Sightsong

自縄自縛日記

ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』

2013-12-31 11:28:10 | 中南米

ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』(1966年)を観る。ボリビアの映画製作グループ「ウカマウ集団」によっていくつかの映画が撮られてはいたものの、本作がボリビア初めての長編映画である。

小作農は、ジャガイモや魚を地主に買い取ってもらう。そこには圧倒的な生活水準の差と権力関係がある。ある日、地主は、小作農が自分のところに作物を納めずに町の市場に出かけたことを知る。地主は立腹し、さらには欲望に衝かれ、小作農の妻を暴行し、殺してしまう。町から帰ってきた小作農は死ぬ間際の妻から犯人の名前を知るが、彼はそれを隠す。地主は不安に憑かれ、贖罪の餅を口にしたり、精神のバランスを崩した言動を行うようになる。そして、地主がひとり鉱山に出かける機会が訪れる。小作農は追いかけ、復讐する。

権力関係の実態を晒そうとした映画なのだろうか。初長編にもかかわらず、サンヒネスの手腕は確かであり、クローズアップとカットバックが効果的。生活の手仕事、こちらを凝視する視線も印象的。

サンヒネスの新作『叛乱者たち』の日本公開はまだだろうか。モラレス政権のもと、サンヒネスは、どのような世界を見せようとしているのだろう。

>> ホルヘ・サンヒネス『Ukamau』

●参照
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』


ジャック・デリダ『言葉にのって』

2013-12-30 21:53:59 | 思想・文学

ジャック・デリダの対談集『言葉にのって 哲学的スナップショット』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。

Wikipediaのデリダに関する頁を読むと、ノーム・チョムスキーが「単純なアイデアをむやみな修辞で記述している」と批判していたとあって、吹き出してしまう。晦渋はデリダに限った話ではないと思うのだが、たしかに、このような対談集においてすら、無駄に言葉をこねくりまわしているような気がしてくる。対談でも難解だと指摘され、デリダは、正確に読解しないほうが悪いなどと開きなおっている(笑)。

まあ、それは下らない話。わたしのような門外漢は、難解なテキストを音楽を聴くように体感し、自分勝手な解釈をする自由が与えられていると思うだけである。

ここでデリダは、エマニュエル・レヴィナスに言及する(デリダは『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』という本も書いている >> リンク)。苛烈なる他者論である。すなわち、他者を認めるとは、まったく予測不可能な域にわが顔を晒さなければならない。現象が如何に理不尽で異常なものであっても、である。それが歓待の本質であるとする。

「たんなる良識とでも言えるようなものに依拠するならば、友愛や歓待や正義は、他者の他者性が、繰り返し言いますが、無限の、絶対的で殲滅不可能な他者性が、計算不可能ではあるけれども、勘定に入れられるところにおいてしか、存在しえません。(略)彼(レヴィナス)が友愛と歓待について語るときに、彼は《善良な感情》に屈してはいなかったのです。」

「私が《ここに私がいます》と言うとき、私は他者を前にして責任があるのであり、《ここに私がいます》は、私がすでに他者の餌食であるということを意味するのです(《餌食である》は、レヴィナスの表現です)。」

餌食! まさに近現代の国家論とは対極に位置する思想ではないのか。ここまで言われると、どうすればいいのかと竦んでしまう。

しかし、そこまでの覚悟ではなくとも、レヴィナス=デリダの他者論には重要な示唆があるのであり、それこそが、現在もナショナリズムまたはレイシズムという野蛮のもとに潰され続けていることだ。

「言語は身体なのであって、それを放棄することを彼に求めることはできないのです・・・・・・。それは、伝統であり、記憶であり、固有名詞なのです。もちろん、今日、ある国民国家に対して、迎え入れる人々に言語を、おのれの文化のようなものを習得することを放棄するように求めるのも、やはり困難です。」

また別の対談においては、デリダが『死を与える』(>> リンク)において思索したテーマが俎上にのせられる。『旧訳聖書』では、アブラハムは、自分だけに聞こえた神の声に従い、それを誰に言うこともなく、息子イサクを生贄にしようとする。予測不可能で理不尽な試練であり、ここにおいて、レヴィナスの他者論と重なりあってくる。そして、デリダは、各々の代置不可能な独異性のもとで他者に向き合わなければならず、必然として、「いかなる善良な意識も可能ではない」という結論を示す。責任とはその上で生じるというわけである。

こういった矛盾と難題の中での決定、肯定の態度こそが、脱構築のプロセスというように考えるのだろうか。

ただ、議論が「赦し」にいたると、手がつけられなくなる。「赦し」とは、デリダによれば、赦してもよいときにあらわれるものではなく、赦してはならないものに差し向けられなければならない。ここでも「予測不可能」である。類のないものとしての「赦し」であり、それは、歴史のプロセスのなかにも与えられると示唆する。それでは、侵略と虐殺の歴史、しかも血と記憶が拭い去れないものに対する「赦し」はどうあるべきだというのか。もちろん「予想不可能」である。しかし、答えが、加害の側による歴史の改竄や修正にないことは確かである。

「赦しや和解などのない歴史はありません。そして同時に、赦しの中には歴史を超える何かがあります。その何かは、歴史を中断し、狂気の瞬間のように逆説的で予想もできない瞬間において、彼方に立ち上がるのです・・・・・・。」

●参照
ジャック・デリダ『死を与える』
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』
エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』
エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
合田正人『レヴィナスを読む』


鳥原学『日本写真史』

2013-12-29 22:25:59 | 写真

鳥原学『日本写真史』(上、下)(中公新書、2013年)を読む。

写真の日本到来と受容から現在のシーンまでを、社会のありようと関連付けて追った通史。好きな写真家たちが歴史の中に位置づけられることは新鮮かつ快感でもあり、あっという間に読了してしまった。

写真とは技術であり、芸術であり、手段であり、メディアである。何でもないもの、でもある。だからこそ容易にはとらえられない。

戦時中、日本の写真家たちは戦意高揚と情報操作のためのプロパガンダに協力した(間接的な形、意図せざる形であっても)。戦後の反省や、作品への影響は大きかった。しかし、権力との距離という課題はいまもついてまわっている。逆に、プロパガンダや安易な商売に堕すことのない写真活動も、影響力を持ち続けている。

もちろん、写真はたんなる告発の手段に終わるものではない。しかし、有効な告発の手段にもなりうる。それは、新たな視線を獲得し、それを提示するという形かもしれない。これも写真の奥深さか。

いまや写真を誰もが撮って共有する時代。今後の姿がどうなるかについては、著者も揺れ動いているように感じられる。それは当然のことである。「眼」って何、「手」って何、というのと同じものになっているのだから。

多士済々の生み出してきた写真群をどのように位置づけるか、本書を出発点にして各々が考えを巡らすのも悪くない。また何度も読んでしまいそうである。


鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』

2013-12-28 23:38:05 | 関西

鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』(1980年)を観る。

織田と豊臣に滅ぼされんとする伊賀忍者の百地三太夫(真田広之)。豊臣に仕える甲賀忍者の不知火将監(千葉真一)。徳川に仕える、やはり伊賀忍者の服部半蔵。何だかよくわからない白髭の先生(丹波哲郎)。百地が逃げていた先の明国で知り合った愛蓮(志穂美悦子)。

あきらかにJAC(ジャパンアクションクラブ)を売り出すプログラム・ピクチャーなのだが、ひたすら下らなくて面白い。石川五右衛門は大勢での創作であった、とか、明から何故か真田広之を追いかけてきてチャイナドレスとヌンチャクで闘う志緒美悦子とか、冗談のように目をひん剥いて千葉真一を演じる千葉真一とか、いちいち笑ってしまう。もう、「面白ければ何でもいいや」である。いや~、いいね鈴木則文。

ミャンマーでは千葉真一(サニー千葉)を知らぬ者がないほど大人気。今年訪れたヤンゴンでは、タクシー運転手が、水を向けた途端に待ってましたとばかりに雄弁にサニー千葉のことを語りはじめた。彼はこの映画も観たのかな。


福島原発の宣伝映画(2)『目でみる福島第一原子力発電所』

2013-12-28 15:52:41 | 環境・自然

福島第一原子力発電所の宣伝映画『目でみる福島第一原子力発電所』(企画:東京電力、1991年)が、科学映像館により配信されている。やはり同じ目的で製作された『黎明』(1967年)、『福島の原子力』(1985年)に続くものである(>> リンク)。

