Sightsong

自縄自縛日記

『オーシャンズ11』、『オーシャンズ12』、『オーシャンズ13』、『オーシャンと十一人の仲間』

2009-12-30 01:21:21 | アート・映画

スティーヴン・ソダーバーグによる強盗シリーズ、『オーシャンズ11』(2001年)、『オーシャンズ12』(2004年)、『オーシャンズ13』(2007年)、それからそのオリジナル、ルイス・マイルストン『オーシャンと十一人の仲間』(1960年)を、たて続けに観た。


『ANA SKY CHANNEL』より

映像センスを含め、やけにスタイリッシュで、強盗の手口が複雑化・ハイテク化していて、1回観ただけではよく解らず騙されたような気になる(特に『12』)。そのためか、観た直後に手口を忘れてしまっている(笑)。雰囲気だけを味わうのだったら、まあそれなりに愉しいというものだが。

主演のジョージ・クルーニーの名前が出てこないので、ツマにあの人の名前なんだっけと訊ねたところ、「ローズマリー・クルーニーだよ」。数秒後、「それは歌手だろ!」。しかし後で調べてみると、ローズマリーはジョージの叔母さんなのだった。

エンドロールを眺めていると、エリオット・グールドの名前が出てくる。グールドというと、『ロング・グッドバイ』や『カプリコン・1』のイメージしかなく、誰の役だか思い出せない。実はルーベンという老人の役、気がつかないのは仕方がない。

実は『13』撮影後、ディーラー役のバーニー・マックが急逝したということで、どうやらシリーズは打ち止めらしい。続きを観たいところでもあり残念だ。それにしても、ソダーバーグの演出の特徴が見えにくい。彼の撮ったチェ・ゲバラ映画も、リメイク版『ソラリス』も観ていないが、作家性のなさなのかな。

『13』では、エリオット・グールドが自分を騙す悪役のアル・パチーノを擁護する際に、「フランク・シナトラと握手した仲だから」という台詞が出てくる。その筋のコネクションがあって変なことはしない、といったような意味だと思うが、シナトラ、ファミリー、さらにアル・パチーノと言えば、『ゴッドファーザー』をどうしても思い出してしまう。

それはそれとして、原題『Ocean's Eleven』が同じオリジナル版、ルイス・マイルストン『オーシャンと十一人の仲間』(1960年)では、そのシナトラがオーシャン役で登場する。ネタは素朴だが、サミー・デイビスJr.ディーン・マーチンがたっぷり歌を聴かせるし、こちらも捨てたものではなかった。


北京の冬、エスピオミニ

2009-12-29 00:21:04 | 中国・台湾

太原はマイナス17度、北京はマイナス10度。コンパクトカメラ以外で写真を撮る気になれないだろうと思い、ペンタックス・エスピオミニにカラーネガを詰めて持っていった。今回は胡同など古い街を歩く時間がなかった。


太原の冬 Pentax Espio Mini、スペリア400


落書きと自転車 Pentax Espio Mini、スペリア400


今日美術館の岳敏君 Pentax Espio Mini、スペリア400


レジェの樹 Pentax Espio Mini、スペリア400


生コン Pentax Espio Mini、スペリア400


トンネル Pentax Espio Mini、スペリア400

●中国の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
牛街の散歩
上海の夜と朝
上海、77mm
盧溝橋
平遥
寧波の湖畔の村


菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』

2009-12-27 23:40:56 | 政治

菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』(光文社新書、2009年)によると、以下の話はウソである、あるいは、根拠を持たない。

●小泉政権の政策が農村の反発を買ったために自民党が凋落した。
●麻生は、就任前、ネット上においてや一部の若者に多大なる人気があった。
●2009年衆院選における民主党の大勝は、また揺り戻しがあるような一時的なものに過ぎない。
●若者が右傾化する傾向にある。

著者は、さまざまな世論調査のデータを分析し、マスメディアや政治評論家たちによってしばしば提示される言説が、実は、根拠が薄弱で、思い込みによるものに過ぎないことを示してみせる。主な目的は、おそらく、強靭な論理を持たない論客たちに対する批判そのものではなく、検証をしないままの「神話」によって、メディアが悪影響を及ぼし、政治家たちが自分の進むべき道を見誤っていることを指摘することにありそうだ。「この本を読み通せないというのなら、あなたは現代の日本政治について語ることも、一家言を持つことも、到底できない」とまで書くように、その指摘は相当に挑発的である。「読み通せない」どころか、ひたすら面白い。ぜひ一読をおすすめしたい。

それにしても、槍玉に挙げられているような、おかしな分析や言説においては、理系的な感覚ではとても信じ難いデータのハンドリングや解釈を行っている。これまでの政権与党にはまともなブレーンすらいなかったということか。

