Sightsong

自縄自縛日記

パット・アダチ『Asahi: A Legend in Baseball』、テッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日軍』

2010-05-31 00:13:53 | スポーツ

過日テレビを観ていると、カナダ・バンクーバーにおいて戦前に活躍した野球チーム、バンクーバー朝日軍の特集が組まれていた。かなりの実力があったチームで、日系移民のみならず人種を超えて人気があったという。思い出した、このチームの本を持っていた。パット・アダチ『Asahi: A Legend in Baseball』(1992年)だ。何年か前に、古本屋のワゴンの中で見つけ、500円くらいで買ったのではないだろうか。パラパラと頁をめくって楽しんでいたものの、そのまま放っていた。

当時の集合写真も、スナップも、寄せ書きも、新聞の切り抜きも、OBたちが寄せた文章もある。日系移民だから日本語、英語が混じっている。よく見ると、その中に登場する人たちの何人もの万年筆による署名がある。おそらくはOBに近い人が持っていて、みんなに書いてもらったものだろう。

ここには、日系移民向けの日本語新聞の切り抜きがいくつか掲載されている。例えば、カナダ人チーム、ホワイトロックとの試合結果について。

「(略)其間に北川又二塁へ走り何のことはない球が人間より遅い為め朝日は安打なくして三、二塁を奪ひ得たのである、次にバツトを握つたは中村兄二回目のバントが成功して山村本塁に突進、ホ軍は大狼狽を始めて中村を一塁に生かし二塁をお留守にして盗まれて了ふ、・・・・・・」

といった具合である。まるでラジオの名調子、いまの野球の記事もこんなふうであったならもっと愉しいだろう。

この野球チームについてもっと知りたくなって、テッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日軍』(2009年、東峰書房)を読んでみた。著者は、朝日軍のエースピッチャー、テディ・フルモトの息子である。

父親をはじめ、大勢の思い出を引き受けて、講談のようにチームの推移を描きだしていて、とても面白い。19世紀後半、カナダに初めての日系移民となる人が密入国した。彼は日本式の投げ網で鮭を獲って財をなし、「銀鮭王」、「塩鮭王」と呼ばれるようになる。紅鮭以外は現地で食べないため、キングサーモンや銀鮭を缶詰にして輸出したのだった。成功した者が家族を呼び寄せ、次第にバンクーバーには日系移民が増えていった。日本人排斥の動きがあったものの、ここで結成されたバンクーバー朝日軍という野球チームは、人種間の垣根を取り払う力を持っていた。しかし、第二次世界大戦により、日系移民は強制収容され、強制移住させられる。チームの突然の終焉であった。

本書を読んでいて高揚する気分は、まさにWBCのときと同じものだ。もちろん、このナショナリズムには良い側面も悪い側面もある。

去年の春、WBCが終わり、「来年の春、われわれはWBCの不在に気付いて、寂しさと物足りなさを覚えるのではないか。」(芝山幹郎)という言葉があった。確かにそれはそうだが、米大リーグも日本プロ野球も依然として面白い。韓国や台湾やメキシコやベネズエラやキューバでの国内リーグも観ることができれば、さらに世界が広がって愉しいに違いない。

今年の開幕時、『Number』2010/4/15号を読みながら、さてどうなるかなと思っていた。今のところ、ジャイアンツの東野が自分としてはピカイチだ。渾身の球を投げ込み、打たれても、抑えても、ボールと判定されても、愉しそうに悔しがったり会心の表情を見せたりするのが良いのだ。


劉國昌『弾道 Ballistic』 台湾・三一九槍撃事件

2010-05-30 12:04:27 | 中国・台湾

北京で買ってきたDVD、劉國昌『弾道 Ballistic』(2008年)を観る。中国ではこの4月から上映されているらしいが、一方でDVDが20元くらいとは何ともユルい。

台湾の総統選挙。劣勢の陣営は、有力者の息子を逮捕し、保釈してほしいなら力を貸せと迫る。雇われた殺し屋は、殺傷力のない銃弾を、選挙運動中の雇い主、つまり黒幕の総統候補めがけて撃つ。ところが横の妻に命中し、総統候補は病院で自分の身体に弾痕を付ける。この、相手に対するネガティブ・キャンペーンが奏功して、劣勢を跳ね返して選挙に勝利する。警察は、上からの圧力により、別の犯人を仕立て上げ、事件を終わらせようとする。しかし、捜査官は、逃げ出した偽・犯人を追い、香港に渡る。そこに偽・犯人を消そうとする殺し屋も現れる。偽・犯人とともに真実を公表しようとする捜査官だったが、捜査官の上役が総統側の圧力により寝返る。偽・犯人は消され、自殺として処理される。そして、真相を知る者は次々に葬られていく。数年後、総統に退陣を迫る人々が街中を埋め尽くす。

捜査官を演じたジョセフ・チャンは悪くないが、何といってもその上役のサイモン・ヤム。息子の病気をだしに圧力をかけられての苦しみ、寝返った直後の放心、悪を決め込んだ迫力、いつもながら味があって良い。

犯人は最初からわかっているわけで、見どころはジョセフ・チャンの熱い正義感、サイモン・ヤムの心理描写、それから改造弾を製造するディテール描写、台湾海峡を舟で渡るときの追い詰められた雰囲気、といったところだ。

