Sightsong

自縄自縛日記

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

2014-10-31 07:11:40 | 北米

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(新潮文庫、原著1997-2002年)を読む。

書店で読んだことのない『The Red Notebook』を見かけ、あれこれは未訳だったっけと探すと、既に日本独自版のエッセイ集のなかに収められていた。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。

ここに集められているエッセイ「赤いノートブック」、「その日暮らし」、「スイングしなけりゃ意味がない」、「事故報告」などのなかでは、実にたくさんの偶然話が紹介されている。オースター自身の体験もあれば、近い人に聞いた話もある。

それらは信じ難いものばかりだ。「事実は小説よりも奇なり」とはよく言われることだが、まさに、このような実話を小説にすると、出来過ぎた物語だとして一蹴されてしまうだろう。それが味噌なのであって、実は、オースターの作品世界は、世界のフシギを核として創りあげられている。

世界はもともとフシギなものであり、いくつもの円環が形成されている。大抵の場合、誰もそのことに気づかない。わたしもこのような信じ難い偶然話をしろといわれても、ひとつかふたつひねり出せば上出来である。むしろ、オースターという魔術師であるからこそ、世界のフシギが吸い寄せられ、そこで可視化されるのである。ちょうど、「今日の偶然」なるメモをいくつも残していた赤瀬川原平のように。

●ポール・オースター
ポール・オースター+J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(2013年)
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『闇の中の男』再読(2008年)
ポール・オースター『闇の中の男』(2008年)
ポール・オースター『写字室の旅』(2007年)
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『幻影の書』(2002年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』
ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』


ロードリ・デイヴィス+ジョン・ブッチャー『Routing Lynn』

2014-10-30 07:51:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

ロードリ・デイヴィス+ジョン・ブッチャー『Routing Lynn』(Ftarri、2014年)を聴く。

John Butcher (acoustic and amplified/feedback saxophones)
Rhodri Davies (pedal harp, electric harp and wind harps)

ルーティング・リンは英国の名勝であるようで、木々、川、滝などの横で、2014年1月、このふたりは演奏し録音を行った。そして続く3月に、録音を4チャンネルで再生しながら、またデュオでの演奏を繰り広げた。その記録である。

なにしろ、実にさまざまな音が背後または前面に聞えてくる。風が吹きつけてくるのか、葉叢や草叢が騒いでいるのか、水流か、鳥か、地面を踏みしめる音か、あるいはブッチャーやディヴィス自身か、サウンド・ミックスか。その中に溶け込みながら、ふたりは注意深く、かつ大胆に、奇妙な音を出し続ける。

録音したものとともに演奏した録音を、さらにこちらで聴く。複層的な時間や存在に呑まれ、いつの間にか聴き終わっている。


ジョン・ブッチャー、マドリッド、2010年 Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+2増感)、フジブロ4号
http://www.johnbutcher.org.uk/ でも使用


ジョン・ブッチャー、横浜、2013年 Nikon V1、 1 NIKKOR VR 30-110mm f/3.8-5.6

●参照
ジョン・ブッチャー@横浜エアジン(2013年8月)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
ジョン・ブッチャー『The Geometry of Sentiment』


フランク・レイシー『Settegast Strut』

2014-10-29 07:08:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

フランク・レイシー『Settegast Strut』(TUTU Records、1995年)を聴く。

Frank Lacy (tb, tp, vo, p)
Katy Roberts (p)
Richard 'Radu' Williams (b)
Sebastian Whittaker (ds)
Doug Hammond (ds)

こういうのをハード・バップ愛とでもいうのかな。

レイシーのぶりぶり鳴るトロンボーンが引っぱり、バンドが一丸となって、オーソドックスなスタイルの中でエネルギーを噴出しまくる。熱いというか清々しいというか。3曲目で「Amazing Grace」や「We Shall Overcome」を引用する。そのような工夫はライヴならば愉しくはあるが、録音を何度も聴いているとちょっと飽きてくる。