著者によると、小泉を支持していた都市票と、小泉政権時でもなお自民党を支持していた農村票が、既に民主党に移ってしまっており、「振り子」が多少戻ってきただけでは、自民党は回復できないという。

「そうなると、結局、民主党政権の失政を待つしかないだろう。もちろん、ただ待つだけでなく、そのときに受け皿となるべく、党を刷新し、人を入れ替え、有権者が投票したくなる政党として存在している必要がある。もっとも、二大政党制というのは片方の大政党が与党である間、もう片方がその失政を待つ制度だと考えれば、本来の政党の役割を果たせばよいだけのことである。それが自民党にできるかどうかは、ともかくとして。」

もちろんこれは皮肉と読むべきだろう。ここに書かれているような条件の片鱗すら、どう眼を凝らしても見えないからである。

なお、本書は政策の受容性と有権者の反応を「的確に」分析しているのであり、政策そのものの妥当性を説いているわけではないが、それは本書の責任ではない。


新宿という街 「どん底」と「ナルシス」

2009-12-27 00:43:34 | 関東

大学に入学するときに上京してきてから、ブラブラしたり、酒を飲んだりする街は、渋谷だったり、吉祥寺だったり、谷根千界隈だったりした。それでも、ある時期からは新宿がいちばん好きな街である。頻繁に足を運んだジャズのレコード屋やライヴハウスがあったという直接的な理由もあるが、何より三丁目から歌舞伎町のギンギンした中を歩くと何故か元気が出るのである。

昨日、友人たちと、忘年会として、三丁目のロシア料理店・バー「どん底」で飲み食いした。扉を開けるのははじめてだ。穴ぐらのような場所で居心地が良かった。

もう10年以上前の『STUDIO VOICE』(1998/9)は、「新宿ジャック1968」と題した特集を組んでいる。さっき、あらためて本棚から取り出して、寝転がって読んだ。要はかつての「新宿文化」の新宿を回顧しているものだ。たとえば大島渚『新宿泥棒日記』で共演した横尾忠則唐十郎、それから若松孝二と(元気だった)赤塚不二夫が対談している。もちろん、唐は花園神社を拠点しており、当時「新宿の三天才」のひとりとされていた。

あとふたりの「天才」は、映画の足立正生とジャズの富樫雅彦である。足立はその後パレスチナで日本赤軍と合流し、捕らえられて日本に戻されているのだが、彼のために若松孝二が赤塚不二夫に300万円を借りたというエピソードが開陳されていてひたすら興味深い。

故・富樫雅彦のことには雑誌では触れられていないが、ここでちょっと余談。さっきテレビでピアニスト・辻井伸行の姿を何気なく見ていると、新宿ピットインでの富樫雅彦や佐藤允彦のライヴのとき、客席でよく氏の姿を見かけたことがあるような気がしてきた。(勝手な勘違いかもしれない。)

別の座談会では、「ナジャ」というバーのママだった「よしお」を巡り、夜の新宿について回顧している。そうか、「どん底」はそういうところだったのか。

<平林> あの頃、新宿にくすぶっていた奴の夜から明け方にかけての行動パターンは風月堂に4、5時間、コーヒー一杯でねばり、金のある奴はナジャへ。金のない奴はどん底へだった。
<よしお> 言っとくけど値段はどん底とそんなに変わらないの! 水割り1杯で300円だった。

矢鱈と面白くてちょっと羨ましいが、所詮は別の時代のことである。しかし、新宿のエネルギーは歌舞伎町の客引きが強引でなくなった今もきっとある。森山大道も次のように発言している。

「でも今のぼくの実感でいえば現在の新宿とか時代の方がもっとすさまじいね。無数の無限の60年代がさらに凶悪化してびっしり漂っている感じ、一寸すごいよね。こんな場所を黙って見すごせないよね。」

ついでに雑誌での下らぬ発見。イラストレイターの宇野亜喜良は自分のサインをAquirax と書いていたが、どうやら浅田彰も真似していたらしい。やっぱりミーハーだったのか(笑)。間章もAquirax とサインしていたことには気付いていたのだが。

さて、どん底を出て、コーヒーを飲もうというので、久しぶりに歌舞伎町のジャズバー「ナルシス」に足を運んだ。川島ママが、あなたのブログを読んでお客さんが来たよと言って、貴重なマッチをくれた。片方は、なんと、辻まことがイラストを描いたものだという。伊藤野枝(のちに大杉栄のもとに出奔し、揃って甘粕大尉に虐殺される)と、辻潤との息子である。嬉しいクリスマスプレゼントになってしまった。


辻まことのマッチ

●参照
歌舞伎町の「ナルシス」、「いまはどこにも住んでいないの」
富樫雅彦が亡くなった


布教映画『サンタ・バディーズ』、ジミー・スミスとコクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集

2009-12-25 01:05:48 | アヴァンギャルド・ジャズ

『サンタ・バディーズ 小さな5匹の大冒険』(ロヴァート・ヴィンス、2009年)というディズニーの映画の試写会が当ったので、祝日に、子ども2人を連れて有明のパナソニックセンターまで出かけた。当然だが、半分は子どもである。

