Sightsong

自縄自縛日記

ティム・バーン+マルク・デュクレ+トム・レイニー『Big Satan』

2016-06-30 22:54:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

ティム・バーン+マルク・デュクレ+トム・レイニー『Big Satan』(Winter & Winter、1996年)を聴く。

Tim Berne (as, bs)
Marc Ducret (g)
Tom Rainey (ds)

大変な濃密感である。空気も重たくなって呼吸器を圧迫してくるような音密度。

はなやかな金属音とともに介入するデュクレのギターも、撥音が飛び爆ぜるレイニーのドラムスもいいのではあるが、ここでの主役は圧倒的にバーンだ。高密度なアルトは同時に粘りつくようでもある。ここではバーンはバリトンも吹いていて、面白いことに、このバリトンもまた粘りつく。

むかしバーンにピンとこなかったという思い込みだけで、最近まで、しかもこのような傑作までスルーしてしまっていたのかと思うと、勿体ない気がする。しかしいまこれを聴いて陶然とできるのだから、まあいいような気もする。

●ティム・バーン
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック『ubatuba』(2014年)
ティム・バーン『You've Been Watching Me』(2014年)
ティム・バーン『Shadow Man』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(2004年)
ジョン・ゾーン『Spy vs. Spy』(1988年)

●トム・レイニー
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック『ubatuba』(2014年)
イングリッド・ラブロック+トム・レイニー『Buoyancy』(2014年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
トム・レイニー『Hotel Grief』(2013年)
トム・レイニー『Obbligato』(2013年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、2012年)
イングリッド・ラブロック『Zurich Concert』(2011年)
ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(2004年)


相倉久人『現代ジャズの視点』

2016-06-30 22:10:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

相倉久人『現代ジャズの視点』(角川文庫、原著1967年)を読む。

本八幡Cooljojoに設けられている高柳昌行の書棚には、元のハードカバー版があり、発売直後に入手されていた(高柳氏はマメだったようで、本の裏などにいちいち入手日と名前が記されていた)。そんなわけで読もうかなと思っていたら、阿佐ヶ谷の古書コンコ堂で文庫版を257円で発掘した。

亡くなるちょっと前に書かれた『至高の日本ジャズ全史』と同様に、著者が司会を務めていた「ジャズ・ギャラリー・8」での活動時に書かれた1961-68年のことが記録されている。「銀巴里」での活動を振り切った後のことである。

もちろん今読んでも迫真性がある。その筆は、日本においてジャズは根付くのかといった観点で一貫しており、そのために、日本に失望して再渡米した穐吉敏子さんには批判的だ。

面白い記述はいくつもある。たとえば渋谷毅さんについて。生きること自体がジャズであり、ヒップスターであったという。その一方で、ジャズメンはその裡にジキルとハイドを併せ持たなければいけない、ともいう。そして、「渋谷毅のように、彼自身が、ジャズであるような男には、なかなかほんとうのジャズが、演奏できないのだろう」と結論付ける。

さてこれを読んで、高柳さんはどう思い、のちに渋谷毅オーケストラの原点となったグループを組成したのだろう。渋谷さんはどのように変貌し、それを相倉さんはどのように見ていたのだろう。

●参照
相倉久人『至高の日本ジャズ全史』
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』


Making of Björk Digital @日本科学未来館

2016-06-29 07:15:41 | ポップス

ビョークが、「Björk Digital ―音楽のVR・18日間の実験」という展示に合わせて来日している。2日間のDJイヴェントは即完売してチケットを買えなかったこともあって、その前日の映像の公開収録とトークショーに足を運んだ(2016/6/28)。

獣のお面をかぶって出てきたビョークは、カメラの前の決められた場所に立った。ビョークの周囲は発行源でまるく取り囲まれており、ストロボ光とともにビートが打ち鳴らされた。彼女は、胸を前に突き出し、両肘を後ろにギクシャクと動かすダンスを踊りながら、「Quicksand」(『Vulnicura』所収)を歌った。それが、リアルタイムでのライヴ・ストリーミングと、収録との2回。