2014年6月、ニューヨーク・Smallsにて

●参照
フランク・レイシー@Smalls
フランク・レイシー『Live at Smalls』
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(レイシー参加)


モンゴルのペンケース

2014-10-29 00:13:40 | もろもろ

ウランバートルの旧国営「ノミンデパート」を物色していて、いい感じのペンケースを発見した。

革製で、ペンを4本ほど挿して、くるくる巻くタイプのものである。ステッチの色が微妙にオシャレで、なかなかよく出来ている。モンゴル製で、タグには「Hishge」と書かれている。それがメーカー名なのか、ブランド名なのか、一般名詞なのかまったくわからない。2万5千トゥグルグ、約1400円。本革製でこれは安い。

このタイプのペンケースを誰がつくりはじめたのか知らないのだが、今では結構多くのところが作っている。わたしの使っているものは、新宿のキングダムノートのオリジナル品である。比べてみると、モンゴル製のほうが少し大きく、ペンを挿すポケットは逆に浅い。さて使い心地はいかに。


手前:モンゴルHishge製、奥:キングダムノート製


手前:モンゴルHishge製、奥:キングダムノート製

●参照
万年筆のペンクリニック
万年筆のペンクリニック(2)
万年筆のペンクリニック(3)
万年筆のペンクリニック(4)
万年筆のペンクリニック(5)
万年筆のペンクリニック(6)
本八幡のぷんぷく堂と昭和の万年筆
沖縄の渡口万年筆店
鉄ペン
行定勲『クローズド・ノート』


モンゴルの口琴

2014-10-28 23:36:25 | 北アジア・中央アジア

ウランバートル郊外に巨大なチンギス・ハーン像があって、その中には当然のように土産物屋がある。

モンゴルで見る土産物といえば、ゲルのおもちゃ、馬頭琴のミニチュア、手袋、毛皮の帽子、Tシャツや絵葉書などの「いやげ物」、馬の置き物など。どうせ琴線に触れるようなものもないだろうと近づいてみると、びよ~んびよ~んという音が聞こえる。口琴を弾いている人がいる!

誰の手作りかわからないが、紛れもなくモンゴルの口琴である。早速ためしてみて、塩梅の良いものを買った。3万5千トゥグルグ、約2千円。

金属製の口琴は、指で弾く弦が飛び出ていて、危ないし保管が不便である。この口琴は、それがすっぽりと収まるよう溝が彫られた木の箱に、うまく紐で結えてある。よく考えられていて感心する。

音はというと、軽快で気持が良い。調子に乗って、ウランバートルの日本料理屋で仕事仲間に披露し、「顔が怖い」と評価された。

帰って手持ちの口琴と比較してみると、ハンガリーの匠ことゾルタン・シラギー氏作成の「ロココ」とは、また違った軽やかさだ。なお、アメリカ製の武骨な口琴は、文字通りぐぉ~~んと頭蓋骨が揺れておかしくなる。北海道で買ったアイヌのムックリは竹の音。

びよ~んびよ~ん。

手前左から、モンゴル製、ハンガリー製、アメリカ製。奥、アイヌのムックリ。

●参照
酔い醒ましには口琴
『沖縄・43年目のクラス会』、『OKINAWA 1948-49』、『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』(宮良瑛子の口琴の絵)
ハカス民族の音楽『チャトハンとハイ』(ハカスの口琴)
チャートリーチャルーム・ユコン『象つかい』(タイの口琴)
"カライママニ" カドリ・ゴパルナス『Gem Tones』(インドの口琴)
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(アメリカの口琴)


安宇植『金史良』

2014-10-28 00:14:38 | 韓国・朝鮮

京都・大阪への行き帰りに、安宇植『金史良―その抵抗の生涯―』(岩波新書、1972年)を読む。

金史良(キム・サリャン)は、在日コリアン文学者の嚆矢であり、李恢成も幾度となくリスペクトを表明している。

「日本語で書かれた彼の作品はまた同時に朝鮮人でなければ書けぬ濃密な文体を持っていた。日本語は彼のパレットに溶け合わされて出てくると不思議と朝鮮的な色彩を帯び出し、文体は生き生きとしている。また羨ましいほど文体に人間・金史良の息遣いが立ちこめ、生の声が録音されている感じである。」
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』

