Sightsong

自縄自縛日記

『クール・ランニング』、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』

2010-02-28 23:31:51 | アート・映画

ツマが『クール・ランニング』(ジョン・タートルトーブ、1993年)のパンフも出してきたので、ちょうど五輪だしと安易に思い、録画しておいたのを観た。

ジャマイカの陸上選手たちがボブスレーのチームを作り、1988年のカルガリー五輪に出場するという話。能天気な映画で愉しい。はじめて滑走した際に選手のひとりが目をひん剥いて「I hate you~~~!!!!!」などと絶叫している。本当に怖いんだろうな。ジェットコースターひとつ乗れない私には、生まれ変わっても無理である。

調べると実話のようで、のちにそのひとりはカナダ国籍を取得し、トリノ五輪でメダルまで取ったという。

パンフには、コーチ役のジョン・キャンディが94年に亡くなったときの記事がはさんであった。43歳、心不全。とてもそうは見えないが、撮影時、彼は40歳くらいだったわけだ。


『Daily Yomiuri』1994年3月6日

ジャマイカ+異文化という点で思い出したのは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』(Atlantic、1995-96年ジャマイカで録音)だ。ジョセフ・ジャーマンは脱退したものの、最晩年のレスター・ボウイとマラカイ・フェイヴァース、さらにロスコー・ミッチェル、ドン・モイエという素晴らしい面子。

演奏は賑々しく愉快だ。レゲエ調の曲もある。随分と聴いた。しかし、かつてのAECの演奏に感じられたような、圧倒的な緊張感やビリビリとした冗談が皆無であることには、今さらながら驚かされる。ふたりのメンバーの死によって終焉したこのグループは、実はその前から終わろうとしていたのかな、と考えてみたりする。

97年頃訪れたスリランカ南部の町で、同い年くらいの20代の男たちが、ボブ・マーリーって良いよなと嬉しそうに話していた。やっぱりレゲエは熱帯のものかな。


アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』

2010-02-28 08:00:00 | 中東・アフリカ

いままで見逃していたイラン映画、アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』(1997年)を観る。

物語は単純である。自殺願望のある男が、 自動車でうろうろし、自分が睡眠薬で死んだあとの証人を探す。男は大金をやるから、翌朝自分が死んでいるかどうか確認して、土を20回かけてくれと妙なお願いをする。当然、皆に煙たがられたり、不気味がられたりする。ところが、何人目かに依頼した老人は、自らの体験談を語り始める。男の気持ちは揺らぐ。

見所は、運転席と助手席との間の、お互いにカメラを見る小津調の視線。引いてミニカーのような自動車を見つめる神の視線。そして極め付けはラストシーンだろう。男の運命を示唆するも語り尽くさないまま、観る者も、出演者も、突然こちら側の世界にジャンプさせられる。しばらく何が起きたのかわからなかった。その前の作品群でも、映画という権力を脱構築する人だったが、やはりキアロスタミはどこかに抜け出している。

観ていると、ツマが何だ持ってるぞと言ってパンフレットを探し出してきた。読んで仰天。俳優は素人だというだけではない(前の作品でも素人を起用している)。主人公の男は、渋滞時に隣の車に乗っていて、キアロスタミが追いかけて映画に出ないかと声をかけると、つまらなそうな顔で了承したため、その場で主役に決定。不気味になって主人公から逃げる兵士の役は、キアロスタミに騙されて本当に逃げている(もっとも、追いかけて映画だということを説明し、謝礼を払っている)。味のある老人は、突然撮影現場に現れて、毎日出演し、終わると音信不通になりどこの誰かもわからない。ぶち切れているのかキアロスタミ。

●参照
アッバス・キアロスタミ『トラベラー』


本間健彦『高田渡と父・豊の「生活の柄」』、NHKの高田渡

2010-02-28 00:00:17 | ポップス

本間健彦『高田渡と父・豊の「生活の柄」』(社会評論社、2009年)を読む。表紙の絵はシバ。タイトルからは、渡と父の触れ合いのような印象を抱くが、実際には、解説で中川五郎が書いているように、父・豊のことを書いた本である。