まずは伸びるエネルギー需要への対応が必要なことを述べたあとに、福島県浜通りが地盤も気候条件も最適であることが紹介される。そして、GE社とのターン・キー契約(運転開始までメーカーが責任を負う)により、30mの断崖を掘り下げて設備を建設したのだと続ける。

たしかに、これだけを見ていたのでは、違和感を覚えないだろう。しかしながら、「3・11」の事故のあと、まさにこのターン・キー契約のために個別のコスト削減の交渉が難しいことが、「折角の高い地盤を掘り下げる」という方法になったことがわかっている(NHK・ETV特集『シリーズ原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論』、2011/9/18)(>> リンク)。すなわち、冷却水を30mまで持ち上げることはコストアップになり、パッケージのターン・キーでは改善が難しいという事情であった。その観点から、GE社との打ち合わせや、掘り下げる土木工事や、キーそのものの映像を観ることには辛いものがある。

そして、原子力発電の仕組みと安全性について、繰り返し説明がなされる。

立地・建設のプロセスを問題とする視点もあったし、放射性廃棄物の処理の問題も取り上げられていた。しかし、技術的な安全性については、多くの人が信じていたのである。もっとも、その一方では、石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』(『科学』誌、1997/10)(>> リンク)のように、事故を予見したかのような適確な問題提起もあった。

ここでは、設備は故障し、人間はミスをするものだという観点から、何かの異常が起きた際には、「止める」、「冷やす」、「閉じ込める」を徹底するのだと紹介している。実際のところ、「止める」ことも、「冷やす」ことも、「閉じ込める」こともできなかった。

もうすぐ事故から3年が経とうとしている。

>> 『目でみる福島第一原子力発電所』(科学映像館)

●参照(原子力)
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
『これでいいのか福島原発事故報道』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
前田哲男『フクシマと沖縄』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
『neoneo』の原発と小川紳介特集
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
黒木和雄『原子力戦争』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』
纐纈あや『祝の島』

科学映像館が公開する映像の数々


川島雄三『洲崎パラダイス赤信号』

2013-12-28 11:49:39 | 関東

川島雄三『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)を観る。

洲崎には、売春防止法(1958年)によって赤線が消滅する直前まで、遊廓があった。現在の江東区東陽1丁目であり、木場駅と東陽町駅との間あたりのようだ。テンポよく人情を描く手腕が見事。

こんど、あのあたりのラーメン屋に行きがてら徘徊してみよう。年末もやっているかな。

●参照
『青べか物語』は面白い
浦安市郷土博物館『青べか物語』展


和田春樹『北朝鮮現代史』

2013-12-28 08:38:30 | 韓国・朝鮮

和田春樹『北朝鮮現代史』(岩波新書、2012年)を読む。

「これでは北朝鮮のようだ」などといった表現が頻繁に使われるが、実際のところ、それはタカをくくっているのであって、国家の歴史や実状はほとんど認識されていない。その点で、本書は第一人者による通史であり、読み応えがある(文章は生硬だが)。 

金日成は平壌に生まれ、満州国設立前の吉林で学び、やがて中国共産党のもとで遊撃隊を率いて抗日活動を行った。同時に武装闘争を行った楊靖宇は日本軍に射殺されるが(1940年)(澤地久枝『もうひとつの満洲』)、金日成は生き残り、戦後、故郷に凱旋する。確かに傑出した人物であったのだろう。

なお、すでに伝説のように語られていた金日成本人が民衆の前に姿をあらわしたとき、あまりの若さに驚きの反応があった。そうでなければ、きびしいゲリラ闘争を続けおおせたはずはない。ちなみに、これをもとに金日成の出自を改竄だとして、そのことを朝鮮学校の否定に結びつける者もあるが(>> リンク)、くだらぬことだ。

朝鮮戦争(1950年~)は、米ソの両陣営の衝突ではあったが、実状は、米中の戦争であった。北朝鮮でも、中国において共産党が国民党を掃討したことを意識していた。

一方、ソ連の立ち位置は、このときも、この後も、常にパワーポリティクスを考慮して揺れ動いた。結局は、ソ連の崩壊(1991年)が、経済面からも、イデオロギーの面からも、北朝鮮に大打撃を与えることとなる。なお、やはり共産党政権のベトナムが対米戦争に勝ったことを意識して、北朝鮮も韓国内部での工作を仕掛けたが、うまくいかなかったようだ。

1960年代頃から、北朝鮮は遊撃隊国家と化す。首領・金日成以外は、個々が日本と闘うという思想であり、およそ近代国家とは言えない。しかし、国際関係や経済の悪化に伴い、それは維持できなくなった。カリスマたる金日成が没した(1994年)ことも、その原因であった。金正日政権となり、国家のかたちは、軍が率いる「先軍政治」(著者のことばでは「正規軍国家」)へと変貌した。金正日に対する評価はことごとく低いが、本書によれば、軍への求心力を保つための行動は驚異的なものであったという。

北朝鮮は決してフテ腐れてならず者国家の道を選んできたわけではない。米国との交渉も、日本との交渉も、互いの思惑がかみ合わなかった。その挙句、日本は強硬一辺倒と化してしまった。その最右翼が現政権であることはいうまでもない。(もっとも、第一次政権時には、北朝鮮に歩み寄った米国に梯子をはずされた形となったわけだが。)

金正恩政権ではどのようになっていくのか。著者は、正規軍国家から、党が主導する国家へと変わっていくだろうと言う。しかし、金正日は、最高ポスト(国防委員会委員長、党総秘書、党中央軍事委員会委員長、最高軍司令官)をひとつも息子に譲らずに死んだ。それは「明らかに金正日がそうすべきでないと考えていたからに他ならない」という。その不安定な体制のもとで、本書でも紹介されている張成沢が、つい先日、 金正恩によって突然粛清された。まさに時々刻々と変わっていく政治状況なのである。それに対し、対話の意思も柔軟性もない強硬一辺倒ではダメなことは間違いないように思われる。 

●参照
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
パク・チャヌク『JSA』
飯田勇『越境地帯』
『三八線上』(朝鮮戦争への中国出兵)
馮小剛『戦場のレクイエム』(朝鮮戦争への中国出兵)
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
井上光晴『他国の死』(朝鮮戦争における巨済島事件)
コバウおじさん
金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』


辺野古の新基地に関して

2013-12-27 08:02:13 | 沖縄

名護市の住民投票(1997年)は、辺野古基地に対して、暴力的なローラー作戦にも関わらずNOの民意を示した、画期的なものであった。しかし、カネや権力を直接的に用いた大きな暴力が大きな歪みを生み出し続けている。(宮城康博『沖縄ラプソディ』

野中広務は、辺野古基地建設に拘泥した。1997年、名護市の住民投票の際にも、基地賛成票を集めるべく、カネを提示し、地元建設業や防衛施設局(当時)の戸別訪問を現地入りまでしてプッシュしている。しかし、住民投票では「基地ノー」が示された。

3年前の辺野古 

6年前の辺野古 

鎌田慧氏「辺野古の新基地建設に関し、現地の人々が「イヤだ」と言っているのに、「負担軽減だ、良いではないか」としてこれ以上押し付けるのは、もはやファシズムだと言うことができる」

石川文洋氏「辺野古には2011年12月にフェンスが設置された。銃剣で取られた自分の島であり、非常に抵抗感がある。嘉手納のせいでベトナム人が死ぬのを多く見てきた。日本が許可して、他国の人を殺すわけである。オカネをもらえばそれでいいのか」

「少数を犠牲にした大多数の幸福を、はたして幸福と認められるのか、という論理をたてるしかない。まして、新軍事基地の建設に幸福などあるわけがない。」(鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』) 

辺野古を認めるということは、日本の環境影響評価政策がまったく無意味であったことを意味する。

辺野古の問題を政局の文脈でばかり報道するのは知的怠惰。

辺野古に関しては、池田和子『ジュゴン 海の暮らし、人とのかかわり』(平凡社)もぜひ。

『科学』2013年7月号(岩波書店)は、「沖縄の自然」特集を組んでいる。米軍基地が大規模な環境破壊だということが二の次にされているいま、改めてぜひ。

原科幸彦『環境アセスメントとは何か』 ここでは、事業の意思決定過程を透明化が望まれることが強調されている。辺野古のプロセスでもその問題点が明らかだった。しかし、事態は世界の常識に逆行している。

いかに辺野古の環境影響評価が出鱈目で暴力的なものであったか。 

新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』 基地の移設は基地の強化をもたらす。このことは、辺野古新基地の問題が「普天間移設」というオブラートに包んで語られることと無関係ではない。