台湾でも香港でも爆竹が打ち鳴らされる中での銃撃が行われるシーンはなかなかだが、ジョニー・トーの洗礼を受けた眼で見れば、アクションの工夫はそこそこの水準に思える。ただ、偽・犯人の娘の働くバーに捜査官が辿りついたところ、偽・犯人も、殺し屋も集まってしまうシーンは抜群だった。

ストーリーは、2004年に陳水扁・前総統が再選された際の「三一九槍撃事件」(>> リンク)をもとにしている。映画と同様に、事件が陳水扁サイドの自作自演であったとする報告も出されているという。そういえば、黒幕の総統候補役は妙に陳水扁に似ている。


北京798芸術区再訪 徐勇ってあの徐勇か

2010-05-30 00:16:11 | 中国・台湾

北京で少しできた時間を使って、宿泊先の近くの「Soka Art Center」まで歩いた。最初に訪れたときは、極寒のなか右往左往したものだったが、もう迷わない・・・・・・はずだったが、着いてみると、中身がデザイン学校に化けていた。受付の人に訊ねてみても、もとあった画廊がどこに移転したかなんて知るわけがない。

脱力して、タクシーに乗り、「北京798芸術区」に向かった。だだっ広い芸術村である。方向感覚を思い出しながら彷徨う、と、いきなり「Soka Art Center」を発見した。ちょっと前に移転したということだった。

■ 「雲端」 @Soka Art Center (>> リンク

入るといきなり方力鈞(ファン・リジュン)の大きな作品。奈良美智による眼がぐるぐるした女の子、草間弥生による気持ち悪い南瓜、蔡國強(ツァイ・グオチャン)による焼け焦げた手すき紙、艾未未(アイ・ウェイウェイ)による妙な立体作品など、ビッグネーム揃いだ。特に奈良、蔡が素晴らしい。辿りついて幸運だった。


方と草間

■ 「経典不朽」 @名・潮国際芸術館 (>> リンク

油彩による中国リアリズムと書き添えてある。過去からの伝統的な手法を用いて現代のテーマを描くといったモチーフで、つまらないかなと思ったのだが、毛以?(マオ・イガン)による裸婦作品(>> リンク)が鮮烈だった。

■ 「INCARNATIONS II /化身(弐)」 @Galerie Paris-Beijing

4人の写真家によるパフォーマンス・アート。タイトルの通り、主体が作品中に入り込んでいる。身体にペイントを施し、カメレオンのように商品棚と一体化するようなものは冗談としか受け止められなかったが、面白いものもあった。朱冥(ツー・ミン)の作品。街中、男が口からホースかエクトプラズムのようなものを出している。わけがわからず笑ってしまった。

?鑫(カン・シン)の一連の作品は、裸の人たちが風景内でデザイン化しているもの。ロバート・スミッソンやリチャード・ロングらのランド・アートがグロテスクになったようだ。それらに否応なく付きまとう「嘘っぽさ」がここでは消え、奇妙な力が残っている。

■ 朱昱「Play Thing」 @長征空間

朱昱(ツー・ユー)は、ウルトラリアルな食器の底や石の作品群を並べていた。何十枚も汚い食器の底を覗きこむとおかしな心地になる。

■ Olafur Eliasson & Ma Yansong 「Feelings are facts」 @UCCA (>> リンク

赤や青のガスが充満した部屋に入るという作品。パンフにコンセプトがいろいろ書いてあるが、とりあえずは楽しめばよいのだ。このような状況では、みんなデジカメを取り出す。

隣の部屋は繊維くずだらけ(作者は誰だろう)。みんな土足で入っていく。

■ 楊延康 @798 Photography (>> リンク

この写真家、楊延康(ヤン・ヤンカン)の作品ははじめて観た。銀塩モノクロ、僧たちの生活が捉えられている。ちょっと巧すぎて、カルティエ=ブレッソンみたいだ。もっと観たいと思い、中国でのカトリック信者たちを撮った写真集を入手した。今回の一番の発見だ。

■ 徐勇「再看/See Again」 @798 Gallery

徐勇(シュー・ヨン)は、北京の失われていく胡同をモノクロで撮ったことで有名な写真家だ。日本でも写真集が発行されている。

巨大な工場跡の空間に足を踏み入れても、それらしき作品はない。奥の方にあるのかなと歩いても何もない。そうではなく、目の前にある、全く異なる作風のものが、徐勇の新作なのだった。これには驚いた。作品によっては、これは樹木、これは戦車とかろうじて判るものの、概ね何が写っているのかわからないほどアウトフォーカスである。何の感銘もなく、ただ茫然とする。

テーブルに置いてある徐勇の作品集をいくつか開いてみた。もちろん胡同もある。しかし、以前に同じ「798 Space」で観た、裸の女性とテキストとの組み合わせによる作品群もある。そのとき、キュレイターの名前を写真家と勘違いしていたことに、ようやく気が付いた。悪くはなかったが、これだけ変貌を続ければ作家性もなにもあったものではない。

かつて中国で徐勇と交流した北井一夫さんから、「彼はビジネスもうまくて、結構偉くなっているらしい」と聞いたことがある。そのときには何のことかわからなかったが・・・・・・。