1914年、日本占領下の平壌生まれ。旧制中学時代に教師排斥運動に関わった咎で退学となり、北京へ出るという夢を捨て、佐賀高校(現・佐賀大学)、東京帝大へと進む。その時分から文学活動を開始する。祖国を併合し、自民族を抑圧した者のことば、すなわち、日本語によってである。

このことは、民族的意識を高めることに貢献したという。ことばは、単なる機能ではないからだ。一方、日本の文学者たちの中には(林房雄など)、「朝鮮の精神と文化の伝統を生かす」ために、コリアンの文学者たちに、日本語を強要すべきだと考える者が少なくなかった。同化という暴力に対するあまりの鈍感さである。

やがて戦争がはじまり、従軍作家となることを拒絶した金史良は逮捕される。本書によれば、釈放の条件としてかれが呑んだ条件は、その後における時局強力であった。かれは後悔と自己嫌悪とのために、文学活動を続けることができなくなっていった。しかし、もとより積極的な権力への阿りではなく、その精神については、火野葦平、林芙美子、菊地寛ら積極的な戦意高揚を行った者たちと比べるまでもないだろう(『従軍作家たちの戦争』)。

金は自分自身を取り戻すかのように、抗日活動を行う中国に渡り、さらに、朝鮮戦争に参加する。そして、心臓を病み、撤退に耐えられないことを知った金は、ひとり寒い山中に居残り、死をえらんだ。なんという、激しく自己を貫き通した人生だったのか。

●参照
金史良『光の中に』
青空文庫の金史良
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(国策に協力した張赫宙との違い)
金達寿『わがアリランの歌』(金史良との交流)
『従軍作家たちの戦争』、笠原十九司『南京事件論争史』


ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』

2014-10-26 21:37:01 | ヨーロッパ

気が向いて、ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』(福武文庫、原著1940年)を読む。

本書には、1940年に書かれた2つの短編が収録されている。

「ホーニヒベルガー博士の秘密」は、インドの秘儀を求めた「ホーニヒベルガー博士」に魅せられた研究者が、突然姿を消し、その謎を探ってほしいと研究者の妻が別の男に依頼するところからはじまる。書斎に残された、膨大な文献資料とノートの数々。実は、研究者は、秘儀を半ば習得し、そのために他者から視えなくなっていたのだった。しかし、男がそこまで追求したところで、世界が一変する。まるで時空間が狂ったかのように。この暗欝な雰囲気は、巨人エリアーデが住んだブカレストの街をイメージしてのものだという。

「セランポーレの夜」は、インドのカルカッタ(現・コルカタ)が舞台。ここに人生の意義を求めて集う男たちは、ある夜、魔術にかけられたように彷徨い、半死半生の目に遭う。かれらが入り込んだ世界は、100年以上前の西ベンガルであった。この謎は、論理的に解くことができるようなものではなかった。

いや、久しぶりにエリアーデなんて読むと、奇妙な魅力にやられてしまうね。『ムントゥリャサ通りで』と同様に、唐突に、読者が無重力・非論理の時空間に放置される感じ。未体験の東欧にも、足を運んでみたくなる。

●参照
ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』


何義麟『台湾現代史』

2014-10-26 09:38:02 | 中国・台湾

ウランバートルからの帰国中に、何義麟『台湾現代史 二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』(平凡社、2014年)を読む。

本書を読むと、日本の敗戦(1945年)と国民党政府の台湾移転(1949年)との間に起きた二・二八事件(1947年)こそが、台湾にとってもっとも大きな歴史的記憶であったことがよくわかる。それは、戦時中の従軍慰安婦問題や、韓国における済州島四・三事件(1948年)がそうであったように、数十年もの間、公的な場で語ることがタブーとされた「国家権力による巨大な暴力」であった。

