素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

木・月・金と並んだ日

2012年03月26日 | 日記
 寒気が張り出してきているためか、天気が不順である。一日の中でもめまぐるしく変わるので大変である。志摩に帰った23日(金)は大雨を覚悟していた割には降りがひどくなくラッキー!という感じであった。土曜日は晴れとなったので外仕事がはかどると両親も喜んでいた。24日(土)の午前中は予報通りで晴れていたが、昼前から雲行きがあやしくなりパラパラと雨があたりだした。「もうちょっとで乾くのに」とぼやきながら洗濯物を室内に入れた。すると20分もたたないうちに青空になり日が当たり始めた。「じゃもう一回出してしっかり乾かすわ」と再度乾して庭仕事をしていると15分ぐらいするとまた雲が出てきて雨がぱらつきだす。少しぬれてしまった洗濯物をまた入れる。すると青空。この繰り返しを何度したことか、夕方までゲームのように洗濯物を入れたり出したりと気まぐれ天気に振り回された。夜、大阪へもどる高速も同じ雨の降っている区間と降っていない区間の繰り返し。路面の状態が頻繁と替わるので気を使った。

 25日(日)もまさかの雨。同窓会が14時からなので軽めの昼食をとって、金土の運動不足解消のため枚方市駅まで歩いた。1時間ほど歩いてあと10分ぐらいの所から風が強くなり怪しい雲がひろがってきた「おいおい降るのか」と少々あせった。雨は16時すぎに降ったみたいであるが室内にいて無事だった。今日は今日で、午後からジムに出かけ、最近の天候不順を話題にしていたら、それにあわせるように“みぞれ”が降ってきた。これもまさかの急変。「洗濯物出しっぱなしや」「入れてきたら良かった」という声やら「みぞれの漢字はどうやった?」とか反応はいろいろ。“みぞれ”の漢字は数人いたが全員違う漢字をあげて結果的には全員まちがって大笑いで終わった。私はそのことより夕方から空が晴れるかということが気になっていた。今日は18時30分頃の西の空の木星・月・金星が縦に一列で並ぶということを聞いていたからである。

 残念ながらその頃は雲が広がっていて見ることができなかった。「鬼平」を見終わった20時すぎ、何気なく窓の外を見るとほっそりとしたお月様が浮かんでいた。いつの間にか雲がとれていた。「ひょっとしたら」と思い外に出たらまだ縦一列に並んでいました。
 昨日の同じ時刻にはちょうど河内森から家まで歩いていた。その時は月・木星・金星の順で“く”の字になっていたと思う。たわいもないことだが「星や月、動いているんや」としみじみ思った。
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枚方市立村野中学校1981年卒業生(7期生)同窓会

2012年03月25日 | 日記
 枚方市の北大阪商工会議所中ホールで、卒業以来初めての同窓会がもたれた。転居先不明者の多い中70名余りの参加があり思い出話や近況報告に話がはずんだ。実に31年ぶりの再会である。今回の同窓会は株式会社“同窓会ネット”という代行業者を利用しての企画運営となっていた。叙勲ビジネスと同様に同窓会ビジネスも成り立つ土壌があるのだと認識をあらたにした。
  1期生の時は4クラスであったが7期生の時は9クラスとなり満杯状態であった。私にとっては初めての教員生活が3年担外・3年担任・1年担任・3年担外と4年間不本意な形であった後1年から3年まで通してつきあった最初の学年であった。その後1年・2年と持ち上がったところで桜丘中への分離があり、私は二中に転勤したので3年間担当した唯一の学年となった。

 自分の授業の1コマを明瞭に覚えていてくれて「これだけは覚えています」と確率の実験や正多面体、準正多面体つくり、物語風問題やプリントなどを聞かせてもらうと恥ずかしくも嬉しい。どの同窓会でもあるが、つきあいが長かった分今回は多く聞かせてもらった。

 担任した3年7組はスタート時から楽しい思い出をつくることができるという予感があったので、生徒に「“1年間の事実の記録”を残そう」という提案をし、学級日誌にきちっと記録を残すことをお願いしたし、行事の後でも“感想文”ではなく“事実を書く”ことを求め原稿を集めた。しかし、印刷機の不具合や自分自身の見通しの甘さで卒業時に予定していた文集を完成させることができなかった。

 以来「いつかは印刷して完成させねば」と思いつつ原稿を箱に収めて保管してきた。退職して、何度か使っていた資料などを整理することがあったがどうしてもこの原稿だけは破棄できずにいた。のどにささった魚の骨みたいなものだ。それでも辞めて3年目、いくらなんでも見通しの立たないものを持っていてもと処分しようかなと思い始めた矢先に届いたのが今回の同窓会開催の報せである。

 その時運命的なものを感じ、自己満足の極みだが同窓会までにつくりたいと思った。幸いにも快く協力してくれる方もいて思っていたよりも鮮明に印刷ができ31年ぶりに日の目を見ることができた。会に出席した人には手渡しできたが、欠席の人で住所のわかっている人には送り届けたい。のどの魚の骨がとれたという意味でも今回の同窓会の開催はありがたかった。発起人の人に感謝。
 「30年余り、みんな元気にがんばってきたことがわかってうれしかったね」という言葉に実感がこもっていた。
コメント (5)
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『カーネンション』第25週“奇跡”

2012年03月24日 | 日記
 第25週“奇跡”は病院の看護師と入院患者によるファッションショーを軸に展開された。今日はファッションショー当日の模様が中心であったが、しつこすぎることなくしかも押さえどころはピシッと押さえている展開の小気味よさが心地よかった。カメラワークと展開の巧みさは最初から最後までