Sightsong

自縄自縛日記

野添憲治『開拓農民の記録』

2018-07-29 09:39:18 | 政治

野添憲治『開拓農民の記録 日本農業史の光と影』(現代教養文庫、原著1976年)を読む。

日本の「開拓政策」とは、社会的弱者を手段として使い潰す「棄民政策」に他ならなかった。本書にぎっしりと収められている事例を読んでいくとそう考えざるを得ない。

それは近代以降ばかりではない。江戸幕府による開拓(武蔵野など)には、コメの増産のほかに江戸に集まってくる浮浪者の処分という意味もあった。明治に入ってからは、その処分の対象が、国策によって仕事を失った士族となった。その政策が成功したかどうかは見方による。船橋の小金牧(いまの船橋市の二和や三咲あたり)では、明治~大正に移住してきたうちの1割程度しか土着していない。しかし、入植者の想いや苦労はともかく、土地は開拓されて残った。

政府軍に抵抗した会津藩の者は下北半島に、また仙台藩の者は北海道に集団移住した。新政府のかれらに対する保護は当然冷淡なものであり、移住先の土地も農業に適していないことが多かったという。それも、「国有未開拓地処分法」のもと特定の重臣・華族・豪商に無償で払い下げた広大な土地に小作人として追いやった(敗戦後の農地改革ではじめて壁が消えた)。

台湾、樺太、朝鮮、満州などへの植民地開拓は明治末期から進められていたが、第一次世界大戦後のインフレ、米騒動、関東大震災による恐慌などにより在村での生活が不可能となった人たちが、さらに流民となってそれらの地に向かった。北海道(松前)もまたそうであった。それもうまくはいかなかった。士族でなくても農業経験のない者が、いきなり知らぬ場所に赴き、しかも農業には不適な土地をあてがわれて、成功するわけはない。だがその本質は、救済や保障などではなく、難民を取り除くことによる社会不安対策、それと農業増産政策であった。これは昭和に入って本格化する満州や内地の開拓にも共通していた。

犠牲になったのは社会的弱者たる開拓民ばかりではない。満州では現地の中国人から土地を奪い、不便を強いて、権力構造を作り上げた(たとえば、澤地久枝『14歳 満州開拓村からの帰還』)。そのために抗日運動が激化し、開拓者たちも危険にさらされた。そして敗戦により、ソ連軍から命からがら逃げて帰国し、こんどは国内での開拓に身を投じざるを得なくなる。たとえば、鎌田慧『六ヶ所村の記録』では、そのようにして六ヶ所村に二度目の開拓に入ってきた人たちの歴史を追っている。また本書では触れられていないが、成田・三里塚もそのような地であった。罹災者、失業者、復員軍人、引揚者をどのように扱うかという政策である。

では内地でうまく事が解決したのかと言えば、そうではなかった。戦後の経済政策・農業政策の転換によって、たとえば、それまで開拓中心であったはずが農地の改善に方針が変えられ、道路もろくにできないケースがあった。あるいは、三里塚ではいきなり空港を作るから立ち去るようにとの酷い決定をくだされた。また、やはり本書では言及されていないが、石炭の採掘をやめるというエネルギー政策の転換によって、1960年前後から多数の炭鉱労働者が離職せざるを得なくなった。かれらの多くがまた中南米などを目指すことになる(上野英信『出ニッポン記』)。中には、満州、内地、中南米と流れていった人もいる。すなわち、明らかに、国策上の処理による「棄民」ということだ。

「開拓」という文字は、1974年の一般農政への移行によって消えた。しかし、いまも共通して流れるものを見出すことは難しくはない。要は、「昔からそうだった」のである。

●移民
上野英信『眉屋私記』(中南米)
上野英信『出ニッポン記』(中南米)
『上野英信展 闇の声をきざむ』(中南米)
高野秀行『移民の宴』(ブラジル)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー

●満蒙開拓
『開拓者たち』
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』
澤地久枝『14歳 満州開拓村からの帰還』
澤地久枝『もうひとつの満洲』 楊靖宇という人の足跡

●六ケ所村
鎌田慧『六ヶ所村の記録』

●アイヌ
『今よみがえるアイヌの言霊~100枚のレコードに込められた思い~」』
新谷行『アイヌ民族抵抗史』
瀬川拓郎『アイヌ学入門』

●三里塚
代島治彦『三里塚のイカロス』(2017年)
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)
小川紳介『三里塚 辺田部落』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)

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原武史『大正天皇』

2018-05-31 07:02:47 | 政治

原武史『大正天皇』(朝日文庫、原著2000年)を読む。

明治と昭和の天皇にはさまれて、大正天皇の存在感は希薄である。それに加え、精神を病んでいたという風説が広まり信じられている(わたしも親からまことしやかにそう聞かされていた)。実の姿は、そのようなものではなかった。確かに生まれながらに病弱で、また47で崩御する前は幼少時の脳膜炎が再び悪影響を及ぼし言動が不自由になった。しかし、それを除けば、独自のカラーを出して役割をまっとうした。

明治天皇は、それまでの天皇とは全く異なる近代国家元首として君臨する形を作るべく、全国の大巡幸と「御真影」の設置というメディアミックスの仕掛けによって、視ること自体が権力構造に巧妙に組み込まれた(多木浩二『天皇の肖像』に詳しい)。大正天皇も全国津々浦々をまわった(皇太子の時には巡啓として、天皇になってからは巡幸として)。そして訪れた先には「御写真」が与えられた。

しかし、その目的も効果も明治天皇のときとは異なっていた。巡啓を実行したのは、詰め込み教育による皇太子の拒否反応と健康の悪化を改善させ、地理や歴史の学習を進めるためであり、受け入れる側にも大袈裟なことをやめるよう指示がなされた。実際にそれにより皇太子は健康となり、巡啓先でもフランクで天真爛漫な言動を行ったという。結果として普及したイメージは、親しみやすい皇太子であった(家族写真の絵葉書セットも売られたという)。

ここで重要な指摘がふたつある。ひとつは、この巡啓/巡幸の実施により、受け入れ側の自治体が道路などのインフラを整えるという利益誘導型の政治の萌芽がみられること。もうひとつは、大正天皇にとって、受け入れ側が侵略された地であっても、大日本帝国の統治の正当性になんら疑いを抱かなかったこと。北海道では短期間の道路整備にアイヌが駆り出された。また併合前後の韓国には親しみを抱き晩年まで韓国語を覚えようとしていたが、それ以上のものではなかった。

ソフトなあり方は、山形有朋などストロングマン的な元首を求めた者たちからは大きく反発されていた。そのため、ふたたび大正天皇の体調が悪化してからは、昭和天皇(迪宮)を摂政として立てるという明確な権力移譲が行われた。大正天皇と気が合ったソフト路線の原敬も、大正末期には暗殺されて世を去っていた。

如何に大正天皇が異端であったか。天皇の守護神は、アマテラス直系ではなく、国を譲る方のオオクニヌシだった(!)。出雲の神である。このあたりについてもう少し踏み込んで知りたいところだ(著者には『<出雲>という思想』という著作もある)。

驚かされるのは、明治、大正の両天皇とはまた大きく異なる昭和天皇のメディアミックス手段である。それは、動画に撮らせて(それまでは写真撮影さえヒヤヒヤものだったにもかかわらず)、上映により国民ひとりひとりに内部化させるというものだった。しかも上映された場所の多くが、日比谷公園、上野公園、芝公園など、普通選挙の実現を求めた民衆運動の拠点であった。革命を防ぐための巧妙な手段だった。それに加え、天皇本人が民衆の前に姿を現すという方法によって、天皇の個々の国民への内部化は強化されていく。

鉄道関連の著作を多くものしている著者ならではの指摘がある。東京駅は明治天皇の権威を演出すべく建設された(当初は丸の内口のみだったことからも明らかだという)ものだが、結果的に明治天皇が使うことはなく、大正天皇の権威付けに使われた。また、現在も原宿駅には皇室専用のホームがあるが、これは、病状が悪化した大正天皇の姿を国民から隠すために作られた。そして大正天皇がそれを利用したのは、保養に向かう際のいちどきりだった。鉄道にも、天皇という歴史が刻まれているということである。

●参照
原武史『<出雲>という思想』
原武史『レッドアローとスターハウス』
多木浩二『天皇の肖像』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』
古関彰一『平和憲法の深層』

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吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』

2018-05-27 10:03:29 | 政治

吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書、2017年)を読む。

本書の特徴はふたつある。ひとつめは、太平洋戦争において日本政府および日本軍の組織的な判断が、物資および技術の面から根本的に間違っていたこと。ふたつめは、そのような大きな話の中に置かれた兵士が具体的にどのような影響を受け、か弱い人間として生命を危機にさらされたかということ。

戦病死者の大部分は、まともに判断すれば敗戦が明らかになった1944年以降であった。そのうち兵士に限っても、死の最大の原因は、戦闘による戦死ではなく、餓死を中心にした戦病死だった。とは言え、餓死とひと言で片づけるわけにはいかない。マラリアなどの感染病、精神病、自殺なども飢えや過労と結びついていた。戦力にならなかったり、足手まといとなったり、逃げようとしたりすると自軍に殺された。国際法で認められていたにも関わらず、相手軍への投降も許されなかった。それらの描写は凄惨極まりない。

具体的に不足した物資は兵器だけではなかった。靴の糸も革もなく、靴そのものもないため、足がぼろぼろになる。最後の命の綱とも言える飯盒がない。背負う背嚢がない。虫歯が蔓延していたがそれを治す歯科医がおらず、口の中がぼろぼろになる。自動車も重機もない。体重の3-4割が限界であるところ半分か体重と同じくらいの荷物を持って、行軍を強いられた。逃げるためには死しかなかった。それが皇軍というものであった。

もちろんわたし達は、小説や漫画や映画や体験記などを通じてその惨状の断片は知っている。しかしここまで体系的・具体的にまとめられると、あまりの恐ろしさに震えてしまう。知っているようなつもりでいて、実は何にも知らなかったということに気付かされる。

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山本義隆『近代日本一五〇年 ― 科学技術総力戦体制の破綻』

2018-03-25 10:06:03 | 政治

山本義隆『近代日本一五〇年 ― 科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書、2018年)を読む。

本書では近代日本のはじまりを明治元年(1968年)に置き、そこから150年間の科学と技術のありようを追っている。実に多くの示唆に富む本である。読んでゆくうちに、2011年の原発事故を含む現在の原発を巡る状況も、軍需産業の推進も、トータルな知性や倫理の蓄積が十分に涵養も共有もされないままいびつに発展をしてしまったことの結果として視えてくる。

驚きも再発見も多い。たとえば。

●かつて科学と技術とは別物であった。18世紀後半からのイギリス産業革命において、エネルギー利用の形を創り上げたのは大学ではなく、高等教育には無縁の職人であった。
●それは明治日本でも同様であり、蓄積がない分、極端な科学技術幻想を生んだ。士族出身者が、それまでヒエラルキーの下にあり蔑んでいた工商の教育を受け、仕事を始めるようになった。
●こと科学技術に関しては、根拠なき精神論は早い段階で棄て去られ、国家予算を合理的に投入して、国力の強化(戦争という意味で)のために、合理的に推進された。理科系の研究者たちは、戦時中にも恵まれた環境にあった。つまり、「竹槍でB29を」といった言説は、政治の決定や社会の構造には当てはまったのかもしれないが、それを実現させようとした科学技術については異なったということである。(たとえば、保阪正康『日本原爆開発秘録』には、戦時中に原爆を開発させようとする政府と、それを利用して自己実現する科学者たちの姿が描かれている。)
●敗戦を機に、そのことを反省とともに直視する動きは少なかった。満州国における縦割りを抜きにした戦争経済の推進、戦時中の科学技術の推進、そして官僚組織がほぼ温存された戦後における経済発展(朝鮮戦争とベトナム戦争がエンジンとなった)、それらの構造は驚くほど似たものだった。
●ところが、敗戦の理由は誤れり精神論にあったとして、その対極には、科学技術が明るい将来のように置かれたのだった。「原子力の平和利用」もその文脈で喧伝され、言説が再生産され、共有されていった。欺瞞であった。
●科学技術の最先端が求められる軍事技術で海外の企業と競うためには、どうしても大学の協力が必要となる。研究者はふたたび「科学動員」に直面している。歴史の直視から反省へと結び付けられるのか。

近代型の経済成長の持続と国力の強化はこれからも必要なのか、それとも最近の流行りの言説のように別の形の社会を実現できるのか、それはノリと勢いだけで進めていく議論ではない。しかし、反省も倫理もなく無理矢理突き進む(そして、そのためにエリート独裁を強化する)ようでは、いずれろくなことにはならない。必読。

●参照
山本義隆『私の1960年代』
山本義隆『原子・原子核・原子力』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
山本義隆『知性の叛乱』
石井寛治『日本の産業革命』
保阪正康『日本原爆開発秘録』

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高見勝利『憲法改正とは何だろうか』

2017-05-18 23:49:43 | 政治

高見勝利『憲法改正とは何だろうか』(岩波新書、2017年)を読む。

日本国憲法を改正するためには、衆参各院で議員の3分の2、その後に国民投票に持ち込んで過半数の賛成を必要とする(第96条)。政権与党の力が歪に強くなっている今、ここぞとばかりに憲法改正の動きが再燃しているわけだが、このプロセスが高いハードルであることは間違いない。

そう簡単には改正などできないことに関しては長い議論や模索があって、法と主権者との関係や統治のあり方についての考え方によって、憲法の位置づけも変わってきた。日本国憲法の制定においても紆余曲折があった。しかし、立憲主義の憲法は通常の法とは異なり、憲法の自殺行為とも言うべき根本原則の変更には大きな制約が課せられる。

その観点から、著者は、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年)に強い危惧を抱いている。例えば、第13条の「個人」を「人」に言い換えることを、前近代の社会的圧力により自我が抑圧された時代に戻すものとする。もちろんそれだけではない。根本には、権力分立原理が欠如しており、また、「憲法が権力を縛る」ことも否定する考え方がある。著者は、それを権力の濫用だとみなす。そしてまた、憲法改正自体が自己目的化しているのだと指摘する。

「このような「憲法改正」それ自体を「選ばれし者」のいわば「召命」とする為政者が、いまわが国を支配しているのである。改正内容、改正がもたらす「結果」をなんら顧慮しない危険きわまりない改憲論者である。」

●参照
古関彰一『平和憲法の深層』

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西川武信『ペリー来航』

2016-08-06 07:52:22 | 政治

西川武信『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』(中公新書、2016年)を読む。

1853年5月、琉球王国にペリー艦隊があらわれた。日本・清の両国に帰属するような形でバランスを取っていた海の国家・琉球王国にとっても、これは相手として大きすぎた。結局は翌1854年7月に「琉米修好条約」を結ぶことになるのだが、著者によれば、このときの琉球の対応が敢えて組織的に下位の者によってなされたことを含め、琉球が国際法上の主体となれるのかはっきりしない面もあったのだという。しかし、少なくとも、アメリカは独立国家として琉球王国と相対した(琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』)。それにより、琉球王国をアメリカの戦略拠点とするという計画は具体化されていった。この条約は1879年の第二次琉球処分(日本による強引な併合)によって無効となるのだが、琉球=沖縄をアメリカの戦略拠点とする歴史は現在に至るまで続いている。

ペリー艦隊は、琉球のあとの1853年7月に東京湾にもあらわれる。しかし、19世紀になって、アメリカのみならず、ロシアやイギリスも関東近辺にちょっかいを出しに来ていたから、それはある程度予想された驚きであったに違いない。既に1840年代に、東京湾の外湾(富津と観音崎を結んだ線より南側)からやや内湾にかけて、防衛拠点たる砲台がいくつも設置されていたからである。

本書には、「近海見分之図」(1850年)に収録された絵が収録されており、これを見るといかにも素朴で、相手のことをよくわからぬまま整備されたのだなと思わされる。品川台場(いまのお台場)は、ペリー再来に向けて築造されたものだが、実際のところ、ほとんど防衛のためには役に立たない代物であったらしい。それよりも、この姿勢により人心を安定させることが目的でもあり、土木建設の好景気が生まれたという。(要するに、いまと似たようなものだということである。)

市民のペリー艦隊見物熱はたいへんなものであったようだ。同時に、瓦版や狂歌などの風刺も流行する。これがまた面白い。人びとは国難を醒めた目で見つめ、実相を見抜いてもいた。たとえば、東京湾の警備を慌てて進める姿は、次のような狂歌で茶化されている。

「大筒に鼻つまむらん毛唐人、我屁のもとの武威におそれて」

●参照
琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』(ペリーと琉球)
石川真生『大琉球写真絵巻』(ペリーと琉球)
ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』(ペリーと琉球)
製鉄の映像(2)(韮山の反射炉が砲台製造のために使われる)

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原田眞人『日本のいちばん長い日』

2016-03-01 22:05:15 | 政治

ドバイからの帰国便で、原田眞人『日本のいちばん長い日』(2015年)を観る。日本のポツダム宣言受諾、玉音放送、終戦を不満とする陸軍過激派のクーデター未遂を、主に描いている。

昭和天皇およびその取り巻きは、「戦争を止める実権がなかったために、東條たちの軍部による暴走を残念ながら止められなかった」という言説を戦後すぐに流布した。映画でもまさにその通りの描き方であり、実に薄っぺらい人物造形となっている。昭和天皇の最大の懸念と狙いは「國軆」を存続させることにあったわけだが、それが終戦によって可能となるという自信がどこから来るのかについては、まったく触れられていない。

また、もともとは「本土決戦」を主張していたはずの阿南陸相は、まるで、穏健で懐が深く、ただ昭和天皇の意向と「國軆」の護持のために、陸軍を懐柔して抑えおおせた存在として描かれている。

岡本喜八の映画は観ていないのだが、果たしてこのあたりはどうなっているのだろう。本作のようなだらしのないプロパガンダ娯楽映画ではないはずだ。

●参照
横山秀夫『クライマーズ・ハイ』と原田眞人『クライマーズ・ハイ』
豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』
原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』
古関彰一『平和憲法の深層』
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
波多野澄雄『国家と歴史』
『9条を抱きしめて ~元米海兵隊員が語る戦争と平和~』
沖縄「集団自決」問題(16) 沖縄戦・基地・9条
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』

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豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』

2016-02-13 14:38:26 | 政治

豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本 <憲法・安保体制>にいたる道』(岩波書店、2015年)を、テヘランにいる間に読了。

宮内庁の編纂による大部の『昭和天皇実録』が刊行されつつある。本書はそれに基づく成果である。

もちろん、戦争遂行の責任を免れ得ないことも、戦後の「天皇メッセージ」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)により沖縄をアメリカに与えたことも知っている。それでも、本書が伝える内容は驚愕に値する。

昭和天皇は当時としては卓越した情報通であり、国際動向をリアルに見極めていた。その上で、極めて精力的に動き、日本の「國軆」すなわち最低限でも「本土」だけの皇統を守り抜こうとし、成功しおおせた。そのために、戦中と同様に沖縄をアメリカに差し出し、戦争の遂行については「東條たちの軍部による暴走を残念ながら止められなかった」という言説を流布し、連合国全体の判断に陥る前に新憲法を作りだし、国連による日本防衛を進めようとした吉田茂の頭越しにアメリカと話をし、アメリカによる安保体制を実現化した。

すなわち、現憲法は共産主義の脅威に対応した日米の合作であり、また、平和憲法としての要素は日本側の働きかけによってこそ含まれた(古関彰一『平和憲法の深層』)ことを鑑みれば、「押しつけ憲法論」が全くの間違いであることが明らかになる。そして、沖縄の切り離しも、「本土」を守るために不可避なことではなかったようだ。

もちろん、戦前・戦中に責任が部分的にしかなかったという言説は意識的なものであり、戦後の「象徴天皇」という立場でこのような政治的行為を行ったのは重大な憲法違反であった。

今上天皇と現政権との考え方のずれを理解するためにも、ぜひご一読されたい。

●参照
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』
原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』
古関彰一『平和憲法の深層』
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
波多野澄雄『国家と歴史』
『9条を抱きしめて ~元米海兵隊員が語る戦争と平和~』
沖縄「集団自決」問題(16) 沖縄戦・基地・9条
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』

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中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!』

2016-01-03 14:13:56 | 政治

中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!』(岩波ブックレット、2015年)を読む。

2014年1月18日に上智大学で行われたシンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」の発言録を加筆・修正したものであり、三氏の発言はとても示唆に富むものとなっている。上のリンク先のような概要よりも、もちろん、本書によって発言を追い、反芻すべきものだ。

特に重要なこととして、
●投票というシステムの下で負けないよう、違いがあっても、個人、社会運動、政党が「お互いを必要としている」ことを認識し、柔軟に手を組まなければならない。(コリン・クラウチ)
●メディアは国家の手先であってはならない。ジャーナリストは権力を取材すべきであって、権力のために取材すべきではない。(エイミー・グッドマン)
●ナショナリズムや右派的なものとセットで稼働する新自由主義とは、経済秩序の創出と維持を追及する大方針である。これに抗うのは個人としての論理でしかありえない。(中野晃一)
※このことを「大企業が儲けを追及して云々」と表現すると、仮想的をつくる陰謀論に容易に変化してしまう。

●参照
シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」(2014年)
中野晃一『右傾化する日本政治』(2015年)

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山本義隆『私の1960年代』

2015-11-26 23:47:36 | 政治

山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015年)を読む。

長いこと、全共闘での東大闘争時代の活動について沈黙を守っていた山本氏が、ようやく、当時を振り返った本を出した。非常に興味深く、また、単なる昔話にとどまるものではなく、現代においてこそ読まれるべき本である。

近代日本は三度の理工系ブームを経験しているという。最初は明治維新直後、二度目は昭和十年代、三度目は1960年代である。そのすべてが戦争に関係している。一度目は西欧の軍事力に圧倒されたため、二度目は戦争遂行の強化のため、三度目は朝鮮やベトナムという他人の土地での戦争に加担することによる経済成長である。大学教員たちは、その構造にも歴史にもまったく無自覚であった。

今また、文科系を縮小しようとする政策と、軍事産業の拡大による経済成長をねらう動きとにより、四度目のブームが見えてくるのかもしれない。社会と隔絶された場での純粋な研究活動などありえない。それは倫理の問題でもあるが、そのことは置いておいても、少なくとも可視化されなければならない。ノーム・チョムスキーが産官学の結びつきの実態を示しているように(ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』など)。

山本氏は「民主主義」というシステムについても思索する。「民主主義」が本来の姿から離れてゆき、抑圧のための仕組みと化していくという本質である。慧眼というべきである。

「体制の支配機構にビルトインされ制度化された民主主義は、少数者の権利を保障し防衛する強力な機構なり市民のあいだでの理解を欠いているならば、少数者としての当事者の正当な権利を多数者の総意として「民主的」に抑圧する機構に転化することになります。公害や開発にともなう犠牲を押し付けられた当事者の異議申し立ては、多数者により「大局的見地から」押さえつけられ、追い込まれたその人たちの抗議行動が実力闘争の形をとる時には、「民主主義」の立場からの非難がその人たちに集中することになります。」

●参照
山本義隆『原子・原子核・原子力』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
山本義隆『知性の叛乱』
石井寛治『日本の産業革命』(本書で引用)
榧根勇『地下水と地形の科学』(本書で引用)

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ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』

2015-10-11 22:59:30 | 政治

ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』(岩波書店、2015年)を読む。

本書は、2014年にチョムスキーが来日して行った講演「言語の構成原理再考」と「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」、さらにチョムスキーへのインタビュー等を収録したものである。後者の講演は休暇を取って聴講したこともあり、それを確認したいという思いもあった。(言語論についてはよくわからないのでここでは触れない。)

あらためてチョムスキーの語りを追ってみると、かれの主張がとてもシンプルで理詰めであることがよくわかる。「民主制」とはまったく異なる「資本主義的民主制」のもとでは、ごく一部のオカネを持つ者が政治システムも社会システムも左右しうる構造であること。環境問題という、この枠からはみ出る問題に対しては有効なシステムたりえず、そのために、陰謀論が利用されていること。市民運動は歴史的にも成果を出していること。社会を変えるために、やるべきことは自明であること。情報は、探そうと思えば手に入ること。

日本の「リベラル」層は陰謀論に陥りがちで、そのために自らの価値を貶めている。多くの人が、このレクチャーに接してほしいと思う。

●参照
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」(2014年)
ノーム・チョムスキー+アンドレ・ヴルチェク『チョムスキーが語る戦争のからくり』(2013年)
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
(2013年)
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(2013年)
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(2012年)

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ノーム・チョムスキー+アンドレ・ヴルチェク『チョムスキーが語る戦争のからくり』

2015-08-18 23:17:02 | 政治

ノーム・チョムスキー+アンドレ・ヴルチェク『チョムスキーが語る戦争のからくり』(平凡社、原著2013年)を読む。

ヴルチェクの試算によれば、大戦後、5,000-5,500万人もの人間が、西側諸国(アメリカとヨーロッパ)の植民地主義によって命を奪われたのだという。驚くべき数字だが、それは、アメリカがヴェトナムや中南米や中東で繰り広げてきたことを総合的・統合的に見れば、想像できなくもない。

東南アジアでは、ヴェトナム戦争があり、カンボジアやラオスへの大規模な攻撃があり、インドネシアでの政変に伴う共産主義者(とみなされる人々)の大規模な虐殺があった(ジョシュア・オッペンハイマーの映画『アクト・オブ・キリング』で追跡された。倉沢愛子『9・30 世界を震撼させた日』に詳しい)。中南米は長らくアメリカの「裏庭」であった。アフリカでは、ルワンダ大虐殺後のコンゴの政変に介入している。中東でも飽くことなく戦争を繰り返している。

