に移動できる世界では「地元」という意味を問い直さなければならない)といった指摘(阿部小涼)にも納得させられる。

この集いでは、間口を狭めてしまっては縮小均衡に陥るのではないか、相互批判はあっても退場勧告はなしとすべきなのではないか、との意見が多かった。

その後、本誌記事・西脇尚人『キャンプ・キンザー沖埋立事業の真実』や、泡瀬干潟の写真展のこと(>> リンク)などをきっかけに、公共工事依存型の経済、さらには基地依存型経済に、話が移った。基地があることにより沖縄の経済が成立しているという<常識>あるいは<幻想>に関しては、では別の産業がその敷地にあったらどうなのかという視点があまりないこと、経済以外の害悪と込みにした議論がなされにくいこと、失業率の高さが政治的な道具として使われてしまうこと、などの論点があった。

公共工事についても、それと対する位置に置かれてしまう平和運動のことや(伊江島における阿波根昌鴻さんの立場は、かつて、極めて厳しいものだったようだ)、選挙との関連など、話が具体的になればなるほど根が深そうだという感が強くなる。


沖縄「集団自決」問題(16) 沖縄戦・基地・9条

2008-07-26 10:39:46 | 沖縄

沖縄戦首都圏の会」第7回連続講座として開催された、小森陽一さん(東大教授・9条の会事務局長・子どもと教科書全国ネット21代表委員)による「沖縄戦・基地・9条」に参加してきた(2008/7/25、文京区民センター)。

時期のせいか、参加者は30人くらいと少な目だった。

以下概要。

●柴田健さん(沖縄平和ネットワーク、沖縄戦首都圏の会呼びかけ人)

○教科書協会の後ろ向きな動き(※検定をさらに非公開化することか)に怒りを感じている。
○「大江・岩波沖縄戦裁判」は、9月9日に次回の高裁法廷が行われる。早ければ次回で結審される。署名を集めて欲しい。

●小森陽一さん(東大教授・9条の会事務局長・子どもと教科書全国ネット21代表委員)

○専門は文学であるから、きょうは文学者として話をする。
○先日の地裁判決をどのように受け止めるか、どのような言語で表現するかという点については、4・24集会(豊島公会堂)での小牧薫さんの報告において、4つのポイントとして挙げられている。
○体験者の証言により、「事実」が「真実」として認められる条件がきり開かれた。このような証言は、謝花直美『証言 沖縄「集団自決」―――慶良間諸島で何が起きたか』(岩波新書、2008年)にもある。
証言は、記憶を蘇らせ、言葉に直すという二重の作業を経て生まれている。記憶は知覚・感覚的なものであり(体験)、言語化(経験)に向けて大きな距離がある。体験と経験とを分けて表現するのが日本語の特徴であり、英語では単なる「experience」だ。極端な場合、受け止め切れない体験は忘却されるが、知覚・感覚的な記憶として残っており、覚醒時にはわからないが半覚醒時にフラッシュバックが起き、パニック状態に陥ることがある。
○言葉にするということは、起承転結の物語にするということだ。そして証言とは、物語の枠の中に収めることを意味する。
○子どもたちは、発育上のある時期から、(たとえば悪さや排泄という、これまで許容されていたはずの結果に対して急に責められるようになるため、)「なぜ?」という原因を問い始める。「なぜ?」は斯様に物語(原因・結果の集合)に対する欲望である。この欲望への対応が教育だと言うことができる。
○一方、子供たちは民話・神話のようないつも変わらないお話を望む。いつ聴いても変わらないお話ということが重要であり、それが突然許されなくなるという恐怖がある。
○さて、記憶の想起から証言を行い、それらをどのような物語に当てはめるか、それが今回の裁判で争われている。いままで語られてきた物語に対し、「軍の命令はなかった」という今までと違う物語が介入し、それに対する反発があったということができる。
変わらない物語に対し「なぜ?」を問うことは、根源的に存在する暴力の問題に行き着く。ヴァルター・ベンヤミンは、この暴力と制度との問題を『暴力批判論』において論じた。
○いわゆる「集団自決」の体験者・証言者である金城重明さんは、自らの家族に手をかけたことについて、「なぜ?」という問いかけをやめなかった。どのように証言にするかの過程において暴力の構造を見極めていき、どんな力が家族を殺すのに働いたか、軍の存在はどのような役割を果たしたのか、「なぜ?」と問うことのできなかった力は何だったのかを明らかにしていった。
○新たな「物語」をつくろうとした文科省に対して、金城証言をはじめ、多くの記憶をもとに語られた証言が体系化されていった。
○どのような言葉で語られて社会化するかは微細なことであるが、それゆえ繊細なものだ。社会化された記憶は集合的無意識になり、言葉だけでわかったような気になり、真実には考えが及ばなくなる
○いわゆる「集団自決」という言葉は、日本軍による住民の集団虐殺という実情を表現していないという問題がある。大江健三郎はそれに対して「集団自殺」ということばを使い、この国に「美しい殉国死」という概念を導入しようとするみえみえの狙い(「国民感情の公然たる染め替えの策動」、『世界』08/6における大江論文)に抗しようとしている。大江健三郎は、2003年の「有事法体制」に関し、その意味するところに気付くことなく無邪気でいたと後悔している。
○もともと「55年体制」は、朝鮮戦争などを直接のきっかけに、米国にとっての「反共の砦」たるために、戦前の戦犯を含めた人材が国民のいのちと財産を売り渡して生き延びた結果としてある。
○しかし、3分の2の議席を取ることはできず、憲法9条を変えることはできなかった。しかし、93年まで単独政権を維持し、憲法解釈を続けてきた。これが別の意味での「戦後レジーム」であった。
○1993年細川政権誕生の立役者は、小沢一郎であった。その前は、湾岸戦争時、海部政権の幹事長であった。
○ここから、専守防衛という自民党単独政権の「物語」が変貌していく。政権交代はそれと無関係ではない。党が変われば、それまでの物語を継続しなくてすむ。
○1991年、湾岸戦争の「砂漠の嵐作戦」において、日本は国民1人約1万円もの軍事費を拠出したにも関わらず、直接派兵しなかったという理由で米国に責められた。実はこのとき、世界が「憲法9条」の存在を広く認知した。そしてそれが、現在の「9条世界会議」の成功に底流としてつながっている。
○このころ、日本のマスメディアの体制が変わってきたことに注意すべきだ。少なくとも不偏不党であり、その結果、護憲が大勢であった。しかし91-92年頃、「憲法9条」と「国際貢献」とがあたかも対立概念のように語られるようになった。いま、学生にその「国際貢献」の意味を訊くと、最初はODA的なものとして幻想を抱いているが、いずれ派兵に他ならないと気が付く。この、ことばの独り歩きこそが社会的な集合意識であり、それを明らかにできるかどうかが私たちに問われている言語能力だ。
○生き残った者たちが「なぜ?」を放棄するためには、「美しい殉国死」という物語が便利となる。そしてこれが、現在の「国際貢献」に密接に関連し、また、歴史の修正にも関連している。
○沖縄戦に関する検定は、なぜ、いわゆる「集団自決」が起こったのかという点において、主語を取り去り、主語と述語の関係を崩すものであり、言語に対する冒涜である。生徒に思考停止を促すもので、教育に反するものだ。そしてこれは、死んでいった人達に対する、生き残った人達の倫理性の問題でもある。
○今後、憲法9条、25条(生存権)、26条(教育を受ける権利)を関係づけていく行動が必要とされる。
○世論調査では、憲法改正に関して、反対する意見が次第に増えてきている。これは9条に関する草の根的な運動が世論を動かしてきていると言うことができる。