高田豊のことは、高田渡の自伝『バーボン・ストリート・ブルース』においても触れられており、渡が父を慕っていたことが想像できるのだが、それは本書を読んでさらによくわかる。そして、渡は豊であったのだなとさえ、思われてくるのだ。

豪邸の名家に生まれ、没落し、詩人を志し、引越しを繰り返して極貧の暮らしへ。それでも息子たちと一緒に生活を続けた。それは実に人間臭くて、地位として認められた「詩人」ではなくても、詩人そのものであった。

著者もその魅力に惹きつけられていたようだ。同時代の多くの日本人と同様に堕ちたが、そこから経済成長を担う集団に属することはできなかった、堕ちて、「人間の道を模索し続けた」者だからこそ肩入れするのだ、と。

読んでいるとさまざまな発見がある。豊は、佐藤春夫の弟子だった。そして、のちに渡が多く唄った詩人、山之口獏も同時期の弟子だった。豊と獏の交流を示す記録は見つからなかったというが、やはり著者は、渡の獏に対する共感には父の存在があったのだと想像している。

あらためて高田渡という存在が、亡くなってからも、大事なものに思えてきた。ライヴを観ているときは、ビールをだらだら垂らしたりして、ああ仕方ないなと苦笑していたのだったが、人はいつまでも元気に生きているわけではない。


高田渡、吉祥寺 Pentax LX、A135mm/f2.8、Provia 400F

ちょうどこの2月から、NHKの『知る楽』という番組で、高田渡のことを4回シリーズとしてとりあげていた。全部録画して2回ずつ観たが、やはりNHKだというべきか、いちいち表現や演出が鼻についてしまう。本人が「民衆」とか「庶民」と言うのはいいが、NHKが言うとただの嫌味な「上から目線」だ。高田渡は有名になっても吉祥寺の近所のいせや(焼き鳥屋)や八百屋に通っていました、とは何か。本来は有名な人は行くべきところではないとでも言いたいのだろうか。バブルが崩壊してまた高田渡を求める声が云々、と時代に結びつけたがることなどは牽強付会そのものだ。もっとも、「自衛隊に入ろう」をNHKが流す時点で、既に昔話に押し込めてしまっているのかもしれない。

それでも高田渡の映像は感傷的に観てしまう。最後のライヴとなった北海道での記録は渋谷毅、片山広明との共演で、最後の曲「生活の柄」のあと、片山は心配そうに高田渡のほうを振り返る。(そういえば、浅川マキのラストライヴも渋谷毅だった。) こちらも言葉を失う。

なぎら健壱の語りも良い。「仕事探し」の歌詞は「乗るんだよ 電車によ」だが、突然、「盗んだよ 自転車をよ」と唄いはじめたりするのだ(爆笑)。NHKだって。


那覇・栄町市場の居酒屋「生活の柄」(2009年7月)

●参照
『週刊金曜日』の高田渡特集
高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』
「生活の柄」を国歌にしよう
山之口獏の石碑


亀井岳『チャンドマニ ~モンゴル ホーミーの源流へ~』

2010-02-26 00:23:36 | 北アジア・中央アジア

渋谷のアップリンクで、亀井岳『チャンドマニ ~モンゴル ホーミーの源流へ~』(2009年)の試写を観る。モンゴルの喉歌・ホーミーには興味があったから嬉しい機会だ。

チャンドマニとは、モンゴル西部にある「ホーミーのふるさと」とも言われている村。映画は、そのチャンドマニに住む名人・ダワージャブのホーミーからいきなり始まる。びりびり震える低音と、鼓膜に刺さるようなキーンという高音とが相応し、インパクトが大きい。

なぜそのような場所なのか。本物のホーミーは都市ウランバートルからは消えてしまい、それだけでなく、モンゴル内の地域によっても濃度が異なる。いやそれは結果論に過ぎず、登場人物の言う「ホーミーは遊牧民のもの」と看做すべきなのかもしれない。日本の街では、仮に喉歌そのものが完璧であっても、ひたすらに広い草原や雪や山や風の中で響くホーミーは存在しえない。

私がはじめて実際に聴いた喉歌は、ロシア・ハカス共和国の音楽家たちによる来日公演だった。あるいは、ロシア・トゥヴァ共和国出身の歌手サインホ・ナムチラックのパフォーマンスだった。ハカスの喉歌はハイ、トゥヴァの喉歌はホーメイといった。ロシアとはいえモンゴル周辺、喉歌文化圏なのだと考えていた。