琉球新報『ひずみの構造―基地と沖縄経済』 「アメ」が如何に自治体財政を歪めているか。公共工事の本契約は「本土」の企業とであり、県内事業者は下請け。オカネは県内で還流せず「本土」に流れていき、県内の経済波及効果があらわれない「ザル経済」。

高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』 北朝鮮や中国や台湾での有事を想定するというが、そのような事態が仮にあるとして、そのときに必要な機能は海兵隊ではない。もはや、米軍基地縮小に伴い日本の軍備増強が必要というトレードオフは成り立たない。

渡辺豪『「アメとムチ」の構図』 組織的なネゴや権力争いや目くらましや恫喝はあっても、カネを通じて以外の住民への気遣いや、歴史認識は露ほども見られない。また、国家ビジョンも、米国の軍事戦略に如何に乗るか以外のものは悲しいほどにない。

屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』 沖縄は、米軍にとって既得権益かつ再編予算のピースであり、日本にとって本土に基地を置かないための存在である。それは、沖縄が戦略拠点であるという「神話」によって守られている。

前泊博盛『沖縄と米軍基地』 沖縄の海兵隊の主力部隊が1956年に岐阜県と山梨県から移転してきた理由は、戦略上の理由ではなく、海兵隊の「素行の悪さ」にあった。すなわち、犯罪輸出である。

 


大友良英の映像『Multiple Otomo』

2013-12-24 23:10:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

大友良英 (turntable, g, etc.)

ソロ演奏のCDとDVDのセット、大友良英『Multiple Otomo』(Asphodel、2007年)。

音だけでも、聴くたびに違う幻を想像させてくれる。それに加え、まるでスタン・ブラッケージのようなギトギトビカビカの映像はまた違った様子で面白い。視線が向けられている先には、ターンテーブルを操る手であったり、妙な小道具の先っぽであったり、ギターを弾く彼の佇まいであったり。

それらを茫然と観ていて思ったのは、いかに過激で非日常的な音やパフォーマンスであっても、そこにおいて介在する手仕事やマテリアルや情報への「異常な愛情」が、ベースにあるのではないかなということ。要するに、溢れ出る人間の音楽。

紅白歌合戦にも『あまちゃん』のため登場するだろうし、ちょっと観てみようかな。

●参照
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』(大友良英参加)
井上剛『その街のこども 劇場版』(大友良英参加)
テレビドラマ版『その街のこども』(大友良英参加)
テレビ版『クライマーズ・ハイ』(大友良英+サインホ)
サインホ・ナムチラックの映像(大友良英参加)
『鬼太郎が見た玉砕』(大友良英参加)


ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』

2013-12-23 23:35:07 | 北米

「代表となる人物は必要でも、それはあなた方自身で選ぶべきだし、またその代表はリコール可能な存在でなくてはならない。支配と階層の体制に陥らないようにするために。」

ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)を読む。

チョムスキーは、産業と経済の頂点にある「1%」にのみ富が集中する米国を告発する。「子分」国家・日本の将来の姿だろうか。

彼の怒りは、そのことが構造的・意図的になされていることに向けられており、また、そのために、個人が何をやっても変わらないのだという絶望が蔓延していることを指摘している。彼は、もはや共和党は政党と呼ぶに値しないとまで言う(だからといって、民主党がすぐれているわけではない)。これを、現在の日本に置き換えてみてはどうか。

「共和党は何年も前に、政党だというふりをするのもやめてしまいました。あれだけ一貫した献身的な姿勢で、権力と利益をごくわずかな層に集中させることに専心してきた以上、もはや政党とはいいがたい。彼らにはひとつの教理問答(カテキズム)があって、まるで昔の共産党の出来損ないのようにそれをくりかえしています。」

興味深い指摘は、米国における気候変動問題の位置である。この問題に対してまともな対策を取らない米国では、「あんな科学者たちの言うことになぜ耳を貸すのか」と言わんばかりに、産業界が「公然と、しかも誇らしげに、気候変動はリベラルたちのでっち上げだと宣言」する(このことは、その後に出された『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(>>リンク)においても強調している)。一方、日本では、リベラル層において、「科学者たちの言うこと」に耳を貸さず、エセ科学者(よくテレビに出たりする)が大声でもっともらしく叫ぶ陰謀論が信じられ、その挙句に、それなりにマトモなはずの言論人までそれに乗る有様。それというのも、日本における気候変動対策が、原発推進とセットになって進められてきたからである。

