Sightsong

自縄自縛日記

うずくまる

2012-07-31 23:39:54 | もろもろ

1999年、はじめてパリを訪れた。モンマルトルまでメトロで出かけたら、丘ゆえ地上出口までらせん階段を延々と登る破目になった。ちょうど広場でフリーマーケットが開かれていて、その中に、うずくまる女性の石膏の置物があった。

まだユーロ導入前のこと、150フランだった。店番の女の子に、たしか、50フランなら買うよと値切ったところ、満面の笑みで、イエス。買わざるを得なくなった。

これが何なのか解らないままだったのだが、数年後に訪れたロンドンのノッティングヒル(休日はスリ注意の市場となる)で、同じような形の置物を見つけた。馬鹿馬鹿しくなってそのまま通り過ぎた。

そして今年、インドネシアのメダン空港でのこと。時間待ちでぶらぶらと売店を冷やかしていると、今度は屈強な男がうずくまっている。本物ではない、もちろん置物である。結構くだらなくて琴線に触れ、入手してしまった。

このモチーフは何なんだろう。世界中にあるのかな。


加藤千洋『胡同の記憶』

2012-07-30 23:50:39 | 中国・台湾

加藤千洋『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波書店、2012年)を読む。

著者は「報道ステーション」でもお馴染みのコメンテイターだったが、もとは朝日新聞の特派員として長く北京に滞在した人である。その間、絶えず自転車で胡同を散策していたという。それだけに、胡同の姿が、実感と生活感を伴って描き出されている。

何でも、3ヶ月中国を離れたら、中国の最新状況など論じられないそうである。著者でさえ、「中国はね」とか「中国人というものは」と語る自信がまったくないと書いている。これとは正反対の人が多く、しばしばウンザリさせられるだけに、著者の謙虚さが好ましいものに感じられる。

そんなわけで、興味深いエピソードがたくさんあった。

王府井ちかくの胡同には、胡耀邦趙紫陽の屋敷があった。胡耀邦は1989年4月に急死し、その追悼集会が天安門事件に発展。趙紫陽は対応を批判され、鄧小平によって失脚させられた。(>> リンク) その後、胡耀邦は胡同に軟禁され、秘かに自伝をカセットテープに録音し続けた。発見されるのを恐れ、テープは孫の玩具箱に隠されていたという。(読もうと思ってそのままだ。)
○北京には牛街というイスラム街があり、中心に礼拝寺すなわちモスクがある(>> リンク)。文化大革命のときには、イマムさえも下放の対象となったが、牛街の人々が必死に礼拝寺を守った。
○胡同の写真集を出した徐勇は北京人ではなく上海人。商才たくましい人であるようだ(北井一夫さんもそのように呟いていた)。最近ではその徐勇は、ヌード+テキストによる作品群や、極端なピンボケによる作品群を出している(>> リンク)。それも、これを読んでいると、驚くほどのことではないのかもしれない。
○上海の名門ホテル錦江飯店の創業者は、董竹君という女性。「中国のおしん」とさえ称された苦労人で、波乱万丈の人生を語った自伝はベストセラーにもなった(邦訳あり)。ニクソンや田中角栄も泊まった。実はわたしも、一度仕事をもちかけるために泊まったことがある。うまくいっていれば話のネタになったのに。
○北京の三昧書店は、国営書店のみしかなかった時代にあって画期的な書店だった。何と内山書店(>> リンク)をモデルにしたのだという。次に北京に行く機会があれば、ぜひこの本屋を覗いてみたい。
○著者は、愛新覚羅溥儀の弟・溥傑に会って話をしている。穏やかな人柄で、存在感を感じさせる人であったという。なお、溥傑と日本人・嵯峨浩との結婚については、田中絹代『流転の王妃』という映画を撮っている(>> リンク)。
○戦時中に化石が消えた北京原人についても、著者は関係者に会って興味深い話を聴いている。しかし、いまだ行方は杳として不明のままである。(>> リンク

わたしも、気がついたら1年半も中国に行っていない。本書を読むと、時期は違えど、「春雨胡同」など、歩いたことのある胡同のことも書かれており、また、住宅地図を片手に胡同を散歩したくなってくる。しかし、変化の激しい北京のことゆえ、数年前に買った詳細な地図でさえ、もはや古いものになっているかもしれない。

