ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(岩波書店、原著1997年)を読む。1995年に亡くなったエマニュエル・レヴィナスへの弔辞と、彼の思想についての読解を収めている。
レヴィナスの説く倫理や平和の思想はどうかしているほど過激かつ飛躍的であり、私にとって、それは唖然とするほど執拗にして徹底したものだった。まさにレヴィナスを読むことは、レヴィナス体験と呼ぶことができるものだった。ジャック・デリダがそれを如何に受けとめ、既に応答の実対象とならない者に対して、如何に呼びかけたのか。
レヴィナスは思索した。自分が自分として存在する社会においては、その前提を不純にならず維持する当然の結末として、何の条件もなく到来するものに、無限に自分を捧げなければならない。如何に傷つこうと、それは全てに先立つ倫理であり、自分が採集するものではない。それが歓待であり、常に顔を介在させた応答である。
デリダは疑問を投げかける。それでは、歓待の倫理は、社会や国家の時空間のうちに、なんらかの政治や法権利を創設できるのか。その亀裂を不純なものとしてよいのか(レヴィナスは、「政治は後で!」と言った)。レヴィナスが常に出発点にしていたイスラエル・パレスチナだけでなく世界のあちこちで起こり続ける難問、平和への逆行に対し、そのような超然とした態度は倫理でありうるのか。戦争さえも顔を介在させた歓待の一環だという論理は成り立たせてよいものなのか。
おそらく、デリダは、政治や法権利の働きかけ(「政治的発明」)が無条件の応答責任という面から見れば不純であることを認めつつも、しかし一方では、難問の解きほぐしと何がしかの平和の実現のためには必要だという考えとの間のジレンマに苦しんでいる。「政治的発明」がデリダのいう「欠席裁判」のもと「「私はここに」と言う者が誰もいない場で」なされること、それこそが軍事基地や原発が置かれる場で倫理に背いて発動され続け、同時に隠され続けていることなのだ。まさにデリダの読み解きにより、レヴィナス思想の現代性が浮上してくる瞬間である。
「絶対に忘れてはならないことがある。それは、この選びが、選びに対してつねに異議を申し立てるように思われるものから、すなわち身代わりから、切り離しえないということである。」
「政治はつねに「欠席裁判によって」判断するだろう。要するに、死者ないし不在者について、顔が現前しない場で、「私はここに」と言う者が誰もいない場で、判断するだろう。」
また、政治への無関心、普遍への意志であったはずのキリスト教が、逆にナショナリズムを生んでしまったことにも触れている。この、デリダの思索の揺れ動きは動悸動悸させられるものだ。
「・・・キリスト教のこの区画性が生み出す「政治無関心主義」とレヴィナスがためらわずに呼ぶものこそが、逆説的に、キリスト教を「かくも頻繁に国家宗教」にしたのだ、と言う。政治無関心主義は、権力のための権力への嗜好を、権力ならば何でも、どんなことをしても手に入れるという嗜好を呼び招く。政治無関心主義だからこそ、協会が国家を支配しうるとき、協会の抑制なき権威主義と独断主義にやましさのない良心が与えられうる、というわけである。」
そして、デリダは、いつの間にかメビウスの輪のように倫理とその亀裂の論理を反転させる。
「・・・非-応答は、応答すべき者が私ただひとりである場合でも、私の応答責任の条件である。沈黙、裂孔は、規則がないということではなく、倫理的、司法的、政治的な決定=決断の瞬間において跳躍が必要だということである。この沈黙、裂孔がなければ、私たちは行動プログラムとしての知をただ繰り広げるだけとなるだろう。このこと以上に人を無責任にする、全体主義的なものはない。
さらに、この不連続性を組み込めば、レヴィナスが平和やメシア的歓待、政治的なものの内なる政治の彼方について語るあらゆることに、賛同可能となる。」
亀裂の存在こそが倫理の実践に不可欠だとするわけなのだ。少なくとも私はそう読んだ。この帰結が苦し紛れのものかどうか、判断できない。少なくとも、現実社会にあって、レヴィナスの徹底的な倫理は「埋め込み」という形で永遠に倫理を志向するものでしかあり得ないのだろう、と思う。その意味で、レヴィナスを「埋め込む」べく、レヴィナスがもっと読まれるべきだ。
●参照
○エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』
○エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
○ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは