Sightsong

自縄自縛日記

蒲田の喜来楽、かぶら屋(、山城、上弦の月、沖縄)

2015-04-30 07:35:10 | 関東

友人のNさんと密談のため蒲田へ。といいつつ、密談がなくても彷徨したい街である。

取り敢えず旨そうな居酒屋「山城」を調べて行ってみると、中は真っ暗で、ご主人が座っておられる。尋ねてみると、ご事情あって1週間前に店をたたんだのだという。確かに、店頭には、「どれでもご自由におもち下さい」と書かれた紙と、徳利や皿やビールジョッキが置かれていた。残念。

また駅の方に戻り、ガード下のゴミゴミした通りを抜ける。「上弦の月」というラーメン屋は前も気になったところだが、依然、「火木土日祝」が定休日だとある。「月水金」に開いていると書いた方が明らかにわかりやすい。

Nさんが昔からあっていまは廃墟になっているはずだという「沖縄」という沖縄料理屋の場所まで足を運んでみると、そこは、すでに建物が撤去されていた。

そんなわけで、「沖縄」跡地の横にある台湾料理屋「喜来楽」が良い感じだったので入ってみる。店は8人くらいで満席になってしまう(実際に、すぐ一杯になった)。何を注文すればよいのかよくわからず小籠包を頼むと、それができる前に、いろいろと出してくれた。イリコのような台湾の小魚、麺のような台湾の豆腐、「A菜」という台湾の野菜。いちいち面白くフレンドリーである。店を出るときにはお菓子までくれた。

さらに駅近くの「かぶら屋」に突入し、静岡の黒おでん。ひとつひとつが安く、学生ばかり。

その手前にある昭和を体現したような「鳥万」は、おやじで賑わっていた。次回は「鳥万」と心に決めた。

●参照
蒲田のニーハオとエクステンション・チューブ
「東京の沖縄料理店」と蒲田の「和鉄」


スティーヴ・レイシー『School Days』

2015-04-29 08:16:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

スティーヴ・レイシー『School Days』(EMANEM、1960/63年)を聴く。

<1963>
Steve Lacy (ss)
Ruswell Rudd (tb)
Henry Grimes (b)
Dennis Charles (ds)

<1960>
Thelonious Monk (p)
Steve Lacy (ss)
Charlie Rouse (ts)
John Ore (b)
Roy Haynes (ds)

ひょっとしたら1960年のセロニアス・モンク御大とのセッション2曲が目玉なのかもしれないが、音質は悪く(それでも、2006年のリリース時よりは改善されたらしい)、ああ共演しているという以上の面白みは特にない。

それよりも、ここでは、レイシーが亡くなるまで出し続けた「モンクへの答え」の粗削りな姿を聴くことができることこそが嬉しい。レイシーは、モンクがそうであったように、いつもレイシーであり、シンプルかつカラフルという相互に矛盾する要素を持ち続けた。しかも、演奏の喜びに満ちているように感じられてならない。

共演者も同様に愉しそうだ。遅刻してきたヘンリー・グライムスが3曲目から入ると明らかに風景が一変するし、強面のくせに、たとえば「Skippy」では、「Moose the Mooche」を引用したりしてはしゃいでいる。「Brilliant Corners」でのラズウェル・ラッドのツッコミもなかなか。

●参照
スティーヴ・レイシーのアヴィニヨン
『Point of Departure』のスティーヴ・レイシー特集(『Sands』)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』
チャールス・タイラー(『One Fell Swoop』)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』
『Interpretations of Monk』
レイシーは最後まで前衛だった(『New Jazz Meeting Baden-Baden 2002』)
セシル・テイラー初期作品群
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ
ハリー・コニック・ジュニア+ブランフォード・マルサリス『Occasion』(『Sands』にインスパイアされた演奏)
Ideal Bread『Beating the Teens / Songs of Steve Lacy』
副島輝人『世界フリージャズ記』
村上春樹 編・訳『セロニアス・モンクのいた風景』(レイシーのモンク論)
中平穂積『JAZZ GIANTS 1961-2002』


ジョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』

2015-04-28 22:11:31 | 中国・四国

ジョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店、原著1947年)を読む。

本書は、広島への原爆投下間もなく書かれたものである。過去に例をみない大量殺戮兵器を、他ならぬ人間が開発し、それを実際に使ったという前代未聞の事件を受けて、バタイユはどのように考えたか。

