Sightsong

自縄自縛日記

クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』

2013-06-30 21:41:13 | ヨーロッパ

クロード・ランズマン『ショアー』(1985年)(>> リンク)のあとに撮ったドキュメンタリー、『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001年)と『人生の引き渡し』(1999年)を観る。いずれも、ナチスドイツによるホロコーストを追ったものである。

■ 『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(Sobibor 14 octobre 1943, 16 heures)(2001年)

ソビボル絶滅収容所は、ポーランドに設置され、25万人前後のユダヤ人がここに送られ、殺された。しかし、1943年10月14日、ここで囚人による蜂起があった。

映画は、長い解説文のあと、ソビブルに向かう列車とその中からの風景を映す。もちろん現在の風景であり、撮る者、観る者ともに追体験する「風景論」的なつくりである。そして、映画のほとんどは、蜂起の生き残りであるイェフダ・レーナー氏の表情のアップで占められている。

レーナー氏は少し微笑みながら、体験をゆっくりと話し始める。捕えられ、ベラルーシのミンスク(当時、ドイツに占領されていた)にとどめられるが、やがで列車に乗せられる。まずはポーランド領マイダネク絶滅収容所、そこが満員ということでソビブルへ。途中でこっそり話をしたポーランド人の駅員は、「逃げ出せ、さもないと皆焼かれてしまうぞ」と警告してくれたが、実感できず、手遅れになってしまったのだという。

ソビブルで自分たちの運命を把握した虜囚ユダヤ人たちは、生きていくために、反乱を計画する。指導したのは、サーシャ・ぺチェルスキーというソ連の赤軍軍人。ナチス軍人用の仕立屋で働いていたレーナー氏は、当日16時に来ることになっていたグライシュッツ親衛隊曹長の殺害を命じられる。それまで、人を殺したことなどなかった。密かに入手しておいた斧でグライシュッツを殺し、すぐに全員で血を拭き取り、遺体を衣服の山の下に隠す。さらに5分後には別の軍人。時間に厳格なドイツ人でなければ成り立たなかった計画だとする。

ここにきて、インタビュー開始時には余裕のあったレーナー氏の顔が青ざめ、興奮して口数が増えることに気が付く。氏は、こんな話をしているのだ、当たり前だろうと呟く。実は、観る者としてのわたしは、当初、レーナー氏の雰囲気が誠実でないように感じていた。もちろん、言うまでもないことだが、当事者でもなく、時間も空間も隔たっており、直接接しているわけでもない人間の内面について、まともな判断ができるわけもなく、その権利もない。しかし、そのような予断は、いつも大きな顔をして横行している。「それらしい」ストーリーテリングを放棄して、観る者の揺らぎを観る者自身に気付かせるのも、ランズマンの狙いなのかもしれない。

仕立屋で2人、他の場所も含めれば11人のドイツ軍人が殺された。17時、もう暗い。何百人ものウクライナ兵たちが撃つ中、囚人たちはフェンスをすり抜け、森へと走った。多くの者が射殺された。レーナー氏は、森にたどり着き、倒れると同時に眠り込んでしまう。

暗い森の映像で、映画は終わる。もちろん、現在の森である。『ショアー』にも共通することだが、構造的に証拠が残されない状況でのオーラル・ヒストリー形成に際しては、大きな想像力を必要とする。ウソの想像ではない。大文字の「歴史」に沿った検証ではなく、無数に闇から立ちのぼる声を捉える力ということだ。

■ 『人生の引き渡し』(Un Vivant Qui Passe)(1999年)

やはり、ひとりの証言者へのインタビューを撮り続けるドキュメンタリーである。

ランズマンに応える人物は、兵役を逃れて赤十字に入った。すぐにアウシュビッツ絶滅収容所への立ち入り検査をゆるされるが、ホロコーストをひた隠しにしていたナチスドイツがすべてを見せるわけはなく、限られた場所だけであった。

次に、チェコ領のテレージエンシュタットを訪れる。ここは、すぐに消えてしまったら衝撃が大きすぎると思われる特権ユダヤ人たちが集められたゲットーであった。氏は見学し、戻ってから、大過なしとの報告書を書きあげる。

インタビューの後半になり、ランズマン監督が、まるで氏を責めるかのように、次々と史実を挙げはじめる。ナチスによるテレージエンシュタットの公開は、素晴らしい場所であるとの国際的なアピールのためだった。氏が案内されたものは、直前に改装された綺麗な家であり、あるはずのない保育所であり(ユダヤ人の出産は、民族的な根絶やしのため、禁じられていた)、調達されたばかりの食糧であった。