ヒップホップが好きな犬やら、庭の仏像に向って瞑想しながら「ナマステ~」などと呟く犬やら登場して、それなりに楽しめる。しかし何よりも驚くのは、サンタを信じよという布教色の強さ。どうしようもないほど単純なメッセージなのだ。

ああクリスマスだなと思い出して、ウィントン・マルサリスのクリスマス曲集を聴こうと思ったら、どうやら売り払ったらしく見当たらない(去年も同じ行動を取ったような気が・・・)。それで、ジミー・スミスのクリスマス曲集『Chiristmas Cookin'』(Verve、1964年)を取り出して聴く。

人気盤『The Cat』もそうだったが、ゴージャスなオーケストラをバックにしたオルガンという趣向がどうしても好きになれない。折角のスミスのハイテクニックのハモンドオルガンが埋もれてしまうような気がするのである。そんなわけで、多分、次に聴くのはちょうど1年後だろう。

そんな中でも、3曲だけ、スミス(オルガン)、クウェンティン・ウォーレン(ギター)、ビリー・ハート(ドラムス)のトリオ演奏はスリリングだ。しかし、これにしても、ウォーレンのギターにどうも馴染めない。翌年と翌々年の別セッションから1曲ずつ、ボーナストラックとして収録されていて、不幸なことにこの2曲のほうが素晴らしい。というのも、「Baby, It's Cold Outside」のギターはウェス・モンゴメリー、「Greensleeves」のギターはケニー・バレルなのだ。

愛着のあるクリスマス・アルバムを言うなら、ロル・コクスヒル(サックス)、フィル・ミントン(ヴォイス)、ノエル・アクショテ(ギター)という変態3人トリオによるEP盤『Minton - Coxhill - Akchote』(Rectangle、97年録音)だ。EP盤とは言っても、45回転ではなく33回転(このことはどこにも書いていないし、A面がどっちかも聴くまでわからない)。このレコード、さっき聴こうと思ったが小さくて見当たらず、寒い部屋で15分も探してしまった。

「The Christmas Song」を2回(トリオとミントンのソロ)、トラディッショナルのクリスマス曲メドレー、それから妙な曲を演奏している。コクスヒルのいつもの緊張感を欠く、ぶわっと息を含んだサックスも良いし、ミントンの朗々としてチャーミングな声は聴いていると幸せになる。アクショテはギター演奏というより、後ろでヘンな声を出したり咳をしたり雑談したりしていて、何のためにいるのかよくわからない・・・・・・が、そのいい加減さがひたすら愉しい。

このような手作りのアナーキーな盤があるほど、社会が平和になる。レクタングルはフランスのレーベルだが、最近も何か出しているのかな。


諏訪敦彦+イポリット・ジラルド『ユキとニナ』

2009-12-23 00:23:40 | アート・映画

諏訪敦彦+イポリット・ジラルド『ユキとニナ』(2009年)の試写を東京日仏会館で観た。

上映前に、ユキ役のノエ・サンピと諏訪監督の舞台挨拶があった。ノエ・サンピはフランス人の父と日本人の母を持つ9歳の子ども、本当にすれてない感じ。そりゃ9歳だもんなと思っていると、なぜか演歌歌手のさくらまや(10歳!)が登場し、完璧にステージの受け答えをして、なぜかジャクソン5の「ママがサンタにキスをした」を歌った。司会の女性は2人の子どもを並べて天才天才と持ち上げていた。こういう大人になってはいけない。

ユキは離婚間際の父母とパリで暮らしている。母が日本に連れて帰ろうとするのを突然拒否したユキは、友だちのニナと家出をする。ニナの両親も離婚していて、2人が向った先はニナの父の別荘。そこから森の中へと入っていった2人だが、ユキはあえてニナとはぐれ、本能の赴くままに森の中を歩き続ける。と、いきなり開けた場所は日本の田園風景。

何の予備知識もなしに観た映画だが、傑作であり、怪作と言ってもいい。台詞はほとんど即興(子どもも!)。無限大の内的世界を持った子どもが蠢く、無限大の存在を孕む森。ノスタルジックでメルヘンチックなおとぎ話を想像して入ると、思わぬ衝撃を受けるに違いない。

ユキの父親は離婚の哀しさからか、深夜大音量の音楽とともに酔っ払って踊り、起きてきたユキに「大人なんてヘンな生き物なんだよ」と呟く。何だか身につまされてしまう。そして観る者はヘンな生き物の大人であると同時に、底知れない生き物である子どもにも自分を投影する。