希望は「99%」による「オキュパイ運動」だとする。公民権運動にしても、ベトナム戦争反対にしても、それが続けられていたからこそ、国家の方向を動かしたのだから、である。選挙制度もそうであり、まさにそれは、日本において、国家や体制への怒りと絶望が有権者としての権利放棄につながり、その結果として現在の望まれぬ政治体制が出来上がっていることと重なっていく。個人の力とコミュニティの力を軽視せず、政治参加せよというメッセージなのである。いつ、個々の動きが全体を動かすだろうか。

「きわめて薄弱な権力構造は、人々が従いつつばかにするか、無視するかしたとたんに、崩壊しはじめるのです。」
「とにかくどんな社会であろうと、権力はつねに統治される側の手中にあるということ。支配される人たちが、権力をつねに握っているのです。」
「プロパガンダのなかで最も効果的なのは、たとえば99パーセントと1パーセントの構図のように、何が起こっているかは分かるけれども、「自分にはどうすることもできない、自分は孤独だ、誰とも話せない、私みたいな人間には何もできない。だから苦しくても耐えるしかないんだ」と感じさせるタイプのものです。これはじつに効果的なプロパガンダになる。奴隷による反乱がほとんど起こらず、奴隷制がいつまでも続いていく裏には、そういうからくりがあるのです。」

チョムスキーの次の提案は面白い(これは地位が確立された層目当ての「ティーパーティー」とは異なる)。政治システムを変えることなく政治参加の文化を変えることができる。そして、こうしないと選挙には勝てないとなればどうだろう。

「予備選の日が来たら、街の住民が集まって、議論、討論をし、自分たちが求める政策がどんなものかを話し合う。このオキュパイ運動で起こっているようなことです。そして住民が、政策はこうあるべきだという構想を定める。やがて候補者が現れ、「皆さんとお話をしにきました」と言う。すると街の人々はこう応える。「いや、むしろあなたにその気があるのなら、われわれの話を聞きにくるといい。あなたがそこまでやってくれば、われわれが何を求めているかを伝えよう。そしてあなたは、自分ならそれができると言ってわれわれを説得する。そうすれば、われわれはあなたに投票するかもしれない」。民主的な社会の選挙とはこういうものです。」

●参照
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』


ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』

2013-12-22 23:19:50 | ヨーロッパ

ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』(Hamish Hamilton、2013年)を読む。

コートジボアール出身の女性・ファトゥ。ロンドンの郊外の家で、使用人として働いている。家の人が不在になる毎週月曜日の午前中には、その家が契約するオカネ持ち向けのフィットネスセンターに行って泳ぎ、その後、ボーイフレンドのオゴリで、チュニジア風のカフェでモカとケーキ。

通り道には、郊外だというのに、カンボジア大使館がある。塀の中では、いつも、誰かがバドミントンに興じている。見えるのはラケットと羽根だけ。行ったり来たり、羽根の往復をつらつら眺めつつ、ファトゥはいろいろなことを考える。わたしは奴隷ではない、なぜならば。神はあらゆる者に平等だ、なぜならば。

そしてファトゥは突然解雇される。寒い道の脇に座り、バドミントンの羽根の往復を淡々と眺める。行きは暴力、帰りは希望、などと夢想しながら、ボーイフレンドを待ちながら。

ロンドンにおける若い移民は、成長の揺らぎと、社会の立脚点のあやうさと、異なる考え方とで、常にぐらぐらしている。奴隷として扱われる他者と比較することで、自分のアイデンティティを確認していたはずが、突然、暴力的に宙ぶらりんとなり、感情の制御に苦しんだりもする。そして、それを窓から眺める「私たち」なる存在が、全体を中途半端に包み込む。

1日で読めてしまう短い小説ながら、テキストのなかに印象を封じ込める凝縮感がただごとでない。また、宙ぶらりんの状態を余儀なくされるのは、ファトゥだけでなく、読者だってそうなのだ。

ゼイディー・スミスはまだ30代にしてこの手腕。もの凄い作家なのかもしれない。


大島渚『青春の碑』

2013-12-22 12:57:32 | 韓国・朝鮮

大島渚が日本テレビ「ノンフィクション劇場」(プロデューサー:牛山純一)の枠で作ったドキュメンタリー、『青春の碑』(1964年)を観る。

北朝鮮地域に生まれ、満州で働き、朝鮮戦争(1950年~)の後、韓国の平沢(ピョンテク)に住みついた男・方。彼は朝鮮戦争で孤児となった子どもたちを引き取り、共同生活をするとともに一緒に仕事をしている。