生の動きも見ものだったのではあるが、パフォーマンスが終わったあとの休憩時間にiphoneで観た映像は、まったく別物だった。彼女は光と一体化し、激しく変貌し、最後は砂となって崩れていった。youtubeのアプリを使えば、指で360度動かしながら観ることができるようだった(わたしは使わなかった)。

休憩後のトークショーには、着替えて、ピンク色の靴、ピンク色のキラキラしたショール、そして針金による妙なものを頭と顔に装着して登場した。

彼女は話した。

『Biophilia』では自然とタッチスクリーン技術の要請で曲ができたが、『Vulnicura』はまず時系列のギリシャ悲劇的な曲があった。
―ニューヨーク近代美術館(MOMA)でのビョーク展のために「Black Lake」の映像を収録したとき、狭い部屋と2スクリーンという制約があった。その閉塞感にあわせて、谷間での映像とした。
MOMA PS1で公開した「Stonemilker」は、専用のメガネを装着し、ドーム内で360度の視界で観る映像。好きなビーチに連れていってもらって、上機嫌で収録した。
―いま、やはり『Vulnicura』に収録した「Family」を別のコンセプトで映像化している。
―そして今回の「Quicksand」。ストロボ光のビートと、曲の焦燥感とがマッチするのではないかと選んだ。
―口の中に入ってゆく「Mouth Mantra」もある。
―エモーションとテクノロジーとを融合させるのは自然なこと。大昔のヴァイオリンだってそうだったはずで、それは感情表現の大事なツールになり、『Vulnicura Strings』として結実した。かつては直接人と会わない環境ではパニックを引き起こしていたが、電話や携帯ができて、コミュニケーションの幅が広がった。
―自分は常に同じではない。一方で前に進む怖さもある。

そして社会とのかかわりについて問われ、さらに話した。誰だ、音楽に政治を持ち込むなとナンセンスなことを言ったのは?

―政治家も誰も、罪の意識が麻痺しているのではないか。地球も社会も大変なときに。
ーでも、できると思うし、方向を変えられると思う。音楽だって一緒でしょう。(ここは、ビョークの独特な英語が胸に刺さった。「I still hope we can do it.」「We can still turn around.」「I think it is the same with music.」と明確に語った。)
―創造力とテクノロジーとによって、私たちは方向を変えられる。

それにしてもビョークの言葉は胸に刺さってくる。彼女のちょっと不思議な英語の発音も魅力のひとつだと思うのだが、たとえば、巻き舌で「perhaps」と、丁寧に「equilibrium」と、それから言葉が自律しているかのように「emotional」「humanity」と発せられると、もう耳が彼女の言葉のひとつひとつに貼りついてしまう。それに加えて、発言のあとに、「I hope it makes sense.」「I always say too much.」と謙虚に付け加えるビョークをみていると、先の過激なビョークとはまるで別人、ひたすら可愛いのだった。

フルコンサートをやってくれないかな。

●参照
ビョーク『Vulnicura Strings』(2015年)
ビョーク『Vulnicura』(2015年)
MOMAのビョーク展(2015年)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(2015年)
ビョーク『Volta』、『Biophilia』(2007、2011年)
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』(2001、2004年)
ビョーク『Post』、『Homogenic』(1995、1997年)
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』(1991、1993年)


デイヴィッド・モス『Dense Band Live in Europe』

2016-06-28 07:05:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

怪人デイヴィッド・モスの作品を適当に集めてもいたのだけど、『Dense Band Live in Europe』(Ear-Rational、1987年)にいちばんの愛着がある。最近ふとアナログ盤が目について、CDを持っているのについ入手してしまった。この過激なる手作業感あふれる音楽にはヴァイナルがふさわしいような気がして。