日本による60年間の支配(1895-1945年)を経て、台湾は、中国の国民党が支配的な力を握るようになる。戦前から住んでいた漢族系移民の「本省人」と、戦後中国から渡ってきた「外省人」との間には、深刻な対立が生じた。本省人は政治においても社会においても差別的な扱いを受け、また、日本の支配に馴らされて奴隷的なマインドを持っていると決めつけられた。不満が爆発し、それに対して、まだ大陸に居た蒋介石の指示により陳儀政府が行った白色テロこそが、二・二八事件である。犠牲者は1.8-2.8万人にも及ぶという。

(もちろん、それ以前にマイノリティと化した「原住民」=先住民族のことが、この図式では捉えられない。そのことも、本書は丁寧に指摘している。)

一連の暴力は、住民にとって恐怖の記憶となり、そのために、蒋介石・蒋経国親子の時代には民主化が進まなかった。社会運動も、メディアも、強く弾圧された。しかし、国際政治の舞台に中国が出てきて、国連加盟や日米を含む西側諸国との国交回復にいたり、台湾の存在基盤はきわめて危ういものとなっていく。そして、民主化が進む中で、回復・共有すべきものとして再浮上した歴史的記憶こそが、二・二八事件なのだった。

示唆的なことは、多くの者が、日本やアメリカに活動の拠点を移して外部から民主化を働きかけたというプロセスである。いまの日本でも、国内では抑圧され抹消されてしまうような異議申し立てが、国連やアメリカ連邦議会などの場で力を持つことが少なくない。この手段は、決して変化球ではないのである。

●参照
丸川哲史『台湾ナショナリズム』
侯孝賢『非情城市』(二・二八事件)
港千尋『Art Against Black Box / Taipei - Tainan - Tokyo』(ヒマワリ学運)
Sakurazaka ASYLUM 2013 -TAIWAN STYLU-(台湾「原住民」の音楽)
エドワード・ヤン『クー嶺街少年殺人事件』(1950-60年代の対立)
劉國昌『弾道 Ballistic』 台湾・三一九槍撃事件


旨いウランバートル

2014-10-26 00:57:01 | 北アジア・中央アジア

3回目のウランバートル。何となく慣れてきて、旨い店にもいくつか。

■ Modern Nomads (モンゴル料理)

割と最近、何店舗も展開しているようで、評判が良い。とりあえず、「ステップの白さ」なる羊肉メニューを注文してみたところ、どどんと大きな肉が出てきた。ビールと一緒に夢中になって食う。ところで、店内のモニターでは『ひつじのショーン』を流している。羊を食べているのに、何の冗談か。


ステップの白さ

■ The Square Grill Pub (モンゴル料理)

チンギス広場横のCentral Tower内にある。「ビジネスランチ」の焼き肉饅頭。上にはサワークリーム。


焼き肉饅頭

■ ウクラインスカ (ウクライナ料理)

仕事仲間のモンゴル人に「旨いロシア料理がある」と聞いて、迷いながらなんとか辿り着いた。ロシア料理ではなくウクライナ料理だった。

かなり地元の人たちでにぎわっていて、家族連れも女子会も。特に「キエフのカツレツ」(チキン)が絶品で、ナイフを入れたとたんに肉汁が1メートル飛んだ。これはかなり高得点。次に行くときにも絶対に食べようと決意した。


キエフのカツレツ


ピロシキ

■ Mirrage (モンゴル料理)

少しはずれたところにあって、有名なカシミヤショップ「ゴビ」の隣。


牛レバー


羊スペアリブ

■ Asiana (アジア料理全般)

街の南側に最近出来たという、小奇麗なところ。内装が凝っていて、個室に「京都」だの「北京」だのといった名前がつけられている。ゲルまでもある。

「上海」で、主に中華料理を食べた。とても旨かったのだが、勢いにのってウォトカを痛飲し、久々に泥酔、翌朝大後悔。何でもモンゴルは標高が高いこともあって、酔いがまわりやすいのだそうだ。