エンディングテーマは、UA+大島保克「てぃんさぐぬ花」。これもさりげなく秀逸。


北京の「今日美術館」で呂順、「Red Gate Gallery」で蒋巍涛、?平

2009-12-22 00:40:04 | 中国・台湾

北京で帰国日に少し時間があったので、「今日美術館」に足を運んだ。以前、『地球の歩き方』の出鱈目な地図のせいで辿りつけなかったところである。やはり地図はまともなものでなければ、街歩きはできない。

「今日美術館」の前庭には、岳敏君(ユエ・ミンジュン)によるオブジェが展示されている。価格高騰する中国アートの例としても挙げられる岳敏君、いかにも中国では珍しい民間の現代美術館を代表するような存在である。

ちょうど大型展の狭間にあって、小規模な呂順(ルー・シュン)の展覧会が開かれていた。シナプスに電気信号が走ってピキピキと反応している様子を思わせる霧深い空間の中に、蛙や豚が潜んでいる。単調ながら妙にグロテスクな存在が印象的である。会場の一室には、豚たちが最後の晩餐を行っているような彫刻もあった。

2階が入口で、1階と3階はお休み、4階にはビッグネーム・方力均(ファン・リジュン)の作品もあった。ただ、どうしてもバブリーなハコに負けている印象が強い場所である。隣のビルの地下では、多くのギャラリーを入れて芸術区にする構想があるようで、工事中だった。今後、郊外の798芸術区から中心地の座を奪うことができるだろうか。

次に、何度目かの「Red Gate Gallery」に行く。多くの作家の作品を展示していた。以前に観た、王利豊(ワン・リーフェン)周吉榮(ツォウ・ジーロン)の作品が数点あって嬉しかった。ここにはいつも英語を話すフレンドリーなスタッフが誰かいて、今回もお茶をご馳走になった。どれが良かったかと訊くので、4階の蒋巍涛(ジャン・ウェイタオ)?平(タン・ピン)が素晴らしかったと応えると、展示していない作品なども見せてくれた。それぞれ、過去の展示のカタログを入手した。

蒋巍涛(ジャン・ウェイタオ)はテキスタイルのような独特の模様の油彩で、表面はグロッシーだ。本人の書いたものを読むと、漢字や書のように中国オリジナルの世界を表現しているのだという。<中国>なのかはともかく、かなり魅力的な世界であることは確かだ。以前に798芸術区で観たときには、さほど面白みを感じなかったのだけれど。

?平(タン・ピン)は、微妙なマチエールを持つ単色の一角に、結んだ紐のようなものが配置された油彩を描いている。作品によっては斎藤義重のようでもあり、日本の<具体>のようでもあり、マーク・ロスコのようでもあり、ファンタスティックである。

それにしても、ハコモノである「今日美術館」よりこちらのほうが好感を持てる。

●中国アート
王利豊(ワン・リーフェン)@北京Red Gate Gallery
周吉榮(ツォウ・ジーロン)@北京Red Gate Gallery
馮効草(フェン・ジンカオ)、舒陽(シュ・ヤン)、梁衛洲(リョウ・ウェイツォウ)、ロバート・ファン・デア・ヒルスト(Robert van der Hilst)、王子(ワン・ツィー)@北京798芸術区
孫紅賓(サン・ホンビン)、任哲(レン・ツェ)、老孟(ラオ・メン)、亜牛(アニウ)、ルー・シャンニ、張連喜(ツァン・リャンシ)、蒋巍涛(ジャン・ウェイタオ)@北京798芸術区
武漢アート@北京Soka Art Center
解放―温普林中国前衛藝術档案之八〇年代@北京Soka Art Center
袁侃(カン・ユアン)、孫驥(スン・ジ)、陸軍(ルー・ジュン)、蔣志(ジャン・ツィ)、クリス・レイニアー、クリストファー・テイラー@上海莫干山路・M50
Attasit Pokpong、邱?賢(キュウ・シェンシャン)、鐡哥們、杜賽勁(ドゥ・サイジン)、仙庭宣之、高幹雄、田野(ティアン・イェ)、何欣(ヘ・シン)、郭昊(グォ・ハォ)@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の「狂草」@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の新作「气?/The Activity of Vitality」@上海莫干山路・M50
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展@銀座資生堂ギャラリー


ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』、『勝利への脱出』

2009-12-20 23:26:36 | アート・映画

エディ・ハリスが主題曲を吹いていたなと思って、録画しておいた『勝利への脱出』(1980年)を観る。ジョン・ヒューストン監督、シルベスター・スタローン主演の作品であり、スタローンにとっては『ロッキー』と『ランボー』の間にあたる。観終わってから調べると、エディ・ハリスのサックスは『栄光への脱出』だった(笑)。