●参照
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の散歩(4) 大菊胡同から石雀胡同へ
北京の散歩(5) 王府井
北京の散歩(6) 天安門広場
胡同の映像(1) 『胡同のひまわり』
胡同の映像(2) 『胡同の理髪師』
胡同の映像(3) 『胡同の一日』、『北京胡同・四合院』
北京の冬、エスピオミニ
牛街の散歩
盧溝橋
北京の今日美術館、インスタレーション
2005年、紫禁城


マーティン・スコセッシ『シャイン・ア・ライト』、ニコラス・ローグ『パフォーマンス』

2012-07-30 20:52:46 | ポップス

マーティン・スコセッシ『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』(2008年)を観る。

ローリング・ストーンズのライヴ映画であり、その演出でもめるスコセッシ自身も登場し、もはや被写体も監督もセレブ扱いだ(まあ、そうだろうが)。

このときミック・ジャガーは65歳くらい。叫び、ささやき、腰をくねらせ、こうなると彼に年齢は関係ない。いや~、あり得ないくらい格好いいね。キース・リチャーズの見所も多いが、彼も同い年。ゲストではブルース歌手のバディ・ガイまで登場し、しびれるようなシャウト。歳をとっても彼らのようであればいいのだ(ムリか)。

ついでに、2年以上前にロンドンで買ってそのままになっていたDVDを探しだした(調べてみると、何だ、日本盤もあるじゃないか)。ニコラス・ローグ+ドナルド・キャメル『パフォーマンス』(1970年)は、連名ながら、ローグの初監督作品である。これにも、ミック・ジャガーが登場している。

チンピラは掟を破って追われる身となり、ミックが暮らす魔の館に逃れる。そこはサイケデリックでエロエロ、皆キノコを食べてラリっており、要はイカレぽんちの巣窟だった。ミックは若いだけに、気持ち悪いほどフェロモンを放出している。

そして、このデビュー作において、過去と未来の交錯、眩暈、不安定なカメラ、どぎつい赤、変態趣味など、既にローグの色を出している。時代がひとまわりふたまわりした今、何かのきっかけがあれば、ローグ再評価の嵐が来るに違いない。いや本当。


『けーし風』読者の集い(17) 歴史の書き換えに抗する

2012-07-29 13:14:08 | 沖縄

『けーし風』第75号(2012.6、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した。参加者は6人。

本号は、歴史修正主義的な動きへのプロテストである。沖縄における歴史の改竄については、少し前には、「集団自決」を巡る教科書の書き換え圧力とその裁判が注目されていた(最高裁において、大江・岩波側が勝訴し、改竄の誤りが確かなものとなった)。

今回の契機となったのは、首里城の地下にある第32軍司令部壕の説明板文案から、「慰安婦」「住民虐殺」の記述が削除されたことである(2012年1月)。どうやら、外部からの圧力を受けて、沖縄県が判断したもののようだ。従軍慰安婦は歴史修正主義が消し去りたいテーマのひとつであり、またかという印象が強い。最近でも、ニコンサロンが、安世鴻の写真展『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』の開催を一方的に中止しようとした暴挙があった(地裁・高裁の仮処分により、ニコンサロンは写真展を不承不承開いた >> リンク)。

こんな話をした。

目取真俊の寄稿においては、沖縄県庁が、外部からの圧力を良い機会として利用し、積極的に削除したのではないか、とある。これは勘繰り過ぎではないのか?過剰反応と捉えるべきではないのか?
池上永一『テンペスト』においても、主人公の恋愛が、琉球が結局は薩摩を受け容れたと捉える見方があった。
○首里城の第32軍司令部壕に慰安婦が居たかどうかが曖昧とされた。しかし、それはある時点でその場に居たかどうかの狭い見方であっただろう。
○慰安婦の中にも序列があった。
オスプレイが大きな問題となっているのは、日本の「本土」を飛ぶことが明らかとなったからである。これが沖縄だけの問題であったならどうか。
○岩国に搬入されたオスプレイの飛行については、日本政府は、安全を確認してから認めるとしている。しかしこれは、原発再稼働と同様の形式的なものではないのか。また、「危険」だから問題だとするのは、「危険」でなければよいのかという問題意識ともなる。
○宮古・与那国への自衛隊配備の動きが目立ってきている。沖縄タイムス・与儀記者が寄稿しているように、自衛隊配備を島の経済発展に直結させる考え方には論理として無理があるが、それにも増して、地元の経済への危機感は大きい。
○沖縄の日本化・・・(大きなショッピングモール、新都心のとても歩けない街並み、保守化・右傾化)。
○名護市は稲嶺市長当選から、予算に交付金を組み込むことをやめた。その後の予算状況はどうか。