上海の絵


ウォトカと中華

■ チンギス巨像のレストラン (モンゴル料理)

ウランバートルから自動車で1時間半くらい走ったところに、冗談みたいに大きなチンギス・ハーンの像がある。その下にレストランがあって、注文して待つ間にも展望台に行くことができる(チンギスの馬の上)。ウォトカのせいで午後になってもつらく、ビーフジャーキーの麺(Tsuivanという小麦粉の麺)を食べた。かなり二日酔いが治った。


ビーフジャーキーのTsuivan

■ 石庭 (日本料理)

つい興奮して、写真を撮らなかった。


入口でヘンなオヤジが「ご苦労様です」などと呟いている

■ Biwon (韓国料理)

これもCentral Tower内にあって、ランチでも結構いい値段。カルビタンで汗をかいたら、気のせいか体調が良くなった。


カルビタン

■ Pyongyang Baekhwa restaurant (北朝鮮料理)

今年の8月にモンゴルに来たときに、空港でチラシを配っていて、大事に取っておいた。もちろん国交があるから、このような店がある。

しかし、場所はわかりにくく、ホテルの人に確認してもらい、タクシーを手配してもらって行った。ビルの入口には何も示されておらず、奥の暗いエレベーターで4階に昇るときには不安が爆発する。適当にネット情報だけで辿り着くのはまず不可能である。

ただ、店の入り口から綺麗で、店員のサービスもかなり丁寧(何しろ、必ず後ろにまわって料理を出す)。山菜の炒め物、葱のチヂミ、黒い餃子(ジャガイモを凍らせてすりおろし、皮にする過程で黒くなるのだとか)、黒い冷麺など、どれもこれもお世辞抜きで本当に旨い。

8時になると、パフォーマンスがはじまった。歌って踊って、楽器演奏まで。上手いだけではなく、民族衣装を着た女性がドラムスを叩いたりと目を奪われる愉しさ。これは凄い。次にウランバートルに行くときにも必ず足をのばさなければ。


山菜


チヂミ


黒い餃子


冷麺

■ Delhi Darbar (インド料理)

ウランバートルのインド料理がハイレベルであることには定評があるようで、確かに、ナンもカレーもラッシーも旨い。


カレーいろいろ

■ さくら (日本料理)

他国の日本料理店で、この名前を付けているところは数限りないのではないか。それはともかく、わたしはすぐ日本料理が恋しくなるほうなので、結局食べてしまった。

「鮭とチーズの生春巻」という変わった料理があったが、かなりいける。カツ丼は普通の味。普通がいちばん。おコメがいまひとつかな。

日本以外でのカツ丼ランキングを付けるとすれば(3箇所でしか食べていないけど)、ミャンマー>モンゴル>>サウジアラビア


カツ丼


鮭とチーズの生春巻


エリック・ホッファー『波止場日記』

2014-10-20 07:58:44 | 思想・文学

ウランバートルへの道中に、エリック・ホッファー『波止場日記 労働と思索』(みすず書房、原著1969年)を読む。

ホッファーはニューヨークに生まれ、幼少時に視力を失う。ところが15歳のときに突然視力を回復、夢中になって本を読み始める。学校教育を受けなかったホッファーにとっては、本が学校であり、社会が本であった。港湾の荷役作業を仕事としながら、独自の思索を進めた人物である。本書は、60歳を超えて記された日記である。

大衆の側に身を置いていると自認したかれにとって、知識人なる存在は、ずっと批判の対象であった。ホッファーによれば、知識人とは、大衆に教えを説く教師でなければ満足できない人間であり、またそのことを神から与えられた特権のように思い込んでいる者であり、制約や縛りがなければ身動きの取れない者、つまり自由とは正反対にある者なのであった。しかし、そのこと自ら客観視しようと試み、自問自答している者であれば「セーフ」。