ある日の「東亜日報」の記事。韓国の四月革命(1960年)において学生デモに参加し、右腕を失った女学生・朴が、今では売春をして生計を立てているというのだった。男は驚き、使命感から本人や家族を訪ね、話を聴く。革命により独裁者・李承晩は下野し、傷ついた朴は新政権から顕彰されたものの、父と姉の生活が成り立たないための行動であるというのだった。方はラジオを使って援助を呼び掛け、それで借金を返済、朴を自分の施設に呼ぶ。次第に仲間ができ、仕事を覚えていく朴。だが、やはりそれでは生計を立てることができず、朴はもとの働き場所へと戻っていく。

日本侵略により満州から韓国へと流れ、米ソが頭越しに引いた境界線のために、北に残る親族の消息すらわからない男。歪んだ政治と対峙したために傷つき生活ができなくなった女。その中で、日本は、韓国独立後、親米・親日の李承晩を支え、朝鮮戦争の特需で発展した。ここに登場する人たちが辛酸を嘗めるのは明らかに不条理であり、大島渚はその矛盾を厳しく突く。

しかし、ドキュメンタリー制作の翌年、日韓両国は民衆の頭越しに日韓基本条約(1965年)を結ぶことになる。そのことによる歪みはいまだに噴出し続けている。男が住む平沢(ピョンテク)が、在韓米軍の移転のターゲットになっていることも、終わらない問題を象徴しているようだ。

大島渚は、翌年の『ユンボギの日記』(1965年)において韓国の生活のあり様をとらえ、また、『絞死刑』(1968年)では在日コリアン差別の問題に迫っている。短いドキュメンタリーではあるが、韓国・朝鮮に向けられた大島の重要な仕事のひとつだということができるのだろう。

●参照
大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
大島渚『少年』(1969年)
大島渚『夏の妹』(1972年)
大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)


平井玄『彗星的思考』

2013-12-22 08:37:00 | 思想・文学

平井玄『彗星的思考 アンダーグラウンド群衆史』(平凡社、2013年)を読む。

「「考える」とは蛇行すること。生きて死ぬことも同じである。」

ここに収録されているテキストは、思考の蛇行録である。文字通り、蛇が空を飛んで高みからものを言うことはない。ときに宣託めいて聞こえることばも、それは地上から発せられている。

2011年以後、たとえば、次のような面々が想起の対象となる。「タカを括る」ことも、歯切れのよい分析的な総括を行うことも拒否した面々である。

関東大震災(1923年)時に弟を虐殺され、労働運動に身を投じるものの、三・一五事件(1928年)で逮捕され、「転向」した南喜一
絶えず新しいシナプスを形成することをアジテートしたドゥルーズ=ガタリ
徹底して雑踏に身を置いたライター・朝倉喬司
高踏的なインテリとしてではなく、肌感覚であやういアジア主義を発した竹内好
水俣において、語りによって「低い崇高」を創り出そうとした石牟礼道子
日本の裂け目を敢えて開いて見せようとした谷川雁平岡正明

地上に居ながらにして同時に宇宙を考える思考は、有象無象の胎動をとらえようとしている。そして、有象無象のもたらすものにより、「祖父k」の夢を強迫的に実現しようと試みる迷惑な「孫a」は、いずれ、「暗欝な空」を見ることになるだろうと仄めかしている。

それがどのような形になるかわからないが、確かに、その幻視は絶望であると同時に希望でもあるように思える。絶望のなかには、日本が遠からずイスラエル化することも含まれるのだろう。

●参照
平井玄『愛と憎しみの新宿』


鈴木清 パリ・フォト報告会

2013-12-22 00:15:45 | 写真

鈴木清という写真家への興味が高まっているこのタイミングで、「パリ・フォト報告会」があるというので、関内まで足を運んだ。

 

報告者は、娘さんの鈴木光さん。今年、タカ・イシイギャラリーは「パリ・フォト」に出展するにあたり、鈴木清のヴィンテージプリントを主役に据えた。そのようなわけで、パリに同行してきたのだという、そのご報告。