ランズマンは、あなたは騙されたのだ、なぜ綺麗事しか報告しなかったのか、不自然だった筈だと、氏に詰め寄る。氏は、視たことしか書くことはできない、と応える・・・。

「歴史」とは何なのか。問い詰められているのは観る者である。

●参照
クロード・ランズマン『ショアー』
高橋哲哉『記憶のエチカ』(『ショアー』論)
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
プリーモ・レーヴィ『休戦』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)


デイヴィッド・サンボーンの映像『Best of NIGHT MUSIC』

2013-06-30 12:09:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴィッド・サンボーンは、1988-90年にテレビ番組『Night Music』のホストを務めていたようで、そのときのライヴ映像をまとめたDVD 2枚組を発見した。

DISC 1: Rock Musicians Side/ WHITE ROOM (jack Bruce) / LIFES BEEN GOOD (Joe Walsh) / MANDELA (Santana with Wayne Shorter) / CROSSFIRE (Stevie Ray Vaughan) / OLD LOVE ( Eric Clapton & Robert Clay) / SUBWAY TO VENUS ( Red Hot Chilli Peppers) / HELLO OPERATOR (Was Not Was) / IKO IKO ( Dr John) / GIMME THE GOODS (Boz Scaggs) / ONLY A DREAM IN RIO (James Taylor) / NOBODY BUT YOU (Lou Reed & John Cale)

DISC 2: Jazz/Fusion/R&B Musicians Side/ HAVE YOU HEARD (Pat Metheny Group) / SPELLBOUND (Joe Sample) / LET FREEDOM RING (Branford Malsalis) / FLY ME TO THE MOON (Harry Connick Jr)/ KIM (Sonny Rollins with George Duke) / DJANGO (Modern Jazz Quartet) / TUTU (Miles Davis) / STORMY MONDAY (Dianne Reeves & David Peaston) / AINT NO MOUNTAIN HIGH ENOUGH (Ashford & Simpson) / ITS ALRIGHT (Curtis Mayfield)

もの凄く豪華な顔ぶれのゲストたちである。必ずしもサンボーンが共演しているわけではないが、それでも面白い。

1枚目はロック側(正直言って、これまであまり縁がないのではあるが)。

中でも、サンタナとサンボーン、ウェイン・ショーターがソロを取り合う演奏「Mandela」は嬉しい。ショーターのソプラノサックスは、相変わらず謎めいたフレーズ。サンタナは、途中でコルトレーンの「Afro Blue」のメロディも引用したりする。エリック・クラプトンロバート・クレイとのギター共演も良い。

2枚目が待ってました、ジャズ側。

パット・メセニーのグループは改めて観ても素晴らしい統一感とエネルギー。メセニーもライル・メイズも若い。

一番の聴きどころは、御大ソニー・ロリンズのソロかもしれない。次々にフレーズが湧き出てきて、自在にリズムに乗る。サンボーンはちょっとユニゾンであわせるだけだったのが残念なところ。終わったあと、スタジオ内は大拍手、サンボーンもニコニコで横から拍手。その場にいたら絶賛するほかないだろう。

最晩年のマイルス・デイヴィスも登場し、名曲「TUTU」を演奏する。マイルスの人を人とも思わぬような態度は、やはりマイルスならではのスタイルであって、実に格好良い。サンボーンのソロは存在感があるのだが、フルートで参加しているケニー・ギャレットのイメージ貧困なソロはいただけない。どのように入ろうか逡巡した挙句に、マイルスのトランペットのソロ直後に同じフレーズをなぞるという愚挙に出るのである。

ダイアン・リーヴスが大きな口と大声量でテクを駆使し、昨年亡くなったソウル歌手のデイヴィッド・ピーストンが甲高い声で愉しいスキャットを繰り広げる「Stormy Monday」。例のスタイルで、すなわち斜に構えてマウスピースを加え、塩っ辛い音を発するサンボーンのソロは、このようなブルース曲に実にマッチする。

もちろん、30歳前のブランフォード・マルサリスも、渋~いMJQも、カーティス・メイフィールドも、何度でもリピートしてしまいたくなる。

●参照
スティーヴィー・ワンダー『Talking Book』(サンボーン参加)
ギル・エヴァンス『Svengali』(サンボーン参加)
ギル・エヴァンス『Plays the Music of Jimi Hendrix』(サンボーン参加)


比嘉良治『海と岩の語りを読む・琉球列島』、森山大道『1965~』

2013-06-30 09:27:11 | 写真

最終日だと気付き、慌てて、中野のギャラリー冬青に足を運び、比嘉良治写真展『海と岩の語りを読む・琉球列島』を観た。

沖縄の海における琉球石灰岩やサンゴの写真群であり、すべてスクエアフォーマット。比嘉さんが在廊されていたが、どこの海なのかについては訊くことができなかった。

長い時間をかけて浸食され、実に奇妙でおかしい形をしたオブジェのようだ。それらが海の上に佇んでいる。作品によっては、波濤の激しい飛沫がこちらに飛んできており、カメラは大丈夫だっただろうかと心配になってしまう。

同行した環境の研究者Tさんと、大きいサイズの写真はデジタル出力に見えるが他は銀塩プリントだろう、といった話をしていた。ところが、ギャラリーの方に訊くと、すべて35mmで撮って、トリミングした上でデジタル出力したものだという。もう吃驚である。こうなってくると、銀塩カメラを敢えて使う意味はほとんどなくなってくる。(自分は使いますが。)

やはり琉球石灰岩の皮膚感をとらえた写真群にオサム・ジェームス・中川『BANTA -沁みついた記憶-』(>> リンク)があったが、そのトリッキーで網膜を無理やり拡張させられるような感覚とは、ずいぶん異なっていた。

その足で、Tさんに教えていただき、竹芝のGellery 916に移動し、森山大道写真展『1965~』を観た。

ギャラリーは海岸近くの倉庫の中にある。これでは横を歩いていても気が付かない。そして、展示スペースはさすがに天井が高く贅沢な使い方である。

はじめて目にする作品が多い。しかし、それぞれの写真にはキャプションが皆無で、いつ、どこで、どのように撮られたのかまったくわからない。中にはカラー作品もある(リバーサルはかなり退色している)。

おそらくは、沖縄、三沢、新宿、四谷、横浜、北海道などで撮られたものが含まれている。時代のドキュメントというより、個人の眼の歴史である。

やはり、森山大道という写真家が、プリントに異常なまでの執念を燃やしていたことが、よくわかる作品群である。それと同時に、覗き見の切り取りである。冗談ではなく、そうでなければ生きて写真を残せないとはいえ、基本的に憶病なる撮影スタイルだろうとも思った。

忘れ難い写真があった。北海道の炭鉱町だろうか、線路の向こうには建物がへばりついた山があり、その線路で子どもが駆けている。

歩き疲れて、大門の九州料理の店「侍」で、いかやアジや薩摩揚、冷汁。「づけ」を飯の上にのせた「大分名物・琉球丼」というものがあったが、なぜ琉球?

●参照
森山大道『NAGISA』
森山大道『Light & Shadow 光と影』
森山大道『レトロスペクティヴ1965-2005』、『ハワイ
森山大道『SOLITUDE DE L'OEIL 眼の孤独』
オサム・ジェームス・中川『BANTA』


ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』

2013-06-29 00:06:48 | 環境・自然

ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(A Seven Stories Press、2013年)を読む。

タイトルの「核戦争と環境の破局」に加え、再生可能エネルギーやベトナムの枯葉剤などについても言及している。主に、ポークが論点の提起を行い、チョムスキーがそれに答える形となっている。アフォリズム的でもある。

相変わらず、米国という怪物的な存在に対するチョムスキーの批判は熾烈だ。

それは、産官学が癒着した実態であり(原子力や製薬・バイオ技術の研究に、産業界が巨額の予算を提供している)、軍事産業を維持し続ける愚かな姿であり、世界支配とエネルギー確保のために中東に介入を続ける国のあり方である。極めて、不健全かつ危険だというわけである。

この姿は、広島・長崎への原爆投下や、ベトナムでの枯葉剤使用や、イラクでの化学兵器使用の隠れたサポートといった、血塗られた歴史の延長線上にある。チョムスキーは、それらの罪について、実証的に語っていく。

米国における地球温暖化への懐疑論は興味深い。米国の保守政治家や産業界のロビー集団は、たとえば、化石燃料を使用させ続けたい者たちの利権のために行動している(エクソンモービルが、かつて、かなりの予算を投じて温暖化懐疑論キャンペーンを張ったことはよく知られている)。それらの利権集団に対し、チョムスキーは、執拗に批判を加える。もちろん、チョムスキーは、地球規模の気候変動に対して大きな危機感を覚えているのである。

ところで、一方、日本においては、原子力利権や、オカネを使う金融業界のために、温暖化という物語を捏造したと言わんばかりの、くだらぬ陰謀論がのさばっている。

もちろん、科学的根拠が確立されているわけではない。現在の政策は、それを認めたうえで、「No Regret」の方針のもと、予防原則によって動いているということができる。しかし、懐疑論は短期的な利益だけを狙い、かたや、陰謀論は議論以前の知的怠惰に過ぎない。

●参照
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
ダニエル・ヤーギン『探求』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
自著
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」
粟屋かよ子『破局 人類は生き残れるか』