本来の自由な人間社会にあっては、不必要なものであるからこそ創意工夫して新たなものを創り出すのであり、遊び半分でなければならないのだと、ホッファーはいう。そこから、全体主義国家への批判も出てきているようだ。

たとえば、以下のようなトロツキー批判がある。

「『個人的な悲惨さ、弱さ、あらゆる不実と卑劣さ』を超越する偉大な思想を人間がもたないかぎり、人間は品位ある存在になりえない、と彼は確信している。トロツキーのような人間は、騒ぎたてたりもったいぶったりせずに世の中の仕事を行う膨大な民衆は道徳的に品性下劣であると考える。
 斧をふりあげて人類を動かすことを神聖な義務と考えているひとりよがりの魂の技師たちに対して、私と同じように嫌悪を抱いている人はどれくらいいるのだろうか。」

ホッファーが、おそらくは選民思想に基づく現代日本の「エリート独裁」を観察したなら、どれほどの熾烈な批判を行っただろうかと考える。


盛本勲『沖縄のジュゴン 民族考古学からの視座』

2014-10-18 22:17:03 | 沖縄

盛本勲『沖縄のジュゴン 民族考古学からの視座』(榕樹書林、2014年)を読む。

いまや沖縄において超希少種となり、辺野古の新基地建設で絶滅の危機にさらされているジュゴンだが、かつては、沖縄にも奄美にも少なくない数が棲息していた。激減の理由は捕獲である。

その「ジュゴン食い」については、あまり詳細なことはわかっていないらしい。少なくとも、八重山の新城(あらぐすく)島では、琉球王朝への献上を義務付けられており、その際には、塩漬け、乾燥肉、燻製にされていたという。亜熱帯であるから当然とも言える(もっとも、首里に生体が運搬されて解体されたこともあるようだが)。そして、それは、たとえば鉋で薄く削いでお湯をかけ、吸い物にされた。これは中国の冊封使にも供され、珍味とされていた。

実際のところ、美味とされる味はどうだったのか。著者も食べた経験はないというが、辺見庸『もの食う人びと』には、フィリピンでも最近までジュゴンを食べていたとある。柳田國男も、「肉ありその色は朱のごとく美味なり、仁羹(にんかん、人魚の肉)と名づく」と書いており、南方熊楠は「千六六八年、コリン著『非列賓(フィリピン)島宣教志』八○頁に、人魚の肉食うべく、その骨も歯も金瘡(切り傷)に神効あり、とあり」と書いている。一方では、市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方』によると、食べた結果、硬くて獣臭かったともある。

本書によると、沖縄のジュゴンは、フィリピンに棲息するジュゴンとDNA的に近い関係にあり、かつて、フィリピンから遠路はるばる移動してきた可能性があるのだという(タイの研究者カンジャナ・アデュルヤヌコスルさんも、沖縄のジュゴンがタイやフィリピンから来た可能性について言及していた)。むろん、関係が近いからといって味が近いかどうかという話にはならないだろうね。

面白い話。ジュゴンの骨は、沖縄でも、装飾用や道具用に重用されていたが、それはパラオ諸島でもそうだった。ジュゴンの「第三脊椎骨」は真ん中に孔が開いており、そのために腕輪に利用できるのだが、その孔があまりにも小さく、成人男性がはめるためには大変な苦労を要した。場合によっては、手の関節をばらばらにして腕にはめ、その偉業(?)によって尊敬を得て酋長になるという習慣があった、というのだ。聞いただけで痛い。酋長候補にならなくてよかった。

●参照
市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方』
池田和子『ジュゴン』
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ(2009年)
ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ(2006年)
『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』(沖縄本島、宮古、八重山におけるジュゴン伝承を紹介)
澁澤龍彦『高丘親王航海記』(ジュゴンが「儒艮」として登場)
タイ湾、どこかにジュゴンが?
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘


キース・ジャレット『Staircase』、『Concerts』

2014-10-18 09:01:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

たまにキース・ジャレットのソロピアノを聴くと、どれもこれも陶然としてしまうものばかり。(「美メロ」などというアホなことばは使いたくない。)