会場は、グラン・パレ(1900年パリ万博の会場)。何でも福岡ドームほどの大きさだそうだ。わたしも2010年に、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションを観たことがあるが、確かに広い(>> リンク)。この広い会場が多くのギャラリーに割り振られており、上からは直射日光が降りそそぐ、そんな場所である。

どうやら、鈴木清という人は、プリントの管理に無頓着だったそうで、ヴィンテージプリントもオリジナルプリント(本人が焼いたものでも、それが一定期間後であればヴィンテージではない)も一緒くた。それどころか、画鋲の穴があいていたり、裏にとっさのメモが書かれていたり。ただ、ヨーロッパの愛好家はそのようなことに鷹揚であり、むしろ手の跡があるというので好むことさえあるという。

日本でさえなかなか観る機会がない写真家だけに、ヨーロッパではなおさらである。今回、鈴木清の作品に接する機会があって、かなり好意的に受けとめられたらしい。そもそも、鈴木清の「再発見」だって、オランダにおいてである(2008年)。報告会の会場には、そのときのポスターも貼られていた。

それでは日本においてはどうなのか。「聞き手」の方が言うには、鈴木清ファンは多いが、その誰もが理由をうまく説明できない。写真集が高騰してなかなか目にすることができないという理由もあるかもしれないが、それよりもやはり、写真世界のカオス性によるところが大きいに違いない。

興味深いことに、鈴木清はロバート・フランクとの深い交友があった。写真に対する身の置き所に、共通するところがあるのかもしれないと漠然と思う。鈴木清はコラージュを作品ではなく遊びのように作っていたというが、ロバート・フランクにもそのような手仕事がある。

会場には、『流れの歌』新旧版、『ブラーマンの光』、『天幕の街』、『夢の走り』、『愚者の船』、『天地戯場』、『修羅の圏』、『デュラスの領土』という写真集がずらりと並べられた。確かに、これらを古本で揃えるといくらになるのか、考えるだけで恐ろしい。ひとつひとつを観ることができて、貴重な体験をさせてもらった。

特に、インドを撮った『ブラーマンの光』が、あまりにも魅力的だった。ハンピとかカジュラーホとか、大変なところにまで足を運んでいる。果たしてどれだけの時間をかけたのだろう。

●参照
鈴木清


鈴木清

2013-12-21 11:21:49 | 写真

今年の10月に、六本木のタカ・イシイギャラリーで観た鈴木清の写真展『流れの歌、夢の走り』は、素晴らしいものだった。

炭鉱町や、川崎や、新宿や、沖縄や、上海を捉えた写真群は、確信犯的に心象が焼きこまれたものであり、確信犯的に斜に構えたものだった。まるで、フィルムと印画紙の粒子のひとつひとつがものいわぬ意思を持ち、ざわざわと蠢いているような印象を覚えた。

わざわざ足を運んだのは、研究者のTさんの推薦があったからだった。2010年に、国立近代美術館で鈴木清の回顧展が開かれたとき、結局行かなかったことを激しく悔んだ。

展示された写真群は、写真集『流れの歌』と『夢の走り』から選ばれている。ただ、Tさんによれば、未発表とされる作品のなかには、『天幕の街』に収録された作品もあるという。少し奇妙なことだ。

そんなわけで、新宿の蒼穹舎で、写真集『流れの歌』(オリジナル1972年、復刻2010年、白水社)を入手した。国立近代美術館の回顧展をきっかけとして出された復刻版である。もはやオリジナル版は高騰していて入手できない。

レンズは、経済と社会のなかでまるでマージナルな位置にあるかのような存在に向けられている。一葉一葉からは、観る者の記憶の奥底を掘り返すような気味悪い力を感じる。

印刷も素晴らしいのだが、オリジナル写真集は活版印刷で刷られている。Tさんが持っているそれと比較してみると、確かに、オリジナル版は黒が潰れ、まったく違う印象を与える。もちろん、印刷も含め、それがオリジナルの味である。なお、復刻版のカバーを1枚はずすと、オリジナル版を模したカバーがあらわれる。


左が復刻、右がオリジナル

鈴木清は、没後、オランダの写真家によって「再発見」され、ヨーロッパで写真展が開かれた。そのときの図録『Kiyoshi Suzuki: Soul and Soul 1969-1999』(Noorderlicht、2008年)を紐解くと、まだ知らない写真世界があることがわかる。この写真家の魅力にいままで気付かなかった自分を恥じてしまう。