David Moss (ds, vo)
Wayne Horvitz (DX7, DX100, harmonica)
Christian Marclay (turntables, records)
Jon Rose (19-string cello, vln)
Jean Chaine (b)

メンバーの顔ぶれは一時代前の前衛オヤジばかりのようだが、もちろん今聴いても面白い。手作業的なものは古びることがないのだ。

何しろモスのスキゾ(笑)的な、他者の物語にのせられることを拒絶するようなドラムスと、アナーキーな声。そしてクリスチャン・マークレイはいつもカッコいい。ターンテーブル使いとしては、このあとモスは大友良英とも共演している(モス、大友、ジョン・キングのトリオ『All At Once At Any Time』、1994年)。モスはふたりの違いをどう見ただろう。

1996年11月25日に(なぜ正確に覚えているのかといえば、巻上公一さんのサイトに細かな年譜があったからだ)、六本木にかつてあったロマーニッシェス・カフェで、モス、大友、ハイナー・ゲッベルス、巻上、ジャンニ・ジェビアというメンバーでのライヴを観たことがある。大友さんはまだターンテーブルのみを演奏していて、それを傾けていくのを皆が注視、針が滑った途端にどしゃめしゃと演奏を始めたりしていた。ゲッベルスはピアノから張ったロープを弄んでいた。モスはといえば、途中でドラムセットを前に居眠りしていたりして、ひたすらアナーキーだった。

副島輝人『現代ジャズの潮流』には、モスが出てきたころの即興シーンについて書かれている。マイルス・デイヴィスがいなくなって、なんでもできるようになったのだといったモスの言葉もあって、スタイルがまるで違うのに何じゃらほいとしか最初は思えなかった。しかし、それは権力であったのだ。そしてヒエラルキーやスタイルや曲や構成や紳士的なるものといった権力を過剰に無化するモスの音楽があったわけである。


野村喜和夫+北川健次『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』

2016-06-27 23:50:54 | 思想・文学

野村喜和夫+北川健次『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』(思潮社、2013年)。素敵な奇書である。

北川健次による奇妙なコラージュは、街と夜をわがものにした業のようでもあり、ディストピアのようでもあり。渦巻というイメージは、地獄へと降りてゆくダンテのイメージでもあり、またイエメンとエチオピアに吸い込まれていったアルチュール・ランボーのイメージでもあり。

どうしても、野村喜和夫が翠川敬基・大友良英と組んだCD作品『ututu/独歩住居跡の方へ』において、思いつめたように絞り出す詩人の声が、読みながらこだまする。確かに本書にも、「余慶坊/の方へ」とある。金子光晴が滞在した上海の街だという。「の方へ」が東京であっても上海であっても、詩人の渦巻の中では大した違いがない。


スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』

2016-06-26 22:53:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』(Rogueart、2016年)を聴く。LPである。

Steve Swell (tb)
Jemeel Moondoc (as)
Dave Burrell (p)
William Parker (b)
Gerald Cleaver (ds)

どうだと言わんばかりのメンバー。とはいえ、いまも、主役スティーヴ・スウェルのトロンボーンがどんなものか心に落ちてこないのではあるけれど。

(わたしに)キャラがわからない主役以外、それぞれが個性を発揮していて嬉しい。ジャミール・ムーンドックのアルトは微妙にずれた音色で、素朴とも思えるように吹いていて、そのにおいがいい。御大ウィリアム・パーカーのベースはとても重いくせに鈍重さなどまったくない。同じ音を繰り返して、おもむろに満を持したかのように移動しはじめるところなど、ぞわぞわするような快感を覚える。ジェラルド・クリーヴァーのシンバルを効果的に使ったスピルアウトぶりもいい。デイヴ・バレルは、ピアノの一音一音を積み重ね、サウンドのなかでの和音の響きを確かめていくようなプレイを行っていたかと思えば、堤が決壊してフレーズが轟轟と流れはじめる。

●参照
ヨニ・クレッツマー『Five』、+アジェミアン+シェイ『Until Your Throat Is Dry』(JazzTokyo)(2015, 16年)(スティーヴ・スウェル参加)


いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』

2016-06-26 21:32:01 | 思想・文学

いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』(講談社学術文庫、原著2002/06年)を読む。

この奇書は、かつて講談社から出された「現代思想の冒険者たち」シリーズ(桜井哲夫『フーコー 知と権力』など)の月報に連載された作品をもとにしている。わたしもこのシリーズの何冊かは読んで、ついでに月報も楽しんだし、それが集められた単行本(2002年版)も大事に持っている。ただ迂闊なことに、2006年に増補版に出されたことを知らなかった。本書の底本になったものは2006年版のようなので、あらためて買った。

難点といえば、文庫だから字が小さすぎることか。いしいひさいちは敢えてごにゃごにゃとセリフを書き込むこともあって、ちょっと読みづらい。

それにしても、本当に面白く、ときどき引きつって笑いだしそうになる。何しろ、思想家たちがみんなどうしようもない頑固な変人に変身してしまっているのだ(実際にそうでもあったに違いないのだが)。

たとえば、ニーチェが「つくる会」の教科書採択を審査する教育委員会の委員になっている(もちろん、ここだけでニーチェ研究の西尾幹二氏なわけで爆笑する)。それで賛否を問われ、ニーチェ先生は「この『つくる会』の言動については昔いじめられた日教組に仕返ししてやるが如きルサンチマンを感じてまことに不愉快だ。」と答える。しかし、話はそれでは終わらない。読むと脇腹が痙攣する。

またたとえば、レヴィ=ストロース先生に自作と『知の考古学』との違いを問われたフーコー君は、「たとえば文学作品とはその時代のエピステーメーつまり『知の体系』に作られた作者によって作られた作品に影響されて作られた作者によって作られた作品に作られた作者によって・・・」と滔々と答え、先生を呆れさせる。まさに平行する無数の宇宙を語ろうとするフーコーを表現する、いしいひさいち魔術。松岡正剛氏による「アーカイヴ(<アルシーヴ>)の奥に潜む構造を重視している」との『知の考古学』の書評が180度ずれていることに比べて、百万倍まっとうで可笑しい。

さすが天才・いしいひさいち。


松風鉱一@十条カフェスペース101

2016-06-26 09:21:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

十条のカフェスペース101に足を運んだ。ここで数か月にいちどのペースで松風鉱一さんが演奏しており、いつか行かねばと思っていた。

座るなり師匠は旅の話。十条もアジア的で好きな街だそうで、このへんは共感する。わたしも久しぶりに東十条と十条をつなぐ坂道を歩いて、たまらない懐かしさに襲われた(篠原演芸場しか覚えていなかったが)。そして「最近楽器触ってる?」「いやその」。永遠に頭が上がらない(ような気がする)。

Koichi Matsukaze 松風鉱一 (fl, ts, as)
Takayuki Kato 加藤崇之 (g)
Yoshinori Shimizu 清水良憲 (b)
Kiko Domoto 堂本憙告 (ds, vo)(「Blue Velvet」のみヴォーカル)
Chisato Miwa 三輪千里 (vo)(「Love Letter」のみ)

それにしても異常なほどリラックスしたセッションで、十条という場所の力もあって、東南アジアの田舎でまったりしている気分。

松風さんのささくれた音色のサックスはいつも素晴らしい(アルトが一時期可愛い音になっていたが、また変えたのかな)。フルートも吹き始めの幽かなる雰囲気もとても独特。そして加藤崇之さんのギターの宇宙一の異次元ぶり、何をしているのかよくわからないほどのキャラが立ったプレイ。仮にメアリー・ハルヴァーソンと会ったらどう交感しあうだろう。