注目の映画・イベント
○藤本幸久・影山あさ子『LOVE沖縄 @辺野古 @高江』(既に沖縄などで公開、東京は今秋ポレポレ座で公開)(>> リンク
○輿石正『シバサシ―安里清信の残照―』(金武湾の石油備蓄基地に関するドキュメンタリー)(>> リンク
○「オスプレイ配備阻止!10万人沖縄県民大会と同時アクション!<10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会>」(8月5日、日本教育会館・一ツ橋ホール)(>> リンク

例によって、終わってから近くの居酒屋で飲み食いしながら話を続けた。

●けーし風
『けーし風』読者の集い(16) 新自由主義と軍事主義に抗する視点
『けーし風』2011.12 新自由主義と軍事主義に抗する視点
『けーし風』読者の集い(15) 上江田千代さん講演会
『けーし風』読者の集い(14) 放射能汚染時代に向き合う
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ
『けーし風』読者の集い(12) 県知事選挙をふりかえる
『けーし風』2010.9 元海兵隊員の言葉から考える
『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


後藤乾一『近代日本と東南アジア』

2012-07-28 22:37:36 | 東南アジア

後藤乾一『近代日本と東南アジア 南進の「衝撃」と「遺産」』(岩波書店、原著1994年)を読む。

日本には、占領地アジアの発展は日本のおかげだとする根強い神話がある。また、戦後についてみても、謝罪や賠償の代わりに、アジア諸国の経済開発への貢献により<贖罪>するのだ、という意識が、政府にも民間にも脈々と広く共有されている(波多野澄雄『国家と歴史』 >> リンク)。

東南アジアについて、欧米列強からの解放は日本が行ったのだ、そしてそれを感謝さえされているのだ、とする神話も、上と同じ病だと言ってもよいのではないか。そしてそれは、あまりにも一面的かつ身贔屓な歴史修正主義につながっている。

本書は、歴史的な検証により、そういった幻想が幻想に過ぎないことを示すものだ。もちろん、関係とは相互のベクトルとその受容であり、たとえばインドネシアでは、援助問題と戦争責任問題(従軍慰安婦問題を含む)がバーター取引されたのだという。そうだとしても、日本側の神話とは大きく異なっている。

もとより、人類館事件(1903年)において露わになったように、近代日本は東南アジアを含めた近隣アジア諸民族を、一段も二段も下の存在とみなしていた。そこでは、日本の「内地人」を頂点とし、沖縄県出身者、朝鮮人、中国人、そしてその他アジア人などといったヒエラルキーが形成されていた。これは目の届かない「外地」においてだけではなく、例えば、九州の炭鉱でも、与論島出身者、朝鮮・中国からの強制連行者が同様の搾取構造のなかに取り込まれていた(熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』 >> リンク)。

南進にあたっては、沖縄県人とくに糸満漁民を中心とする漁業者のインドネシア(蘭印)への進出も大きな役割を果たそうとしていた。これが「大東亜共栄圏」構想と結びついてゆくことは、引用されている東恩納寛惇の言葉からもよくわかる。彼は、共栄圏構想を沖縄県が「孤島の宿命」を打ち破り「新沖縄が生きる道」として歓迎したのだった。既にあった差別的構造のなかで、自らの位置を見出さんとする意思である。

次第に日本がインドネシアへの進出を強め、ポルトガル領ティモールまで狙うに至って、オーストラリアは日本への警戒を明らかなものとする。インドネシアとオーストラリアとは驚くほど近い。東南アジアからオーストラリアへの動きへの視線は興味深い。そう言えば、バズ・ラーマン『オーストラリア』(>> リンク)に、日本軍によるダーウィン空爆だけでなく、事実とは反する上陸までも描かれていた。その程度の認識だということだろう。

