Sightsong

自縄自縛日記

朝崎郁恵@錦糸公園

2015-08-16 01:01:09 | 九州

「すみだジャズ」の錦糸公園メインステージでは、夜、朝崎郁恵のステージもあった(2015/8/15)。奄美のレジェンドであり、見逃すわけにはいかない。

終戦記念日ということもあってか、1曲目は「嘉義丸のうた」。最初に、このうたの由来の語りが流された。1943年、大阪を出港した民間船「嘉義丸」(かぎまる)が、米軍に沈められた。300人以上の死者を出す大事件だったが、その情報は軍部により伏せられた。戦局の不利を社会から隠すためだった。まさに同年末に、那覇を出港して米軍に沈められた「湖南丸」が600人以上の犠牲者を出したが、そのことが数十年間も知られることがなかったことと同じである(なお、対馬丸事件はその8か月後である)。嘉義丸事件を知った朝崎郁恵さんの父は、ひどく心を痛め、「嘉義丸のうた」を作ったのだという。しかし、この歌も人前で歌うわけにはいかず、半ば封印された。

もう何年も前に、この歌をめぐるテレビドキュメンタリーを観たことがある。メロディーは、有名な「十九の春」と同じ。曲だけが奄美から南下して沖縄に伝わったのではないか、との見方があるという。

朝崎さんは祈るようにじっくりと歌った。ステージの途中で、その「十九の春」も日本語で歌った。だが、ほとんどの歌は奄美の言葉であり、朝崎さんがかいつまんで説明するものの、聴いていても言葉の直接的な意味はわからない。それでも、よれまくり、揺れまくり、シフトしまくる中から出てくる声は朝崎郁恵のものとしか言いようがなくて、不覚にも泣きそうになってしまう。

最後の「行きゅんにゃ加那」で、ようやく、朝崎郁恵が奄美民謡というカテゴリーに収まる。

●参照
西沢善介『エラブの海』 沖永良部島の映像と朝崎郁恵の唄

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武下和平『奄美しまうたの神髄』

2015-07-01 07:29:33 | 九州

武下和平『奄美しまうたの神髄』(JVC、1994年)を聴く。

武下和平(唄、三味線)
早田信子(はやし)
長岡浩之(太鼓)

奄美の島唄は琉球から伝わったというが、大きく異なる形で独自の進化をしている。三味線はバチを使い、琉球よりも激しく上と下から叩く。コードも琉球音階ではないため、琉球の島唄のような奇妙な明るさと哀しさではなく、後者の色合いが強いように感じる。そして男でも裏声を多用する。

突如現れた天才と評される武下和平の高い裏声には、耳が吸い付くようになって聴き惚れる。わたしは中江裕司『恋しくて』に出演した氏の姿しか観たことがないのだが、ナマで聴くことができればどんなに素晴らしいだろう。尼崎在住だという。

ところで、奄美出身の唄者・里国隆も、亡くなる直前のコンサートを尼崎で開いていた(>> 1985年の里国隆の映像)。このふたりの接点はどのようなものだったのだろう。

●参照
1985年の里国隆の映像
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
元ちとせ『故郷・美ら・思い』(1996年度奄美民謡大賞の受賞記念)

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本橋成一『炭鉱<ヤマ>』

2015-02-13 07:40:45 | 九州

銀座ニコンサロンで、本橋成一さんの写真展『炭鉱』が開かれている。

ここに収められているのは、九州と北海道の炭鉱。筑豊では、あの上野英信さんに案内されたのだという。

狭く真っ暗な中での炭鉱労働、素っ裸になっての着替え、炭鉱住宅の子どもたち、悲惨な炭鉱事故の後。もちろん貴重な記録なのだが、写真群から漂ってくる空気は、暗く厳しい社会のルポが放つものとは明らかに違っている。真っ暗な坑道の中では、爆発防止タイプのストロボを持っていない写真家のために、男たちがヘッドランプの光を集めてくれたのだという。子どもたちの文字通り屈託ない笑顔も、オトナの写真家に向けられたものではない。つまり、本橋さんの人柄のようなものが表れた写真群だと思えるのだがどうか。

●参照
本橋成一『バオバブの記憶』
池澤夏樹・本橋成一『イラクの小さな橋を渡って』
本橋成一『魚河岸ひとの町』
本橋成一『写真と映画と』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』