この日の「w.w.w.」はややゆっくり目で、松風さんの消えて無くなりそうで無くならない疾走音が本当に良かった。(そういえば、山中千尋によるこの曲のカヴァーをいまだちゃんと聴いていなかった。)

加藤さんの面白げなDVDを1枚買って帰った。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●参照
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
5年ぶりの松風鉱一トリオ@Lindenbaum(2013年)
松風鉱一カルテット@新宿ピットイン(2012年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
松風鉱一トリオ@Lindenbaum(2008年)
松風鉱一カルテット、ズミクロン50mm/f2(2007年)
松風鉱一『Good Nature』(1981年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』 
反対側の新宿ピットイン
くにおんジャズ、鳥飼否宇『密林』


GUNWALE『Polynya』

2016-06-25 15:44:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

GUNWALE『Polynya』(Aerophonic、2016年)を聴く。

Dave Rempis (as, ts, bs)
Albert Wildeman (b)
Ryan Packard (perc, electronics)

GUNWALEはデイヴ・レンピスらによるサックストリオである。わたしの目当てもレンピスなのであって、期待通り、ヘンな音を聴かせてくれる。ガンネル(舟の縁)のように、外界とこちら側との狭間にあってあやうい領域ということもできようか。

25分ほどの長い1曲目において、レンピスのサックスは、ノイズまみれで裏返ったりひっくり返ったりして、しぶとく存在し続ける。そのうちに、ライアン・パッカードのエレクトロニクスがドローンを発し、怖いような音風景があらわれる。また3曲目におけるレンピスのアルトは強く壁を突き通るようでもある。一方で擦れる小さな音もあって、この振れ幅が面白い。


Sun Ship@大塚Welcome back

2016-06-24 00:23:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

はじめて大塚のWelcome backに足を運び、いつか観ようと思っていたSun Ship(2016/6/23)。

Sun Ship:
Takashi Namiki 並木崇 (ts)
Shunji Murakami 村上俊二 (p)
Satoshi Kawasaki 川崎聡 (b)
Kazushige Kitamura 北村和重 (ds)
with
Guevara Yuji Takenobu 武信ゲバラ (as)

ファーストセット、「Six Sense」(並木)、「Tomorrow」(村上)、「Roots」(村上)。セカンドセット、「Mother's Day」(村上)、「Old House」(並木)、「Memories of Summer」(村上)、「Go Back to My Country」(村上)。

サックスのふたりが対照的な音色を発した。並木さんのテナーは抜けがよく、溢れんばかりの哀切な気を発散しながらアルトのように鳴る。一方ゲバラさんのアルトは、濁り、くぐもり、激情を吐いた(途中で「Impressions」のようなフレーズも聴こえた)。

そして村上さんのピアノもまた激しく、四方八方にガラス片を破裂させながら弾きまくる。他のソロが終わってまたピアノが入るときのばばばばばという加速もいい。ふとドン・プーレンを思い出した。

エッジの効いたベースとドラムスの勢いもあって、このグループは疾走というよりも爆走というべきだった。

終わったあと、いや(デビュー作の)『Live at "Porsche"』(1998年)が出たときから聴いているんですよなどと言ったところ、こちらが恐縮してしまうほど吃驚されてしまった。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4


J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』

2016-06-22 22:24:36 | 思想・文学

J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』(ハヤカワ文庫、原著1956-70年)を読む。

1956年のバラードの初小説「プリマ・ベラドンナ」が収録された短編集である。バラードを読むのは久しぶりなのだが、かれの作品は、その原点から目が眩むような妖しく禁忌的な光を放っていたことがよくわかる。

ヴァーミリオン・サンズという、架空の郊外、砂漠の街。そこには世を儚んだような者、富豪、女優、詩人らが集まってくる。視えるものは、夢の残滓であり、ゴージャスな狂気であり、そして何よりも心象風景が歪んで可視化された世界である。このイメージは何を突き抜けているのかわからぬほど突き抜けている。