小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』

2013-06-28 08:09:18 | 環境・自然

小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』(岩波書店、原著2012年)を読む。

地球はどのようにでき、どのように進化してきたか。

わたしは、高校生の時分に『地球大紀行』(NHK、1987年)に感激してしまい、地球物理を勉強することになった(情熱は長くは続かなかったのではあるが)。本書を読むと、その後も地球史の研究が大きく進展してきたことがよくわかる。つい夢中になって、1日で読了してしまった。 

本書はコンパクトではあるが、さすがに第一人者によるだけあって、包括的な内容をカバーし、議論の全体感がわかるとともに、各論も「かゆい所に手が届く」ものとなっている。いかなる専門家であっても、これはなかなかできないことだ(逆に、各論の隘路に入り込み、説明も独りよがりな本ならば何冊もある)。

本書では、たとえば各論を読みつつ「あの話とは何の関係があるのだっけ」と思っていると、それを見越したかのように、議論の全体における位置を示してくれる。また、学問としての進展のプロセスや、現在の限界も、同時に示してくれる。

通読すると、同位体の存在が、地球史という学問を精緻なものにしてきたことがよくわかる。また、熱的なバランスという観点から、プレートテクトニクスや、地磁気について議論が展開され、なるほどと思わせてくれるものがある。

素晴らしい概説書。推薦。


ニコラス・レイ『We Can't Go Home Again』

2013-06-28 00:39:08 | 北米

新宿のK's Cinemaで、ニコラス・レイ『We Can't Go Home Again』(1976年)を観る。

レイの遺作である。また、ヴィム・ヴェンダース『ニックス・ムーヴィー/水上の稲妻』(1979年)において、最晩年のレイの姿とともに、このフィルムが紹介されており、観たい作品だった。

大学の映画の教師に就任したレイ。学生は乱暴に、アナーキーに動く。レイは自殺をも試みる。

とはいえ、物語はあって無きがごとし。複数の映像のコラージュによる作品であり、投影された画面が、混沌を絶えず創り出し続けている。

レイや若者たちの醜い阿鼻叫喚、16ミリの滲みと染み、それらの脈絡のない融合は、おそろしいほどに外部に開かれている。汚いものも没論理も感情過多も、すべて人間そのものだ。それは観る者と否応なくリンクしていく。

●参照
ニコラス・レイ『太平洋作戦』
ジョナス・メカス『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』(ニコラス・レイの死が語られる)


広島市現代美術館の「日本の70年代」展

2013-06-27 23:34:20 | アート・映画

この日曜日には、広島市現代美術館にも足を運び、「日本の70年代」展を観た。

美術館は比治山の上にあり、エスカレーターと坂道を登る。なお、張本勲は、この山の影にあった段原地域に住んでおり、原爆による直接の熱線を浴びなかったという。

この時代の尖った感覚が好きなこともあって、とても楽しめた。

横尾忠則の『新宿泥棒日記』ポスターやその習作。『季刊フイルム』。『映画批評』。松田正男や平岡正明の著作群。足立正生『略称・連続射殺魔』のヴィデオ(富樫雅彦・高木元輝の音楽が流されていなかったのは残念)。赤瀬川原平の『赤軍・PFLP世界革命宣言』ポスターや『櫻画報』。李禹煥。関根伸夫。菅木志雄。松本俊夫。高田渡。

経年的に観ていくと、時代の変化は明らかだ。展示の終わりは80年代初頭あたり、こうなると、上澄みがいびつに発達した「ポップ・カルチャー」的になっていき、ある種の感慨を覚える。

案内してくれた記者のDさんは、あれほどまでに先鋭的であったアートが、なぜこうもやすやすとセゾン文化に回収されてしまったのか、との言。

実際に、この哀しさ・哀れさは否定できない。結果論かもしれないが、万博の際の亀倉雄策によるポスターは、東京オリンピックのときと同様に、既に資本主義に取り込まれてしまっている。また、やはり万博の「せんい館」における松本俊夫の意欲的なアートも、やがて来る形勢の逆転をはらんでいるようにも感じられた。


ケティル・ビヨルンスタ『La notte』

2013-06-27 11:44:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

ケティル・ビヨルンスタ『La notte』(ECM、2010年録音)を聴く。

Andy Sheppard (ts, ss)
Anja Lechner (violoncello)
Eivind Aarset (g, electronics)
Arild Andersen (b)
Marilyn Mazur (perc, ds)
Ketil Bjornstad (p)