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奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』

2014-09-14 10:29:39 | 九州

奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』(岩波書店、1997年)を読む。

三井三池鉱山は、福岡県大牟田市を中心とした坑道の入り口から有明海の海底にまで広がる、巨大な炭鉱であった。その総延長は300kmとも言われたという。官営三池炭鉱が三井に払い下げられたのが1889年(大日本帝国憲法の公布年)、そこから明治、大正、昭和と、日本の経済発展に貢献した。歴史的役割を終え、本書が刊行された1997年に閉山。いまでは、坑道掘りの炭鉱は、日本国内では釧路にしか存在しない。

などと書くと、産業発展史の教科書のようになる。実際には、それは、無数の炭鉱労働者に対する暴力的な抑圧によって維持されていた。(なお、北九州の炭鉱は多数の小規模な炭坑の集合体、三井三池はより大規模なものだと思っていたが、本書によれば、三井三池でも、入口単位での管理をしていたようだ。)

炭坑労働者の間でも激しい差別的な扱いがあった。よく知られたことだが、当初は囚人使役があり(払い下げには、囚人使用権まで含まれていた)、やがて、中国や朝鮮から労働者を連れてきた(強制的に、あるいは、二年間などと騙して)。中国人労働者・朝鮮人労働者に対する扱いは熾烈を極めた。言うことをきかないと直接殺すこともあり、また、「使えなく」なってから、亡くなってからは、ひとりひとりとしては扱われなかった。

外国人だけではない。飢餓や貧困に苦しんでいた与論島からは多くの労働者が渡ってきて、港湾で働いた。かれらも差別の対象となった。(このあたりは、熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』に詳しい。)

戦後、会社はさらに効率化を進めた。つまり、労働条件の過酷化を進め、安全対策を適切に行わなかった。その結果として起きた事故が、1963年の炭塵爆発である。炭塵が放置され、あるきっかけで火が付き、爆発・落盤するとともに、発生したCOガスで、多くの労働者が亡くなり、また、激しい後遺症に苦しむこととなった。

しかし、このように因果関係が明らか過ぎるほど明らかな事故に対しても、会社や国の対応はあまりにも不適切だった。その過程では、原因を炭塵ではないとする「学者」や、誤った判断をくだす「医者」や、条件闘争のなかで個人を押しつぶそうとする「労組」や、経済発展を最優先させる「国」が、犠牲者に立ちはだかった。こう見ると、歴史は現在につながっているのだということがよくわかる。

●参照
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
外村大『朝鮮人強制連行』
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石井寛治『日本の産業革命』

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桑原史成写真展『不知火海』(2)

2014-05-11 08:46:44 | 九州

銀座ニコンサロンにて、桑原史成の写真展『不知火海』を観る。昨年11月にも開かれたばかりだが、今回、桑原氏が土門拳賞を受賞した記念での再度の開催である。構成や個々の写真は、前回と少し変えてあるようだ。

5歳で水俣病を発病し、23歳で亡くなった少女は、その美しさから「生ける人形」と呼ばれた。また、石牟礼道子『苦界浄土』に登場する杢太郎少年のモデルとなったと言われる少年の写真もある。

桑原氏は、「生ける人形」を、できるだけ美しく撮りたかった、と述べている。それだけでなく、白黒プリントが非常に巧く、さすがである。それだけに、なお、水俣病を発生させ、放置し、さらには別の公害病を生んだ罪が、重いものとして迫ってくる。

ニコンサロンは、この写真展の次に、石川文洋氏のベトナム戦争の写真展を予定している。福島の原発事故も、これまでテーマとしてきている。この姿勢を貫くならば、安世鴻氏による慰安婦の写真展を中止したことの理由も明確にすべきである。

●参照
桑原史成写真展『不知火海』
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』

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井上光晴『西海原子力発電所/輸送』

2014-03-18 00:04:31 | 九州

井上光晴『西海原子力発電所/輸送』(講談社文芸文庫、原著1986年・1989年)を読む。

本書に収録された二篇「西海原子力発電所」と「輸送」とは、佐賀県の玄海原子力発電所を一応のモデルとして書かれている。

前者は、原発立地に伴うくろぐろとした闇、原発反対運動と原爆による被爆体験とに共通する自らへの枷を描く。後者は、核廃棄物を収めたキャスクが輸送中に事故を起こし、その町が、放射性物質によって汚染されていく物語。