「コーラルDの雲の彫刻師」は、華麗なようでいて、底知れないコンプレックスが生の傷口を見せつけるようだ。「スターズのスタジオ5号」は、IT時代の詩というものを見事に描いている。「ヴィーナスはほほえむ」は、鉄という無機物がどくんどくんと脈打つ気色悪さを発散しているし、「ステラヴィスタの千の夢」は、さらに樹脂と住居というものが他人のはかりしれない脳と化す。

覚醒したまま視る悪夢か。バラードは狂った知性だったとしか思えない。

●参照
J・G・バラード自伝『人生の奇跡』(2008年)
J・G・バラード『楽園への疾走』(1994年)


ジョン・コクソン+ワダダ・レオ・スミス『Brooklyn Duos』

2016-06-22 00:13:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・コクソン+ワダダ・レオ・スミス『Brooklyn Duos』(Treader、2007年)を聴く。

Wadada Leo Smith (tp)
John Coxon (harmonica, g)

こんなにも楽器によって響かせ方や響かせるスペースが違うのか、ということを、様々な形で示してくれる演奏。

ハーモニカはマッスの音塊で空気を震わせる。ギターは爪弾いた後の残響が大事なような気がする。そしてワダダのトランペットは、狭域の周波数で空間を切り裂きながら、同時に、広大な間をつぎつぎに創りだしている。このふたりにあっては、音の足し引きが法則から外れている。1足す1は、10でもあり、ゼロでもあり、マイナス3でもあり。そんな大きな振れ幅が永遠に残されているような音楽。

●参照
ワダダ・レオ・スミス『The Great Lakes Suites』(2014年)
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』(2009年)
ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像(2007年)
エド・ブラックウェルとトランペッターとのデュオ(1969、1989年)


ゲイリー・バートンのカーラ・ブレイ集『Dreams So Real』

2016-06-21 00:27:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ゲイリー・バートン『Dreams So Real / Music of Carla Bley』(ECM、1975年)を聴く。

Gary Burton (vib)
Mick Goodrick (g)
Pat Metheny (g)
Steve Swallow (b)
Bob Moses (ds)

こんなディスクがあるとは知らなかった。ヴァイブによる透明感溢れるカーラ・ブレイ集、悪くない。「Ictus」など、どのカーラの曲も、無防備に泣いているわが身を晒しているような、たいへんな危うさがあって実にいい。

ここでも、カーラ色を付けるのに大きく貢献している、スティーヴ・スワロウのベース。なぜこのようにカーラとマッチするのだろう。

一方、パット・メセニーのギターはいつ聴いてもメセニーで、これは偉大な個性だというべきなのだろうけれど、ちょっとうんざりする。かれの世界はかれの音楽で見せてくれればよいのだ。というのは偏狭か。

●参照
カーラ・ブレイ『Andando el Tiempo』(2015年)
カーラ・ブレイ+アンディ・シェパード+スティーヴ・スワロウ『Trios』(2012年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ(1988年)
スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』(2011年)
ポール・ブレイ『Homage to Carla』(1992年)
ポール・ブレイ『Plays Carla Bley』(1991年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
スペイン市民戦争がいまにつながる


アレックス・ギブニー『ミスター・ダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』

2016-06-19 22:21:29 | ポップス

アレックス・ギブニー『ミスター・ダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』(2014年)を観る。

いや面白い面白い。冗談抜きで面白く興奮する。JBという不世出の存在が、JBという音楽・ファンクという音楽を創り、時代を創り、時代に歓迎され、しかしその体内は複雑骨折していたことが実感できるドキュメンタリーである。