深く印象に残ることは、従来のヒューマニズムや善や倫理に対する絶望感である。かれは、そういった<感性>は、どうあっても、<知性>に奴隷的に従属せざるを得ないとした。ここでいう<知性>を狭義の観念ととらえるべきか、むしろ、近代社会・資本主義社会の必然的な帰結というように言い換えたほうがよいかもしれない。この時点にして将来を見通したような慧眼か。

<感性>が<知性>を凌駕するには、すべての条理を捨てなければならない。この<至高>のような考えにはついていけないところがあるが、実は、資本主義に付きまとう<有用性>の激しい否定だととらえれば、やはりわからなくもない。

●参照
マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


チャールス・ロイドの映像『Arrows into Infinity』

2015-04-28 07:35:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャールス・ロイドの生涯を追った映像作品『Arrows into Infinity』(ドロシー・ダール、ジェフリー・モース、ECM、2013年)を観る。

ロイドがメンフィスからニューヨークに出てきたとき、幼馴染のブッカー・リトルが出迎えてくれて、徹夜で音楽シーンについて語り合ったという。偉大なフィニアス・ニューボーンJr.にも師事し、ハウリン・ウルフらブルース・ミュージシャンとも共演した、そんな時代。やがて60年代になり、かれは、チコ・ハミルトン、ガボール・ザボ、キャノンボール・アダレイらとの共演によって頭角をあらわす。ダークなスーツ、白シャツに細いネクタイというファッションが一般的ななかで、イタリア製の三つ釦のスーツ、派手なネクタイ、破裂したような髪型はあまりにも個性的だった。

そして、キース・ジャレット、セシル・マクビー、ジャック・デジョネットを迎えた自身のグループで一躍ブレイクする。わたしが『Forest Flower』における「Sunrise」を聴いたのはそのときから30年あとだが、それでも新鮮な驚きをおぼえた。旧弊からの解放をもとめた当時の人々に熱狂的に受け入れられたことも納得できる。

熱狂は海を越え、ソ連にも波及した。なんと、ロイドを招聘した者はシベリア送りになったのだという。当時、ソ連においては、サックスは若者の精神を堕落させるものとされていた。少し時代はくだるが、セルゲイ・レートフもソ連においてひどいサックスを入手し、地下活動のように演奏しなければならなかったのだという話を思い出す(現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ)。日本でも大流行だったと聞く。原将人『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(1970年)でも使われていたりもする(原さんはジャズ好きである)。

だが、ロイドはドラッグにハマり、シーンから姿を消す。自由を求めたのは決して音楽スタイルだけではなく、自身のライフスタイル総体でもあった。かれは自然のなかに住み、ベジタリアンとなり、しばらくのブランクを経て、ミシェル・ペトルチアーニとの出逢いによって本格的にシーンに復帰する。このあたりは、マイケル・ラドフォード『情熱のピアニズム』においても描かれているところだ。

ここには嬉しい映像がたくさん収録されている。キャノンボールとの共演、キースら自身のグループでの演奏、ペトルチアーニとの共演、オーネット・コールマンとビリヤードに興じているところ(!)、ジョン・アバークロンビーとの共演、ザキール・フセインとの共演、ビリー・ヒギンズとの共演、ジェリ・アレンとの共演、そしていまのグループ(ジェイソン・モラン、リューベン・ロジャース、エリック・ハーランド)。

ロイド本人はレスター・ヤングからの影響を示唆する。なるほどね、それは思い至らなかった。

実はまだロイドの演奏をナマで観たことがない。次のチャンスはいつだろう。

●参照
マイケル・ラドフォード『情熱のピアニズム』 ミシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリー
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ
原将人『おかしさに彩られた悲しみのバラード』、『自己表出史・早川義夫編』 


石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』

2015-04-27 21:49:07 | 沖縄

石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』(岩波新書、2015年)を読む。

石川さんは、故郷・沖縄の記憶、沖縄戦でも「南方」でも軍の存在と皇民化教育のために起きた「集団自決」のこと、加害側に強制的に加担させられたベトナム戦争のこと、軍や基地があるために危険が増していること、そのときに犠牲になるのは民衆であること、そして平和への想いを、次々に語っていく。誇張や欺瞞がまったくない、いつもの飾らない語り口だ。

本書のオビにはこうある。「琉球人・沖縄人の先祖たち、今生きる人々の怒りと共鳴しながら、私はこの本を、「在日沖縄人」として書き綴った。」

「在日沖縄人」とは、まさに沖縄の彫刻家・金城実さんが自称していた呼び方だ。石川さんがその金城さんと同席したシンポジウム(2010年)では、温厚で飾らない人柄にみえる石川さんも、「何かあれば喧嘩も辞さない」とまで発言しておられた。事態はさらに悪化している。