明らかに、井上光晴は、水俣病を思い出しながら、原発事故被害を描いている。現在の目でみれば、それは間違ったディテールだ。しかし、これらの小説の本質は、人の棲む町が、放射性物質や、噂や、底知れぬ恐怖といった目に視えぬものによって崩壊していく姿の描写にある。その意味では先駆的な作品であるといえる。

井上光晴の小説が新刊として出るなど、久しぶりのことではないか。これを読んでも実感できることだが、ただの「ウソつきみっちゃん」のホラ話ではない。他の作品も文庫として復刊してほしい。

●参照
井上光晴『他国の死』(1968年)
井上光晴『明日 ― 一九四五年八月八日・長崎 ―』(1982年)

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『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』

2014-02-11 10:16:20 | 九州

NNNドキュメント'14」枠で放送された『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』(2014/1/19放送、鹿児島読売テレビ放送)を観る。ナレーターは元ちとせ。

日本の敗戦から1953年末まで、奄美群島は米国統治下にあった。

黒糖などには関税が課せられたため生活が苦しく、飢えをソテツ(入念にアク取りをしないと死に至る)やサツマイモでしのぐ日々。「B円」という独自通貨の利用を強制され、また、なかなか「本土」への渡航が認められなかったため、交易もままならない。したがって、人びとが取った手段は密航であった。

番組には、当時、「陳情密航団」を組織した人が登場する。鹿児島に渡った後に乗った鉄道の中で逮捕され、十日間の拘留ののち、米国大使館に陳情に赴いたという。そのとき面会した米国大使館員は、「最低3年間、長くても10年間」のうちには、奄美群島が日本に戻されるだろうとの発言をしている。奄美では、復帰を求めてのハンガーストライキもなされた。

そして、「無血」での日本への施政権返還。

「陳情密航団」の人は、学校で体験談を語るとき、「日本人の誇りを忘れないよう」と言う。また別の人は、日本に戻ってよかったと言う。

一方、米国に軍事的機能を提供するため、施政権の返還が遅れ、現在さらにその機能が強化されている沖縄と比較すると、あまりの違いに驚いてしまう。勿論、良し悪しの問題でも倫理の問題でもない。

●参照
島尾ミホ『海辺の生と死』
島尾ミホさんの「アンマー」
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
1985年の里国隆の映像

●NNNドキュメント
大島渚『忘れられた皇軍』(2014年、1963年)
『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013年)
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『風の民、練塀の町』(2010年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)

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伊藤ルイ『海の歌う日』

2013-12-02 00:01:57 | 九州

伊藤ルイ『海の歌う日 大杉栄・伊藤野枝へ―ルイズより』(講談社、1985年)を読む。

故・伊藤ルイ(ルイズ)は、大杉栄伊藤野枝の娘である。この両親は、ルイ幼少時に、軍部(甘粕正彦)により、1923年の関東大震災直後に虐殺された。そのため、ルイは福岡において祖母・伊藤ムメに育てられた。松下竜一の名作『ルイズ 父に貰いし名は』(1982年)は、祖母のことを書くという条件で取材を受けている。

本書は、さまざまな思いを綴ったエッセイ集であり、ルイ独特の文体もあり、読む者も行きつ戻りつする思索や回想につきあうこととなる。

ルイは、その出自のこともあり、小さいころから大人たちの差別的な扱いを受けてきた。そのためもあって、自分の「特別」な両親のことは意識上も対外的にも回避していたが、次第に、そのことを受け容れてきたという。それは、差別を受け、自らのルーツを知るために勉強し、そして社会運動にかかわり、権力のからくりを直視し続けたからにほかならない。

甘粕事件のとき、大杉栄の甥にあたる橘宗一少年も、同時に無惨にも殺されている。その父親・橘惣三郎は、宗一の墓石に、「大正十二年(一九二三)九月十六日ノ夜大杉栄、野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」と書いた。晩年のルイの姿を撮ったドキュメンタリー映画、藤原智子『ルイズその旅立ち』(1997年)には、名古屋の寺の藪の中にその墓石があることを知りながら、住民たちが軍部に知らせることもなく、戦後まで隠しおおせたのだということがわかる場面がある。