ナチスドイツの収容所で、元サッカー選手の捕虜たちがチームを結成、ナチス支配下のパリでドイツチームとサッカーの試合を行うという話。ペレが特別出演し、ドリブルやオーバーヘッドキックを見せている。

ヒューストンの演出は大袈裟なところがなく極めて上品、好感を持ってしまう。脱獄したスタローンがレジスタンスの女性と関係を持つ描写なんて、いまの映画にはほとんどないに違いない。チームのメンバーたちが逃げ出して終わるのでなく、サッカーの観衆たちが試合に歓喜しながら自由を求めてグラウンドに雪崩れ込むラストシーンも良い。

勘違いついでに、ヒューストンの前作、『王になろうとした男』(1975年)も続けて観る。ここにもマイケル・ケインが出演していて、ショーン・コネリーとともに、インドからアフガニスタンを越えて伝説の国へ入り、神として君臨する。彼らの持つフリーメーソンの印と、アレクサンダー大王が残した財宝に付された印とがそっくりだという設定は秀逸。一つ目の神像も奇妙奇天烈で愉しい。

ジョン・ブアマン『未来惑星ザルドス』やジャン・ジャック・アノー『薔薇の名前』と同様、むんむんと男臭が漂うコネリーが出ると怪作度が増すという不思議である。

ジョン・ヒューストンの作品は、『マルタの鷹』、『黄金』、『キー・ラーゴ』、『アフリカの女王』など40年代、50年代のものが評価が高い。60年代のどうかしている『天地創造』は置いておいても、70年代以降にも秀逸な作品があるのだということ。


『パブリック・エネミーズ』、『パンドラの匣』

2009-12-20 22:11:22 | アート・映画

羽田-北京便が就航して便利になったのはいいが、ますます飛行時間が短くなり、特に帰り便では2時間の映画を最後まで観ることができるかどうかわからない。そんなわけで、行きには長め、帰りには短めの映画を選ぶことが必要となる。映画の愉しみがなければ、飛行機なんて揺れるし、怖いし、耳が痛くなるしと碌なことはない。

行きには、『パブリック・エネミーズ』(マイケル・マン、2009年)を観る。1930年代のマフィア物であり、悪名高いジョン・デリンジャーをジョニー・デップが演じている。ところが、全然面白くない(笑)。よく考えたらマイケル・マンの優れた映画なんて思い出せない。ジョニー・デップは、『シザーハンズ』(ティム・バートン)や『デッドマン』(ジム・ジャームッシュ)などエキセントリックな役なら嫌いでもないが(これも作家の力だろう)、このようにストレートに没入している役には何も感じない。

粉川哲夫『シネマノート』に細かな解説(>> リンク)があるが、そこでも大きく取り上げられているように、デリンジャーが死ぬ間際に恋人に残したメッセージは「バイバイ、ブラックバード」だった。しかし、それが何を意味するのか判然としない。恐らく観客のほとんどはモヤモヤしたまま帰るのだ。

もちろん、有名なジャズ・スタンダードとなっている曲名であり、例えば『ジャズ詩大全 2』(村尾陸男、中央アート出版社)によると、「自分の現在置かれている悲惨な状況から抜け出して、幸せが待っている彼女がいるところへと向かい、ブラックバードよさよなら、と歌うわけである。」とある(ブラックバードは悪い存在の象徴)。しかし、デリンジャーが向かう先には、生き残った恋人は居ないのである。もっとも、ブラックバードは黒人芸人を指すスラングだったとも言うし、この世でのパフォーマンスはお仕舞さとでもいった感覚かもしれないのだが、それでは自分勝手すぎるぞ。まあそのうち誰かが答えをくれるかもしれないので放っておくことにする。

ところで、本作が米国公開された直後の『ビッグイシュー日本版』(2009.8.1)ではジョニー・デップを特集している。デップの出演作には、今後、テリー・ギリアム『パルナッサス博士の想像力』ティム・バートン『不思議の国のアリス』などエキセントリックに違いないものがあるようで、ちょっと期待できるかもしれない。

帰りには、『パンドラの匣』(冨永昌敬、2009年)を観る。じらされることの快感、やはりハリウッドの大作などよりもこんな奇妙な小品のほうが嬉しい。


ハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド』

2009-12-19 23:58:50 | 思想・文学

極寒の中国から帰ってきた。マイナス10度(それでも内陸よりマシ)の北京の夜、20時をまわっているというのに、20人くらいの人たちが音楽に合わせて体操していた。どういうことか!?