■ 『Staircase』(ECM、1976年)

Keith Jarrett (p)

キースのソロというと、ライヴでの緊張感のある即興演奏をイメージするのだが、これはスタジオ録音。気のせいか、ピリピリしていない。

鍵盤を叩く音が重たく、粘っこいように感じられて、印象深い。チェンバロのような効果をひとしきり出した後に、シンプルな旋律に戻る瞬間も素晴らしい。

■ 『Concerts』(ECM、1981年)

Keith Jarrett (p)

上の盤と聴き比べてみると、抒情性を前面に過剰に出した印象が強いが、これは観客の共感を意識してのことだろうか。もちろん、バリアを取っ払うということ自体が過激なる行動なのであり、キースの過剰な抒情性は、ウケを狙ってのものではない。

聴いていると、アメリカン・フォークの匂いや、ガーシュイン的な旋律が出てくることがあって、これがまた面白い。

●参照
キース・ジャレット『Facing You』(1971年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 (1980年)
キース・ジャレット『Standards Live』(1985年)


琉球新報『普天間移設 日米の深層』

2014-10-17 23:13:17 | 沖縄

琉球新報「日米廻り舞台」取材班『普天間移設 日米の深層』(青灯社、2014年)を読む。

現政権になってから、辺野古の新基地建設に向けた強行が、さらに過酷なものとなっている。長年に渡る住民の反対を無視し、環境アセス法をぶち壊しにし、オカネで従わせようとし、工事を強引に開始している。民主主義国家、近代国家などとはとても呼ぶことができない姿である。

辺野古は、そこまでして作らなければならない基地なのか。それが否であることはもはや明らかになっている。本書は、実状に基づき、そのことを丹念に追ったものである。

アメリカが、是が非でも作ってほしいと熱望しているものか?―――否。多くの要人が、住民の反発を増加させ、重大事故のリスクを高めるようなことはすべきではなく、別の策を講じるべきだと説いている。作ってほしいのはむしろ日本側であり、実際に、日本政府は、「復帰」直後の1973年にも、民主党政権が成立した2009年以降にも、基地が去っていかないよう工作した経緯がある。

新基地がないと、「抑止力」が機能しないのか?―――否。海兵隊が沖縄に駐留しなければならない根拠は既にない。また、アメリカは、沖縄の海兵隊をグアムやオーストラリアに移転する計画を進めている。

もう、こんなことは当たり前の常識だ。(それが常識になりきっていないからこそ、本書のような良書が広く読まれてほしい。)

そもそも、「普天間移設」という用語を使うこと自体がおかしいのであり、危険な普天間の撤退と、新機能満載の辺野古の新基地とはまったく別のテーマである(1996年のSACO合意によってパッケージ化されたに過ぎない)。「琉球新報」ともあろうものが、定着した用語だからといってこれを使うべきではないし、「危険な基地を固定化してはならないから新基地を作るのだ」という倒錯した論理の横行に、間接的に加担することにもなりかねない。

●参照
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
渡辺豪『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』
高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
押しつけられた常識を覆す
琉球新報『ひずみの構造―基地と沖縄経済』
沖縄タイムス中部支社編集部『基地で働く』
来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』
佐喜眞美術館の屋上からまた普天間基地を視る
いま、沖縄「問題」を考える ~ 『沖縄の<怒>』刊行記念シンポ
ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の<怒>』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
浦島悦子『名護の選択』
浦島悦子『島の未来へ』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集


太田昌克『日米<核>同盟』

2014-10-17 00:03:53 | 政治

太田昌克『日米同盟 原爆、核の傘、フクシマ』(岩波新書、2014年)を読む。

「60年安保」の大きな改正点のひとつは、「事前協議」の導入だった。すなわち、在日米軍が日本に影響の大きい軍事行動(重要な配置の変更、核兵器などの持ち込み、日本からの戦闘作戦行動)を取ろうとする場合には、そのことを事前協議するというものだ。それ自体が曖昧で弱い制約であることが、日米の力関係を示すように見える。