以前の展示「解決方策」

他にもいろいろと覗き、足が棒のようになった。ビールとサンドイッチで一休みして帰った。 

●中国アート
北京の「今日美術館」で呂順、「Red Gate Gallery」で蒋巍涛、?平
王利豊(ワン・リーフェン)@北京Red Gate Gallery
周吉榮(ツォウ・ジーロン)@北京Red Gate Gallery
馮効草(フェン・ジンカオ)、徐勇(シュー・ヨン)、梁衛洲(リョウ・ウェイツォウ)、ロバート・ファン・デア・ヒルスト(Robert van der Hilst)、王子(ワン・ツィー)@北京798芸術区
孫紅賓(サン・ホンビン)、任哲(レン・ツェ)、老孟(ラオ・メン)、亜牛(アニウ)、ルー・シャンニ、張連喜(ツァン・リャンシ)、蒋巍涛(ジャン・ウェイタオ)@北京798芸術区
武漢アート@北京Soka Art Center
解放―温普林中国前衛藝術档案之八〇年代@北京Soka Art Center
蔡玉龍「へちま棚の下で30年」 静かなる過激@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の新作「气?/The Activity of Vitality」@上海莫干山路・M50
上海の莫干山路・M50(上)
上海の莫干山路・M50(中)
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の「狂草」@上海莫干山路・M50
上海の莫干山路・M50のOFOTO Gallery(邵文?、?楚、矯健、田野)
袁侃(カン・ユアン)、孫驥(スン・ジ)、陸軍(ルー・ジュン)、蔣志(ジャン・ツィ)、クリス・レイニアー、クリストファー・テイラー@上海莫干山路・M50
Attasit Pokpong、邱?賢(キュウ・シェンシャン)、鐡哥們、杜賽勁(ドゥ・サイジン)、仙庭宣之、高幹雄、田野(ティアン・イェ)、何欣(ヘ・シン)、郭昊(グォ・ハォ)@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の「狂草」@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の新作「气?/The Activity of Vitality」@上海莫干山路・M50
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展@銀座資生堂ギャラリー
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(蔡國強)


入江曜子『溥儀』

2010-05-27 01:35:44 | 中国・台湾

清朝最後の皇帝、ラストエンペラー、宣統帝溥儀。日本の植民地国家、満州帝国最初の皇帝、康徳帝溥儀。最後は中国の「人民」となった愛新覚羅溥儀。しかし、歴史上のターニングポイントにおける顔は知られていても、この奇怪な男の生涯のことは知られていない。入江曜子『溥儀―――清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)は、溥儀の内面にまで探りを入れている。歴史の副産物とは言え、あまりの呪われし運命に慄然とさせられる。

3歳にして滅びゆく国の皇帝となった溥儀は、重々しく玉座から動かない男でも、状況に合わせて器用に姿を変える男でもなかった。老獪でもなかったし、純真というには屈折しすぎていた。もちろん身の回りのことなど何一つできず、晩年になっても、布団を四角く折りたたむことすらできなかった。

本書で再現される溥儀の姿は、大きな力に擦り寄り、その力を我が物にしようとして叶わない、病的なものだ。おそらくは、軽い身のこなしなどではなく、結果として「裸の皇帝」から抜け出せなかったということだろう。清朝皇帝の座を追われ、一度は袁世凱の野望に相乗りする形で二度目の皇帝となる。そして虜囚。日本に担ぎ出されて満州の皇帝となる。三度目の皇帝である。このとき、溥儀が期待していたのは、新国家の皇帝ではなく、清朝の復活であったという。その段になってはじめて事実を知った溥儀は、板垣征四郎に対して怒りをぶつけるものの、拒絶する実権はない。

「「満州国は清朝の復辟ではなく、漢、満、蒙、日、鮮の五族による新しい国家である」
 冒頭で閣下と呼ばれて頬をひきつらせた溥儀は、この一言で蒼白になった。
 「それでは話が違う」」

清朝復辟を諦めた溥儀は、次に、天皇の一族になろうとする。アマテラスさえも崇敬の対象とするのである。徒花の植民地国家、満州帝国が滅び、またも虜囚の身となる溥儀。中国成立後送還され、次に擦り寄ったのは、毛沢東という力であった。毛語録を口走り、過剰なまでに自己批判を繰り返した自伝を書き、「人民」という(無理に取ろうとすれば顔の皮が剥がれる)仮面をかぶり続けた。文化大革命がはじまり、特権階級を批判されるたびに慄く、小心者の怪物であった。本書が示してくれるのは、溥儀の姿だけでなく、「皇帝を自己批判せしめ、一般人民として更生させた」ということを国内外にアピールできる中国という国家の危い姿でもある。

「周恩来は「自己批判が多すぎる」と批判し、過去に人民を搾取し圧迫した皇帝が、どのような過程を経て人民とともに歩む人間に生まれ変わることができたのか、その党と国家の人間改造の実態を広く人々に知らせることにある、と改定の意義を具体的に指摘した。
 毛沢東はさらに一歩踏み込んで「この本の改定をやりおおせれば、あなたは新しい人間として定着するだろう。後世の人も、最後の皇帝がよく改造されたものだと、称賛するだろう」と溥儀の後半生を示唆する。 (略) この段階で溥儀は自立した伝記の筆者から、かくあるべき物語のヒーローに改造されたといっていい。」