そのことを胸に抱き、ルイは、沖縄戦において新垣弓太郎なる人物が、日本兵に撃ち殺された妻のために「日兵逆殺」と記した墓を確かめるため、沖縄を訪れている。しかし、その甥にあたる人物は、既に、「沖縄と日本とがひとつになってやっていかなければならないときに妨げになる」という理由で、墓を打ち壊してしまっていた。ルイは、愕然として、次のように言う。まさに、歴史修正主義の臭い風が吹くいま、発せられるべきことばでないか。

「そうではなくて、戦争という状況のなかで、人間が無思慮に暴力を使い、人を殺したあと、その暴力を使ったことによって、人間がどのように堕落していくものであるか、それは人間が人間でなくなる、そういう恐ろしさを私たちに教える証拠として、それを残しておいていただきたかったのです。」

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桑原史成写真展『不知火海』

2013-11-18 07:45:57 | 九州

銀座ニコンサロンにて、桑原史成の写真展『不知火海』を観る。

旧・チッソによる水銀廃液が引き起こした水俣病の姿を追った写真群であり、1960年代の本格的な発病から、完全な救済に至らない現在のありようまでが展示されている。

もちろん患者の姿は痛ましい。しかし、なかには、「生ける人形」と呼ばれた少女を、写真家が「なるべく美しく撮ろうとした」写真もある。患者とひとくくりにできないことを如実に示すものだ。そのことは、政治決着を目指して登場してきた政治家たち(それが政治的な善意だとしても)の写真と対置されることによって、なおさら際立ってくる。

●参照
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』(行政の不作為)
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(水俣の画家・秀島由己男)

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島尾ミホ『海辺の生と死』

2013-10-24 08:14:18 | 九州

島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫、原著1974年)を読む。嬉しい復刊。

ゆっくりと、思い出しながら綴られる奄美の記憶。丁寧に示される奄美のことばを、脳の中で、島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』に付されたレコードや(>> リンク)、伊藤憲『島ノ唄』において見聴きことができる島尾ミホの声と重ね合わせながら、唇を動かしながら読んでみる。「神話的想像力」とでも言うべきか、驚いてしまうほどの強度で、島尾ミホの存在が浮かび上がってくる。

本書に併録された吉本隆明の文章においては、古い奄美の「聖」と「俗」とを、あるいは「貴種」と「卑種」とを、「鳥瞰的にでもなく、流離するものの側からでもなく、受けいれるものの側から描きつくしている」と表現している。まさに、神と人とが混濁した大きなカオス的な存在だったのだと思わざるを得ない。

ところで、ここには、島に流離してくる人々のなかに「立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男」がいたとある。これは、まさに里国隆のことではなかったか、と想像する。あるいは、里も樟脳売りに付き従って放浪するうちに芸を覚えたというから、同じような人は少なからずいたのかもしれない。

本書の後半は、のちに夫となる島尾敏雄が、ミホの郷里・加計呂麻島に赴いたときの思い出が記されている。敏雄には特攻準備の命令が下り、いつ米軍に突っ込んでいってもおかしくない状況だった。自らも死を覚悟して、白装束に着替え、海岸を傷だらけになりながら敏雄に逢いに行くミホの姿は、文字通り凄絶であり、思い出話の領域を遥かに超えている。結局は、特攻する前に日本が敗戦し、敏雄もミホも生き長らえる。しかし、それはここで書かれている世界とは「別の話」である。

「日経新聞」の「文学周遊」というサイトに、『海辺の生と死』の舞台となった加計呂麻島の現在が紹介されている(>> リンク)。島尾敏雄の文学碑、さらにその向こうに敏雄、ミホ、娘マヤの墓が写された写真もある。『季刊クラシックカメラNo.11』(2001年)にも同じ場所の写真が掲載されている。ミホもマヤも亡くなる前である。見比べてみると、文学碑の後ろの生け垣が撤去され、3人の墓に歩いていくことができるようになっているようだ。


2001年(『季刊クラシックカメラ No.11』)


2013年(「日経新聞」)

