工藤敏樹というNHKのドキュメンタリストが制作した、山本作兵衛に関するドキュメンタリー『ぼた山よ・・・』(1967年2月18日放送)を観る。「ある人生」というシリーズの1本であり、2008年に「日本映画専門チャンネル」が放送したものだ。
山本作兵衛、明治25年生まれ。鉄道開通により、福岡・遠賀川の船頭の職を失った父親に連れられ、8歳で筑豊のヤマ(炭鉱)に入る。いくつものヤマを転々とし、昭和30年、働いていたヤマの閉山により失職。次に就いたのは、ヤマ跡から掘り出した資材を見回る夜警だった。60歳を過ぎ、突然、ヤマの記憶を絵に描きはじめる。
粉炭と煤煙にまみれ、ヤマを出ても行くところがない炭鉱労働者は、いわば渡り鳥であった(ふと原発労働者のことを思い出してしまうのだが)。酒、博打、喧嘩、夜逃げ。秩序を乱す者を見せしめのために拷問にかけるのは日常茶飯事で、なくなったのは戦後になってからだという。ツルハシから始まった採炭法はどんどん進歩し、かたや、「黒ダイヤ」として日本産業の発展を支えた筑豊の炭鉱は、戦後しばらくして、終焉を迎える。
わずか30分のドキュながら、ヤマという産業装置が如何なる凄絶な場であったか、そして、パブリックなものに決してならないその記憶に再び命を与える山本作兵衛という素人画家が突出した存在であったかを、生々しい迫力をもって伝える映像である。
20代前半にして、山本は「何の真似だと仲間に嘲られながら」、漢和辞典のすべての漢字をノートに書き写し続ける。そのようなエピソードでもわかるような「失われたものへの異常な記憶力」は、行き場を求め、すり切れた筆を使っての絵に辿りつく。何と、山本の描く人びとの着物の柄はすべて異なるものだった。
ドキュの最後、ヤマの厚生年金と戦死した長男の遺族年金によって暮らす山本作兵衛が、ちょっと甲高い声でワークソングらしきものを唄う場面がある。歌詞はよくわからないが、節を「・・・ごっとん。」と締める様子に、蓄積の重みを感じざるを得ない。
ついでに、NHK「新日曜美術館」において放送された『よみがえる地底の記憶~世界記憶遺産・山本作兵衞の炭坑画~』(2011年9月11日)(>> リンク)を、改めて観る。工藤敏樹のドキュ撮影時74歳であった山本作兵衛は、その後もヤマの絵を描き続け、2000枚もの作品を残し、92歳で亡くなった。
ここでは、昭和53年、山本86歳のときのカラー映像が紹介されている。やはり、同じワークソングを唄っている。炭鉱労働者たちが唄い継いだ「ゴットン節」というのだった。労働者夫婦が、かつての山本自身のような息子を連れ、地下の炭鉱に入っていく絵。そしてその「ゴットン節」は、何とも言えないものだった。
「七つ八つから/カンテラ下げて/坑内下がるも/親の罰/ゴットン」
この番組では、「ゴットン節」だけでなく、工藤敏樹のドキュに入りきらなかったであろう側面を紹介している(勿論、カラー映像もそのひとつだ)。山本が絵を描きはじめる前、実は、その溢れんばかりの記憶を手記として残そうとしていた。しかし、迷惑がかかる人がいるに違いないとの理由で妻に反対され、原稿用紙1400枚を焼いたのだという。すんなりと、退職後の手慰みとしてはじめたものでは、決してなかった。
また、消えゆくものはパブリックな記憶だけでなく、ボタ山もそうだった。昭和40年代後半、ボタ山は建設資材として重宝され、生活と産業の記憶ごと、人びとから無くなろうとしていたのだ。
番組には、上野英信と山本作兵衛との交流を語る、息子の上野朱氏も登場する。上野英信も、ヤマの記録を残し続けた存在だった。
現在、福岡県田川市(当時、田川郡)には、田川市石炭・歴史博物館があり、山本作兵衛の作品を多数収蔵しているという。去年北九州に足を運んだ際、立ち寄れないかなと思いつつ時間がなくて叶わなかったところだ。あらためて機会を見つけて行きたくなってしまった。