●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
石川文洋の徒歩日本縦断記2冊
大宮浩一『石川文洋を旅する』
石川文一の運玉義留(ウンタマギルウ)


トマ・フジワラ『Variable Bets』

2015-04-26 09:40:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

トマ・フジワラ『Variable Bets』(Relative Pitch Records、2014年)を聴く。

Tomas Fujiwara (ds)
Ralph Alessi (tp)
Brandon Seabrook (g)

3人が3人とも相互に扇動したらどうなるかというプロセス。演奏空間は無重力となり、3つの遊星がお互いの周りをぐるぐると回り続ける。

扇動に向いているのはブランドン・シーブルックのギターか。この揺さぶりに対し、ラルフ・アレッシのトランペットは高音で絶えざる遊星群の駆動力として働く。フジワラのドラムスには、揺さぶりをかけるシンバルと、駆動力となる微分的で多彩なパルスがある。

●参照
アンドリュー・ドルーリー+ラブロック+クラウス+シーブルック@Arts for Art
アンドリュー・ドルーリー『Content Provider』(シーブルック参加)
クリス・ピッツィオコス@Shapeshifter Lab、Don Pedro(対バンでシーブルックのNeedle Driver)


『けーし風』読者の集い(26) 辺野古クロニクル/沖縄の労働問題

2015-04-26 07:47:34 | 沖縄

『けーし風』第86号(2015.3、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2015/4/25、和泉橋区民館)。参加者は12人。

以下のような話題。

○名護市は稲嶺市政のもと基地の再編交付金を得ていない。それによる破綻は結果的に起きず、財政運営できている。(川瀬光義氏による指摘)
○同じように補助金で財政がまかなわれている自治体は多いが(基地、原子力)、その使途が限定されていること、ハコモノの運営コストが逆に財政を圧迫してしまうことなどから、総じて、自治体は豊かになっていない。
○「基地か経済か」という問題設定に大きな間違いがあるとの指摘(宮本憲一氏)は非常に重要である。
○辺野古の埋め立てに用いられる土砂の採掘が、小豆島、徳之島、佐多岬、天草・御所浦島、五島・椛島、防府、黒髪島、門司において行われている。このことがまだ大きな問題として認識されておらず、また、環境アセス法の対象となっていない。
○「本土」での沖縄基地問題に関する報道がなぜ不十分なのか。
○①ヤマトゥとの連帯(新崎盛暉氏がヤマトゥでの言説空間を重視)、②アメリカに訴えかけること、③アジアとの民衆的な連携を、それぞれどのように運動につなげていくのか。①は従来の方法であり、新たな策が求められているが、②への過度の依存には抵抗が大きい。③は抽象的・思想的なフェーズにある。
○辺野古に投じられる予算(3,000億円)がほとんど知られていない。
○辺野古基地に反対する辺野古基金に、2週間で約9,000億円が集まった。
○辺野古と往復する「島ぐるみバス」は、沖縄県庁前から毎日(!)出ている。初めて辺野古に行く人にとってはとても便利。
○沖縄の観光ブーム。ライカム(観光客もターゲット)がオープンし、USJ(ネオパーク沖縄と本部町)には名護市も賛成している。水や電気の負担はどうなるのか。そして、観光ブームはいずれ去っていく。

終わったあと、秋葉原唯一の沖縄料理店「今帰仁」で飲み食い。(飲みすぎた)

●話題に挙がった本・記事
宮本憲一+川瀬光義『沖縄論』(岩波書店)
『越境広場』創刊0号
『N27』(「時の眼ー沖縄」批評誌)
石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』(岩波新書)
仲里効『眼は巡歴する』(未來社)
『沖縄文学選 日本のエッジからの問い』(勉誠出版)
後藤乾一『近代日本の<南進>と沖縄』(岩波現代選書)
平岡昭利『アホウドリを追った日本人 一攫千金の夢と南洋進出』(岩波新書)
木村草太『憲法の創造力』(NHK新書)
『ふぇみん』2015/4/15(特集 辺野古・高江は今)
西脇尚人「沖縄の新聞を読む/代表制の矛盾を突く」(沖縄タイムス 2015/4/8)
佐藤学「普天間基地問題 「事実」と沖縄の主張」(北海道新聞 2015/4/10)