今回のお供は、仙台の本屋「火星の庭」で買った、ハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド』(圭書房、原著1891年)。圭書房は仙台の出版社だからあの本屋にも目立つよう置いてあったのだろう。「火星の庭」に行かなければ、気付くこともなかったに違いない。

今年2009年8月初版の新訳ながら、旧字・旧かな遣いという信じ難い本。かな遣いだけなら丸谷才一もそうだし、まあ愉快ではある。

悪たれビリーではなく、蕾のビリーだ。『市民ケーン』での有名な台詞、「薔薇の蕾」と同様である。この場合、赤ん坊のように純真無垢な船乗りビリーの渾名ということになっている。

ビリーは朗らかで献身的、船乗りたちの間の人気者。一方、そのビリーを何故か忌み嫌う船員がいる。ビリーには裏表がないが、人間の暗い闇を理解する素養が皆無で、人の心理の機微にも気付かない。唐突に艦長の前で無実の罪をきせられたビリーは、言葉が出なくなり、衝動的に悪意を持つ船員を殴り殺してしまう。艦長は情状酌量の余地があることを認めつつも、軍の規律に則り、翌朝、甲板でビリーを公開処刑とする。ビリーの吊るされたマストは、後日、船員たちにとってイエスの十字架のような存在となり、また、艦長にも死ぬまで心の傷を残す。

物語は単純ではあるが、言いようもなく理不尽である。しかしそれ以上に、理性とは矛盾せずに存在する非論理的な悪意が「人間の本性そのものに根差した堕落」に起因するものとして描かれている面が、この作品を深いものにしている。読む私にとって、理不尽な状況に追い込まれるビリーは自分でもあり、自分が悪意を抱く対象でもある(などと言うと、ビジネスマン向けの何々のようだが、実際に毎日の社会生活におけるたたかいそのものだ)。さほど長くない作品ながら、読後、非常に心に残る。

何となれば、ある種の例外的な人間の胸中に、ただある種の他の人間の姿を目にしただけで、それも相手がいかに無害な存在であらうと―――無害である事それ自体が原因とまでは云はずとも―――喚び起こされて了ふやうな、深刻にして自づからなる悪感情ほどに神秘性を帯びたものがまたとあり得よう筈はないからである。
(※旧字のみ変更)


沢渡朔『Kinky』と『昭和』、鈴木龍一郎『RyUlysses』

2009-12-15 06:00:00 | 写真

銀座でちょっと講演をする機会があって、ついでに、沢渡朔の写真展『Kinky』を覗いてきた(BLD Gallery)。沢渡がフリーとなって間もない60年代後半。モデルの荒張弘子とはその後結婚しているという。

そんなこともあるのだろう私的な間合い、逆光・ボケ・ブレのライヴ感、当時のファッション、全てがひたすら格好いい。自分もカメラを掴んで近い人に迫りたくなるような、そんな写真群だ。レンズの限界、フィルムの限界も心地いい。久しぶりに浮かれた気分になる。

売店にも販売用のオリジナルプリントが展示されていた。なんと、伊佐山ひろ子をペンタックスLXで撮った『昭和』に収められている8枚である。以前にも、ギャラリー蒼穹舎での展示を見逃していて残念に思っていたのだ。『Kinky』とはまた違う色気に惚れ惚れする。

ああ、やっぱり沢渡朔は特別だ。署名帳をふと見ると、直前に「渚ようこ」の名前があった(!)。


以前見逃していた写真展

さらについでに、鈴木龍一郎『RyUlysses』(ニコンサロン)を覗く。アイルランドの情景を、パノラマカメラで撮った作品群である。

メリハリのあるプリントはなかなか見ごたえがあり、パノラマゆえ視線が左右に彷徨うのは嬉しい。35mmを引き伸ばしたときの粒状感には魅力がある。写真家がおられたので訊いてみると、カメラはフジのTXシリーズ、印画紙はイルフォードの多階調、フィルターは3号のときも2号のときもある、ということだった。印画紙が勿体ないでしょう、と無粋な質問をすると、余りは切ってテストプリント用にすれば良いのですよ、と至極尤もな話。私もロシア製の首振りパノラマカメラにでも手を出そうかな。

●沢渡朔
『シビラの四季』(真行寺君枝)
『Cigar』(三國連太郎)


サム・リヴァースのザ・チューバ・トリオ

2009-12-14 21:32:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

レスター・ボウイ・ブラス・ファンタジーのことを思い出したら、チューバが効果的なグループとして連想がつながったのは、コンポステラヘンリー・スレッギルのヴェリー・ヴェリー・サーカス、それから、サム・リヴァースのザ・チューバ・トリオ


これが色違いで3枚ある

ザ・チューバ・トリオのメンバーは、サム・リヴァース(テナーサックス、ソプラノサックス、フルート、ピアノ)、ジョー・デイリー(チューバ、バリトンホルン、パイプ)、ウォーレン・スミス(ドラムス、パーカッション)。『Essence - The Heat and Warmth of Free Jazz』(Circle Records、1976年録音)は、オランダのBimhuisにおいてライヴ演奏された1日の記録であり、LP 3枚にすべておさめられている。なお、ジャケットは写真が共通で周囲は色違いである。