 
島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』の付録レコード

●参照
島尾ミホさんの「アンマー」
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』

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降旗康男『地獄の掟に明日はない』

2013-04-20 06:44:29 | 九州

降旗康男『地獄の掟に明日はない』(1966年)を観る。この作品で、降旗康男は、はじめて高倉健を起用している。

長崎。競艇を巡り暴力団同士が抗争する。健さんは、原爆投下で孤児になった自分を父親のように育ててくれた組長のため、対立する暴力団の組長(佐藤慶!)を刺す。しかし、それはすべて、顧問弁護士(三国連太郎!)によるシナリオだった。弁護士を斬る健さん、弁護士は「君はそれしか出来ないのか」と呟いて絶命。その健さんも、路上で犬のようにのたうち回って死ぬ。

ロケ地・長崎の坂や海や平和祈念像(北村西望)が登場する。長崎の観光映画であると同時に、原爆の影響が色濃く残る場所であることを示した映画でもある。健さんは原爆の後遺症に苦しみ、慕う組長を「三国人が占領しそうになった街を盛りたてた」などと口にするのである。そして、義理のためなら人を殺め、そのまま恋人と沖永良部島に逃亡しようとする。何という歪んだ人物造形!

八木正生が音楽を担当しており、テーマ曲はフラメンコ風のトランペット演奏。明らかに、マイルス・デイヴィス『Sketches of Spain』(1960年)の影響だろうね。それでも、キャバレーでのサックスとトランペットの二管の演奏はなかなかの格好よさである。誰がトランペットを吹いていたのだろう。

●参照
降旗康男『あなたへ』
蔵原惟繕『南極物語』
健さんの海外映画
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
原爆詩集 八月

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松本清張『点と線』と小林恒夫『点と線』

2013-03-16 00:10:15 | 九州

恥ずかしながら、初めて、松本清張『点と線』(新潮文庫、原著1958年)を読む。

福岡市香椎の海岸で「情死」した男女。官僚と料亭の女中であった。福岡署の古参刑事と警視庁の若い刑事は、出来過ぎた事件に違和感を覚え、執拗な捜査を続ける。同時に、男が働いていた「××省」では、業者との不正癒着事件が起きていた。

物語のはじめから、怪しい奴は、「××省」出入りの機械業者であることはわかっている。彼が福岡で人を殺めるには、同時期に北海道に出張していたというアリバイを崩さなければならない。その謎解きが、この小説の醍醐味である。

もう半世紀以上も前の時代設定ゆえ、このミステリーよりも、感覚のギャップのほうが面白い。

時刻表とにらめっこする鉄道の時代。東海道新幹線開業(1964年)の前であり、東京から九州や北海道へ行くにもひたすら長い時間を要した。青函連絡船もあった。飛行機は、メジャーな乗り物ではなかった。

役所と業者との癒着も、今とは比べものにならないほど大っぴらだったのだろう。「二号さん」だって、もはやありえない。

ついでに、録画しておいた映画、小林恒夫『点と線』(1958年)を観る。

小説が出版されたのと同年に作られたものであり、そのためか、粗雑にさえ思えるつくりである。もとよりたった85分間で、ひとつひとつのディテールを潰していくような面白さを創出できるわけがない。

嬉しい点は、志村喬加藤嘉の渋い演技だけ。

●参照
松本清張『ゼロの焦点』と犬童一心『ゼロの焦点』

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旨い宮崎

2012-12-01 00:06:46 | 九州

所用で30年ぶりくらいに足を運んだ宮崎。いろいろ旨いものあり。


西米良サーモン(西米良村の名物。カワマスとエゾイワナのかけあわせ)


宮崎地鶏(大蒜のすりおろしを付けて食べる)


メヒカリのから揚げ


焼きおにぎり

写真を撮らなかったが、宮崎観光ホテルの朝食バイキングはハイレベルだった。あれだけを目当てに泊まっても良いくらい。

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土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』

2012-07-07 09:56:00 | 九州

土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)を観る。


『ドキュメンタリー映画の現場』(シグロ・編、現代書館)より

完成から40年あまりが経ついまでも、フィルムの中には、ナマの力が横溢している。正直言って、テレビ画面を凝視し続けることが辛く、何日かに分けて観た。その力とは、怒りとか悲しみとかいったひとつの言葉で象徴されるようなものではなく、生命力の発露そのものであり、それを「撮った順に並べた」ドキュメンタリーの意気である。