東南アジア占領は、つまるところ、石油、錫、ゴムなどの資源の獲得であったが、日本は建前としては、植民地体制の打破とアジア解放とを掲げた。それは、「大義」が、占領に際して東南アジアの民族主義者たちの支持を得、また日本国民の戦争動員に必要だったからでもあった。この欺瞞に対し、民族主義者たちが唯唯諾諾と従うばかりではなかったことが、具体的に示されている。それは東南アジア側にとって、生きるか死ぬかの狭間にあってぎりぎりの選択であったのだろう。

英仏の力の間で独立を保ったタイの首相ピブーンは、そのような対日関係の葛藤をよく示している。「もし我々が条約に調印しないなら我々は破壊されてしまうだろう。もし我々が日本の陣営に投じ、そして日本が敗北すれば、我々もまた敗北するだろう。あるいはたとえ日本がうまくいったとしても、我々はやはり滅ぼされてしまうこともあるだろう。あるいはもし日本が首尾よくいって、また我々もうまくいくこともありうるだろう。あるいはもし日本が勝利したとしても、我々は結局は満州国のようになるだろう。それ故我々は一体どうすべきなのだろうか。」

わたしたちの歴史認識が戦前の欺瞞を引きずったままでは、いずれろくなことにならない。

「・・・日本の東南アジア占領は、「軍政三原則」が象徴するように「物的・人的資源の供給源」として即ち「南の生命線」としてこの地域を確保することが最大の眼目であったという事実である。欧米支配からの「解放」という公約、占領中のさまざまな諸政策は―たとえそれらが結果としてプラスの衝撃を与えることになったとしても―あくまでも本来の目的を達成するための手段でしかなかった。したがって、東南アジアの独立は「大東亜戦争」の理念の実現であるとか、日本の占領なしには独立は不可能であったとか、あるいは日本は「殺身成仏」という見方は、極めて単純化された形の因果混同論でしかなく、一方の当事者である東南アジア諸民族の歴史認識とは決して両立するものではないであろう。」

●参照
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『戦後責任論』 


太田昌国の世界「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」

2012-07-28 10:07:11 | 沖縄

駒込の琉球センター・どぅたっちで、太田昌国の世界「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」と題した氏のトークがあった。

話の内容は以下のようなものだった。

○今年(2012年)、沖縄の施政権返還(1972/5/15)から40年、サンフランシスコ講和条約(1952/4/28)から60年。沖縄にはなお多数の米軍が駐留する。返還40年記念式典において、大田昌秀・元沖縄県知事は「祝う気にはとてもなれない」、上原康助・元沖縄開発庁長官は「民主主義は世論を尊重するのが基本だ」と、現状を批判した。
日米安保条約はサンフランシスコ講和条約とセットの形で成立した。この不平等性は敗戦国の宿命とでもいうことができた。それに対し支配層が妥協的な改訂を行おうとした1960年に盛り上がった安保闘争は、歴史的な民衆闘争であった。
○戦後日本の基本体制成立に対しては、昭和天皇が果たした役割が極めて大きかった。1990年代半ば以降に明らかになってきたことだが、マッカーサーGHQ総司令官に送られた「沖縄メッセージ」(1947/9)は、米軍による沖縄の軍事占領を25年、50年、あるいはそれ以上の間にわたって求めるものであった。これは、吉田茂が考える以上の姿で、日本と沖縄を規定した。
○しかし、この史実はあまり社会において語られず、歴史教育もなされない。その結果、大衆的・民衆的な知恵となっていない。特に、1960年の中央公論事件深沢七郎『風流無譚』、>> リンク)以降、天皇制に関する自由で開かれた議論ができない状況と化している。
○60年安保闘争においては、抵抗の新しい行動形態が生み出され、非共産党左翼が登場した(前衛党神話の崩壊)。この背景には、1956年のフルシチョフによるスターリン批判、同年のハンガリー動乱・ポーランド民主化運動などにより、ソ連共産党が非人間的なものを孕んでいることが明らかになってきたことが挙げられる。
○また、吉本隆明、谷川雁、埴谷雄高などが、60年安保闘争を契機に誰の目にも明らかな形で登場してきたことも特筆される。
○60年安保とは何だったのか?この振り返りが、闘争に身を置いた人々においても、欠落していた。
○60年安保で規定された日米安保事前協議によれば、在日米軍が重要な装備の変更を行う際には、事前協議を行い、日本政府がそれを拒否できることとなっている。しかし、今回のオスプレイ導入に象徴されるように、事前協議は52年間いちども実施されていない。日米両政府は、なぜか、対象を核兵器に限るものとしている。
○米国は日本を武装解除したあと、サンフランシスコ講和条約後、こんどは自衛力の整備を行わせるよう方針転換を行った。これには、1949年の中国革命成立、1950年の朝鮮戦争が影響した。
○そして、ヤマトゥから沖縄へと、米軍はシフトしていった。新川明「日米安保と憲法9条はセットである」
○安保改訂の5年後の1965年、米国はベトナムにおいて北爆を開始する。このとき、沖縄は戦略上有効な基地として機能し、米兵にとっても傷や緊張感を癒す都合のいい地として存在することになった。すなわち、米国は基地を手放さなかった正しさを確認した。
○1960年代からの高度経済成長(1964年の東京オリンピック・新幹線、1970年の大阪万博など)を経て、1970年、ふたたび安保闘争があった。しかしそれ以降現在に至るまで、安保という問題意識は社会から消えた。それは、消費社会が現状肯定・思考放棄につながるものだからであった。わたしたちは、現状変革への意思や理想を持つ人は社会の中に一定数いるものと信じてきたが、実は、豊かな社会ではそうでもないのだった。
○70年代、内ゲバの時代があった。おそらくは100人以上の人が殺され、千人単位の人が精神的・肉体的ダメージを受けた筈だ。
○さらに、連合赤軍リンチ事件(1972年)、三菱重工爆破事件(1974年)があった。後者の実行犯である東アジア反日武装戦線は、あろうことか、事件数日後の声明において、「このようなところに出入りするのは日帝植民地主義を実践する者たちだ」と居直ってしまった(のちに自己批判)。これらによって、変革にシンパシーを持つ人たちの心が離反し、大衆的な共感が冷め、多くは高度経済成長に満足するようになってしまった。
○そして、ヤマトゥでの安保に対する意識と関心は遠のき、沖縄がその重圧を引き受けていく構図が固定化した。
○いまは夢のようなことに思えるかもしれないが、たとえば安保破棄を日本政府が通告すれば、それだけで、わたしたちは安保のない来年を迎えることになるのである。絶えざる変革へのヴィジョンを抱えていくことは重要なことだ。