●参照
これまでの『けーし風』読者の集い


高嶺剛『パラダイスビュー』

2015-04-26 07:16:26 | 沖縄

高嶺剛『パラダイスビュー』(1985年)を観る。沖縄にも映画にも詳しいOさんが貸してくださった。

「復帰」前の沖縄。チルー(戸川純)は、想いを寄せるレイシュー(小林薫)のマブイ(魂)が落ち、犬に喰われる夢を見る。それはすなわち、神隠しのしらせであり、ろくなことにならない。一方、沖縄人以上に沖縄を愛するヤマトンチュー(細野晴臣)は、ナビーと結婚しようとしていた。周囲は、ヤマトンチューは異民族でもないし結婚を許してもよいだろうとする。しかし、そのナビーは「毛遊び」でレイシューと関係し、妊娠してしまう。やがてレイシューは、チルーの複雑な感情ゆえ警察に逮捕されるが、護送車が独立派に襲撃され、その間に逃走する。レイシューは破滅へと向かっていく。

高嶺剛の映画は、いまも昔も変わらず生暖かく、けだるい。観ているとドラッグが脳内に浸透してきて、覚醒して観ているのかどうかわからなくなってくる。やはり戸川純と小林薫を起用した『ウンタマギルー』(1989年)が傑作として名高いが、『パラダイスビュー』も魔力は同等以上だ。

すべて沖縄語を使い(日本語の字幕付き)、照屋林助、嘉手苅林昌、宮里榮弘といった沖縄芸能の達者たちを登場させているという点でも画期的な映画だと言うことができる。しかし、商業的に成功するのは、この手法を使い、より観る者に迎合した『ナビーの恋』などの二次利用作品なのだった、ということにふと気が付いてしまう。

●参照
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー
沖縄・プリズム1872-2008(高嶺剛『オキナワン・ドリーム・ショー』)


『越境広場』創刊0号

2015-04-24 07:19:19 | 沖縄

『越境広場』という雑誌が「0号」として創刊されている(2015年3月)。

「創刊の辞」における崎山多美氏の言葉によれば、「沖縄を取り巻く状況的な課題と向き合いこれからの沖縄と世界を模索する総合雑誌」とのこと。200頁を超え、なかなか読み応えがある。

孫歌氏と仲里効氏との往復書簡は、まさに特集「沖縄&アジア」の問題意識を注意深く探っているようで興味深い。ここでは、川満信一『琉球共和社会憲法C私(思)案』を挙げ(韓国において川満信一『沖縄発―復帰運動から40年』が翻訳出版された)、国家のありようについて思索している。すなわち、「国家の真似をして国家に対抗することの無意味さ」、「沖縄がもし独立するなら、いかにしてミイラ取りがミイラになるといった過ちを犯さないのか」という観点であり、この一見ハチャメチャで理想的な「憲法」が、国境を越えて、多くの人による思想の地下水脈に生きていることを示しているようだ。

丸川哲史氏は、済州島への旅を通じて四・三事件とカンジョン村の基地建設強行の意味することを探り、東アジアにおける記憶と歴史の分断というテーマ、自治というテーマにたどり着いている。

佐藤泉氏は、安重根や金嬉老といった存在を、たまたま歴史のなかで顕れた無数の声を汲み取るものとしてとらえる。

呉世宗氏は、沖縄における朝鮮人というマイノリティ(750名強だという)に対する視線を、「沖縄」という概念を相対化することや、「在」(在日、在琉)という概念の意味を問うことのよすがにすることを考えている。

桜井大造氏は、テント芝居集団「台湾海筆子」の台湾、沖縄、中国、日本における活動を紹介し、それによる越境や流動化の可能性を問いかけている。

波平恒男氏へのインタビューでは、「琉球処分」を正確性を欠くものと見なし、韓国併合と類似しアナロジカルでもある「琉球併合」としてとらえ直してゆくべきだとある。

(ところで本質的でないことだが、崎山氏の「創刊の辞」では、一方では「かけがえのない個人であるはずの他者を集団としてひと括りにし、「批判」し、排除する」ことに敏感であらねばならないと指摘しながら、その一方では、「一部の既得権者のみが利権を貪る」などと、自らその陥穽にはまっているように思える。言葉を特に大事にしてきたはずの作家だが。)

●参照
川満信一『沖縄発―復帰運動から40年』
丸川哲史『台湾ナショナリズム』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
2010年12月のシンポジウム「沖縄は、どこへ向かうのか」
沖縄5・18シンポジウム『来るべき<自己決定権>のために』(2008年)
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
崎山多美『ムイアニ由来記』、『コトバの生まれる場所』
崎山多美『月や、あらん』
『現代沖縄文学作品選』(崎山多美)