そのように差異はあるが共通の文化圏を想像するとき、実は、モンゴルという広がりの中の差異を忘れ去っていることになる。勿論、その想像も、国境という概念からまったく自由でないことは確かだ。ともかく、ノマドロジーという移動性と偏在性とを見せてくれて、とても新鮮だった。

映画は半分ドキュメンタリー、半分ドラマといった印象だ。とは言え、ドラマ自体がドキュメンタリーと化している。ふたりのホーミー唄者がたまたま同じマイクロバスで2日間かけてチャンドマニに向かい、ふたつ以上のドラマがシンクロするものの、お互いがホーミー唄者であることは認識しない。そしてふたりは別々の地へと向かう。このあたりの作り方は感嘆するくらい見事だ。


上原成信・編著『那覇軍港に沈んだふるさと』

2010-02-24 23:29:45 | 沖縄

上原成信・編著『那覇軍港に沈んだふるさと』(『那覇軍港に沈んだふるさと』刊行委員会、発売元・高文研)

編著者の上原成信氏とは、『けーし風』読者会でせいぜい年に何回か接する程度である(しかもそのたびに初対面のような顔をされてしまう)。そこでも、宴席でも、沖縄・一坪反戦地主関東ブロックの開く会合でも、発言が骨ばっていて、飄々としていて、ひたすら愉快痛快なのだ。その「骨」のカルシウムや骨髄がどのように形成されてきたか、垣間見ることができる本である。

昔の那覇の様子は面白い(奥武山あたりは島だった)。那覇での幼年期、戦争の疎開を経て、氏は電電公社(現・NTT)に入社し、組合運動に関わる。そして沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの結成。なるほど、こうした経緯だったのか。

反戦のこと、沖縄のことについて、何ら難しいことばを使っていない。正直な考えを示し、そして骨ばっている。特に、2001年の「9・11」直後に『一坪反戦通信』に寄せた文章などには感服してしまう。あれから10年近くが経った今でこそ、多くの人がさまざまな言説を取り入れ、咀嚼して、あるいは剽窃して、もっともらしいことを言うことができるかもしれないけれど。

自分に信念があるなら、他人には他人の信念がある。自分だけが立派な信念を持っているとのうぬぼれは許せない。それではブッシュ大統領と同じだ。アメリカの大統領はいま「アメリカの戦争政策を支持するか、テロリストを擁護するのか」と世界中に踏み絵を踏ませ、アメリカを支持しなければテロの同調者として断罪しようとしている。筆者はどちらにも与しない。テロを非難するとともに、自分たちだけが文化であり、善であるというアメリカの独善も非難する。」(『一坪反戦通信』2001年9月28日)

大きな骨は他にもある。基地経済依存を脱却するためには、「貧乏になってもいいから言いたいことを言うという覚悟が必要だ」と、本書で何度も言い放っているのだ(この場合、「主張」とは違うのかな)。

『琉球新報』の書評(新崎盛暉、2010年1月17日)には、のっけから「さまざまな要請・連帯行動のために上京したことのある平和運動関係者で上原成信の名前を知らない人はいないだろう」とある。短い本だが、とても貴重な話を聞かせていただいたという印象だ。


フォクトレンダー・ヴィトマティックII

2010-02-23 00:42:02 | 写真

ドイツのフォクトレンダーが1950年代後半に作ったカメラ、ヴィトマティックII(Vitomatic II)。以前、その前のタイプのヴィトーBを使ったことがあったが、距離が目測式で使いにくかった。これは連動距離計が付いて便利になったタイプだが、その代わり、コンパクトさは少し失われた。それでも、ヴィトーBと同じ工夫が施されていて、やっぱり小さい。

レンズはカラースコパー50mmF2.8。下の写真のように陽だまりでF8くらいに絞ったら、素晴らしく精細で、現代のレンズと何も変わらない。ポートレートで絞りを開け放ったら、これが気持ちよくソフトだ。このレンズをライカマウントに改造できると嬉しいのだが。


