島尾敏雄が大城立裕、司馬遼太郎、石牟礼道子、谷川健一、奥野健男らと60年代、70年代に対談した記録、『ヤポネシア考』(葦書房、1977年)。
もとより「ヤポネシア」は文学者に過ぎない島尾敏雄の造語であり、学問的な概念などではない。東北出身の両親を持つ島尾が奄美に移り住んだ結果得られた感覚のみをもって、主張したものだ。
「・・・本土では意識の底に沈んだが、琉球弧などではまだあらわに残っているような”もう一つの日本”―――これを私はふつう意識の中にある「日本」と区別して「ヤポネシア」と呼んだら、と思う。それは、反日本的な日本であり、大陸との関係と同時に、ポリネシアやインドネシアなど南海の島々と共通するものが強く感じられるという意味で「ヤポネシア」つまり「日本の島々」と名付けたわけだ。」
そして対談は、論争の形にはなっておらず、文学者・島尾を立てる形でより沿っている。これは読んでいてちょっと辛い。
主張の根拠はほとんど示されない。島尾の言葉の端々に観察されるのは、人々の気質や立ち居振る舞い、言葉から感じた印象を核として、東北と琉球弧は異質であるということを繰り返し信じ込もうとしている点ばかりである。自分の感性を補強したいという願望である。
「東北という所を捉えるのに私はどこかに線を引きたい。」
「もちろんそういう視点を持つことによって、今まで切り捨てられてきた日本のいろいろの面が取り込めると思ったんです。」
「私はしろうとなので、詳しいことは知りませんが、(略)その縄文の長い間、東北から琉球弧の最果ての与那国まで、かってなことばを使わせてもらえばヤポネシア、そういうものができあがっていたはずだ、と思うのです。」
「・・・東北と奄美・沖縄を含めた地域に、何か似たような歴史体験があったとぼくは考えはじめているんです。でもこれもまた実証がないんで、どうもいけませんけども・・・」
「私の場合の考え方というのは学問としていろいろのことを探求して、その結果そういうヤポネシアという考え方ができたわけではなく、多分に感覚的な考えの中から出てきたものです。」
もちろん、ヤポネシアという概念は非常に魅力的である。狭隘な日本という観念を解体する力も見え隠れするかもしれない。
しかし、柳田國男が琉球に「あってほしい日本の姿」を投影したと批判されているように(村井紀『南島イデオロギーの発生』)、また源為朝伝説が琉球を「日本という正統」に組み入れるために利用されたと言われているように(島尾は、そのことも無邪気に妄想している)(与那原恵『まれびとたちの沖縄』)、この視線は危うい反転をみせる。
ここで、村井紀『南島イデオロギーの発生』より、熾烈な島尾批判を再び思い出してみる。
「ここで、1960年代から1990年代に復活した「南島」論と「民俗学」を見なければならない。基本的な骨格は柳田・折口を踏襲しており、これらが発見される過程も―――耐えがたき現実から「あるべき」世界に撤退したこと―――を反復している。島尾敏雄の「ヤポネシア」プランが登場するのは、1961年の「ヤポネシアの根っこ」からであるが、彼の場合、県立図書館長としての奄美行き自体がすでに「あるべき」世界への”亡命”であり、特攻体験を反復し、その濃密な愛の家庭劇『死の棘』の主人公が「妻」の「心の中」にアルカイックな女性を見いだすのは、愛による、同情に基づく、内的支配・「オリエンタリズム」(E・サイード)というほかにない。オリエンタリズムはつねに、愛情による支配の物語である。もとより「ヤポネシア」の(日本列島)の「根っこ」(奄美・沖縄)とは、「日本の源郷」・「原日本」を意味するにすぎない。日本のナショナリズムを「根っこ」から、相対化するというその主張は、実際には柳田らの「大陸」文明に対する”排他性”をも共有するように、”ナショナリズム”そのものなのである。」
ところで、司馬遼太郎との対談は興味深い。司馬は、日本全国が「処分」された中で、琉球だけが過剰反応しているのだと主張する。
「・・・琉球藩だけは猛烈な処分をくらって、処分というかたちで、われわれは十把一からげにされた、というマゾヒズムみたいなものが、ちょっとやりきれん感じがあります。そんなんでは、いつまで経ってもダメじゃないか、という・・・・・・。」
明らかに同化を大前提とした、また、現代に続く構造をまったく念頭に置こうとしないこの言説は何だろうか。司馬の沖縄観はその程度のものだったのだろうか。
●参照
○村井紀『南島イデオロギーの発生』
○与那原恵『まれびとたちの沖縄』
○島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
○齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
○伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
○島尾ミホさんの「アンマー」
2000年前後をピークとする「沖縄ブーム」が去った今,冷静に私たち自身の認識を問う必要がありますね。
(蛇足ながら,この国の「認識論」はほぼすべて島尾の域を出ていないのではないか?「介護」も「ボランティア」も「海外貧乏旅行」もすべて「自分探し」「自己実現」にすぎず,社会を変えていく契機にはまったく成り得ていない。)
まずは岡本恵徳のヤポネシア論を読んでいます。新たな発見が多く、妙な展開をみせています。機会があれば、そのあたりの情報交換をお願いします。
重要な指摘ですね。確かに、他者に自己を投影するのは沖縄に限らない。これをニュートラルにするのは難しく、自己投影を認識したうえでの言説が関の山だと思ったりもします。
、南方漂流民の融合により日本人と日本文化がつくられてきたことがわかってきた。その濃度は地域によりことなるが。北海道、東北のネイティブのアイヌ民族はオホーツク海沿岸の民族だった。ただ近畿圏を中心に弥生以降日本人の文化はひろがつた、まだ地域によって独自文化があり、それは日本の文化的な豊かさを保持しており、うれしいことだと思う。
DNA分析ばかりは伊波、柳田、島尾の時代になかったものですね。それを含めても、描き出される歴史が、どのような物語に利用されていった(いく)のかを見ることが重要なのだと思います。独自文化は尊重すべき事実、そのルーツ論や国家形成論はある文脈に沿った物語。