同時代を走った者の証言は実に多岐にわたる。まったく違うタイプのミック・ジャガーは心底可笑しそうに当時を振り返る。しかし、かれのバンドで働いたメイシオ・パーカーやピー・ウィー・エリスといったサックス奏者、ジョン・ジャボ・スタークスらのドラマー、歌手マーサ・ハイ、JBズとの金銭トラブルにより後任として呼ばれたベースのブーツィー・コリンズらが、いかにJBが偉大で革命的であったかを語る一方で、人を信じられず、おカネに貪欲であったかれへの嫌悪感も隠そうとしない。JBは余りある才能を持ちフル活用しえた者であったために、そうでない人びとに十分には共感できなかったのかもしれない。黒人の公民権運動への関わりも、明快ではない。

それにしても、JBのパフォーマンスをとらえた映像は圧倒的だ。短いフレーズを延々と繰り返し、観客の心をつかむ姿など笑ってしまうほかはない。同時代と後世の音楽家たちに大きな影響を与えたことも納得できるというものだ。プリンスやパブリック・エナミーだけではない。ゴスペル、R&B、ソウルからファンクへ、その流れにはジャズも絡んでいた。映像には「The Sidewinder」の演奏場面も出てくる。そしてJBを語る中心人物のひとりはなんとジャズベース奏者のクリスチャン・マクブライド。以前に吉田野乃子さんのコラムにおいて、ブルックリンの「Don Pedro's」という小さな音楽バーにお忍びでマクブライドが現れ、ファンクを中心としたDJをやったとの目撃情報があった。わたしもクリス・ピッツィオコスを観に一度だけ行ったことがあるが、失礼ながらバー裏のステージはまったく綺麗とは言えない小さいところである。いや、ビッグなマクブライドが・・・、本当にファンクが好きなんだろうね。その偏愛を爆発させたアルバムでも作らないのかな。

JBはステージ上でも暴君であったようだ。バンドメンバーは、一時たりともJBの挙動から目を離すことができない。予想できない展開を指示し、突然無茶ぶりしたりもするからだ(対応できないと罰金を払わされたという。おカネは禄に払わないくせに)。先日、サン・ラ・アーケストラのステージにおいて(Worldwide Session 2016)、バンドリーダーのマーシャル・アレンがアナーキーな指示を出し、メンバーが慌てふためいてソロを取る姿を目撃できてとても愉快だったのだが、サン・ラとJBとのつながりはどのようなものだったのだろう。どちらもゴージャスでプロフェッショナルなショーを魅せる人だったわけだし。


ジョー・モリス w/ DKVトリオ『deep telling』

2016-06-19 10:07:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョー・モリス w/ DKVトリオ『deep telling』(Okkadisk、1998年)を聴く。

Hamid Drake (ds)
Kent Kessler (b)
Ken Vandermark (ts)
Joe Morris (g)

ジョー・モリスはひたすらにシングルトーンで長くうねうねとした即興を行う、稀有な即興ギタリストに違いない。

ここでも頑強なるDKVトリオのメンバーを向こうに回して(いや敵ではないか)、すさまじく強度の高いソロを展開する。ケン・ヴァンダーマークのテナーは目抜き通りを堂々と歩くようであり、ブルース感覚が深く、あらゆる音を全方位的に放出する。ハミッド・ドレイクのドラムスも相変わらずエネルギッシュでカッチョいい。その中で折ろうにも絶対に折れないモリスのギター。

●参照
ジョー・モリス@スーパーデラックス(2015年)
ジョー・モリス+ヤスミン・アザイエズ@Arts for Art(2015年)
『Plymouth』(2014年)(モリス参加)
ジョー・モリス『solos bimhuis』(2013-14年)
ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『East by Northwest』、『All Directions Home』(2015年)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2011年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』(2011年)(ヴァンダーマーク参加)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)(ヴァンダーマーク登場)
4 Corners『Alive in Lisbon』(2007年)(ヴァンダーマーク参加)
スクール・デイズ『In Our Times』(2001年)(ヴァンダーマーク参加)