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自縄自縛日記

姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』

2012-09-30 23:19:02 | 北アジア・中央アジア

姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』(有斐閣、2012年)を読む。

国や地域を限定せず、むしろ地域間のインタラクションに焦点を当てたユニークな本。

たとえば。

モンゴル帝国は、サハリンに住むアイヌらとの交易を行っていた。それは、アイヌが持ってきたオコジョ(銀鼠)の毛皮を、クビライ・ハンが着た絵を見てもわかる。黒い筋はオコジョの尾の先だという。(杉山正明『クビライの挑戦』の表紙画にもなっている。>> リンク
○1630年代から1853年の黒船来航まで、日本は「鎖国」をしていたというのが、近世日本についての共通理解だった。しかし、1970年代以降の研究により、長崎の他に、薩摩(琉球)、対馬(朝鮮)、松前(蝦夷地)を入れて4つの国際関係が開かれており(4つの口)、それを通じて世界とつながっていたということが共通理解となった。それは、清国との直接外交を持たない形で自立する苦肉の策だった。
○無人に近い状態だった極東ロシアは、1850年代から、ロシア政府によって開発が進められ、そのために多数の労働者が送り込まれた(もともと、ウラジオストクは「東洋を支配せよ」との意味)。しかし労働者不足により、19世紀末から20世紀初頭、ウラジオストクは、むしろ、清国人、朝鮮人、日本人など東アジア系の出稼ぎ労働者が目立つ街となった。彼らなしではシベリア鉄道の建設はできなかった。
○ロシア沿海地方には、19世紀から、多くの朝鮮人農民が移住した。これは1910年からの日本の朝鮮併合により加速した。彼らは高い農業技術を持ち込んだ。
○ここで、朝鮮人の抗日運動が盛り上がった。しかし、ソヴィエト・ロシアは、政治的な判断により、これを抑え込んだ(1925年、日ソ国交回復)。そして、朝鮮人自治州の構想を却下し、さらには、1937年より、朝鮮人住民を中央アジアへと強制移住させた
○モンゴル帝国は、交易や戦争を通じて、宗教や文化や情報のネットワークを発展させたと言える。
○モンゴル帝国崩壊後、モンゴルは内モンゴルと外モンゴルとに分裂。清朝崩壊、人民革命、ソ連による援助・支配、そして1990年代の米国による市場経済以降と、激動の歴史を経ている。生活様式を破壊された遊牧民たちが、いままた、大地に根付いた生活を取り戻そうという動きを活発化させている。
○中国人は海外に移住し、華僑ネットワークを構築しているばかりではない。もとより、中国国内でも頻繁に大移動を繰り返していた。大小いくつもの社会集団における「」により社会の仕組みをつくる方法は、そのような歴史から生みだされてきた。
○神の「縁」もある。道教の媽祖信仰は、海上交易のネットワークとともに拡がり、中国沿岸のみならず、東南アジア、沖縄、日本でもその足跡を確認できる(青森県大間町にも辿りついている)。

こちらの断片的な知識が思わぬ形で他とつながったりして、とても刺激的で興味深い。参考文献リストも丁寧に作られている。良書。

●参照
杉山正明『クビライの挑戦』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』(中央アジアに強制移住させられたコリアンを描く)
李恢成『流域へ』(中央アジアに強制移住させられたコリアンを描く)


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