聴客によっては、これらの演奏をすべて聴いたのであろうが、音の記録だけで3枚を続けて聴くのはかなりエネルギーを要する。LPの裏面には、「このライヴ録音された音楽は、スタジオ録音された音楽よりも、可能なかぎり大きな音量で聴いてください」などと書いてある(笑)。

大きな理由は、やはり、リヴァースのソロである。旋律は奇怪極まり、それを蛇のように、あるいは吐き出し続ける毒液のように、うねうねと凄い速さで吹きまくる。

マイルス・デイヴィスのファンにとってみれば、なぜか短期間グループに在籍し、来日時の『イン・トーキョー』に名前を残す男、といった好ましからざる存在なのかもしれないが、私にとってはまったく逆。『イン・トーキョー』は、多くを売り払った中で手元に残す、マイルスの数少ない盤のひとつなのだ。「If I Were a Bell」での唐突に始まる異物のようなソロには笑ってしまう。もっとも、マイルスの重力圏での怪しさに過ぎないのであって、このようなオリジナルな音宇宙はもっと怪しい。

チューバも、ヴェリー・ヴェリー・サーカスやブラス・ファンタジーのような、編曲に基づきグループ全体をドライヴする役目は、ここでは全く与えられていない。とは言っても、天空を飛翔できない楽器であるから、フリー・インプロヴィゼーションの中で地上で暴れる重機と化している。これと、ソプラノサックス、フルート、テナーサックスそれぞれの音色とが絡む様子は、相当にエキサイティングである。

でも3枚連続はちょっと。


『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』 これはもう宗教

2009-12-13 23:30:04 | アート・映画

子どもたちを連れて、バスで近くのシネコンへ『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』を観に行った。シネコンなんていつも空いているが、意外にも、ほぼ満員だった。もちろん半数は子どもである。このような場合、映画が始まると阿鼻叫喚の空間と化すので、却って気が楽だ。

ちょっと前、『大怪獣バトル』という、怪獣ゴモラを自由に操って他の怪獣と闘うウルトラ番外編のようなテレビ番組があった。息子が熱心に観ていた。昔の着ぐるみ再利用番組『ウルトラファイト』などよりは遥かにマシで、懐かしい怪獣が出てくるとつい見入ってしまうのだった。

映画の登場人物は、その『大怪獣バトル』のレイとゴモラ、米国製も含めたあまりにも多い新旧のウルトラマン、それから初登場のウルトラマンゼロというセブンの息子。ゼロの頭には、アイスラッガーが左右にふたつあり、結構ハイセンスである。

大きな特徴は、ヴァーチャルな世界としてのウルトラ神話。もう地球上での日常生活も、手作りの白兵戦も全く描かれない。神々の棲家であるM78星雲・光の国の成立神話とその危機、抽象的な悪との闘いが、これでもかと見せ付けられる。

テレビ本編を根幹として、番外編や裏話を子ども向け雑誌で展開し、ウルトラ兄弟を増やすことで世界を拡げていくメディア・ミックスの手法は、初代ウルトラマンの時代から積極的に使われてきた。しかしここにきて、手作りという鎖を断ち切り、CGによる物量作戦を用いることによって、ウルトラ神話はほとんど宗教的な色彩を帯びているような気さえ覚えるのだった。

もっとも、聖地巡礼ならば既にしている(その意味では信者か)。ウルトラ創世記に多くの傑作を生み出した金城哲夫が沖縄に帰った後、仕事場としていた部屋が、南風原町の料理屋・松風苑の敷地内に残されている。今年の夏、中を見せていただくことができた。鞍馬天狗や沖縄関連の本の他、安部公房の『箱男』なども書棚にあったのが印象的だった。


松風苑(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号

●参照
『大決戦!超ウルトラ8兄弟』
『怪獣と美術』 貴重な成田亨の作品
怪獣は反体制のシンボルだった


ジャッキー・マクリーンのブルージーな盤

2009-12-13 00:34:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

また、リー・タマホリ『NEXT』(2007年)を観てしまった。誰に聞いても、ニコラス・ケイジって変な顔なのになんで人気があるんだろうな、と呟いている。ケイジ主演作だと観たくなる不思議。

ケイジ主演の次作は、なんとヴェルナー・ヘルツォーク『Bad Lieutenant : Port of Call New Orleans』だという。ヘルツォーク健在だったのか。

ジャッキー・マクリーンは変貌を続けた音楽家だが(オーネット・コールマンからの影響でアグレッシブになったりしたのが有名)、独特のせつないようなアルトサックスの声は一貫して変っていない。好きな盤は何枚もある。ベストは決め難いが、1950年代の若い頃のブルージーな演奏は捨てられない。