●質問1:思考停止しなければ学校にはいられないのではないか。

○理不尽社会に言葉の力を如何に用いていくか。
○思考停止に関しては、教師ひとりひとりが分断された状況では対策が難しい。地域という草の根での取り組みが効果的。たとえば、小学校区単位で9条の会をつくり、思考する力を地域にとりもどすことを考えている。(モンスターペアレントなどの問題は、どこかで履き違えた神話に起因し、思考停止し、感情だけを昂らせる状態になっている。)
○実際に、みんなで思考する地域への変貌をいくつもみている。
○たとえば青森の新和(にいな)では、りんご農家の方々が、唯一自分のための時間として、抹茶をたてながらお話をしていた。そこでたまたま9条の会に出会った。お互いに昔話をしているうちに、当時の軍の問題がなんとなくわかってきて、地域全体の隠蔽された記憶が明らかになってきた。人間関係も復活してきた。
○草の根運動はひとつひとつは小さいが、全体として大きな基盤をつくるものだ。

●質問2:小選挙区においては、政策というより、たとえば与党以外ということで代表的な野党である民主党に入れてしまうなどの行動を促すところがある。これに対してはどうか。

○小選挙区こそが93年レジームであり、米国の要請する共同行動を行えるための政界再編を可能とするものだった。
○しかし、大連立はさすがに世論が許さなかった。
○朝日新聞の議員に対する調査によれば、議員の過半数が護憲を志向している。これも草の根の力である。世論に沿わないと議員ではいられないのだから。
○これをもっと進め、地域の代表としての議員、というあり方が望ましい。そうすれば、地域における草の根の動きを選挙結果に反映できる。
○何の党を立てるか、ではなく、議員に何を確約させるか、が重要になる。

●寺川さん(「沖縄戦首都圏の会」事務局長)

○6月25日に高裁がスタートした。こちらがわの署名は約13,700筆が集まった。
○原告側は弁護士が手を引いたり、控訴理由書に不備が多かったりという状況。むしろ裁判官がよく目を通しているという印象がある。
○9月9日に第2回の口頭弁論があり、高裁は8月までに全部資料を出させる方針。そうすると、結審は早そうであり、年内に判決が下される可能性もある。
次回高裁の報告は、9月26日を予定している。

●俵さん(「子どもと教科書全国ネット21」事務局長)

○憲法9条、25条、26条の理念を、教育現場に取り入れたい。
○前政権時の教育基本法改悪、史上最悪というべき新学習指導要領などひどい状況にある。
○イラクでの活動を違憲だとした名古屋高裁の判決は、憲法9条と25条とを結びつけたものだ。
○家永教科書裁判の第2次訴訟における「杉本判決」は、教育は子ども自らの要求する権利として、25条と26条を結びつけた。


救え沖縄・泡瀬干潟とサンゴ礁の海 小橋川共男写真展

2008-07-24 23:47:40 | 環境・自然

『御万人の心』の小橋川共男さんによる、泡瀬干潟の写真展が、銀座の柴田悦子画廊で開催されている(>>リンク)。埋立の危機にある沖縄有数の干潟が、三番瀬や盤洲干潟とどのように違うのか写真で観てみようと思い、覗いてきた。