ビヨルンスタの作品というと、チェロのデイヴィッド・ダーリングと組んでの静謐なる録音という印象があり、特に聴くことも少なかった。この新作は、アンディ・シェパードのサックス、マリリン・マズールのドラムスなど、気になる編成ということもあって、耐えきれず入手した。

相変わらず、メロディを綺麗な和音で横支えし、循環するピアノである。勿論悪くない。しかし、透明感があるというのはコードやメロディからの逸脱が極めて少なく、退屈ということも意味する。

それでも、多彩なメンバーでのライヴ録音ということもあって、一期一会感があり、ひたすらうっとりとして繰り返し聴いてしまう。やはり、シェパードのふわりとして巧いサックスは個性的なのだなと確認した。


Andy Sheppard (2010年) Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+2増感)、フジブロ4号

●参照
キース・ティペット+アンディ・シェパード『66 Shades of Lipstick』、アンディ・シェパード『Trio Libero』
アンディ・シェパード『Movements in Color』、『In Co-Motion』
アンディ・シェパード、2010年2月、パリ


広島の戦跡

2013-06-27 08:37:36 | 中国・四国

記者のDさんに案内していただき、広島市内の戦跡をいくつかまわった。知らないことばかり、勉強になった。

■ 広島大本営

1894年、日清戦争の際に、大本営が広島に設置された。軍港・宇品港があったことも評価され、広島は兵站基地となった。なお、広い練兵場は、現在、公園になっている。

それに伴い、首都機能が広島に移され(!)、約7か月の間、明治天皇がここに移り、戦争を指揮した。これは明治維新以降ただ一度だけの首都移転であるという。

原爆により、大本営跡は破壊された。現在は、建物の基礎と、昭和十年設置の碑石が残されている。碑石からは、「史跡」という文字と、それを指定した「文部省」の文字が消されている。

■ 旧日本銀行広島支店

日本銀行広島支店は、建物自体は頑丈であったためか破壊を免れた。しかし、爆風で窓ガラスが割れ、部屋の壁に刺さった跡をいくつか見つけることができる。

地下の金庫室(分厚い扉に驚かされる)では、「被爆仏石写真展/地蔵の記憶」が展示されていた。

原爆によって、首が折れたり、皮膚がはがれたりした地蔵群。もの言わぬ存在であるだけに却って痛々しい。

■ 世界平和記念聖堂

戦後、原爆被害者の慰霊のために建造されたカトリック教会である。

設計は村野藤吾。確かにDさんの言うように、手仕事の跡があえて残された味のある外壁であり、円鍔勝三による入口上の彫刻も素晴らしい。また、鳥居のような門、松や梅の形をした窓など、「和」のテイストが面白い。

特筆すべきことは、同じ敗戦国であるドイツからの寄付が多いことだという。聖堂内部正面のイエスの壁画はアデナウアー元首相、パイプオルガンはケルン市、玄関の鉄製の扉はデュッセルドルフ市から、などというように。


デュッセルドルフ市寄贈の扉

■ 地下通信室

原爆投下についての第一報は、軍の地下通信室からなされたという。それも、学徒動員された女学生たちによって。

護国神社の横にあるのは、何とも皮肉なことである。

■ 広島第一劇場

まったく戦跡とは関係がないが、広島市内に唯一残るストリップ劇場。残念ながら覗かなかった。

●参照
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)
新藤兼人『原爆の子』
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』
原爆詩集 八月
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


旨い広島

2013-06-26 08:21:40 | 中国・四国

およそ2年ぶりの広島。

記者のDさんが自転車を貸してくれて、夜まであちこちを案内してくれた。もう大感謝、言ってみれば実践版・「観光コースでない広島」。

運動不足がたたり、翌日は足が猛烈に痛かった。

■ ホルモンの天ぷら

市内某所の、とある天ぷら屋。驚いたことに、カウンターの上には小さいまな板と包丁が置いてある。自分で天ぷらを小さく切り、唐辛子をたっぷりつけて食べるというわけである。

メニューにあるセンマイ、オオビャク、チギモ、ビチ、ハチノスをひととおり頼んだ。ビールとホルモン、こたえられない。遅めのランチなのに、地域の人たちが次々に入ってきた。


喧嘩をしてはいけない

■ 基町アパートの「華ぶさ」

広島復興事業のひとつであった、基町アパート(>> リンク)。中にある商店街では、営業を続ける店が少なくなっているようだ。

「華ぶさ」という渋い店で、Dさんご夫妻と、オコゼ尽くし。お頭はつつくとピクピクと動いた。刺身、肝、寿司。新鮮なだけあって、実に旨かった。頭は唐揚げになった。いくつか試してみた日本酒のうち、青森の酒「八仙」が特に印象的だった。