仲里効『眼は巡歴する』

2015-04-23 07:22:40 | 沖縄

仲里効『眼は巡歴する 沖縄とまなざしのポリティーク』(未來社、2015年)を読む。

同じ著者の『フォトネシア』に続く沖縄写真論、『オキナワ、イメージの縁』に続く沖縄映画論ということになる。

冒頭の山田實論。シベリア抑留を戦後沖縄において隠さざるを得なかったこと、それによる視線の変わりようを説いた評価は、なるほど、納得できる。しかし、返す刀で比嘉豊光による山田實への評価を酷評するやり方には異様な印象を覚える。ほとんど私怨を晴らしているようにしか見えないのだ。実際、『フォトネシア』では比嘉豊光を肯定的に評価しているにも関わらず、ここではそれ以外まったく言及していない。

それ以外には、東松照明、比嘉康雄、大城弘明、伊志嶺隆、森口豁、岡本太郎、島尾敏雄、『沖縄人類館』、台湾映画『無言の丘』などについての批評を集めている。「ヤマトンチュー」としての東松照明や森口豁の沖縄との距離感を説いた部分は、なかなか見事でもある。それ以外は敢えて言うこともない。

●参照
仲里効『フォトネシア』
仲里効『オキナワ、イメージの縁』
仲里効『悲しき亜言語帯』
『山田實が見た戦後沖縄』
平良孝七『沖縄カンカラ三線』
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
比嘉豊光『赤いゴーヤー』
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
伊志嶺隆『島の陰、光の海』
東松照明『光る風―沖縄』
「琉球絵画展」、「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」、「赤嶺正則 風景画小品展」
森口豁『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』
森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』
森口豁『アメリカ世の記憶』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
久高島の映像(6) 『乾いた沖縄』
石川真生『日の丸を視る目』、『FENCES, OKINAWA』、『港町エレジー』
石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
豊里友行『沖縄1999-2010 改訂増版』
『LP』の豊里友行特集
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川竜一、サクガワサトル
大隈講堂での『人類館』
沖縄・プリズム1872-2008
高良勉『魂振り』
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想


クリス・ライトキャップ『Epicenter』

2015-04-22 07:28:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

クリス・ライトキャップ『Epicenter』(clean feed、2013年)を聴く。グループ「Bigmouth」による何作目かにあたる。

Chris Lightcap (b, g, org)
Craig Taborn (p, org)
Tony Malaby (ts)
Chris Cheek (ts)
Gerald Cleaver (ds, perc)

何度繰り返しても、包まれてまた逃げられるような、フシギな音楽だ。しかも全員のプレイが特筆すべきものだという・・・。

ライトキャップのベースは柔らかくウォームであり、クレイグ・テイボーンのオルガンは奇跡的になにかの境界を超えて拡がる。それに対しジェラルド・クリーヴァーの鋭いドラムス。

ここではテナーサックスがふたり。クリス・チークの甘酸っぱい音色はわかりやすいものだが、それよりも、トニー・マラビーのわけのわからない存在感こそが脳を揺らす。ガジュマルの樹のように表面のマチエールが豊かで、無数の気根の陰に妖精が潜んでいる。

●参照
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(テイボーン、クリーヴァー)
クリス・ポッター『Imaginary Cities』(テイボーン)
『Rocket Science』(テイボーン)
デイヴ・ホランド『Prism』(テイボーン)
Book of Three 『Continuum (2012)』(クリーヴァー)
ジェレミー・ペルト『Men of Honor』(クリーヴァー)
The Bloomdaddies @55 bar(チーク)
クリス・チーク『Blues Cruise』
フィリップ・ル・バライレック『Involved』(チーク)
スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』(チーク)
ポール・モチアンのトリオ(マラビー)
ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』
トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』
トニー・マラビー『Paloma Recio』
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(マラビー)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(マラビー)


ジョン・ラッセル+フィル・デュラン+ジョン・ブッチャー『Conceits』

2015-04-21 07:14:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・ラッセル+フィル・デュラン+ジョン・ブッチャー『Conceits』(EMANEM、1987・1992年)を聴く。

John Butcher (ts, ss)
Phil Durrant (vl, tb)
John Russell (g)