一見して、比較するとか何とかいう以前に、とても豊穣な(サンゴの有無だけではなく)自然の姿が提示されていることがわかる。ミナミコメツキガニの大群、コアジサシの雛、海の中にゆらゆらと立つウミエラ、タツノオトシゴ、ウミニナ(「海のチンボーラ」の、踏むと痛いチンボーラ)、トントンミー、ムナグロの群れ、コブヒトデなど、ひとつひとつの写真が素晴らしい。次の訪沖時には、泡瀬にも足を運びたい。意味を失った土建工事に脅かされる自然のひとつだ。

写真を見終わらないうちに、「泡盛は好きですか」と、いつの間にか主催者と観に来たひとたちの酒宴となってしまい、当然のように自ら巻き込まれた。今帰仁の泡盛や南米のマンゴーなど、なぜか旨いものをいただき、2時間くらい与太話をして過ごしてしまったのだった。

最終日の7/27(日)夕方16時からは、ギターの佐藤正美さんの無料ライヴがあるそうだ。

●参考
○三番瀬
盤洲干潟


『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ

2008-07-23 22:35:10 | 沖縄

『けーし風』第59号(2008.6、新沖縄フォーラム)は、「沖縄の18歳に伝えたいオキナワ」特集を組んでいる。正直なところ、18歳を2回少々繰り返しただけの自分が考える<次の世代>は小さな子どもたちであり、18歳はもはや誰かに何かを伝えてもらう年齢とはおもわない。勝手に学び、意味なく考え、動けばいいのである。それに、判断材料となる情報は、ちょっと昔と比べて冗談でないくらい多い。

一方では、その頃に狭い視野外の世界を誰かによって見せてもらっていたなら、もう少し立派な人間になっていたかもしれないなあと(真剣に)おもう。しかし実際のところ、実は窓は常に開いていたのに違いない。今だって常に窓は開いている。

むしろ、通過したこの頃の逆照射により「居心地の悪さ」(仲里効)を感じさせられることが大きい、と感じる。

本誌と呼応するように開催された「森口カフェ」(2008/7/14)では、「沖縄の十八歳」と題して、復帰前後のひとりの人物・内間安男さんの変遷を追っている。復帰前に18歳であったときの彼は、虚飾なく沖縄とヤマトゥのあり方を議論し、そして虚飾なく復帰すべきだと思い込む。それが大人になり、復帰の問題点を目の当たりにし、自らの身体で演じ、運動を行い、平和のあり方について考え続ける。この真摯な生き方は、時間の流れをショートカットして観るだけの私に感動を覚えさせるものだった。(>>リンク

本誌では、その番組を制作したジャーナリスト・森口豁さんが、『目に見えない三つの風景』を寄稿している。軍の論理によりスパイ行為として住民が虐殺された地、「一家全滅家族」が多くあった地、米国の嘉手納弾薬庫(クラスター爆弾もある)がある美しい地、の3つの風景である。見えないものを想像することは、勿論、あらゆる世代に対して<無数の想い>が要求することだろうとおもう。そういえば、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)でも、2児の父となった内間さんは、子どもたちに「一家全滅家族」のあった地で想像させるシーンがあった。

特集ではもうひとつ、徳田匡『霧の中の沖縄』の指摘は印象的だった。「主体」が「主体性」を脅かされたとき、「主体性の死守」が暴力という形をとって現れるのではないか、「主体性」が脅かされ続ける沖縄といいう議論においてこの特徴への言及が抜けているのではないか、という指摘である。

特集外では、西脇尚人『キャンプ・キンザー沖埋立事業の真実』が興味深い。浦添のキャンプ・キンザー返還にともない、自然海岸の残る貴重なエリアを埋め立て、道路を建設するという計画の妥当性を問うアセスが行われている・・・というのは一面だけで、実はその先に軍港計画がある、という実態の報告である。両者のリンクは明らかにも関わらず、枠組の縦割り以外は見せないようにして話が進んでいく、という<ありそうな話>だ。辺野古の新基地もそうだが、このような実情を知るにつけ、いたちごっこの枠組を超える強い監督機能が日本にないことを痛感する。監督機能が<政府>でなく<マルチチュード>であれば、それこそ理想的なのだが。

●『けーし風』 読者の集い
○日程
 7月26日(土) 午後2時より
○会場
 神保町区民館 2階 洋室A
 〒101‐0051 神田神保町2-40



沖縄5・18シンポジウム『来るべき<自己決定権>のために』

2008-07-22 23:38:26 | 沖縄

『情況』2008年7月号では、ハーヴェイ特集(>>リンク)と並んで、沖縄県立博物館・美術館で去る5月18日に開催されたシンポジウム『来るべき<自己決定権>のために』に関しても、特集を組んでいる。(>>リンク

冒頭に掲載された、佐藤優・基調講演『沖縄の独立は三年くらいあれば可能だ』を、ある意味では痛快に感じつつも、違和感を拭えない。ブログ『「癒しの島」から「冷やしの島」へ』において指摘されていることと同じだとおもうが(>>リンク)、沖縄の側に身を置く身振りと、歴史的・政治的ダイナミクスを豪快に鳥瞰する身振りとの両面を、極めて素早く衒いなく見せるという、バランスの危うさ。

沖縄独立論は居酒屋独立論、これを沖縄人がアイロニーとして言うのはいいが、ヤマトゥの人間が言うのは揶揄になってしまうから駄目だとする。おそらくそれは真実なのだろうが、あっと言う間に当事者のスタンスになってしまう、そのあり方に<断罪>的な色を感じてしまう。