冬の陽だまり Voigtlander Vitomatic II、Color-Skopar 50mmF2.8、アスティア100、DP


松本清張『ゼロの焦点』と犬童一心『ゼロの焦点』

2010-02-22 00:48:37 | アート・映画

飛行機内で観た、犬童一心『ゼロの焦点』(2009年)が思いのほか面白かったので、松本清張の原作(1959年)も読む。清張の語りは、賽の河原で石の山がじりじりと組み上げられていくようで、寒く、怖く、重い。一方、不思議な映画『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)(>>記事)を撮った犬童一心の手腕か、映画は面倒な設定をうまく置き換えて、コンパクトにまとめられている。しかし、この年月と情念の重さは、短い映画には向いていないのではないかと思ってしまう。

両者を比べてみて、映画のほうにこそあった優れた点。主人公・広末涼子の早々に死んでしまう夫の「現地妻」とでも言うべき女性・木村多江の人間味と弱さを見せたこと。木村多江と同様、敗戦直後に「パンパン」であった女性・中谷美紀の上流社会での活躍を、女性の社会進出に尽力する様子として描いていること。「パンパン」であったことを公衆の面前で暴かれ、内部から崩壊する中谷美紀の演技。おぞましい場面のスペクタクル。

そして、映画で失敗しているのは、広末涼子だ、というより、その使い方である。「あなたは私の夢を奪った」と月並みな台詞を吐いて中谷美紀をビンタする。すべてが終わったあと、実家の庭先で少女趣味のような白いハイソックスを履いて、吹っ切れたように明るくしている。これではモヤモヤした重さが吹き飛んでしまうではないか。


ポール・オースター『Invisible』

2010-02-21 07:00:00 | 北米

デュッセルドルフの中央駅(ハウプトバーンホフ)の中にある書店で、荷物になるのに、ポール・オースターの最新作『Invisible』(2009年)を買った。書店内は当然ながらドイツ語の本ばかりで(もう数字の読み方しか覚えていない)、英語の本は外国書コーナーにあった。土地柄か、日本人の母子が本を物色していた。

長いフライト時間に読もうと思っていたが、映画を観る以外は疲れ果てて爆睡していて、半分も読めなかった。そんなわけで、ようやくのまともな休日に読み終えた。

何故か、読む前は「透明人間の話」だろうと勝手に思い込んでいた。というからには勘違いだったのだが、『ミスター・ヴァーティゴ』では空を飛ぶ男を主人公にしているから、さほど馬鹿げた思い込みというわけでもないだろう(笑)。

それでは、何が「Invisible」か。ストーリーの大半は、間もなく死を迎える男が書いた、若い頃の自分に関する手記である。20歳の頃の異常な体験を綴った手記、それは40年以上を経て、その頃のルームメイトに送りつけられる。読者は、主人公がこの世界から消滅しつつあることを知りながら、その声に耳を傾けることになる。また、主人公は、幼い頃に亡くなった弟に対する罪の意識を抱え、<不在>の弟とともに生きている。

それだけではない。初老のルームメイトは、手記の足跡を追っていくうちに、かつて20歳の主人公に一方的に恋をした女性のもとに辿りつく。そして、女性は中年となり、主人公の人生を決定的に狂わせた男―――いまは大西洋の孤島に住んでいる―――に会いに行く。本作最後の奇妙なプロットである。その話は、やはり女性の日記のコピーという<不在>の形で語られるのだ。

本作全体には、オースター世界としか言いようのない雰囲気と設定が横溢している。『鍵のかかった部屋』にも見られた、若くイノセントな青年とその後の破滅的な人生。『偶然の音楽』にもみられた、偶然というには呪われすぎている、他人の死との交錯。『リヴァイアサン』でもみられた、「アメリカ」なるものへの近親憎悪。面白く読みながらも、やはり寂しく、そしてマンネリ感を覚えてしまう。目新しいものといえば、途中で性描写が延々と続くことだが、ちょっとこれは外で読むには恥ずかしい。

しかし、最後の場面(女性の日記のコピー)に至り、あまりにも奇妙で、その奇妙さや<不在>の残響音が耳の中にわんわんと残るのには驚かされる。<不在>であるからこその時と場所を跨ったリアリティ。これも傑作なのだろう。

●参照
ポール・オースター『Travels in the Scriptorium』
ポール・オースターの『ガラスの街』新訳


ラーメンは国境を超える(笑)

2010-02-18 23:30:38 | 食べ物飲み物

上からパリ、ロンドン、デュッセルドルフ。パリは現地の人たちで連日行列ができるほどの大賑わい。ロンドンはオリジナリティがありすぎてハズレ。デュッセルドルフは日本人駐在員たちのための日本人による日本のラーメン(だって西山製麺を使っている)。といっても、これが何も現地のラーメン事情を象徴するわけではない(たぶん)。


テート・モダンとソフィアのゲルハルト・リヒター

2010-02-17 23:52:00 | アート・映画

ヨーロッパ行。合間をぬって大美術館に足を運んだ。ルーブル美術館ではレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」やヨハネス・フェルメールの「レースを編む女」「天文学者」、グラン・パレではクリスチャン・ボルタンスキーの新作、ロンドンのナショナル・ギャラリーではフェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」「ヴァージナルの前に立つ女」やジョルジュ・スーラの「アニエールの水浴」、マドリッドのソフィア美術館ではパブロ・ピカソの「ゲルニカ」とその習作群、プラド美術館ではディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」やゴヤの膨大な作品群など、歴史的な傑作をいくつも観ることができた。略奪物の殿堂とも言うべき大英博物館では、じっくり観て廻るのに5時間を要してしまった。

ゲルハルト・リヒターの連作2点に思いがけず遭遇したことも嬉しい出来事だった。

ロンドンのテート・モダンでは、「ケージ」と題された6点の連作が展示されていた。もちろん、ジョン・ケージに捧げられたものだ。ペインティングナイフでの削り取り(重ね塗りではない)による、異なる色のマルチレイヤー作品である。(>> リンク

マドリッドのソフィア美術館には、緑と黒を主体にしたマルチレイヤーの4点連作があった。

これまでワコウ・ワークス・オブ・アート、川村記念美術館、東京都現代美術館、国立近代美術館などでリヒター作品を何度も観ているが、その度に、心臓がぐるりと回り、畏怖とも愉悦ともつかない強い強い印象を抱く。

いま初台のワコウ・ワークス・オブ・アートでも「New Overpainted Photographs」と題した個展が開かれている(>> リンク)。ここでのリヒターの個展は、1997年に足を運んで以来だ。その間に何度も開かれ、見逃し続けている。今回こそ終わる前に駆けつけなければ。


クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」

2010-02-16 02:18:35 | ヨーロッパ

パリで時間が出来たので、グラン・パレ(1900年パリ万博の会場)で公開されているクリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションを観るために足を運んだ。「MONUMENTA」というアート・イベントを、今年、ボルタンスキーが担ったのである。なお、2007年にはアンゼルム・キーファーが、2008年にはリチャード・セラが手がけたそうである。

「MONUMENTA 2010」のタイトルは、「Personnes」と題されていた。英語で言えば「people」、「nobodies」を意味するという。しかし、実際には、そこから想起される匿名性とはズレがあり、ひとりひとりの固有性が群れとなっているイメージに近いものだった。

会場に入ると、扉の向こうには壁、そして地鳴りのような音。壁の材料は金属の箱であり、これまでのボルタンスキー作品でもしばしばみられている。例えば、「死んだスイス人の資料」(東京都現代美術館所蔵、2000年)では、やはり金属箱で組み上げられた壁、そして箱のひとつひとつに死者の顔写真が貼り付けられている。それはモニュメントであり、ホロコーストによる死者のための祭壇であった。

「Personnes」の入口の壁は、そのような死者を弔う祭壇ではない。壁を迂回すると、巨大な空間の床には、何十もの矩形が仕切られており、それぞれに古着が敷き詰められていた。矩形の4隅には鉄骨の柱が立てられており、そこにスピーカーが設置されていた。地鳴りの源はこれだ。

スピーカーからは、地鳴りそのものが発せられているわけではなかった。人間の心臓の鼓動音だ。それが何十もの音群となり、巨大な空間を震わせているのだった。

そして、大きな古着の山が聳えている。山の上では、クレーンからぶら下げられた金属のクローが上下に動いている。山頂の古着を掴んでは持ち上げ、放す。古着はひらひらと山に落下する。クレーンのキリキリキリという甲高い音が、地鳴りの低音に残酷に参加している。