汪兆銘は漢奸とされ、かたや、溥儀は生きおおせたわけである。

●中国近現代史
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
小林英夫『日中戦争』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
林真理子『RURIKO』
平頂山事件とは何だったのか
盧溝橋
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』
池谷薫『蟻の兵隊』
天児慧『巨龍の胎動』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
竹内実『中国という世界』


ヤシカマットで葉山

2010-05-26 00:34:20 | 写真

葉山の神奈川県立近代美術館に行ったついでに、目の前の一色海岸で遊ぶ。

たまに持ち出す二眼レフは愉しい。以前にミノルタ・オートコードを使っていて、故あって手放してしまったのだが、下を向いて鷹揚に撮るテンポが忘れられず、いまはヤシカマットを使っている。露出計が入る前の、シンプルなタイプである。レンズの描写は、シャープではあるものの、色がひたすらに地味だ。もともと地味な特性のカラーネガ、FUJI Pro 400だということを差し引いても、色が淡く、少し黄ばんでいる。このカメラには、モノクロか、青っぽく派手な色彩のベルビアなどが合っているかもしれない。ただ、地味なら地味で、そんな個性のカメラと付き合っているというだけの話だ。

すべて、ヤシカマット、FUJI Pro 400、ラボプリント


上海の莫干山路・M50のOFOTO Gallery

2010-05-25 00:42:04 | 中国・台湾

上海・莫干山路にある芸術村M50で、蔡玉龍さんの作品を観たついでに、写真ギャラリーの「OFOTO Gallery」も覗いた。去年訪れたとき、クリストファー・テイラーの良い展示を行っていたことが記憶にあった。

今回は、何人もの写真家の作品を展示している。急いでいて余裕がない気持だったにも関わらず、眼がひっかかる作品がいくつもあった。ところで、東京の某写真ギャラリー・写真専門出版社の社長が、中国の写真ギャラリーを観て回り、「観るべきものが皆無」との暴言を吐いていたが、それはいくらなんでも感性に問題があるだろう。北井一夫の写真集など素晴らしいものを出しているだけに、ブログでの発言の固陋さには違和感を感じている。

■ 邵文?(シャオ・ウェンファン) 「不明・・・・・・」

乳剤を塗布したキャンバスに焼き付けた銀塩プリント。明らかに水墨画のような表現であり、隙がない。

■ ?楚(シュ・シュ) 「It's Not It」の連作

箒や容器、よくわからない黒く大きなマッスが画面を支配する。デジタルプリントなのは残念だが、存在感が物凄い。

■ 矯健(ジャオ・ジャン) 「Fill the Void」の連作

土壁の一部に穿たれた穴。どの作品にも、その穴に男が窮屈そうに詰まっている。銀塩プリントはトーンがよく出ている。このユニークな写真家の作品をもっと観たいところ。

■ 田野(ティアン・イェ) 「慢慢的遊走」

草の向こう、川の中で犬が乱暴に走っている。「慢慢的」というより疾走感があり、靄の中で犬を際立たせるセンスが良い。

●上海アート
上海の莫干山路・M50(上)
上海の莫干山路・M50(中)
上海の莫干山路・M50(下)(ツァイ・ユーロン)の「狂草」
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の新作「气?/The Activity of Vitality」@上海莫干山路・M50
蔡玉龍「へちま棚の下で30年」 静かなる過激@上海莫干山路・M50
陸元敏『上海人』


ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集

2010-05-23 22:25:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャールズ・ゲイルやセシル・テイラーと共演する強面ベーシスト、ウィリアム・パーカーが、カーティス・メイフィールドの音楽を演奏した異色盤『The Inside Songs of Curtis Mayfield - Live in Rome』(Rai Trade、2007年)。何だか大変なギャップがある。このふたりをつなぐものはブルースである。ライナーノートにパーカー本人がこう書いている。カーティス・メイフィールドを聴いて育ったし、その音楽は、カウント・ベイシーとも、コールマン・ホーキンスとも、オーネット・コールマンとも、セシル・テイラーとも、ビル・ディクソンとも、ルイ・アームストロングとも別々のものではない。それに、すべてルーツはブルースなんだ、と。

とは言え、メンバーはやはりアヴァンギャルドの強力な布陣である。パーカー(ベース)、ハミッド・ドレイク(ドラムス)、デイヴ・バレル(ピアノ)、ルイス・バーンズ(トランペット)、ダリル・フォスター(サックス)、サビーア・マティーン(サックス)、リーナ・コンクエスト(ヴォーカル)、アミリ・バラカ(ヴォイス、詩)。カーティス・メイフィールドに代わって歌うリーナ・コンクエストのことは知らないが、深い声は悪くない。

コンクエストとドレイクとのデュオによる短い「The Makings of You」に続いて、パーカーの太いベースが「People Get Ready」を奏で始める。これは本当に快感だ。みんなヨルダン行きの汽車に乗ろう、信仰さえあれば切符は要らない、という直接的なプロテスト・ソングである。アミリ・バラカ(かつてのリロイ・ジョーンズ)は、人民、解放、独立といったシンプルな言葉をリズミカルに繰り出してくる。デイヴ・バレルの暴れるピアノ・ソロが良い。続く「Inside Song #1」では、ドレイクのドラム・ソロが聴き物である。