鯛そうめん

■ 愛友市場の「りゅう」

まもなく駅前再開発のために姿を消す愛友市場。既に立ち退いたところが多いようで、昼も夜も、開けている店は少なかった。

「りゅう」はカウンターが中心の店で、8時半頃に訪ねてみると、満席だった。そんなわけで、近くでビールを一杯ひっかけて、9時過ぎにようやくお好み焼きにありついた。

薄く生地をのばし、山盛りのキャベツ。豚肉と、イカ天(関東のイカの天ぷらではなく、広島ならではの食材)。麺、卵。

コテで小さく切り、直接食べる。切り方も大きさもシロートそのものだったようで、指導されてしまった。それにしても、旨い。どこかの駅ビルの店でいつか食べたものより、断然旨い。移転前に、もう一度来ることはできるだろうか・・・?

●参照
広島の「水主亭」


アピチャッポン・ウィーラセタクン『ブンミおじさんの森』

2013-06-23 00:22:59 | 東南アジア

アピチャッポン・ウィーラセタクン『ブンミおじさんの森』(2010年)を観る。

タイ東北部。森林や自然が残り、ラオスからもメコン川を越えて働きに来る者がいる地域。

腎臓を病んだブンミは、先が長くないと悟り、亡くなった妻フェイの妹ジェンと親戚のトンを呼び寄せた。夜、3人で食事をしていると、そのフェイが半透明の姿で横に座っている。さらには、しばらく前に姿を消した息子ブンソンが、目を赤く光らせ、猿のような姿であらわれた。自然に幽霊や精を受け入れる、彼ら。やがてその時期が訪れ、ブンミは、生者、幽霊とともに、森の中へ分け入って行く。

かつて、映画『象つかい』(チャートリーチャルーム・ユコン)で描かれたように、タイは国土の8割が森林で占められる国だった(現在は3割)。おそらくは、精霊信仰が根強くあったことだろう。生者、死者、森林そのもの、精霊などが、日常生活のなかで共存していたに違いない。いまも街のあちこちに、小さな祠が残っている。

この映画を観ていると、水蒸気が飽和した空気、奥深く濡れた森、タイ語独特の柔らかい響きのなかから、そのような共棲の感覚が立ち上ってくる。しっとりとして長く、茫然としてしまうような時間感覚の表現も見事。

ところで、ブンミがつくっている蜂蜜の味は、タマリンドとトウモロコシの風味がするのだという。タイの森の蜂蜜なんて食べてみたいものだ。

●参照
チャートリーチャルーム・ユコン『象つかい』


ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』

2013-06-22 17:26:22 | 思想・文学

ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー、原著1958年)を読む。

ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは、1889年、ウィーン生まれ。工学を勉強するが、やがて哲学に転向。第一次世界大戦ではオーストリア軍に参加し、捕虜になっている。そのとき、既に『論理哲学論考』のドラフトがリュックの中にあった。その後、さまざまな職を経たあと、哲学に復帰し、ケンブリッジ大学で教鞭を取る。

本書は、そのときの教え子による回想記である。世の中にヴィトゲンシュタイン回想記は山ほどあるそうで、その理由も、本書を読めば納得できる。つまり、他人から見れば、まぎれもなく奇人・変人であったのだ。

ただし、ここで描き出されるヴィトゲンシュタインの姿は、学者や哲学者としてのステレオタイプ像ではない。むしろ、彼はそういったものを毛嫌いしていた(これはよくわかる。わたしも限られた世界で思い上がった大学人たちに耐えられなかったから)。彼は、偉ぶったり、その場に相応しい言動を取り繕うのではなく、偏執的に、哲学を追及する人なのだった。その代償として、感情の浮き沈みが激しく、自分の意見と合わない者に対しては極端に激しい態度でのぞみ、自分の思想が理解されないばかりか剽窃されているとの猜疑心にとらわれていた。

こんな人が近くにいたら、疲労困憊し、距離を置いてしまうだろう。著者も、一度話すと、数日間は時間を置かないと我慢できなかったと書いている。

残念なことに、本書がヴィトゲンシュタインの人柄を思い出すことに終始し、思想とのかかわりについてはあまり触れていない(つまり、下世話な思い出話)。このあたりについては、併録されている小伝が有益だ。すなわち、重要なことは、この回想記が、ヴィトゲンシュタインの後期哲学の発展期についてのものだということである。

『論理哲学論考』では、言語を実在の写像であるとみなし、要素命題から有意味な命題を構築しようと試みていた。しかし、後期哲学においては、それらの説をすべて捨て去り、さらに語ることの奥底に立ち入ろうとしていたという。そのような時期の言動であるからこそ、納得できるものもある。