水俣市の南隣に位置する鹿児島県の出水市では、「水俣病と認定されると出水市がつぶれる」として、そのような動きをする患者を白眼視することがあったという。水俣の患者やその家族自身の口からも、「あつかましいと思われる」ことへの配慮が語られる。国や企業という大きなものによる対応に我慢できず、各自がチッソの「一株株主」になろうとする運動も、圧力の対象となる。まさに、社会的・構造的な孤立であったのだと思わせる記録だ。

個人の思いや権利は、常になんらかの正当化のもと、かき消されようとする。現在の原発事故と重ね合わせざるを得ない。

カメラは、患者ひとりひとりに直接向けられ、対話をする。重症患者であればあるほど、観るのが辛い。もちろん、患者やその周囲の人びとは、観る者とは比べものにならない場にいる。そのような言葉とは関係なく、患者は生きる姿を見せる。

このフィルムの迫真性は、粒子の荒れたモノクロ画面だけでなく、同時録音によらないということも影響しているだろう。当時は、同録でないから物語を捏造しているのだろうとの批判もあったようだが、いまでは史実を疑う者はいない。小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)(>> リンク)も、同時録音導入前の掉尾を飾る作品であった。ドキュメンタリーの性質も、それによって変わらないわけはない。

●参照
土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』

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原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』

2012-06-16 02:14:21 | 九州

先ごろ亡くなった原田正純氏の本、『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』(岩波書店、2007年)を読む。医師として、また研究者として、水俣病に取り組んだ人である。

氏は、このように書く。水俣病が発病したから差別が起こったのではない。差別のあるところに公害が起こるのだ、と。まさに水俣病は、血の通わない権力構造の姿を体現するものであった。権力は、それとわかっていながら、歪みを弱いところに発現させ、それを隠蔽し、なかったことにしようとする。

水俣病の因果関係を明らかにすることに大きく貢献し、それを社会に問うてきた原田氏であるからこその観察や考えが、さまざまに述べられている。

○水俣病が1960年に終焉したとする説があった。これは、行政が幕引きのために意図的につくりあげた可能性がある。
○1968年に、政府(園田厚生大臣)が、はじめて公式に水俣病を公害病と認めた。実はその年に、チッソばかりでなく、日本中からアセトアルデヒド工場が完全に消えた。これにより企業への影響がおよばなくなるのを待って、幕引きの意図をもって認めたのだった。
○水俣病以前、「毒物は胎盤を通らない」が医学上の定説だった。そのため、母親の症状が軽いと、胎児に病状がみられても、母親が毒物を接取したためとは認められなかった。この説は、学問上の権威を守り、新しい事実に目をつぶる権威者の存在によって、なかなか見直されなかった。
○発病した胎児の臍帯(へそのお)を多数分析すると、問題量のメチル水銀が検出された。子宮は環境そのものであった。

水俣病が認知されていっても、常に、患者は権力上も経済的にも圧倒的に弱かった。原田氏は、公害のような裁判において、被告の企業や行政の側に控訴が認められていることは大変不公平だと書いている。強大な国家権力に踏みにじられることへの抵抗という点では、このことは、水俣にも公害にも限るまい。同じことは、原田氏がやはり関わった、三池炭鉱の炭塵爆発事件に伴うCO中毒についても言うことができるのである。

どきりとさせられる指摘がある。原田氏は、日本が敗戦により植民地を失ったあと、九州を植民地代わりにして高度経済成長を行ったのだとする。その代償として、次のような事件が列挙されている。

○三池だけでなく炭鉱事故が九州に頻発した。
○カネミ油症事件(1968年)※福岡県中心に西日本一帯
○土呂久鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○松尾鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○興国人絹による慢性二硫化炭素中毒事件(1964年)※熊本県
○森永ヒ素ミルク事件(1955年)※宮崎県など西日本一帯
○振動病
○スモン
○大体四頭筋委縮症
○サリドマイド禍

まさに、高橋哲哉のいう「犠牲のシステム」だ。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』(CO中毒)
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(CO中毒)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント

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