そして最後の2曲、「Think」と「Freddie's Dead」は、映画『SuperFly』のサントラ盤(1972年)から選曲されている。この映画を観る機会はこれまでないのだが、ヤク中の話であり、クエンティン・タランティーノにも影響を与えた作品らしい。すべてカーティス・メイフィールドの手によるサントラ盤が格好いいだけに、ぜひいつか映画も観てみたいものだ。

「Think」はもともとオーボエ、ギター、テナーサックスなどによるブルージーな曲で、ここでも、フォスターのソプラノサックスとマティーンのアルトサックスのソロの雰囲気が素晴らしい。「Freddie's Dead」では、このサックスふたりが、自身の位置を確認するかのように、ジョン・コルトレーンの「至上の愛」を引用したりもする面白さがある。

ところで、有名曲「People Get Ready」だが、ジャズで他に誰か演っていないかと思って探すと、2枚見つかった。リトル・ジミー・スコット『Heaven』(Warner Bros.、1996年)では、ジャッキー・テラソンの器用なピアノに気持ち良く乗って、独特の中性的な声でゆっくりと歌っている。また、リューベン・ウィルソン+バーナード・パーディ+グラント・グリーンJr.『The Godfathers of Groove』(18th & Vine、2006年)では、親父譲りの太く艶があるグラント・グリーンJr.のギターソロがとても良い。みんなカーティス・メイフィールドを演奏したり歌ったりするなんて当然のことなんだろうね。他にもジャズ畑であれば聴いてみたいところだ。


来日時にサインを頂いた

●参照
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(ウィリアム・パーカーが語る)
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『根拠地』 その現代性
ビリー・ハーパーの新作『Blueprints of Jazz』(アミリ・バラカ参加)
サインホ・ナムチラックの映像(ウィリアム・パーカー、ハミッド・ドレイク参加)
ペーター・ブロッツマン(ウィリアム・パーカー、ハミッド・ドレイク参加)
フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』(ハミッド・ドレイク参加)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハミッド・ドレイク参加)
リューベン・ウィルソンにお釣りをもらったこと

 


ジャファール・パナヒ『白い風船』 パナヒはいま拘束中

2010-05-23 15:30:07 | 中東・アフリカ

休日。録画しておいた、ジャファール・パナヒ『白い風船』(1995年)を観る。

忙しい母と、街で見つけた大きな金魚が欲しくてたまらない娘。泣きながら母に欲しい欲しいとねだり、兄の助けもあって、買っておいでとオカネをもらう。蛇使いにオカネを取り上げられ、返してもらって金魚屋に着いたところ、どこかにオカネを落としてしまっている。歩いてきた道を戻っていくと見つかった。ところが、拾おうとした矢先に、穴倉の中にオカネが落ちてしまった。隣の仕立屋に取ってほしいと頼んだが、客との喧嘩に夢中で取り付くシマもない。そこに風船売りの少年があらわれた。兄は風船売りの棒を借りて、その先にガムをくっつけて、穴倉の中のオカネを拾う。

ひとつひとつのエピソードが楽しいが、必死の子どもたちはそれどころでない。困って途方にくれたときの心象風景がとても巧く描かれていて、良い映画だ。アッバス・キアロスタミ『トラベラー』にも通じる子どもの世界があるなと思っていたら、キアロスタミが脚本を手掛けている。調べてみると、パナヒはキアロスタミの助監督を務めていたこともあった。

そのパナヒだが、今年の3月に、イランの治安当局に身柄を拘束されている。ある中東メーリングリストの情報を辿ると、昨2009年の大統領選でムサビ候補を支持し、ムサビ・カラーの緑色で、モントリオール映画祭でのアピールを行ったことに端を発している。なお、選挙は不正によりアフマディネジャド大統領が再選された形となっている。その後、大統領選に関する映画を作ろうとしていたという。アフマディネジャドの独裁と弾圧はひどいことになっているようだ。

現在、パナヒはハンガー・ストライキを行っているようで、カンヌ映画祭ではさまざまな抗議が行われている。オープニングセレモニーではパナヒの名前が置かれた空席の椅子が設置され、また、キアロスタミと同席したジュリエット・ビノシュは涙を流している。

○2009年、モントリオール映画祭でのパナヒの映像。審査員を務めた奥田瑛二の姿もある。 >> リンク
○「ジャファール・パナヒ拘束」(ペルシア語だがgoogleで翻訳可) >> リンク
○「カンヌ国際映画祭に「空席」のいす、イラン映画監督の拘束に抗議」(英語) >> リンク
○「ジュリエット・ビノシュがハンガー・ストライキの報道に涙」(日本語) >> リンク

●参照
アッバス・キアロスタミ『トラベラー』
アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』


小林英夫『<満洲>の歴史』

2010-05-22 22:40:41 | 中国・台湾

中国への出張に持って行った本、小林英夫『<満洲>の歴史』(講談社現代新書、2008年)。著者は満州のことを<満洲>と呼ぶ。<満洲>は、ほんらい地名ではなく、清の太祖ヌルハチが自国も自民族も<満珠>(マンジュ)と称したことに由来し、満州は簡略化された表記に過ぎないからだという。