●太田さんが示した参考図書
○明田川融『沖縄基地問題の歴史:非武の島、戦の島』(みすず書房、2008年)
○知念ウシ『ウシがゆく』(沖縄タイムス社、2010年)(>> リンク
○ダグラス・ラミス『要石:沖縄と憲法9条』(晶文社、2010年)
○松島泰勝『琉球独立への道』(法律文化社、2012年)
○チャルマーズ・ジョンソン『帝国解体』(岩波書店、2012年)
○林博史『米軍基地の歴史』(吉川弘文館、2012年)
○豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波新書、1996年)
○豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008年)

終わった後、太田さんを含め何人かで飲み食いしながら話を続けた。粘りすぎて終電になってしまった。

●参照
太田昌国の世界「テロリズム再考」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『暴力批判論』
太田昌国『「拉致」異論』


2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏

2012-07-26 23:29:17 | 東南アジア

小さな市場。豚が寝そべっている。

どの店先にも干魚が置いてあるが、これは調味用だろうか。

鶏を捌くおじさんには眼を奪われた。丸鶏を大鍋で茹で、それを妙な器械に入れると、どういうわけか、羽だけがむしられて排出されてくる。そして裸になった鶏を、にこにこしながら包丁でずだんずだんと切っていく。



干魚


店番


羽むしり器


さて・・・


解体


バイク


つげ義春みたいだな

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼


2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼

2012-07-26 22:56:45 | 東南アジア

不思議といえば蟹である。汽水域の川辺には白いシオマネキがいて、沖縄と同様に、片方の鋏で潮を招いていた。

しかしそれよりも驚いたのは、砂浜の蟹だ。自分が潜る穴の周りに砂団子があるのは普通のことだ。しかしここでは、団子が同心円状に配してあり、中心部から外部へと1本の道がある。それが無数に存在する。どういうことか。


ひとつ


ふたつ


いくつ

人間も不思議である。古い村には、船のような形の家々が並んでいる。道には飛び箱のような2メートルほどの高さの石がある。何と、これを飛び越えることが、大人として認められるための通過儀礼であったのだ。

いまは島唯一の観光地になっているため、佇んでいると子どもたちが売り物を持って群がってくる。そして、それらしき衣装を着た数人の若者が、飛び箱に挑戦するパフォーマンスをはじめた。