<煽り>であるかも知れないが、大括りの語りは読んでいて面白いことは確かだ。氏は、日本のあり方について次のように分類する。①親米主義(いまの日本にちかい積極的なものも、喧嘩しないという程度の消極的なものも)、②アジア主義、③ロシアと近づいて中国を牽制する発想。そして②については、支配するのは中国であり、その場合に沖縄が置かれるのは、いまよりも酷いチベット的な位置付けになりかねないこと、沖縄が独立して中国と共同でガス田を開発すれば東洋のクウェートになりうるということ、などと並べる。ここが「居酒屋」的になるところだ。と言って、この言説を批判しても称揚してもはじまらない。居酒屋だからだ。

おそらく、基調講演のあとの、孫歌『民衆の連帯とは何なのか?』においても、直前に感じたであろう違和感が、次のような言葉となってあらわれている。

「場合によれば、佐藤さんは転職しなければ、日本を代表できるかもしれないです。私にはそういうチャンスはまったくございません。思想史研究者ですから。ですからそういう意味で、つまり代表権を否定する意味で、逆に沖縄の問題を、沖縄人だけの問題として設定したくありません。私はあえて沖縄の問題は自分の問題として考えたいと思います。」

崔真碩『影の東アジア』桂木行人『沖縄独立とヤマト』においては、台湾や済州島や沖縄の地に残る歴史や記憶の相互乗り入れが、さまざまな形で語られる。

ここまで書いたところで、極めてナイーヴで、かつ熱い火柱に怯んで、(と言うか疲れたので、)またあらためることにする。


「科学映像館」に9.5ミリ映画がある

2008-07-21 22:01:42 | 小型映画

北海道のお土産はやっぱり六花亭の「マルセイバターサンド」。お土産と言いつつ自分でもひとつ食べている。旨い旨すぎる。

沖縄の画家、故・大嶺政敏氏の作品を紹介するウェブサイトが観られなくなっている。なんだろう。

科学映像館」の配信映画が次第に充実してきている。Youtubeなどより画質が格段に良く、貴重な映像が多い。

最近、『昭和初期 9.5ミリ映画』(東北文化財映像研究所紹介作品)が登録されていた(>> リンク)。9.5ミリ映画とは、小型映画のなかでも、スーパー8やシングル8、さらにダブル8よりもさらに古い形式のフィルムフォーマットだ。私はスーパー8を敢えて現在使っているし、ダブル8についてもかろうじて使えることは知っている(何しろダブル8は、16ミリを往復して左右を仲良く使い、現像時に裁断するものであるから)。しかし、9.5ミリとなると、いかな変人であろうと今使うことは無理なのではなかろうか。その意味で、このような映像を誰でも観ることができる価値は高い。

映像は農作業の様子からはじまる。どうも水路を造成するため、皆で土を盛ったり石を積んだりしているようだ。土を運ぶための背負う器具が面白くて、盛るべき場所に着いたら底板を外して土を落とすつくりになっている。(『大脱走』を思い出した。)

トタン屋根を作る大工仕事の映像では、鉋掛けの様子が凄い。何しろ鉋などしばらく使っていないし、自分はとても苦手だった。いまでも鰹節を削るのは苦手だ。それが、見事に削り屑がふわふわと積みあがっていく。

岩手県・陸前高田駅の開通の様子というのもある。Wikipediaで調べてみると、どうも一日平均乗車人員が2000年・433人から2007年・260人と、かなりの勢いで減っている。ここにはまだ、開業翌年の1934年に建てられた木造の駅舎が残っているようだ。当然、開業時点の映像にはこの駅舎は映されていないが、俄然行ってみたくなる。

それにしても、映される人たちの表情を見ていると嬉しくなる。子どもたちも大きめのぼてぼてした服を着て、連続的に見られることなど全くなかったであろうときの顔といったら。

おそらく、この頃に小型映画を撮ることができたアマチュアは、ライカなどと同様、限られた富裕層であったに違いない。この映像は、日本におけるパテー協会というような建前で撮られている。

そのパテーについては、他の小型映画メーカーと同様に、ユルゲン・ロッサウ『Movie Cameras』(atoll Medien、2000年)に詳しい。チャールズ・パテーは1869年に生まれ、エジソンが発明したフォノグラフ(蝋菅再生機)を転売したり、映画事業に乗り出そうとして技術的に失敗したりしていた。それが1921年になって、9.5ミリフィルムを世に出し、プロジェクターとともに販売して大成功した。この9.5ミリフォーマットを使うカメラは、ボリュー、ボレックス、ニッツォを含め、多くのメーカーが作ったという(さっきまで、パテーしかないのかとおもっていた!)。しかし1927年には、ジョージ・イーストマンが過半数の株式を保有するようになり、チャールズは会社を手放さざるを得なくなる。

パテーの9.5ミリフィルムは面白い特徴を持つ。なんと、フィルムのパーフォレーション(送り穴)がコマ間の真ん中にある。多分、カメラやプロジェクターのアパチャー前後に送り爪があったのだろうと想像するが、当時の精度では、コマに掻き傷がどんどんついていったのではないかと心配してしまう。それだけではなく、フィルムの横に「ノッチ」が付いている箇所には、タイトル画面があることを示しており、そこでプロジェクターがフィルムを送るのを止めていたということだ。(また再開するときにはどうしたのだろう?)