本書で訴えていることは、西側中心のメディア報道があまりにも偏っていること、別々の地域での欧米の政治的介入を同列に並べてみるべきことである。たとえば、1965年・インドネシアにおけるスハルトによるクーデターと、1973年・チリにおけるピノチェトによるクーデターとを、アメリカの植民地支配という文脈で同時に語ること。これは決して陰謀論ではなく、個々の史実の積み重ねであると言うべきである。そして、この文脈の中に安保法制を置いてみると、日本がどのような流れに入っていく可能性があるのか、より多くの判断材料を得ることができる。

ところで、さまざまな指摘が盛り込まれた折角の対談を、このように翻訳するだけで出すべきだったのか。解説を充実させて、歴史の流れや当時の政治力学を確認しながら読むことができるようにできなかったのか。邦訳が何か月も遅れたわりには、勿体ないつくりである。

●参照
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」(2014年)
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
(2013年)
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(2013年)
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(2012年)

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中野晃一『右傾化する日本政治』

2015-08-08 08:18:34 | 政治

中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書、2015年)を読む。

政治の右傾化が、手の付けようがないほど顕著に、また隠すつもりがないとしか思えないほどあからさまに進んでいる。本書ではこれを「新右派」と呼び、旧来の穏健な「旧右派」と明確に区別する。後者が昔ながらの自民党政治、すなわち開発主義と恩顧主義を特徴としていたのに対し、いまの右派は、新自由主義と国家主義を強く押し出している。一部の強い者による一部の強い者のための政治、そしてそれは、歴史修正主義をビルトインした軍備とナショナリズムの強化とセットになっている。

誰がこんな統治システムを望んだのか。重要なことは、社会の動きが政治に反映されたのでは決してなく、意図して一部の強い者に権力を集中させてくるシステムの転換が行われ、それが着実に奏功しているということである。

大きな種を蒔き芽吹かせたのは小沢一郎であった。小選挙区の導入は、最初から、少数者による政治決定を可能にするシステムを狙ってなされた(小沢の中では「政治の主役は有権者ではなく政治家であり、民意の代表は二義的な問題に過ぎない」ものであったと、中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』は指摘している)。本人が政治の中心から排除され、「積極的平和主義」が国連を主舞台とするものではなく歪んだ米国戦略の一部となる方向に進んでしまったことは皮肉なことだ。そして、思想なきポピュリズムの小泉政権を経て、身も蓋もなくシステムを濫用する現政権に至る。

本書は、このように変貌する自民党政治に抗するオルタナティブが育たなかったことを示している。社会党・社民党は自壊した。民主党は組織としての強度に難があり、自民党と違う存在意義を放棄してしまった。というと絶望的なようであり、事実絶望的でもあるのだが、新たな希望はいくつも出てきている。著者は最後の章において、「同一性にもとづく団結から他者性を前提とした連帯へ」という見出しを掲げ、「左派勢力が自由化・多様化をいっそう進めることによって民衆的基盤を広げたとき、はじめてリベラル左派連合による反転攻勢が成果を挙げることになるだろう」と書いている。学生運動の思想的な弱点をことさらに論ったり、教条的な思想にとらわれて他政党と連携しなかったりしている場合ではないわけである。

●参照
シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」(中野氏の発言あり)
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』
小林良彰『政権交代』
山口二郎『政権交代とは何だったのか』
菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』
トマ・ピケティ『21世紀の資本』
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集

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原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』

2015-07-23 22:52:22 | 政治

原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点 ―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」―』(渓水社、2005年)を読む。

サンフランシスコ平和条約(講和条約)(1951年署名、1952年発効)は、言うまでもなく、全面講和ではない。これをもって敗戦国・日本は再び国としての主権を得た。しかし、ソ連がその内容への不満から参加せず、中国は国のかたちを変えたために議論を受け継ぐことができておらず(それまでの当事者は、敗北した国民党=中華民国であった)、韓国は交戦国でなかったために参加の希望を叶えられなかった。

したがって、ここには、結果的にアメリカの意向が色濃く反映されている。すなわち、急激に最大の課題と化した冷戦対応。社会主義陣営に渡すものを最小化すること、そのために日本を寛大に扱うこと。これによる甘えが、日本国内にいまだ巣食う歴史修正主義という怪物を生み出すとは、当時予想できなかったことに違いない。

カイロ会談(1943年)、ヤルタ会談(1945年)、ポツダム宣言(1945年)を経ての成果であるとしても、そのバイアスが原因となって、いまだ解決できない大きな問題が生み出されたのだということが、本書での検証を追っていくことでよくわかる。竹島、北方領土、尖閣諸島、沖縄、台湾という場所のすべてが、相手なき解決策として、敢えて曖昧な「楔」となったのである。これらの場所については、交渉段階から所属を明確化すべきとの主張がなされていたにも関わらず、国際動向に応じて便利に使えるような形となった。実際に、1956年には、北方領土二島返還という妥結が日ソ間でなされかけていたところ、ならば沖縄は戻さないとの脅しがアメリカから日本に伝えられ、破談に追い込まれている。日ソ間で仲良くされては困るからである。

そのようなオフショア・バランシングにやすやすと乗せられて、ナショナリズムを暴発させることが如何に愚かなことか、問われ続けているわけである。

●参照
孫崎享『日本の国境問題』
孫崎享・編『検証 尖閣問題』
豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
水島朝穂「オキナワと憲法―その原点と現点」 琉球・沖縄研