船家


通過儀礼パフォーマンス

 ※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400 + Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺


2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺

2012-07-26 07:44:31 | 東南アジア

N島の東海岸から100キロ向こうにはスマトラ島がある。曇天ではわからないが、晴れ間に目を凝らすと、水平線に細い陸地が視える。

海辺の貌はさまざまだ。砂浜も岩礁もある。岩礁の一形態なのか、田んぼの畝のように、岩が細い線となって奇妙な形を作りあげている。その向こうには激しい波。ランドアートのようで実に不思議だ。


砂浜


朝の民家


壊れた東屋の向こうにはスマトラ島


両腕付きの舟


砂浜


小間物屋の人たち



ランドアート


市場

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400 + Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ


2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ

2012-07-25 22:52:40 | 東南アジア

スマトラ島の隣にあるN島。ローカル線のプロペラ機に乗り、窓から見下ろすと、視えるのは熱帯雨林ばかり。北緯1度くらい、ほとんど赤道直下である。

天気が良いと、海はとても青く、サンゴ礁のリーフもよく視える。沖に漁船が浮かんでいるところがあり、そこから、獲った魚を小舟で岸にせっせと運んでいた。岸でしゃがんで待つ人たちが、氷を砕いてバケツや箱に魚と一緒に詰め、それを男たちがバイクで市場へと運んで行った。


漁船とリーフ


小舟は魚をせっせと陸に運ぶ


陽気な人


海沿いの小間物屋


バケツと魚と子ども

小さな河口の近くに入っていくと、突然、マングローブ林が現れた。汽水に漬かっている根は、沖縄のヤエヤマヒルギに似た支柱根のようだった。インドネシアでは何と呼ぶのだろう。

そして、川沿いの樹木を見上げると、幹から枝にかけて、オオタニワタリのようなシダがびっしり。これも何と呼ぶのか。

やはり熱帯は愉しい。


マングローブ林


シダ

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400


荻窪のコチュナム

2012-07-25 07:00:23 | 韓国・朝鮮

編集者のSさん、杉並区議のIさんと一緒に、荻窪の韓国料理店「コチュナム」に足を運んだ。

甕のマッコリを呑みながらいろいろとつまむ。なかでも変っているのが「ゴーヤー・ナムル」で、これはSさんにはじめて聞いてぜひ食べてみたかった。ゴーヤーは熱帯・亜熱帯に育つ野菜であり、とても朝鮮半島にあるとは思えない(確認していないが)。この店の創作料理だろうか、それとも韓国でも輸入して作っているのだろうか。意外とあっさりした味で旨かった。


ゴーヤー・ナムル

「青唐辛子のチヂミ」は、口に入れた直後にピリッとするものの、辛さは後をひかない。チヂミは好きなのだが、このパターンも初体験である。さらに、定番のチャプチェとサムギョプサル。これだけ食べてビールも何杯も飲んだのに、値はそれほど張らなかった。まだいける。


青唐辛子のチヂミ


チャプチェ


サムギョプサル

店を出た後にSさんのご自宅にお邪魔して、またビールを飲みながら四方山話。岩波文庫や近現代史の関連書など多くの蔵書に目を奪われた。しかも、山上たつひこ『鬼面帝国』を見せられ、そのままこっそり鞄に入れてもいいかと訊くと、「誰が盗ったかすぐわかります」。

そんなわけで遅くまで居てしまい、荻窪駅に着くと「人身事故で中央線の遅れ」。東西線乗り換えの中野駅で走る破目になった。

●参照
赤坂の兄夫食堂再訪、新大久保のモイセ
韓国冷麺
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂
鶴橋でホルモン
枝川コリアンタウンの大喜
枝川の朝鮮学校校庭で焼肉


イエメンの映像(5) ラッセ・ハルストレム『Salmon Fishing in the Yemen』

2012-07-24 07:30:00 | 中東・アフリカ

ジャカルタ行きの機内で、ラッセ・ハルストレム『Salmon Fishing in the Yemen』(2011年)を観る。ポール・トーディによる同名の原作小説『イエメンで鮭釣りを』の映画化だが、こちらはそのうち読もうと思いつつまだ手をつけていない。