パテーは映画事業の最後、1978年には、スーパー8のサウンドカメラを開発し、日本のナルコムから出していたようだ。ボレックス後期のスーパー8カメラがチノン(ああ、そういえばここもコダック子会社になっている!)によりOEM生産されたことは知っていたが、逆のパターンはさっきまで知らなかった。かと言って、探し出してまで使おうという気にはなれない。


9.5ミリフィルムの仕組み ユルゲン・ロッサウ『Movie Cameras』(atoll Medien、2000年)より

●参考(科学映像館の配信映像の一部)
『科学の眼 ニコン』
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』


『情況』のハーヴェイ特集

2008-07-19 21:40:56 | 政治

『情況』(2008年7月号、情況出版)が、「ハーヴェイをどう読むか」という特集を組んでいる。2008年1/2月号の「新自由主義」に続くものである。

吉原直樹『ハーヴェイをどう読むか』では、これまでのハーヴェイの著作を辿っている。それによれば、地理学から出発したハーヴェイは、立地の適切性から都市空間が決定されるのではなく、地代こそが利用を決定すると説く。支配秩序、あるいは社会的不平等がはなから資本構造の原点となっているということであり、時間・空間の障壁が時とともに低くなるにつれ、意図的な<場所の差異>が、資本をひきつけるためのフェティシズムと化すということになる。

都市空間=資本の集合体、の変貌振りに資本主義のありようを重ねあわせるという意味では、たとえば、地域の崩壊というものを、<結果的な立地>としてだけではない<場所>からも見なければならないということだろうか。

これを、資本の蓄積と、その体制をフルに用いた略奪・利益の偏在を説いた、ハーヴェイの『新自由主義』における主張とを、どう階層的に考えればよいのだろう。ただ、グローバル市場(扱うものがエネルギーであれ食品であれCO2であれ人であれ)のことを考えていく際に、この<結果としての陰謀論>を除外してはならないということは、どうも確かだとおもえる。

本橋哲也『「新たな帝国主義」の終わりの始まり』は、ハーヴェイ『ニュー・インペリアリズム』(2005年)を明快に解題している。「あからさまな領土の地理的支配の代わりに、世界中どこの地域においても自由市場と私有財産の守護者として」ふるまってきた米国が、自国の資本蓄積と消費拡大を如何に進展させたか、という論点である。

自国領土というバウンダリ内だけでは、資本蓄積の継続はいずれ頭打ちになるから、それを回避するために米国が採ってきた手段が、70年代位までは脱植民地化にともなう他国での開発主義、2000年位まではIMFなど金融資本によるヘゲモニー獲得、産業拠点の海外への移転と低コスト性による利益の吸い上げ、といった流れで説明されている。まさに後者の、悪質な金融業者そのもののような米国のふるまいに対し、中南米諸国が抗しつつあるいま、これまでの<資本蓄積装置の裾野拡大>に限界が出てきている、という点においては納得できる。

ではいまどうなのか、ということになると、ネオリベを補完するものとしてのネオコン、といった見方も気になる(日本でもそうだろうから)。それよりも、ここにはハーヴェイの著作同様に指摘がないが、環境対策において<資本主義のモーター>が変にまわってしまわないかということを、どうしても考えてしまう。

榎原均『新しい政治の探求』においては、ジャック・ランシエールの論考を紹介している。ここでは、現代の民主主義を「ポスト民主主義」と名づけ、コンセンサスに基づくシミュレーショニズムと位置づけている。シミュレーションは常になされているのだから、たとえば、異なる主体間の衝突による<現実の到来>などは既にシナリオのひとつとして先取りされているということになる。

このシミュレーション空間=世界では、緩衝材としての社会は存在せず、全ての主体が<自己責任>を持つようなものとなる。これこそが、ハーヴェイが『新自由主義』においても説いていたことであり、社会的つながりの切捨て、弱者の切捨て、福祉の切捨て、一部の主体のみの利益、といった特徴に容易に結びつくだろうとおもえる。そして、シミュレーション社会におけるメディアはシミュラークルの集合体であり、<メディア=私>という側面から言えば、すでに到来した将来を、各個人が<ミニ為政者>となって語ること自体がシミュレーション社会を形作っている、というようにもおもえる。

それぞれ異なる特質を<マイノリティ>だと言い換えれば、次の指摘も示唆的である。シミュレーション=メディア=政治空間=社会空間、というように還元されていき、それぞれ異なる主体が、新自由主義における商品価値判断の対象だということになるからだ。

メディアに載ること、あるいはメディアに載せてもらえること、それによってマイノリティが解放されるということは一つのシミュレーションです。しかし、それが解放の政治の原理とされてしまうような状況、これはつまりはメディア自体が一つの市場であり、そこに登場する人物は商品として流通させられているということに他ならないのですが、そこに政治的解放を見出すような自体が進行しているのです。メディアに載るということ自体が「現実的なものの喪失」であり、ある種の抽象化であって、アイデンティティも単なる商品の差異と見なされるようになるのですが、ランシエールはこのような事態そのものの政治性の解明に迫っていきます。」(126頁)

もうひとつの特集「沖縄五・一八シンポジウム 沖縄の独立は三年くらいあれば可能だ」については、すでに24wackyさんが報じている(>>リンク)ので、あわせて読んでいこうと思っている。

●参考
『情況』の新自由主義特集
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』


備忘録

2008-07-19 08:13:45 | もろもろ

土曜の朝、家族がでかけてしまったので、録画しておいた『汚れた英雄』(角川春樹、1982年)をだらだらと観た。天才レーサー・草刈正雄のジゴロぶりが真底しょうもない。『復活の日』(深作欣二、1980年)といい、草刈正雄といえば脱力映画という印象になってしまった。

