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自縄自縛日記

井上勝生『明治日本の植民地支配』

2014-07-20 10:10:02 | 韓国・朝鮮

井上勝生『明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ』(岩波現代全書、2013年)を読む。

1995年、北海道大学で、「東学党首魁」と直に墨書された頭蓋骨が見つかった。ちょうど100年前の1895年に、韓国珍島において、日本軍によって殺された東学農民軍の遺骨のひとつだった。(「東学党」とは当時の蔑称であり、現在では、「東学農民軍」と呼ばれる。)

このとき、日本の朝鮮侵略はエスカレートし、日韓併合(1910年)が見えてきていた。日清戦争(1894-95年)の最中ではあったが、それと連動する日本軍の動きなのだった。しかし、日本軍にも戦死者が出たにも関わらず、中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』にも描かれているように、朝鮮での侵略活動は、あくまで日清戦争のきっかけという文脈に押し込められた。

朝鮮での「東学党」の殲滅作戦は、国際法を無視した虐殺行為そのものだったという。とにかく、「殺す」こと、「殲滅」することが、日本軍と日本政府の方針であったのである。「東学党」の強力さに驚いた井上公使が日本政府に要請し(当時、大本営は広島に移転していた)、その要請を上回る軍を派遣したのは、ロシアやイギリスが朝鮮に入ってくることを恐れてのことだった。すなわち、他者の土地を列強と争って奪おうとする侵略に他ならない。

なぜ、東学農民軍の遺骨が北大にあったのか。それは、北大の前身である札幌農学校から、綿花栽培の技術指導のために、国策として技術者を朝鮮に派遣したからである。既に日本では綿花生産が衰退し、今度は、朝鮮を、原料綿花の生産地にしようとしたというわけである。

そのような構造はもとより、技術指導の方法にも問題があったという。日本の方法は多肥料・多労働の投入によるモノカルチャー。対して、朝鮮の方法は、麦、豆、唐辛子などとの多毛作・混作。つまり、収量が多いとはいえ、日本の方法は高コストであり、その地域での生活を考慮せず(生産機能のみ)、また、生産や市場に何かの問題があった場合に対するリスクが大きい。現地では頑強に抵抗したが、日本側は、それを幼稚だとして一方的に新たな方法を押し付けた。独りよがりな生活・文化の破壊であったと言える。(なお、日本は、東南アジアにおいても伝統農法をゆがめたことが、中野聡『東南アジア占領と日本人』にある。)

そしてまた、一連のアジア侵略に先だって、アイヌ民族の支配が、あたかも植民政策の事前検討のようになされていることも、書かれている。

●参照
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
中野聡『東南アジア占領と日本人』


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