上海から北京への移動の際、搭乗してから離陸まで2時間も缶詰になってしまい、さらに着陸後も荷物のドアが開かない(!)という理由でさらにしばらく待たされ、おかげで読むことができた。中国の国内便で苛々したら負けである。

本書の特徴は大きく2つある。ひとつは中国東北地方・満州国・満州帝国における産業構造の変化を明快に示していることだ。のちに関東軍に爆殺される張作霖らの軍閥が東北地方を支配したのは、大豆の売却益を独占したからでもあった。息子・張学良蒋介石に接近し、西安事件により抗日の流れを作ったことを考えれば、これは満州国前史にとどまらない観点となりそうだ。そして満州では、日本経済を支えるため、重厚長大産業を成長させる統制経済を敷いた。著者は、日本の戦後の高度成長はこのモデルを拡大再稼働させたものだと指摘する。モデルだけでなく、岸信介や満鉄調査部出身者が戦後の活動の中心となっていたことも、この連続性を物語っているという。

もうひとつの特徴は、軍の検閲により没収された手紙など「生の声」を収集し、差別や抑圧の実態を再現していることだ。検閲は情報の隠匿と管制であるから、その声は「内地」には届かなかったのである。例えば、満州に住む日本人が、在満漢族の様子を天津の日本人に伝えようとした手紙には、このような噂話が含まれていた。

「日本が誹謗する張(作霖)政権・・・・・・没落したかつての軍閥はなるほどひどかったが、我々の食糧だけは与えてくれた。軍閥はやっぱり同じ国民だった」。 「満洲国は何処の国と戦争をしているのか? 日本が戦争をしているのに満州国が傍杖を食っている。その結果食糧が与えられない。そして日本人だけが食物を与えられている、なぜか? 満人はなぜ苦しまなければならないのか」。

過度のひとりよがりな日本化は、当然ながら、大きな反発を生みだしていた。『東京朝日新聞』からの引用では盛大かつ厳かに執り行われたような印象を受ける満州国建国の儀式は、実際には、「日本軍の銃剣に取り囲まれ」、宣統帝溥儀を中心に「専門学校の卒業式程度」の儀式であったという。もちろん、満州国が謳う「五族協和」などウソであった。

上の2つの特徴は、戦後においても重要な点を孕んでいる。「日本の植民地統治は侵略ではなく正常な経済活動であった」という主張が拠り所にするのは、前者の特徴のみであるからだ。

●中国近現代史
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
小林英夫『日中戦争』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
林真理子『RURIKO』
平頂山事件とは何だったのか
盧溝橋
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』
池谷薫『蟻の兵隊』
天児慧『巨龍の胎動』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
竹内実『中国という世界』


蔡玉龍「へちま棚の下で30年」 静かなる過激

2010-05-22 00:49:33 | 中国・台湾

所用で上海、北京を訪れた。上海で少し空き時間ができたので、莫干山路にある芸術村M50に足を運んだ。蔡玉龍さんが自身のギャラリー「莫干山99工作室」で、新作「へちま棚の下で30年」の展示を行っているからだ。

歩いて向かう途中にあった古い建物は工事の途中だった(※下の写真の覆いがないところを昨年撮っていた)。まだ1年も経っていない。これも上海の変化か。


莫干山路(2009年8月) PENTAX MX、77mmF1.8 Limited、Tri-X (+2)、イルフォードMG IV RC、2号

ギャラリーに入って英語で名前を名乗ると、スタッフの女性に日本語で「ああ、ブログ読んでいますよ」と言われた。魔都・上海の初対面の女性に声が届いていたというのは不思議な気分だ。2階で休んでいた蔡さんのところに案内され、今回の展示以外の作品群を見せていただく。前回観た「Buddist Monk」のひとつも、三連の書もある。素晴らしい、だが、今回の作品群はさらに凄みを増している。

「狂草」の書が、まさにへちまのように這い上がり、垂れ下がり、無数の生命力を誇示している。水が湛えられた鉢や、紐が結えられた石からも上へ上へと生き続けている。毛糸のインスタレーションが不穏さを増幅させているが、本人によると、古代とのつながりを意図している。書についても、周時代や漢時代など、時代を使い分けているという。やりたい放題だ。

日本での再度の個展も計画しているらしい(場所などまだ決めていないとのこと)。前回は気が付かなかったが、この静かなる過激、やり方によっては随分とセンセーショナルなものになるのではないか。

●参照
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の「狂草」@上海莫干山路・M50
蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)の新作「气?/The Activity of Vitality」@上海莫干山路・M50
上海の莫干山路・M50(上)
上海の莫干山路・M50(中)
上海の夜と朝
上海、77mm
藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件
『チャイナ・ガールの1世紀』 流行と社会とのシンクロ
上海の麺と小籠包(とリニア)
陸元敏『上海人』
上海環球金融中心のエレベーター


ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ

2010-05-16 22:25:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

ディスクユニオンのアウトレットコーナーを覗いたら、ペーター・コヴァルトのベースソロ盤『Open Secrets』(FMP、1998年録音)が格安で見つかった。

これまで、コヴァルトの演奏を耳をそばだてて聴いたことはなかったかもしれない。音色の分離が心地よく(端正と表現するほど縮こまっていない)、コントラバスの響きを聴いているのに、まるで絹のような感触を覚える。フリー・インプロヴィゼーションのメロディラインも素晴らしく、何度も繰り返し聴いてしまう魅力がある。耳をそばだててこなかったと言いながら、リーダー作も持っている。そのうちデュオの作品、『Duos』(FMP、1991年)と『Paintings』(FMP、1981年)を棚から出して聴いた。

『Duos』は、エヴァン・パーカー、アンドリュー・シリル、イレーネ・シュヴァイツァー、坂田明、ペーター・ブロッツマン、デレク・ベイリー、ハン・ベニンク、翠川敬基ら、19人のインプロヴァイザーとのデュオ集。つい好みの共演者の方に耳が向いてしまうが、ひとつひとつ異なった表情を見せるコヴァルトの音は良い。特にデレク・ベイリーと弦楽器同士で、無数のはじく音が何かを目指して絡まっていく過程には感動させられるものがある。アンドリュー・シリルとのデュオでは、コヴァルトはホーミーのような声も出す。これが、『Open Secrets』での最終曲では締めくくりとして効果をあげているのだ。

『Paintings』は、バリー・ガイとのベース・デュオ。ここでも左右のトラックから発せられるコントラバスの音を聴いていると、それぞれのキャラクターの違いが浮かび上がってきて面白い。ガイは、はじいたときの破裂音や不協和音を増幅するセンスなのである。マッツ・グスタフソンを見出したのもわかるような気がする。

ジャケットは写真の四隅をテープ止めしたようなデザインになっている(実際のテープではなく、そのようなデザイン)。最近、マッツ・グスタフソンがサックス・ソロでデューク・エリントン集を出していたが、そちらは本当に写真を白ジャケットにテープ止めしてある。さては師匠格のガイのLPに触発されたか。

CD化の際に、この盤と、バール・フィリップスとのベース・デュオ盤とがカップリングされた記憶がある。ベースの響きや雑音を聴くにはやはりLPだ、と思うものの、入手しておけばよかった。あらためて、今度はバール・フィリップスのベースソロ盤『Camouflage』(victo、1989年)を2度、3度と繰り返して聴いてみると、やはりベースの顔が違う。彼はガイほどではないものの、さまざまな音色を発し、音が発生している途中で別の音を混ぜたり、移動したりする。

ところで、コヴァルトは絵も好きだったようで、この『Paintings』でも、ルネ・マグリット、マルセル・デュシャン、マックス・エルンスト、ヨーゼフ・ボイスをイメージして演奏されている、あるいは後付けでイメージされている。そして『Open Secrets』のヘタウマな絵はコヴァルトの手によるものだ。親交があった画家、A.R.ペンクの画風も彷彿とさせるものであり、ヘタウマであっても、このころのドイツにおけるひとつの雰囲気を反映しているかもしれない(ペンクは1980年に東ドイツから西ドイツに亡命した。奈良美智の師匠でもある)。

●参照
バール・フィリップス+今井和雄『プレイエム・アズ・ゼイ・フォール』
歌舞伎町ナルシスでのバール・フィリップス
マッツ・グスタフソンのエリントン集、マッツ・グスタフソン+バリー・ガイ『Frogging』


とり天、丸天

2010-05-15 23:33:20 | 九州

今週所用で福岡に足を運んだ際、旨い「とり天」を目当てに、天神の「ルドゥー」まで足を運んだ。食べたところ、もも肉のようであり、自分でも作ることができそうだと考えた(この味になるかはともかく)。ところで、とり天は福岡名物だと勝手に思い込んでいたが、Wikipediaによれば、大分ローカルの食べ物らしい。とはいえ、何度か福岡で食べたことがあるから、広がっているに違いない。

そんなわけで、今日の夕食はとり天に決定、近くのスーパーでもも肉を調達。しかし、諸事情があって、ただのから揚げになってしまった。カロリーオフ、ノープロブレム。しかし、天神のとり天のほうが断然旨かったな。息子はもりもり食ってくれたのだけど。

福岡では、先日、あまりにも懐かしい「丸天」や「すぼ巻」を発見して嬉しかった。今回、柳橋連合市場まで足を延ばして物色したところ、練りもの店がいくつかあった。最初に目に入った「やまくま蒲鉾」で、丸天、すぼ巻、竹輪を買ってほくほくと飛行機に乗り込んだのだった。


竹輪を炙って食べる


丸天は炙って生姜醤油で食べる


(関係ないが)昨夏入手した糸満ワイン

●参照
ダッタン蕎麦、すぼ巻と天ぷら


ブライアン・デ・パルマ『ミッドナイトクロス』『ブラック・ダリア』

2010-05-15 14:06:22 | 北米

休日。家族は用事があって出かけてしまった。疲れて何かをする気もしない。

そんなわけで、録画してあったブライアン・デ・パルマの2作品、『ミッドナイトクロス』(1981年)と『ブラック・ダリア』(2006年)を観る。ああ下らない、これなら大リーグ中継を観ていたほうがよかった。(以前も、休日ひとりデ・パルマ大会をやって無駄な時間を過ごした。人は成長しない。)