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植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」

2015-07-11 22:41:15 | 政治

植民地文化学会主催のフォーラム「内なる植民地(再び)」に足を運んだ(2015/7/11、江東区東大島文化センター)。会場は、1923年の関東大震災の直後に、多くの中国人や朝鮮人が殺された場所の近くである。水運のために中川と日本橋をつないだ小名木川には、多くの遺体が浮かんだという。

「内なる植民地」とは何か。植民地文化学会代表理事の西田勝さんより説明があった。国内にも心の中にも植民地主義は巣食っている。前回(2014年)のフォーラムでは、そのような背景があって「内なる植民地」を掲げたのだが、継続すべきテーマであり、「(再び)」を付したのだとのこと。また、座長の纐纈厚さん(山口大学)からは、「戦後、内なるファシズムを脱却できないでいるうちに、アベ的なものが現れた」との発言があった。

問題提起は4氏による。

※文責は当方にあります。

■ 【フクシマ】 エネルギー植民地としての福島 本田雅和(朝日新聞記者)

○「3・11」後、福島第一原発から25km離れた南相馬市に居を構えた。20km圏内はいまだ除染が進まないし、人の手も入らない。
○約1万6千人の死者の多くは一夜にして亡くなっている。しかし、原発事故のために避難せざるを得ず、「助かった命」であったが救出できなかった人も少なくない。
○今も22.9万人が避難生活を送り、その半数近い9.79万人以上が福島からの避難者である。いわば難民である。
○本来は短期間だけ使うはずの仮設住宅には、まだ多くの人が住んでいる。若い人は他へと移転し、そこに生活の根拠ができると、戻ることはない。その結果高齢化が進み、その人たちの希望は「戻りたい」「家族一緒に暮らしたい」ということ。福島の人は声を出さないと言われることがあるが、単純な問題ではない。うめきやため息は聞こえてくる。
○かつて、「村八分」になりながらも、何十年も原発の恐怖を詩に書いていた佐藤祐禎という農民詩人がいた(『青白き光』)。しかし、アカデミズムもジャーナリズムもそのような活動を取り上げることは少なく、いまだ、多くの人の共有財産とはなっていない。
○沖縄は米軍基地を押し付けられたが、福島は原発を誘致したという違いがあると言ったところ、金城実さんに「バカヤロウ」と一喝された。「オキナワでも、カネをぎょうさんもろうて基地に賛成しとる手先はいっぱいおる」と。

■ 【少数民族】 アイヌ民族否定論を駁する 岡和田晃(文芸評論家)

○「アイヌ民族はもういない」と発言した札幌市議(その後落選)など、アイヌ民族を否定するヘイトスピーチを吐く公人がいた。それに煽られた多数のネットユーザーが、攻撃的なデマを拡散した。その者たちに共通するのは、何ら知識を持つことなく発言することであった。
○マイノリティを「外部」として設定し、彼らに<憑依>することでその真意を代弁するつもりになったマスメディア(<マイノリティ憑依>)。それを過剰に内面化して仮想敵とみなし、社会の真の弱者を自認する者たちが、その原因を生み出した権力ではなく、マイノリティを攻撃するに至った可能性がある。すなわち、本質的に、相手がアイヌ民族であろうと在日コリアンであろうと誰でもよかった。
向井豊昭という作家がいた(1933-2008年)。かれは征服者=和人の立場から、アイヌ民族を創作のモチーフにした。日本近代文学では稀な存在であった。かれは小熊秀雄という詩人に魅せられ、また批判もした。小熊の叙事詩「飛ぶ橇」(1935年)に出てくるイメージが、アイヌを征服した和人の言語感覚から由来するものだとして。その批判的視線が、自分自身にも向けられたものであることを、向井はよく知っていた。
『アイヌ民族抵抗史』(1972年)を書いた新谷行も、征服される者からみた歴史を語る者であった。新谷はアイヌの血が自身に入っていることをカミングアウトするのだが、そのことは敢えて言わず、細かなひだをかきわけるように、屈折して同書を書いたのだった。

 

■ 【女性】 「満洲」女性作家呉瑛の場合 岸陽子(中国文学研究家)

○中国東北地方の女性作家たちは、女性、「満洲」という二重の圧迫を受ける存在であった。
○さらに戦後は、「売国奴の文学」として扱われた。しかし、銭理群(北京大学)という研究者は「設身処地」、すなわち、「そこに人間が存在するかぎり、人間の精神活動があるかぎり、文学は生まれる。必ず語る者が現れ、あれこれの声を発する」として、「満洲」文学の研究をはじめた。
呉瑛という女性作家は、満洲族として吉林省に生まれた。日本に利用され、体制に沿った活動をしてはいたが、それでも官憲には危険人物として睨まれていた。いかに思想統制が厳しかったかということだ。戦後、売国奴扱いされることを避け、南京へと移った。
○呉瑛が書いた小説(『両極』など)では、旧いものが残されたまま日本の近代化が持ち込まれ、新旧が切り結ぶことなく分断した姿が描かれた。主体的に受容したのではない近代化は、個人の空洞化をももたらしたのだった。

■ 【在日】 ヘイトスピーチに抗して 梁英聖(一橋大学大学院)