ジョン・ブッチャーの活動としては初期の録音だと思う。とは言え、1983年にロンドンにおいてこのトリオを結成したというのだから、もう5年、10年目の記録ということにもなる。初顔合わせでもないのに緊張感で場が張り詰めており、同時に煮詰まっている感もあって面白い。音が妙にドライでもある。

何しろブッチャーがサックスから出てくる音を完璧に制御しているように聴こえる(倍音も擦音も共鳴も)。また、ラッセルのギターもさることながら、デュランのトロンボーンやヴァイオリンとのコラボレーションに特に耳を奪われる。ブッチャーは周囲の音に合わせてカメレオンのように姿を変化させる稀な人だと思っているが、それはこのあと発展していくのかな。


マドリッドで撮った写真が公式サイトに使われている

●参照
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』
ロードリ・デイヴィス+ジョン・ブッチャー『Routing Lynn』
ジョン・ブッチャー@横浜エアジン(2013年8月)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
ジョン・ブッチャー『The Geometry of Sentiment』


新谷行『アイヌ民族抵抗史』

2015-04-21 00:11:21 | 北海道

新谷行『アイヌ民族抵抗史 アイヌ共和国への胎動』(角川文庫、原著1972年)を読む。

もとは三一新書として出され、この文庫化(1974年)のあとに、増補版がやはり三一新書から出ている。また、この5月には河出書房が復刊するようだ。(極論が少なくない本でもあり、その点がいかにフォローされるかについても注目したい。)

著者は、日本によるアイヌ民族の土地侵略の前史として、桓武天皇や坂上田村麻呂による蝦夷との戦争を位置付ける。すなわち、日本の正史における非対称な物語であり、そのように語られてきたということだ。

アイヌに対しては、松前藩による収奪から、侵略行為がエスカレートしていく。松前藩=日本は、シャクシャインの蜂起(1669年)を騙し討ちにより制圧するなど、支配の正当性を認めがたい形での政治的・経済的な支配を続けていった。本書に言及はないが、同時期、日本列島の反対側では、島津藩が琉球王国への侵攻を行っている(第一次琉球処分、1609年)。日本の植民地支配の歴史において重要な時期だということになろうか。

日本のアイヌ抑圧は苛烈なものであったようだ。土地を奪い、漁業の権利を奪い、交易の権利を奪い、「奴隷化」していった。知らなかったことだが、国後島でもアイヌの蜂起があり(1789年)、シャクシャイン同様に騙すように制圧したのちは、国後支配をさらに暴力的なものとした。また、1899年に制定された「旧土人保護法」においては、農業に従事しようとする者に土地を無償で払い下げることになっていたが、実際に与えられた土地はまったく農業に適さないひどい場所であった(のちの調査では、耕作可能な土地は半分に過ぎなかったという)。そして日本の敗戦後も、差別と同化政策が続けられたのであった。

すなわち、侵略と収奪の歴史を抜きにしてアイヌ民族について語ることは野蛮に他ならない。

●参照
瀬川拓郎『アイヌ学入門』
姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』
井上勝生『明治日本の植民地支配』(アジア侵略に先だってなされたアイヌ民族の支配)
伊佐眞一『伊波普猷批判序説』(伊波はアイヌをネーションを持たぬとして低く評価した)
石川直樹+奈良美智『ここより北へ』@ワタリウム
OKI meets 大城美佐子『北と南』(OKIはアイヌの弦楽器トンコリの使い手)
上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』


富山ブラック

2015-04-20 22:44:08 | 東北・中部

2度目の富山などと書くとANAの機内誌のようだが、2度目の富山。前回食べることができなかった「富山ブラック」というご当地ラーメンを、試してみなければならない。そんなわけで、仕事仲間推薦の「西町大喜」に行ってきた。

確かに黒い。しかもかなりの胡椒がかかっている。そして食べてみると、色から想像するよりも遥かに塩辛い。テーブルにはレンゲが置いていないが、それも当然である。スープを飲んだら喉が猛烈に渇いてしまう。

調べてみると、肉体労働向けに塩分を増やしたのだというが、いまでは、「白飯と一緒に食べるためのおかず」という存在意義がありそうだ。実際に、他のお客さんは当然のように白飯を一緒に注文していた。そうすればよかった。

醤油と鶏ガラ出汁の黒いラーメンといえば、京都の「第一旭」やその隣の「新福菜館」を思い出す。それらは一杯目から旨いと思えるラーメンだったが、富山ブラックはすぐには慣れない。少なくともあと2回は試してみなければならない。


京都の「新福菜館」

●参照
旨い富山