それはともかく、このようなクサビが、日本の「非核三原則」の確立につながっていった、と、広く信じられてきた。しかし、それは真実ではなかった。核を搭載した米艦船については、日本にいくら長く寄港しようとも、事前協議の対象からは外されていたのである。すなわち、日本はアメリカにとっての核の前線基地として機能してきた。これが「密約」のひとつであり、民主党政権になるまで、表に出てくることはなかった。 

著者は、この「密約」が、あえて曖昧な形で形作られ、外務省の中でごく一部の者のみが継承する形で続いてきたことを、綿密な取材によって明らかにしている。首相にさえも、信じるに足ると判断されたあとで、そのことを知らされる存在なのであった。 

冷戦が終結し、核兵器を搭載した艦船が日本に来ることはなくなった。著者は、従って、もはやこの無意味で有害な仕組みを取り除くべきだとする。それに加え、兵器ではなく、動力としての核のことも忘れてはならないだろう。東日本大震災のとき、横須賀港に寄港していた原子力空母ジョージ・ワシントンは、大変な衝撃を受け、横転などにより最悪の事態もありえた(ジョージ・ワシントンに装備された原子炉2基はそれぞれ40万kW相当、ほぼ福島一号炉と同じ)。さらに原潜の横須賀への停泊という問題もあった(2009年には延べ324日)。(前田哲男『フクシマと沖縄』) 核なき世界を掲げたオバマのアメリカであれば、このことを直視しなければならない。

アメリカの核前線という観点で、日本が大量に保有するプルトニウム(使用済み核燃料から抽出)についても、捉えられてきた。技術的・コスト的に大問題を抱えていても、また、核廃棄物フローが破綻していても(使用済み核燃料『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』)、日本が核燃サイクルを中止しようとしないことは、アメリカの意向に違いないとの忖度もなされてきた。

しかし、本書によれば、実態はそのような単純な図式では捉えれらない。すでに70年代末のカーター政権のときより、核不拡散のためにも、アメリカは日本の核燃サイクル推進を快く考えてはいなかった。いかに誰の目から見ても矛盾だらけであっても止まらなかったのは、他の大型公共工事と同様だ。それに加えて、アメリカの意を汲んでではなく、日本独自の示威能力のため、核ポテンシャルを手放すべきではないという考えを持つ者もあるという。対米追従よりももっと恐ろしいことではないか。 

●参照
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
前田哲男『フクシマと沖縄』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
使用済み核燃料
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』


中島貞夫『沖縄やくざ戦争』

2014-10-16 06:38:22 | 沖縄

中島貞夫『沖縄やくざ戦争』(1976年)を観る。

沖縄の「本土復帰」を前に、沖縄の二大やくざ組織は合併。「本土」の巨大なやくざ組織の沖縄進出を食い止めるためだった。しかし、その目的は、数年経つうちになし崩しになってゆく。組織の理事長(千葉真一)は狂犬のように振る舞い、「本土」組織の幹部を見せしめに殺してしまう。この事件が、もともと内部で目立ってきた対立に火をつけることとなり、理事長は舎弟(松方弘樹)のヒットマン(渡瀬恒彦)に射殺される。抗争は激化。

この、「第4次沖縄抗争」(1973-81年)のさなかに撮られた映画は、あまりにも実話を題材にしすぎており、沖縄での上映ができなかったという。確かに、理事長がバーで射殺される場面、舎弟の仲間がとらえられ、その三人が自分たちで掘った穴の中で殺される場面、新しく担ぎ出された理事長が土佐犬の散歩中に射殺される場面などは、映画のわずか前に起きたばかりの事件であったようで、沖縄の映画興行の担い手にとっては、無関係ではありえなかったのだろう。

それにしても、千葉真一の演技が凄まじい。本家は、関根勤のパロディの一万倍も上をいく凄まじさであり、笑うべきかどうかの閾値を超越している。いや、吃驚した。中島貞夫の力量でもあるのかな。