とはいえ、わたしが読んだヴィトゲンシュタインの著作は、『論理哲学論考』だけである。あらためて時間をとって、『哲学探究』につきあってみなければならないのだろうね。

●参照
合田正人『レヴィナスを読む』(レヴィナスとヴィトゲンシュタインとの関係)
柄谷行人『探究Ⅰ』(言語ゲームとしてのヴィトゲンシュタイン)
小森健太朗『グルジェフの残影』を読んで、デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』を思い出した


ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』

2013-06-22 15:55:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』(AxolOtl Records、1999年録音)は、タイトルの通り、ポール・オースターの小説世界にインスパイアされて吹き込まれた作品である。

発表時に気になりながら聴かず、いまになって入手した。

Jeff Gardner (p)
Ingrid Jensen (tp)
Rick Margitza (ts)
Drew Gress (b)
Tony Jefferson (ds)

タイトル曲の『偶然の音楽』、それに『幽霊たち』、『ガラスの街』、『ムーン・パレス』、『ミスター・ヴァーティゴ』、『リヴァイアサン』が曲名として採用されており、さらに、『最後の物たちの国で』に登場するアンナ・ブルーム(彼女は終末世界で生きる)に捧げた曲など、オースター好きの心をくすぐる構成。

とはいえ、それぞれの曲から元の小説世界をイメージすることは難しい(もっとも、無理に結びつけることは間違いだろうが)。ガードナーの、やや暗く、抒情的で、モーダルな印象のピアノを聴くための盤である。

もっと言えば、自分にとっては退屈。ただ、トニー・ジェファーソンの流麗なシンバルワークには聴き入ってしまった。

同好の士が作った作品ゆえ、よしとする。なお、ヴィム・ヴェンダースもオースター好きだが、彼の映画にこの音楽は合わないだろうね。

●ポール・オースターの主要な作品のレビュー
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
『Man in the Dark』2008年)
『写字室の旅』(2007年)
『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)

『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』


金達寿『わがアリランの歌』

2013-06-22 06:59:30 | 韓国・朝鮮

金達寿『わがアリランの歌』(中公新書、1977年)を読む。

金達寿(キム・ダルス)氏は、在日コリアン文学の嚆矢のひとりである。嚆矢ということは、おそらくは、直接的にも、間接的にも、「在日」たることを強いられたことを意味する。

本書は氏の自伝であり、ここに書かれた体験は、まさにそのために負わなければならなかった労苦の数々だ。日本により併合された韓国にあって、生家は土地を奪われ、自暴自棄になった父親がさらに土地を売った。困窮のあまりに両親と兄は日本へ出稼ぎに渡り、氏は祖母のもとに残されてしまう。10歳になり、自分自身も日本へ。そこではさらに貧困に苦しみ、廃棄物の仕事で糊口をしのぎながら、文学に夢中になっていく。

そして差別と暴力。文学と民族主義に目覚めたのは、これらの理不尽に対峙しなければならなかったからでもあるだろう。

本書を読んではじめて知ったことだが、著者と、金史良(キム・サリャン)とは、終戦までの何年間か親密な交際を続け、お互いに影響を与えていた。1940年に芥川賞候補となり、戦後平壌に帰郷、朝鮮戦争に参加して消息を絶った作家である。著者が書くことからわかったことは、金史良の作品に登場する奇怪な人物たちは、抑圧されている状況において、そうしなければ自民族を表現できないというせめぎ合いの中で生まれたものでもあったのだ。

著者はやがて神奈川新聞に入社し、日本人女性と恋愛をするも民族間の壁を意識して絶望、京城(ソウル)に渡って、京城新聞社に入る。地方紙よりも(中国新聞や河北新報といった地方の新聞に比べ、変に関東に近い新聞のほうが競争力がなくてダメだったという指摘は面白い)、部数の多い新聞のほうが立派に見えるというだけの理由だった。しかし、著者は、そこが朝鮮総督府の御用新聞を出すところだと気付き、屈辱にまみれる。故郷を支配する国の一大勢力、その中でさらにまた差別に苦しむという場所に立っていたわけである。

このあたりのエピソードは、のちの長編『玄界灘』(1953年)に、かなり直接的に生かされていることがわかる。如何に苛烈な体験であったか。それは噴き出す場所を求めるほどの鬱屈であったということだ。

●参照
金達寿『玄界灘』
青空文庫の金史良


佐藤仁『「持たざる国」の資源論』

2013-06-21 22:53:27 | 環境・自然

佐藤仁『「持たざる国」の資源論 持続可能な国土をめぐるもう一つの知』(東京大学出版会、2011年)を読む。

 