『ミッドナイトクロス』は、録音機ナグラを抱えた音響マン、ジョン・トラヴォルタが主役。『サタデー・ナイト・フィーバー』の数年後だから、新たな役に飢えていたころに違いない。原題は『Blow Up』、ミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』と同じであり、白黒写真の引き伸ばしがネタになっている。この頃の映画フィルムの雰囲気は好きだ。トラヴォルタの演技は悪くないが、当時の観客は色眼鏡で観ていたのかもしれない。

演出は、相変わらずのしょうもないデ・パルマ節だ。あえて言えば、最後の殺人と花火のシーンか。ジョニー・トー『フルタイム・キラー』との共通項を見出したような気がするが、まあ、トーがデ・パルマを好きであっても不思議ではない。これもいつものことだが、花火シーン一発に向けて映画が成立している。

『ブラック・ダリア』は、・・・駄目だなあ。これも一発芸は殺人の場面であって、同僚を救おうと階段を懸命に駆け上がる男の前を落下するシーンなどは、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』か。剽窃と呼ぶかオマージュと呼ぶかは思い入れ次第である。

●ブライアン・デ・パルマ
『ミッション・トゥ・マーズ』『ファム・ファタール』
『リダクテッド 真実の価値』


吉見俊哉『親米と反米』

2010-05-15 00:03:46 | 北米

復刊が話題となっている、フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』からサブタイトルの示唆を得たという、吉見俊哉『親米と反米 ―――戦後日本の政治的無意識』(岩波新書、2007年)。歴史的に構成された無意識的な蓄積は、ジェイムソンの指摘のように、「徹底的に政治的である」。本書は、戦後日本における奇妙な「親米」と「反米」の併存が、いかなる政治的なプロセスを経た結果なのかを明らかにしようとする。

ここで提示されるのは、米国の圧倒的な政治的影響下にあって、米国へのまなざしの中で自我を形成してきた戦後日本のいびつな姿だ。「パンパン」はハリウッドでもあった。テレビは「買うもの」ではなく「やってくるもの」であった。米国流マイホームも、白物家電も、そのような欲望のまなざしに晒され、模倣した文化が文化となった。横須賀や立川や六本木といった軍の街は、欲望のまなざしに晒され、カッコいい街へと反転した。

興味深い広告が引用されている。1959年の松下の広告には、「日本の憲法、第二十五條には、「国民は健康で文化的な生活をいとなむ権利がある」と、うたわれています。この私たちすべての願いが満たされていくもの―――そのひとつに家庭の電化があります」と、「民主化」と「家庭電化」とが結び付けられている。しかしここには、意図的な省略があった。米国流生活様式は生存権ではない。憲法二十五条にある「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」から、「最低限度の」が抜かれているというのだ。

このような「下から」のアイデンティティ形成のプロセスは、日本だけのものではなかったことが指摘されている。例えば、フランス人は、「フランス人の米国嫌い」のように、米国を他者として外部化した。また、フィリピン人は、米国人以上に米国人を演じるようになった。著者は、米国なるものが「きわめて多くの社会で自己想像のための重要な媒介項となっていた」と指摘する。もちろん、安易な相対化はできないのであって、日本は日本の病理を明るい場所に持ってこなければならない。鳩山首相が米国に恫喝されたり揶揄されたりするたびに、率先してその代弁者と化す醜いメディアの姿などは、まさにこの病理に他ならない。

とても興味深いことに、「豊かで自由な米国」への欲望は、占領下の検閲と隠蔽によって内部化されたのだと示唆されている。実はさほど姿を見せないためにアイコン度を増したマッカーサーや、性暴力という本質ではなく派手なファッションをアイコン化した「パンパン」が、増幅し、増殖し、無意識の空隙を充たしていったというわけである。そして、日本の政治的無意識は、基地や暴力といった側面と、それらを外部に放逐して「豊かな米国」を自らの生活に取り込む側面とに分裂した。狭隘なナショナリズムが親米と近い距離にあり、その臭い汁は現在でもなお、メディアや為政者の身体にしみついているということだろう。

著者は終章において、次のように述べている。このまなざしによって、あの都知事が沖縄と米国に関して発し続ける音声を捉えることができる。

戦後日本が行き着いた先での親米感覚の定着は、戦後日本のポスト帝国的性格、すなわちアメリカによって先導されるグローバルな帝国的体制のなかで、日本が占めるようになっていった位置と相関している。90年代以降のこの国でのネオ・ナショナリストたちの台頭は、彼らがアジアの人びととの真摯な対話と過去の再審を拒絶して自己正当化を強弁し続ける限りにおいて、こうしたアメリカとの関係をいささかも変えるものとはなり得ない。


2010年2月、ロンドン

2010-05-12 22:57:55 | ヨーロッパ

寒くて外でスナップなど撮る気になかなかなれず、3段も増感するつもりのフィルムで、しかも他のついでに4号の印画紙で焼いたら、バキバキに硬い写真になってしまった。(当たり前だが。)

※写真はすべてLeica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3増感)、フジブロ4号。

●参照
2002年、ロンドン
2006年、レイコック