これまでのボルタンスキーを代表するようなモニュメントとは大きく異なり、生と死の空間が、巨大なグラン・パレの内部全体に生まれていたのだった。これは恐怖である。

会場でプレス書とDVD『Les Vies Possibles De Christian Boltanski』(H.P. Schwerfel、2010年)を入手した。帰国してプレスの解説を読み、DVDに収録されているボルタンスキーのインタビューと「Personnes」設営状況の映像を観た。

やはりこれは死のイメージであった。1944年にユダヤ人として生まれたボルタンスキーは、死の風景と口承に取り囲まれて育っている。父親は、床を二重にして、その間に横たわるようにして隠れていたという。

曰く、ダンテ的な地獄の入口を通過して、これを観る者は、匂いや汚れを含めた生命の痕跡を強烈に感じさせる古着、それも大量の古着を目の当りにして、死へと向う此岸と彼岸との間を予感することとなる。空間全体も、金属のクローも、ホロコーストの大量虐殺の二重写しを想起させられないわけにはいかない。

ボルタンスキーのインタビューでは、自らを「ミニマリズム」の作家だと位置付け、金属の壁を「ドナルド・ジャッドのような」と表現している。しかし、これには違和感がある(もっとも、作家自身の持つイメージは核心にあるとは限らない)。彼の従来のモニュメント作品は、辛うじて「ミニマリズム」だったのかもしれないが・・・。

プレス所収の論文『Big Mortal Toy (Fragments)』(Georges Didi-Huberman)には、このようにある。ボルタンスキーの作品において、小さな存在は(死者の白黒写真であり、ここでは古着だろう)、いかに些細でナイーヴであっても、ヴァルター・ベンヤミンのいうアウラ―――宗教的で、恐るべき―――があるのだ、と。そして、ボルタンスキーによる次の発言を引用している。

We ourselves are made only by the dead; we are jigsaws made up of the dead.

すなわち、モニュメントも含め、ミニマルな生と死の無数の痕跡が、ジグソーのピースとなり、この世界を作り上げているのだと考えることができるのだろう。

それにしても、このようなインスタレーションの形でホロコーストの記憶を再構築し、新たに現代の人間に想起させ続けるボルタンスキーの手法には、いろいろと考えさせられるものがある。港千尋『映像論』(NHK出版、1998年)は、ドキュメンタリー映画『ショアー』(クロード・ランズマン)を取り上げ、実際に肉体的に起きた「記憶の抹消」を顧みない記録映像の使用を「特権的な態度」だとしている。『ショアー』は記録映像を使わず、かつて起きたことの想起という営みによって作られているのである。

一方、スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』(河出文庫、2008年)においては、アドルノの言葉「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」を匡そうとしている。アウシュヴィッツ以降に不可能になったのは詩ではなく、散文だという指摘だ。

アウシュヴィッツで起ったことについての説得的な虚構的描写を制作するよりも、アウシュヴィッツについてのドキュメンタリー作品を観るほうが楽なのは、なぜだろう? (略) 
ドキュメンタリーの写実主義は、したがって、虚構に耐えることができなくなった人びとのためにある。その重さ、それはあらゆる物語的虚構で作用しているファンタジーの過剰である。収容所という耐え難い環境を詩〔創造〕的に喚起することが正鵠を射ているのだ。それに失敗したのは、写実主義的散文のほうである。

さて、このボルタンスキーによる「Personnes」が「特権的」か。答えは難しいだろう。しかし、ボルタンスキーが異常な難死を自らに近いものとして生まれ育ったことを差し引いても、大量虐殺の恐怖を極めて直接的なものとして提示していることは間違いない。

●当日の映像(デジタルカメラによる) >> リンク


スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』

2010-02-15 00:50:32 | 政治

パリ、ロンドン、ブリュッセル、デュッセルドルフ、マドリッドと、しばらく西欧をまわってきた。12日間で5都市だからかなりのハードスケジュールである。

行きの便では、スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』(2008年、河出文庫)を読む(結構手こずり、読了したのは寒くて出られないドイツのホテルだった)。