○ヘイトスピーチは言葉にできないほど酷い差別であり、当然、レイシスト以外はこれを駄目だとする。
○話題になりはじめたのは2013年から、しかし、実態としてはその前からあった。また、発せられる言葉自体は百年前からあるものだ(「不逞鮮人」など)。
○何が過去と異なるか。それはレイシズムが暴力に達していることだ。
○ヘイトスピーチは暴力ゆえ視える。レイシズムは視えない。ヘイトスピーチはレイシズムの一部なのであって、前者だけを取り出して言論の自由などと論ずるのはおかしいことである(日本のみ)。実際に、日本における反レイシズムの規制や理解は、欧米より二周遅れている。
○まずは、レイシズムの可視化が必要である。低次元だが、そこからはじめなければならない。可視化されていないからこそレイシズムが視えないのである(セクハラが可視化されてはじめてセクハラをセクハラと認識できるようになったのと同様)。
○ただの差別意識が暴力にまで至るとき、上からの差別の煽動がなされることが多い。すなわち、キーワードは国家と政治空間である。関東大震災直後の虐殺も、軍隊や警察による上からの煽動があった。石原元都知事の「三国人」発言も、上からの煽動である。日本ではまだ、レイシズムが政治空間に入り込んでしまっている。
○レイシズムが暴力につながる回路はもうできている。もし何かあったときに、上からの煽動があったら、ヘイトクライムやジェノサイドは現実のものになりうる。
○したがって、批判されやすい「シングルイシュー」ではあるが、反レイシズムで一点突破することが必要である。それは他のシングルイシューを呼び寄せる結節点となるだろう。

 

■ コメント 李恢成(作家)

○現在、戦前レジームへの回帰がなされている。戦後の総括が極めて甘いものだったことも理由のひとつだ。
○アイヌ民族否定論は地域的な問題なのではないか。問題の根底には、これまで日本がアイヌを差別的に扱ってきたことがあるのではないか(たとえば、本庄陸男『石狩川』にもアイヌは出てこない)。
小熊秀雄の『飛ぶ橇』は好きな作品だ。かれの作品には、アイヌも朝鮮人も登場する。そのような目を持った人だった。
○長見義三『アイヌの学校』では、和人(シャモ)とアイヌが共生しようとする。モラリッシュでヒューマンな作家の戦いである。また、鶴田知也『コシャマイン記』には、アイヌが感謝して作家の碑を建てた。こうした文学活動はもっと知られるべきだ。
○「やられた、やられた、やられた、やっつけた、やっつけた」ではないのだ。内と外とを、全体を見る視点が必要なのだ。
○人間は完全な存在ではない。戦争になれば、制御できないものが間違った形であらわれる。戦争はかならず性被害者を生み出す。慰安婦だけではなく、サハリンにおけるソ連兵によるレイプもそうだ。
○高見順は、『高見順日記』において、ビルマで慰安婦と寝たことを告白した。隠して尤もらしいことは書けないという、文学者としての精神性に賭けて書いたものであっただろう。韓国の民主化運動においても、運動にかかわる著名な者が、自分も仲間もそのような行為をしたのだと告白・告発した。その後、運動には関与しなくなった。アイデンティティを求め、沈黙に走ったのである。
○戦争が精神を破壊していく姿を追っていかないと、問題は、セクショナリズムの浅いところにとどまったままだろう。

■ コメント 岡田英樹(中国文学研究者)

○呉瑛の作品に、植民地であるがゆえの問題は見出されているのか。一般的な、封建社会から近代社会への移行という視点ではカバーできないのか。もっと分析が必要である。

 

■ コメント 岸陽子

○日本人の中には、満洲に結果として近代をもたらした、女子教育を改善した、いいことをしたのだという意見を持つ者が少なくない。
○それに反駁するために、この論点を取り上げた。自発的でない近代化は、個人の幸福は生まず、空洞を作り出してしまう。
○(中国東北地方出身の若い方がコメント)いまの若い人には、「結果としてよかった」などと言う者はいない。

■ コメント 本田雅和

○法規制でレイシズムは無くならない。レイシズムの底辺は、小市民(ファシズムを支える市民)による沈黙・容認である。関東大震災直後の虐殺を実行したのは、自警団という一般民衆だったのではないのか。ユダヤ民族を虐殺したクリスタルナハト(水晶の夜)もそうであった。
○シングルイシューでは不十分であり、しなやかな対応が必要なのではないか。
○上からの規制ではなく、下からのゲリラ的な運動こそが必要なのではないか。

■ コメント 岡和田晃

○インターネット時代にあって、アイヌ民族否定論は地域にとどまらない現象となっている。実際に、銀座でのデモがなされた。
○これに限らず、ヴァーチャルな仮想敵が設定されている。

■ コメント 梁英聖

○本田氏の指摘も正しいものである。しかし、シングルイシューに限界があるからこそ、シングルイシューが重要なのだ。
○自律性のない小市民に潜在的なレイシズムはあるのだろう。そのガスは抜かなければならない。しかし、ガスが充満している部屋で火を付けようとする輩を止めることがまずは必要なのではないか。

●参照
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(2013年)
新谷行『アイヌ民族抵抗史』
瀬川拓郎『アイヌ学入門』
田原洋『関東大震災と中国人』
加藤直樹『九月、東京の路上で』
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』
李恢成『またふたたびの道/砧をうつ女』
李恢成『流域へ』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』

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