●生物多様性日本一のサンゴ礁と干潟を埋め殺すな! 沖縄泡瀬干潟写真展(小橋川共男写真展) @柴田悦子画廊 7/20-27 >>リンク >>感想

●「沖縄戦首都圏の会」連続講座第7回 小森陽一さん「沖縄戦・基地・9条」 @文京区民センター 7/25 18:30- >>リンク >>報告

●「けーし風」読者の集い @神保町区民館 7/26 14:00-
特集は「オキナワの18歳」。 >>本誌の感想 >>「集い」の感想

●青春のロシア・アヴァンギャルド @ザ・ミュージアム 6/21-8/17 >>リンク >>感想
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書、1996年)を読んでから気になる存在だったフィローノフの作品も含まれている。

●野本大 『バックドロップ・クルディスタン』 @ポレポレ東中野 7/5- >>リンク >>ボケッとしている間に終了してしまった(笑)
シヴァン・ペルウェルの音楽を使っていて、クルドの踊りの映像が観られそう。

●藤本幸久 『Marines Go Home - 辺野古・梅香里・矢臼別』 @ポレポレ東中野 7/26- >>リンク
沖縄、北海道、韓国をリンクする試み。

●ボリビア映画上映会 @スペイン国営セルバンテス文化センター 8/1-9 >>リンク >>感想① >>感想②
ウカマウ集団の映画を観る機会。

●北井一夫 『境川の人々』 @どんぐりころころ(浦安フラワー通り) 8/3-10 >>リンク >>感想
ズミルックスによる20年前の浦安、オリジナルプリントで観ることができる数少ない機会。

●北井一夫 『いつか見た風景』 @ギャラリー蒼穹舎 8/4-17 >>リンク

●ニキータ・ミハルコフ 『12人の怒れる男』 8/23- >>リンク
『黒い瞳』が好きなミハルコフによるリメイク。裁かれる対象がチェチェンの少年という設定になっている。

●フランシス・フォード・コッポラ 『コッポラの胡蝶の夢』 8/30- >>リンク
原作がミルチャ・エリアーデ『Youth without youth』。コッポラも久しぶりの新作。最悪な邦題のためにコケるのが心配。

●『特別展スリランカ 輝く島の美に出会う』 @東京国立博物館表慶館 9/7-11/30 >>リンク
アヌラーダプラ時代以降の仏像・神像がまとめて展示される。

●ICPオーケストラ @西麻布スーパーデラックス 9/15, 16 など >>リンク
再来日。トーマス・ヘベラーなどメンバー個別のセッションもあるようだ。ミシャ・メンゲルベルグやトリスタン・ホンジンガーをオケ以外でも観たい。


いのちと痕跡と振動 エミリー・ウングワレー展

2008-07-17 23:55:02 | オーストラリア

行こう行こうと思っている間に、終わるまであと2週間を切ってしまった。その間に、パースでもウングワレーの作品を3点観たり、2006年にブリジストン美術館で行われた『プリズム オーストラリア現代美術展』の図録を入手して、そこにおさめられた4点の印刷を観たりしているうちに、フラストレーションはたまる一方。さらに先日、編集者のHさんがウングワレー展のエコバッグを持っているのを目ざとく発見し、もう1回観に行くと聴いて、一刻も待てなくなった。ついに午前中半休をとって行ってきた。

『エミリー・ウングワレー展』(国立新美術館)は、彼女が1977年に制作しはじめたバティック、1988年から亡くなる1996年までの間に描いたカンヴァス画、さらに立体作品を、120点も展示している。もちろん、日本では過去最大級だ。

初期のバティックは、これまで自分が知っていた南アジアや東南アジアの工芸品とは異なり、随分粗く、微妙なトーンがある。仔細に観ると、インプロヴィゼーションによるところが大きいのは勿論だが、例えば一度染めて蝋を取ったあと、再度そこをなぞるように蝋を付着させ、染めのずれにより時間軸を導入したようにみえた。染めるときの布の折り皺に色がつくのはバティックの特徴だが、デザイン的ではないため、それがここでは生命を付加しているようにもおもえる。

そしてカンヴァスへのアクリル画。点描は微妙に色を変え、あるいは下の色を乾燥過程で見せるようになっている。点のひとつひとつが、木の実でもあり、潅木でもあり、土や水でもあり、卵でもあり、光そのものでもあり、いのちの噴出であるように感じられた。それらのいのちの群れと重なるようにある、横方向の動きの痕跡。それからすべての振動。三歩下がって見渡したときにわかる、うねりと偏在。

亡くなる直前の連作では、点描ではなく、刷くように塗っている。<ひかり、いのちの群れ>が、「私は眼だ」と言ったクロード・モネの晩年の作品群に比肩するものだとすれば、この最晩年の<動き>は、一緒に生きる者ではなく彼岸からこちらを観るような、ゲルハルト・リヒターの作品群にも比肩するものにおもえた。(もっとも、リヒターは呪われた彼岸かもしれないが・・・。)

休憩室では、ウングワレーが作品を制作している様子の映像が流されている。土のうえにカンヴァスを置き、座ったり眠ったりして制作に没頭している。世界から切り離されたアトリエではないわけである。ウングワレーは、バティック制作の前には儀式のためのボディ・ペインティングも行っていた。大地も人も、抽象化された存在ではないから、複製不可能な<かけがえのないもの>と言ってよいのだろう。その、<かけがえのなさ>を、ウングワレーは、晩年の8年間に数千点もの作品として残した。

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(御茶の水書房、2004年)によれば、アボリジニの世界観では、世界には「中心がない」。これは、<かけがえのなさ>に呼応するものではないか、と改めて作品を観ながらおもった。トートロジーに他ならないが、<そこ>は<そこ>、<これ>は<これ>でしかありえないということだ。