『Lights Out!』(Prestige、1956年)は、ドナルド・バード(トランペット)との2管のクインテット。最初の表題作はダグ・ワトキンスのベースソロに始まり、アート・テイラーがドラムスで合いの手を入れて、やがてエルモ・ホープ(渋い!)のピアノが入ってくる。そしておもむろに吹き始めるマクリーンのソロは、もろにスローブルーズであり、身悶えするくらい良い。

特にガーシュインの「A Foggy Day」の演奏が好きで、勢い良くスピーディーに進むのが小気味良い。何年か前に、スクールの発表会を江古田のライヴハウス「Buddy」でやったときに、これを吹いた。当然、マクリーンのように吹けるわけがないが、それは仕方がない。解説でアイラ・ギトラーは、ロンドンの霧を思わせるように終わる、などと嬉しくなるようなことを書いている。

『New Soil』(Blue Note、1959年)も全曲ブルージーであり、一番の愛聴盤かもしれない。やはりバードとの2管のクインテットだが、ウォルター・デイヴィスJr.(ピアノ)(これも渋い!)、ポール・チェンバース(エース)、ピート・ラロッカ(ドラムス)とメンバーが全く異なる。この盤に渋さを与えているのはデイヴィスJr.のピアノであり、勢いを与えているのはラロッカの尖がったドラムスではないかと思っているがどうか。

この盤が、同じ年に吹き込まれた『Swing, Swang, Swingin'』(Blue Note、1959)と全く雰囲気を異にしているのはなぜだろう。後者はワンホーン・カルテットであり、スタンダード曲を中心に吃驚するくらい真っ直ぐにアッケラカンと吹いているのだ。メンバーがまるで違うためか、スタンダード中心というコンセプトの違いか。マクリーンの青臭いサックスの音を聴くために、いつかアナログLPも入手したいと思っているのだが、まだ果たせていない。


上田信『森と緑の中国史』

2009-12-12 01:22:27 | 中国・台湾

所用で仙台に足を運んだ。「火星の庭」は相変わらず良い古本屋だった。それはともかく、今回新幹線のお供にしたのは、読みかけの、上田信『エコロジカル・ヒストリーの試み 森と緑の中国史』(岩波書店、1999年)だ。つい先日、早稲田の「ブックスルネッサンス」で入手した(ここも良い古本屋)。

中国は沙漠化で苦しんでいる。雨が降らない黄土平原近辺の様子もたいへんなものだ。そのような地域でも、唐突に森林があらわれ、「風水の力」で錐揉みになっている柏の樹などを見ることができる。私はずっと不思議な思いにとらわれている。

本書では、そのような黄土平原でも、かつては緑に覆われていたと見ている。そして、変化の原因は、共存ではなく、囲い込みによって回復可能レベルをこえるまで収奪してしまった文明にあるとしている。春秋時代や周時代、楚時代にまで遡り、詩にうたわれた森林との距離感を探っているのは、非常にユニークである。

中国における森林も、日本においてと同様、一様ではない。東北地方など寒い地域では針葉樹林が幅をきかせ、江南では亜熱帯常緑広葉樹が目立っている。樹種それぞれの特性を見極め、共存しながら利用するのは重要視された技術であった。しかし、異なる植生の地域を跨る権力では、特定の植物の価値は磨耗し、「文化」から「文明」へと移行した。―――この見方は納得できる。このために、トラは死に、神も妖怪も姿を消し、本来必要な闇が拭い去られ、資源として収奪したあとの土地は荒廃し、水循環は磨耗し、二次災害を生むこととなった、というわけだ。勿論、昔話でも人ごとでもない。

著者は、このようなモノカルチャー化を通じた荒廃を、貧困と次のように結び付けている。

「貧困とは何かが欠乏しているという状態なのではなく、自壊する要素を含んだ生活のダイナミクスではないか、ということである。雁北の村々では、食料の欠乏が耕地の拡大をもたらし、耕地の拡大が森林破壊を激化させ、森林破壊が土壌流出の原因となり、そして土壌流出が食料の欠乏を招いていた。こういった様相は、この地の生活が自壊していくシステムであることを示す。生きていく過程のなかに、崩壊という要素をはらんでいるのである。」

そして、この貧困のダイナミクスを断ち切るため、外部からの資金や技術の提供が必要だと説いている。現在まさに、ポスト京都議定書の議論のひとつも、まさに森林劣化・減少への対策として、先進国からの資金提供などが必要だとしているわけである(オカネ中心でうまくいくかという指摘はまた別として)。ただ、日本の林業自体が悪循環のただなかにあり、先進国-途上国と同様に、国内に南北問題を抱えている。


浙江省の森林(シダと倒木)、2008年 Pentax K2DMD、M40mmF2.8、Tri-X、Gekko 3号


浙江省の森林(成長した樹皮の文字)、2008年 Pentax K2DMD、M40mmF2.8、Tri-X、Gekko 3号