膨大な引用と過剰なレトリックの割に、ジジェクが時に放つメッセージは拍子抜けするほど凡庸である。また、時折あらぬ方向に暴走する側面にも脱力してしまう。しかし、これはイデオロギーの書でもプロパガンダの書でもない。むしろ、ジジェクが矢鱈にあちこちにプラグインする言説に、当方のコンテキストで淡々とプラグインしてみるための書だ。

<外部>の生成。資本主義も共産主義も、数限りなく取り返しのつかない失敗を繰り返してきた。ここで誤謬とされるのは、主義の怪物化を、その本質と離反する<外部>に帰する言説だ。例えば、本質的に主義とは異なる<帝国主義>を外敵とみなすように。また、スターリン主義において<準富農>という階級をグラデーションのなかに作り出し、外敵構造を誘い出したように(これは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』において看破した、マージナルな領域を敢えて作り出した動きとも重なる)。

そうではなく、多くの<別なるもの>は、主義みずからへの回帰に他ならない。ジジェクは、『スター・ウォーズ』をその例として挙げる。帝国が共和国を征服したのではなく、帝国が共和国そのものであったのだ、と。ここでジジェクはネグリ/ハートを引用している。

内なる矛盾の併呑、これがジジェクによる毛沢東への視線のようである。鄧小平を経て現代の中国に至り、「・・・その制限なき市場支配に制約を加える場合にだけ、資本主義が完全なる繁栄を誇ることができるといった竹箆返し」についても、みずからへの回帰として提示されている。デヴィッド・ハーヴェイが『新自由主義』において、現代のネオリベ国家は中国であると言ったとき、非常に違和感を覚えたものであったが、ここにみられる視線は同質のものである。

返す刀でジジェクは主張する。<革命>を活かし続けるには、絶え間なく繰り返される<紛いの無限性>、または<永久的自己革命>が唯一の手段であったのだ、と。これは非常に危うい考えであるように思われる。革命国家が一方で絶えず内部に作り出す<外敵>との闘争(例えばスターリンによる粛清や文化大革命)との差異は何だろうか。<紛いの無限性>という場合に、暗に回帰すべき<本質>を想定してはいないだろうか。勿論、ジジェクは文革が惨めな失敗であったことにも言及しているのだが、さて、その辿りつく結論めいたものは、例えば、戦争については「まず反対し、次いで恐れない」ことだけが正しい姿勢だなどという嘯きである。これでは容易に、近代中国の人命軽視や、日本軍の死を賭した態度の肯定に転んでしまう。

それは置いておいても、二項対立に堕してしまう<外部>化という考え方は非常に興味深い。<テロとの戦争>はわかりやすい例であり、自由と民主主義を支持するのか、それとも反対するのか、という吐きそうな言説となって流布している。

選挙制度という、本来<民主主義>を実現するための制度さえ、国家権力を<外部>として見なすための装置となっているようだ。そしてそれは暴力でもある(沖縄を例に挙げるまでもなく、現代の日本において、これは常識である)。ジジェクは、ベンヤミンの表現を用いてこう言っている。「民主主義は、制定された暴力を大なり小なり取り除くことができるが、依然として制定する暴力に依存し続けねばならない」、と。

そして二項対立から三項目の楔の存在へ思索は進む。具体性を欠いているものの(このような局面で、ジジェクは突然に純真な政治青年と化す)、示唆的なところである。

民主主義には、基本において相容れない、二側面がある。一方には「員数外」または「非-部分の部分」の者たちが存在する。彼(女)たちは、形式的には、社会組織に含まれてはいるものの、その内部に確たる場をもたない者たちが体現する平等の暴力的な強制という側面を担っている。他方には権力執行者を選任するに当たっての(多少とも)制御された普遍的手続きという側面が存在する。この二側面はどのように切り結んでいるのか? 後者の意味における民主主義(「人民の声-票」を登録する制御された手続き)が、究極的には、みずからとは対立する一つの防衛、すなわち社会組織の位階的機能を撹乱する平等の論理の暴力的侵入という意味での民主主義〔前者〕に対立する一つの防衛、この過剰を再-機能化し、社会システムを規範的に作動させるための一部分として組み入れる企てだとすればどうだろう?
 したがって問題は、暴力的な平等主義的民主主義が孕む衝動を制御/制度化しながらも、この衝動を語の第二の意味〔制御された手続き〕での民主主義のなかで溺死させないようにするにはどうするか、である。この方法がなければ、「真正の」民主主義は理想郷の束の間の突出に留まることになり、よく知られた「宴の後」のように、規範化されてしまうことになるだろう。