移動こそが世界維持の根幹であるということは、世界には「中心がない」ということでもある。人々がカントリーを巡って移動しなければならないのは、ドリーミングの聖地がカントリーのあちこちに拡散しているからである。世界全体を維持するための「中心的聖地」なるものは、存在しない。同様に、世界全体を「再充電」することが可能となる「中心的な儀式の場」も存在しない。

周知のとおり、ミルチャ・エリアーデは、世界の諸宗教における聖地の役割を「世界の中心」として重視しているが、これは必ずしも、アボリジニ諸社会にはあてはまらないのではないか。むしろ、それぞれの聖地がそれぞれの中心であると理解すべきであって、その意味では、アボリジニのカントリーには「世界の諸中心が無数にある」というほうがずっと適切である。

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(御茶の水書房、2004年)

●参考
支配のためでない、パラレルな歴史観 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』
オーストラリアのアート(5) パースでウングワレー、ドライスデイル、ボイド、それからジュリー・ドーリング


マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』

2008-07-16 23:17:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

名ピアニストのひとり、マル・ウォルドロンが亡くなったのは2002年。その前年に、デイヴィッド・マレイ(テナーサックス、バスクラリネット)と共演した『Silence』(Justin Time)というCDが出ていた。どうやら今のところ、マル最後の録音らしい。

ビリー・ホリデイとも、エリック・ドルフィーとも、ジョン・コルトレーンとも共演し、ソロピアノでは叙情的なメロディを紡ぐという、モダンジャズの歴史を体現しているような懐の深いピアニストであるマル・ウォルドロンは、ここでも、淡々と、独自の和音を響かせている。

いっぽう、デイヴィッド・マレイの(下手といって悪ければ)味のあるクリシェ的なサックス、バスクラもいつもと変わらない。フラジオ奏法による高音域から下がってきて低音のヴィヴラートで締める方法も健在。悪口を言っているようだが、実は好きなのである。ライヴでツボにはまったときの会場の狂乱ぶりは、なかなかあるものではないとおもう。

このCDでは、正直言って、そのようないつもの2人が共演したということが全てなのであって、それ以上のサムシングはない。しかし、それでいいのだ。スタンダード「I Should Care」は泣かせる。

マレイは自身のオクテットやワールド・サクソフォン・カルテットでの音のカオスも良いが、バラードがまたクリシェで(悪口ではない、念のため)聴かせる。思いつくものでは、『Children』(Black Saint、1985年)での「All The Things You Are」があって、ドン・プーレンの抑え気味なピアノとロニー・プラキシコのアルコベースをバックに、ねっとりと吹く。

マル・ウォルドロンは晩年、ブリュッセルに住んでいた。何度もマルと共演した那覇在住の歌手、与世山澄子さんは、「マルが亡くなったとき駆けつけたかったけど、ブリュッセルは遠くて・・・」と、後日、残念そうにつぶやいていた。


David Murray 『Children』


Mal Waldron 『Left Alone』 1995年、オウムが新宿上空からサリンを撒くとのデマが流れた日にピットインで聴いた

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元ちとせ『Music Lovers』

2008-07-15 23:59:42 | ポップス

元ちとせのホームページで応募したら当たってしまったので、日本テレビ『Music Lovers』という番組の収録に観客として行ってきた。観たことがないが、ライヴハウスのような場で唄うつくりになっている。

夜8時半に入って、荷物と携帯電話を預けて、始まったのがようやく10時ころ。ライヴ会場もオールスタンディングでもう腰が痛い。ぞろぞろ入って、おおっ前だなと思ったのもつかの間、「女性をテレビに映したいので男性は後ろに下がってください」などという指示。それでも6列目くらいだから充分近い。例によって拍手の練習なんかをさせられた。

バックバンドはキーボード(Dr. kyOn)、ギター、ベース、ドラムスという編成。やっぱり元ちとせが激近に出てくると嬉しいのだ(笑)。PAが凄いが、声がよれるだの何だの難癖を付けていたことを忘れる堂々とした唄で、裏声も迫力がある。曲は、「蛍星」「ワダツミの木」、途中に松任谷正隆のピアノとのデュオで「春のかたみ」を挟んで、「あなたがここにいてほしい」の4曲。

そのあとトークショーがあって、ゲストが清水ミチコと宮迫博之。いまでは有名になった、「奄美では蛇口をひねったら海老が出てきた」の話なんかもあって、随分笑った。

番組の放送は8月31日だそうだ。新しいアルバム『カッシーニ』は、もう7月16日に出回る。いまから腰が痛いまま寝て、朝便で札幌に行かなければならないので、向こうで買って帰ろうかなんて思っている。


森口カフェ 沖縄の十八歳

2008-07-15 06:00:50 | 沖縄

小川町のneoneo坐で行われた「森口カフェ vol.3」に足を運んだ。ジャーナリスト森口豁さんがかつて制作したテレビドキュメンタリーから、内間安男さんというひとのふるまいを観察した、定点観測的な3本が上映された。狭い会場には30人くらい集まっていて、neoneo坐にはじめて来たというひとも多いようだった。

『沖縄の十八歳』(1966年)は、高校3年生、18歳の内間さんの姿を捉える。日本復帰への布石となる佐藤首相の訪沖を経て、沖縄では復帰の是非を問う議論が高まっていた。高校生の間でも、それは無縁ではなかった。慰霊の日に訪沖する山口衆議院議長に対し、コザ高校有志として、復帰を訴える文書を渡すかどうかでクラスは意見が二分していて、内間さんは復帰に賛成する側だった。

