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自縄自縛日記

汪暉『世界史のなかの中国』

2012-02-24 00:05:25 | 中国・台湾

ドーハに向かう機内で、汪暉『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』(青土社、2011年)を読む。サブタイトルにあるように、本書は、文革、琉球、チベットという3部から成る。

第一部(文革)では、文革そのものの評価を下しているわけではない。1960年代において統治や社会のかたちを模索しながらつくりあげていった過程を本来的な<政治>であるとするならば、作りあげられた統治と社会の構造を維持し、強化するあり方は<脱政治化>なのだとする。より中国に則しては、<党-国体制>から<国-党体制>への転換である。すなわち、絶えず自己構成を繰り返す時期を過ぎたあとのかたちは<政治>でも<党>でもなく、その終焉であるというわけだ。著者によれば、異常な活動が跋扈した文化大革命こそが<脱政治化>のあらわれであった。

利権のネットワーク、権力のかたちから外れた存在の疎外といった現在への視点からは、納得できる説明ではある。おそらくは腐敗もヴィジョンの健忘もこれと無関係ではなく、あらたな<脱・脱政治化>は、単なる政局上のスクラップ&ビルドではありえない。むしろ、ヴィジョンとは本質的には絵空事、非現実的であるべきものなのだろう。ヴィジョンを語る人を蔑む精神は、きっとヴィジョンをかたちにしていく精神とは対極にあるものだ。

それでは中国はどのように<政治>を取り戻すのか(<再政治化>)。そのメッセージは抽象的ではあるが、当然ながら、硬直化、腐敗した<自然>からの<脱自然化>を図ること、もういちど政治空間や政治生活を活性化すること、もう一度批判的に20世紀を生きること、差異や多様性や対抗性や創造的な緊張を取り戻すこと。要は現在の国家のかたちを揺るがすこと。これを具体的に述べることができるわけはない。

第二部(琉球)は、沖縄における政治闘争に注目している。歴史と世界の矛盾がすべて現在において顕現している地にあって、何らかの追求は歴史を負ったものとなる。ここでは、著者は、<脱政治化>が存在しないのだと断言しているが、それは沖縄の政局を敏感に感じ取っての発言とは思えない。

むしろ、興味深いのは、琉球と中国との関係である。1871年、台湾に漂着した琉球民54人が現地住民によって殺害された。清政府はこれを「化外の民」がしたことと責任回避をする。著者によれば、その解釈は、清国の管轄する地域ではなかった、ということではなく、ゆるやかな統治であったということだという。すなわち西欧流の国境概念はなじまなかった、というわけである。さらに、日清両属であった琉球の位置付けも、そのコンテキストで説かれる。後者は史実として納得するが、前者の違和感は残る(これが第三部のチベットでさらに大きくなる)。

なお、2011年に佐喜間美術館所蔵のケーテ・コルヴィッツの版画が、彼の作品を好んでいた魯迅にちなんで北京魯迅博物館(>> リンク)で展示されたことが話題になったが、コルヴィッツの作品を介した沖縄-中国のつながりに注目し、展覧会を開くことを提案したのが他ならぬ著者であったというのだ。なるほど、魯迅がコルヴィッツ作品集を刊行していたことは、藤井省三『魯迅』(>> リンク)によって気付かされたのだったが、それがつながったのは偶然ではなかったというわけである。

また、著者は、丸川哲史『台湾ナショナリズム』(>> リンク)において指摘されたのと同様に(この論考はまさに丸川哲史氏によるインタビューをもとにしている)、カイロ会議における蒋介石の意向が沖縄の運命を左右したのだ、と、より詳細に整理している。注目すべきは、蒋介石がそのような方向性を示したのは、米国の意を汲んでのことだったという点だ。大田昌秀『沖縄の帝王 高等弁務官』(>> リンク)においては、ルーズベルトが沖縄を中国に割譲しようとしたものの蒋介石が拒んだとあるが、本書では、それを明確に否定している。このことはもっと言及されてもいいことなのだろう。

「もしも蒋介石が、カイロ会議の際そして戦争終結後、琉球の国際委託管理や非軍事地域化を終始堅持し、アメリカに軍事占領させていなかったら、琉球の運命はもしかしたら異なる部分があったのかもしれない。しかし、蒋介石は明らかに、アメリカの力と意志に抵抗しそれを拒絶しようとはしなかった。」

第三部(チベット)については、驚きと違和感が残った。驚きとは、チベットがまさに欧米の夢として位置づけられ続けてきた<幻視>であったということ。そして異和感とは、チベットを含め、中国政府の異民族支配を批判の対象とせず、その批判こそが西欧流の民族国家観、国境観に毒されたものだと言わんばかりの勢いのことだ。<脱政治化>を<政治>の終焉として批判するならば、<脱政治化>によって建国当時の国家ヴィジョンから外れてしまった現在の支配構造についても批判の対象とすべきだと思うのだがどうか(加々美光行『中国の民族問題』に詳しい >> リンク)。それとも、「天下」概念に復古したいのででもあろうか。

●参照
天児慧『巨龍の胎動』
天児慧『中国・アジア・日本』
『世界』の特集「巨大な隣人・中国とともに生きる」
『情況』の、「現代中国論」特集
加々美光行『裸の共和国』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
堀江則雄『ユーラシア胎動』
L・ヤーコブソン+D・ノックス『中国の新しい対外政策』
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
丸川哲史『台湾ナショナリズム』


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