石川真生の写真展が都内と横浜で4つも開かれている。まずは都内での3つを梯子した。
■ 『日の丸を視る目』(zen foto gallery)
日本や韓国、台湾で、日の丸を使って己を表現してもらい、それを撮る作品群である。昨年未來社から出されたその写真集を書店で見たとき、これはいくらなんでもヤバすぎると慄いてしまったものだ。
改めて1点ずつに向かい合ってみると、それらは、表現のぎりぎりさという意味ではキワモノであり、かつ、浅いウケ狙いではないという意味ではキワモノでない。昨年亡くなった広島の語り部・沼田鈴子さんは、日の丸に平和を願う言葉を書きつけてレンズに見せている。侵略の記憶を持つ人・継ぐ人は、足で踏んだり、息苦しさの示さんがために自分の顔を日の丸テルテル坊主にしたり。右翼はオーソドックスに掲げる。そして写真家自身は、自らの人工肛門を表現している。いやこれは、凄い地点に来てしまっている。
石川さんが在廊していたので、サインをいただきながら少し話をした。
「いつもブログ読んでますよ」
「あら~覗いてたの?」
「ぼくのブログ記事にリンクを張っていただいたこともありましたよ」
「あら~じゃあつながってたのね」
ところで、これらはデジタルプリントではあるが丁寧に仕上げてあり、原版はいまもフィルムなのだという。鈴木邦男さんが絶賛していたと聞いたと振ってみると、何と、既にそのふたりで対談したテレビ番組の収録を済ませ、TBSニュースバードで放送予定だとのこと(2月13日、PM3-)。夕方のトークショーは下ネタだけだから楽しみにね、と言われ、ほくほくしながらギャラリーを後にした。
■ 『FENCES, OKINAWA』(新宿ニコンサロン)
「さがみはら写真賞」の受賞記念。常に米軍という異物と隣り合わせにある沖縄。それは視える存在でもあり、風景と化している存在でもある。辺野古、嘉手納、やんばるの北部訓練場(よく入れた)、普天間、米兵相手の飲み屋、フィリピンパブ。暴力と温かさと、権力と日常と、制度と性とが分割不可能な状況を撮っているように思える。
2000年代初頭の辺野古・キャンプシュワブとの境界。まだ鉄条網は簡素なもので、米兵はひょいと跨いで越境している(どうしても、犯罪的に純真を決め込んだ中江祐司『ホテル・ハイビスカス』を思い出してしまう)。このあと鉄条網は強固なものとなり、さらには本当のフェンスと化してしまった。さらにこれを観る前に、米国が辺野古基地建設中止との報道、どう捉えていいのかまだ判然としない。
■ 『港町エレジー』(Photographer's Gallery)
写真家が沖縄の港町で「あーまん」という飲み屋をやっていたころの作品群(1983-86年)。タコ部屋のような家に寝泊まりするおっさんたちは、芸人よろしくユニークで、押し出しが強い。表情の人間臭さが並ではないのだ。ここまで相手の懐に入りこみ、おっさん達の「男性」をずるずる引き出すことができるのは、石川真生という、やはり人間臭い「女性」だからだよな・・・なんて思っていたら、その後のトークショーを聴いて吃驚(内容省略)。これでは誰も敵わないはずだ。