英国政府に勤める水産の専門家アルフレッド(ユアン・マクレガー)は、イエメンの富豪からだという依頼を受ける。中東のイエメンで鮭釣りをしたいだなんて、金持ちの道楽にも程がある、無理だと断るが、英国首相官邸からは大きな圧力がかかってくる。アフガニスタンを攻撃するなど中東での評判を落としていた英国にとって、これはイメージアップ戦略になると判断されたのだった。

「だって鮭は水が沢山あって、しかも冷たい水でなければダメなんだよ」
「だいじょうぶ。すでに貯水池が完成しているし、イエメンは山岳地帯だから結構涼しい」
「英国の川から鮭を運ぶなんて、環境破壊もいいところだ。反対が大きすぎてムリだ」
「養殖ものでなんとかなる」

イエメンの富豪と一緒に魚釣りをしたり視察をしたりしているうちに、アルフレッドもその気になり、プロジェクトはどんどん進んでいく。何しろオカネは潤沢にある。そして鮭を放流したところ、魚道を遡上しはじめる。大喜びもつかの間、このプロジェクトを欧米におもねるものとして批判する勢力(イエメンは多数の部族からなる社会なのだ)が、貯水池を破壊し、すべてが台無しになってしまう。

しかし、まだ鮭は生きていた。英国の妻に離婚を宣言し、もう帰るところがないアルフレッドと、アフガン帰還兵の彼氏よりも事業パートナーのアルフレッドを選んだハリエットは、現地に居残り、富豪とともにプロジェクトを再開する。

何しろユアン・マクレガー(英国で本当に出会いそうな風貌)が演技するアルフレッドのオタクぶりが愉しい。オフィスでは釣り道具で遊んでいたり、プロジェクトの説明をするときには不必要な漫画を描いてみたり、取り憑かれたようになって夢中に話したり。事業パートナーのハリエットも、余裕があるときにはそれが面白くてたまらずアルフレッドに魅かれていくが、恋人がアフガンで行方不明になったと聞くと、心配して訪ねてきたアルフレッドをアスペルガー症候群扱いして罵る有様だ。ユニークだとプラス評価されているうちはいいが、病的だとマイナス評価されると打たれ弱いのは、万国共通のオタクの立ち位置か。あなたもわたしも無縁ではないよ。

この映画を観てから着いたインドネシアでは、ノルウェーの事業パートナー(映画の、ではなく、わたしの)と雑談していたとき、ノルウェーの名物はと訊くと、そりゃサーモンよ、旨くて国内ではあまり高く売れないから日本に輸出しているのよ、なんて話。映画を監督したハルストレムは隣国スウェーデンの出身。そのあとしばらくして、なぜかインドネシアの宿の親父が、サーモンの皮は旨い、特にクリスピーにすると最高だと叫んでいたりして、あとで思いだすと、話は妙につながっていた。

イエメンの風景はというと、貯水池近くの建物が少し登場するだけであり、残念ではあった(ロケも別の場所?)。とは言え、かつてシバ王国時代に南イエメンで建造されたマーリブ・ダムがミネラルウォーターのラベルになっているなど、イエメンと貯水池との関係は深い。

ところで、昔サヌアで小さな涸れ川ワディだねと言うと、いや違う、ワディは大規模なものだ、小さいものは●●と呼ぶのだ、と訂正された記憶がある。それが何だったか忘れてしまった。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』
イエメンの映像(4) バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方 


ジョニー・トー(16) 『高海抜の恋』

2012-07-23 23:00:00 | 香港

ジャカルタ行きの機内で、ジョニー・トー『高海抜の恋』(Romancing in Thin Air、2012年)を観る。

マイケル(ルイス・クー)は香港の大スター。彼は結婚式当日、カメラの前で、結婚相手に逃げられてしまう。自暴自棄になり酒に溺れた彼が向ったのは雲南省の高地。その宿は、かつて旅人として通ううちに宿の主人と心を通わせて結婚した女性サウが、切り盛りしていた。そして、サウの夫は、7年前に樹海で行方不明になったままだった。

破天荒なマイケルと無骨なサウはふたりとも情が深く、次第に愛し合うようになる。実はサウは、マイケルのファンクラブに入るほどの熱烈なファンだった。ところが、突然、サウの夫が死体で発見される。樹海の入り口近くで、それと気付かず、1年前まで生き延びていたという。マイケルは、サウのストーリーをもとにした映画を製作する。招待されたサウは、自分の人生を見せられ号泣し、耐えきれずに映画館を飛びだしそうになる。しかし、目を背ける直前に、現実と違う点があることに気がつく。夫が、実は生きていたというストーリーに変えられていたのだった。