その、「トートロジーにちかい」(仲里効)復帰への熱望に対し、級友は、「勝手に沖縄をこのようなところにしておいて今さら復帰だなんて、そんな国が俺たちの祖国と言えるんだろうか。そんな祖国なんていらないよ。」と反論する。これは何度もドキュの中で、内間さんの心に響くように繰り返される。

「復帰から三十一年、六五年から六六年かけて交わされた、若きアドレセンスの<日本人/祖国論争>など、まるでなかったかのような時勢に私たちは生きている。沖縄の十八歳の憧れや悩み、言語化される以前の不定形の闇を忘却から奪回するとき、沖縄の戦後の履歴をまざまざと見せつけられ、今という時の居心地の悪さに気付かされるはずだ。」(仲里効、「沖縄タイムス」2003年11月27日)

『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)は、復帰後6年を経て、戯曲『人類館』のエキセントリックな人物を演じる者として、内間さんがあらわれる。この、「いい意味での変節ぶり」には、森口さんも驚かされ、感動させられたという。18歳の内間さんとの出会いは、沖縄に渡ったときの森口さん自身の「青春の投影」だったのだから。

『人類館』は、1903年の博覧会において、アイヌや朝鮮人とともに琉球人も「陳列・展示」されたという事件をもとにしている。内間さんは、そのなかで差別する側にも、軍人として沖縄を犠牲にした側にも、為政者側にも立って、自ら多くの矛盾を笑いとともに顕現する。ドキュのなかで、内間さんが自分の18歳を振り返る台詞がある。「沖縄が復帰すれば、沖縄のためになるとおもった」という正にその「トートロジー」的なものは、おそらく誰のものでもあったのだろう。

ドキュでは、同時に、「730」というキャンペーンとともに大掛かりに処理された交通方式の転換が、たんなる事務的な処置ではなく、都合のいいように扱われる沖縄を象徴していることが示される。

『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)は、2児の父となった内間さんを描く。ここでは、米軍の沖縄での軍事演習に参加する自衛隊の姿が映し出される。インタビューに対し、自衛隊員は「反対運動をやっていることはわかるが、政治的なものはわからない。軍事的なものならわかる。義務を遂行するまでだ」と語る。これに被るように私が思い出すのは、イラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁の判決に対し、「そんなの関係ねえ」「与えられた任務をこなすのが役割」とした公式発言だ。依然として変わらないシビリアンコントロールの欠如に対して、内間さんは、歩き、アピールし、子どもに平和について教え続ける。

内間さんは職を転々とした後、県庁に職を得ていたが、病に倒れ仕事を辞したという。その内間さんに青春を投影したという森口さんは、やはり18歳のときに沖縄に渡り、ほぼ同い年だった故・近田洋一さんと知り合った。「アカ」と米国に睨まれたら日本に渡航するパスポートも交付されず就職も難しくなる時期にあって、森口さんと故・近田さんは「兄弟以上のつきあい」をしてきたと振り返る。先月急逝した近田さんのことを語る森口さんは、しばしば言葉に詰まった。

ドキュ3本の上映と森口さんのお話が終ってから交流会。neoneo坐には食べきれないほどの食事が並べられた。いろいろなひとと話すことができて楽しかった。

●参考
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録


『季刊・本人』 中川いさみと西原理恵子で脇腹が痛い

2008-07-13 22:03:58 | 思想・文学

家族の要請と自分の思いつきにより、久しぶりにたこ焼きをつくろうと思い立った。「ためしてガッテン」のレシピを調べて、かなり薄い生地に氷を入れた。何分焼いてもなかなか固まらないし、ひっくり返せないし、もう大失敗。あきらめて、芋をすり入れてパンケーキのようにし、さらに夜、残りを天ぷらの衣にした。もともと得意でないたこ焼き、誰かコツを教えて欲しい。

先日、太田出版の方に、『季刊・本人』をいただいた。『季刊at』『季刊d/SIGN』、書籍では太田昌国『暴力批判論』なんかを出しているところだ。太田昌国の太田つながりが、と思いついたが、別に関係はないらしい。

表紙が真木よう子で、と言われても真木よう子を知らないし(笑)、とおもってじろじろ見ていたら、かなりハードボイルドで、表情の落差があっていい雰囲気。YouTubeでいくつか検索してみた。早いうちに『ベロニカは死ぬことにした』か『ゆれる』か何か、借りてきて観なければ・・・。

それよりも、電車のなかで笑うことができず困ったのが、中川いさみ『脳内つかみどり日記』と、西原理恵子『世間の車窓から』

中川いさみ、以前『ビッグコミックスピリッツ』に連載していた『クマのプー太郎』や『大人袋』が好きだった。最初は、同じ雑誌のなかで、吉田戦車『伝染るんです。』の過激なシュールさや、中崎タツヤ『じみへん』の小市民的な馬鹿馬鹿しさのほうに惹かれていたが、気がつくと『クマプー』の独特の躁な感じがたまらなくなっていた。これもひたすらおかしい。「ノーカントリーな顔」って何だ?

サイバラさんの対談も、その発言はないでしょう先生、という・・・。とても引用できない。「フミヤート」の話なんかどうでもいいって!(笑)

部屋の片隅に置いてあると、つい自分の部屋なのに立ち読みをしてしまうような寄せ集め感で、悪くないのだった。ああ、梅佳代といえば、「男子」(>> リンク)に続いて目を向けたのは「じいちゃんさま」(>> リンク)。