●参照
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集(2008年1/2月号)
『情況』のハーヴェイ特集(2008年7月号)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』


旧江戸川のゆりかもめ、カワウ、ドバト

2010-02-03 00:37:06 | 関東

毎日、旧江戸川沿いの土手を歩いている。鳥は日によって、杭の上にとまっていたり、舟の上にずらりと並んでいたり、水上にいたり、もぐってみたり。カワウはどこのコロニーから飛んできているのだろう。


ゆりかもめ Pentax MZ-S、FA☆200mmF2.8、Velvia 100、DP


カワウ Pentax MZ-S、FA☆200mmF2.8、Velvia 100、DP


ドバト Pentax MZ-S、FA☆200mmF2.8、Velvia 100、DP

参照
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(カワウ)


『その街のこども』

2010-02-02 01:07:54 | アート・映画

大友良英が音楽を担当したということで、気に留めていながら、忘れていたNHKのドラマ、『その街のこども』。反響が凄まじいようで、早々に再放送したのでようやく観ることができた。

阪神・淡路大震災から15年。当時こどもだった2人(佐藤江梨子、森山未來)が、降り立った新神戸の駅で知り合い、夜を徹して追悼式典がある遊園地まで歩く。ドラマはほとんどが深夜の街の雑踏で交わされるふたりの会話。カメラが生々しく、会話とともに環境音が入ってくる。大友良英の音楽は抑制されていてとても良い。脚本は『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)(>>記事)も書いた渡辺あや。

何だかじわじわと感情に波が立てられる。観たあとも静かな響きがある。テレビドラマはほとんど観ないが、これはかなり出色なのではないか。

震災当時、私は地震研究所に居て論文を書いていた。何も知らずに、いつものように出ると、大騒ぎになっていた。神戸大学に進んでいた高校の同級生が亡くなったことは後で知った。しかし、東京では日常生活が続いていた。

●リンク
>> 『大友良英のJAMJAM日記』(2010-1-20 放送から3日目)
>> 公式サイト


仲里効『フォトネシア』

2010-02-01 06:00:00 | 沖縄

昨年から気になっていた、仲里効『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』(未来社、2009年)をようやく読む。

比嘉康雄、比嘉豊光、平敷兼七、東松照明、平良孝七、石川真生、大城弘明、嘉納辰彦。それぞれの抱えるものと生み出す写真、そして相互の影響とそのねじれが語られてゆく。当然、出身地や沖縄返還、基地による歪みは、ありようは異なれど、それぞれの写真家に少なからぬ影響を及ぼしている。著者は、それを感傷的に過ぎるのではないかというほどのスタンスで、批評を展開している。

ヤマトゥから来た余所者・東松照明に関して、そのことによる視線が交錯し続けている。私にとっても、東松照明の写真には、懐に入りはしてもどこか距離を置いたドライなものを感じさせられている。

もっとも、東松照明の沖縄に対する思いはひときわ真摯であったように思われる。

「いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。
 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。」
(『カメラ毎日』1972年4月号所収「南島ハテルマ」)

『フォトネシア』において興味深いのは、東松照明が沖縄から文化のグラデーションを<アンナン>に見ていたという指摘である。安南、東南アジアへのクロスボーダーである。ヤマトゥの原郷を沖縄に見出そうとした柳田國男らの<南島イデオロギー>とは似て非なるものだ。東松は偉大な思想家でもあった。

そしてこの南方との(南方からの、でも、南方への、でもない)クロスボーダーの視線が生まれたころ、東松照明の写真がモノクロからカラーへと変化している。写真家本人は、このとき、ヤマトゥからも米国からも離脱したのだという。これはどういうことだろう。

●参照
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
沖縄・プリズム1872-2008
東松照明『長崎曼荼羅』
東松照明『南島ハテルマ』
石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
仲里効『オキナワ、イメージの縁』
村井紀『南島イデオロギーの発生』