調律が狂ったピアノを、夫の思い出としてそのままにしてほしいと言うサウ。何とかして酒を飲もうとするマイケル。奇妙なエピソードを織り交ぜながら、また、過去と現在を行き来しながら、散らかった話を収斂させていくジョニー・トーの手腕は相変わらず見事である。

しかし、『ターンレフト・ターンライト』『僕は君のために蝶になる』がそうであったように、ジョニー・トーの魅力はやはりアクションにおいて硬軟をこれでもかと詰め込む剛腕なのであり、柔らかいラヴストーリーではどうも物足りなさを感じてしまう。主演のルイス・クーも、『エレクション』連作のように、裏の道に生きる鋼のような存在感を発散した方が・・・。

この映画だけ観たら、ああいい映画だなとのみ思ってしまうだろう。それも怪物ジョニー・トーだからである。

ジョニー・トー作
『奪命金』
(2011)
『アクシデント』(2009)※製作
『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009)
『文雀』(邦題『スリ』)2008)
『僕は君のために蝶になる』(2008)
『MAD探偵』(2007)
『エグザイル/絆』(2006)
『エレクション 死の報復』(2006)
『エレクション』(2005)
『ブレイキング・ニュース』(2004)
『柔道龍虎房』(2004)
『PTU』(2003)
『ターンレフト・ターンライト』(2003)
『スー・チー in ミスター・パーフェクト』(2003)※製作
『デッドエンド/暗戦リターンズ』(2001)
『フルタイム・キラー』(2001)
『ザ・ミッション 非情の掟』(1999)


エドワード・ヤン『恋愛時代』

2012-07-14 22:41:24 | 中国・台湾

エドワード・ヤン『恋愛時代』(1994年)を観る。

台北で働く同世代の若者たち。人物関係図を描いたら、きっと恋愛の関係線が交錯しまくるような有様だ。

これだけ多くの話をたった2日間に押し込め、ひたすらスピーディーに世界をぐるぐると廻す。登場人物たちは、みんな、泣き叫び、鉛のような苦しみと悩みを抱えながら、それでも顔と身体を前面に出し、次の展開に自ら斬り込んでいく。大した手腕である。

冗談のような恋愛映画だが、羨ましくてたまらない。もちろん恋愛が、ではなく、停滞しないエネルギーが、である。上り坂社会において自分の脚でジャンプしたり墜落したりする人生。う~ん。


イエメンの映像(4) バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』

2012-07-14 12:11:58 | 中東・アフリカ

バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』(2005年)を観る。

イエメン首都のサヌアに滞在するイタリア人の写真家、フェデリコ。彼のイエメン人助手タリクは、ある夜、自分が婚約者ビルキスに贈った白いドレスを着た女性が、道で躍っているのを目撃する。それはビルキスではなく、別の女性イネスだった。ビルキスの家は金持ちで、そのドレスも窓から外に投げ捨てられていたのを、イネスが拾って、つい着て躍ってしまったのだった。結婚の日が近づくと、タリクは、ビルキスではなくイネスを愛していることを自覚する。イネスと一緒に逃げようと約束するタリクだが、なかなか外出できず、そしてイネスは毎晩約束の橋に立つ。

ヴェールで顔を覆った女性たちが、実はもの言わぬ存在ではなく、人の噂話が大好きだという設定が面白い。ここだけの話だが、ビルキスが破廉恥にも夜中に躍っていた(良家の娘としてあり得ない)、いやイネスがドレスを盗んだのだ、いや実はタリクはイネスを愛しているのだ、などと、ゴシップが凄まじいスピードで拡散していく様子は、別の言語体系かと思わせるほどだ。

フェデリコが使うカメラは、ニコンF3と、ニコマートの何か(輸出仕様のニッコールマット)。ずっとどこかに滞在して写真を撮るなんて羨ましい限りだ。それにしても、「ニコマート」と聞くと、どうしてもイメージするのはスーパーマーケットであり、それが入手を妨げてきた。

サヌアの家々は相変わらずデコレーションケーキのようだ。サレハ大統領の退陣を求めた騒乱のあと、街はどうなっているのだろう。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方