「資源」とは何か。日本では、昔も今も、「原材料」や「食料」や「燃料」といった「物的資源」に限定した言説が大多数を占めているのではないか。アジア侵略期、大東亜共栄圏や欧米列強からの解放といった物語を剥ぎ取ったあとに視える「実」は、インドネシアなど「南方」の資源(金属、ゴム、石油など)でもあった。戦後日本の歴史も、石油ショック、炭鉱の閉山、食糧自給率の低下、尖閣諸島問題の先鋭化、シェール革命など、絶えざる「物的資源」の調達をめぐるたたかいであったように見える。

しかしそれは、唯一のあり得た歴史ではなかった。仮にそれが結果的に主流であったとしても、そのパスを変えうるヴィジョンを持つ言説は存在した。いまでも、過去のオルタナティブから学ぶべきことはあるはずだ。それが、本書のメッセージである。

資源はモノ別に独立して存在しているのではない(鉱山と水源など)。物的資源と人間との相互関係、人的資源、共有すべきもの(コモンズ)、知といった視点を含めなければ、私たちは既存の地政学の呪縛からも、可視化しないことを前提とした陰謀論からも、逃れることはできないのである。重要なことは、「あり得た世界」を同時に持っておくこと、常にオルタナティブを抱え込み、絶えず出し入れを試みることだ(ドゥルーズの「逃走線」も想起してしまう)。

本書には、そのような意味で、多くのヒントが散りばめられている。 

○戦前、物的資源の不足が為政者たちの意識の中心を占め、そのために、過剰な精神論が発達したのかもしれない。
○米国のニューディール政策、就中、TVA(テネシー渓谷開発公社)は、戦後の経済復興を希求する日本に大きな影響を与えた。その特徴は、大規模開発計画に、地域住民の福祉と草の根的な民主主義を埋め込んだことにあった。しかし、日本において力を持ちえたのは、「草の根民主主義」というシンボルが、社会主義に対するオルタナティブになり得たからでもあった。そして、結果として、水資源に偏った止まらない公共事業という形となり、国家暴力の姿にも変貌してしまった。
○資源の断片化は、地域の軽視、全体として自然をとらえる視点の伏流化を産んでしまった。資源とは財ではなく、「可能性の束」である。
○1947年に独立的組織として設置された「資源委員会」は、大局的・部門横断的な性質を持ち、多くの傾聴すべき提言を示した。たとえば、「水質汚濁防止に関する勧告」(1949年)は、先駆的なものであった。しかし、鉱業界や既存省庁からの強い抵抗にあい、骨抜きにされてしまう。もしこれが政策として実現していれば、水俣病やイタイイタイ病などの公害も回避できたかもしれないものだった。すなわち、行政の不作為であった。
○「持たざる国」、すなわち、「領土狭隘、人口過剰、資源貧弱」といったキーワードで日本を特徴づける言説は、日露戦争頃にまでさかのぼることができる。もちろん、これが領土拡張を正当化し、のちの植民地政策につながっていく。
石橋湛山の戦前期の主張(「一切を棄つるの覚悟」、1921年)は、植民地を放棄し、その管理費用を節約した上で経済関係を結ぶほうがよいというものであり、極めて大胆かつ時代の空気と対立するものだった。パイの取り分を如何に増やすかに腐心し、威力でのみ国力を考えるのは、何も当時に限ったことではない。石橋の主張は現在でも力を持っている。

「例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか、またたとえば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つを得ぬに至るからである。」

○個々の資源のみを経済的に判断した結果、戦後、多くのものが失われた。炭鉱は、短期的な濫掘と放棄によって、エネルギー資源としての可能性を喪失した。林業は経済的に成立しなくなり、公益的機能も軽視され、もはや公益的政策に戻ろうとしても担い手がいなくなっている。しかし、これらは、予測できた犠牲であり、常に傾聴すべき批判的言説は存在した。
○「違うあり方」の言説は、それが現実的かどうか、実現したかどうかで評価されるべきものではない。物的資源確保や市場経済最重視などの主流派の速度を落とし、再考を促すという点が重視されるべきものだ。単一の言説は危険なものである(たとえば、地球温暖化についても科学的な見方が分かれており、予防原則によって現在の政策が形成されているわけだが、残念ながら、どちらかを選べという踏絵的な言説が多く、その結果、くだらぬ陰謀論が力をもっている)。

袋小路からの脱出のために、過去の忘れさられた視点を再び可視化し、議論を喚起することができる本である。 ぜひご一読を薦めたい。

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』(「南方」の資源獲得)
中野聡『東南アジア占領と日本人』(「南方」の資源獲得)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』(「南方」の資源獲得)
寺尾忠能編『環境政策の形成過程』(ニューディール政策における「保全」概念)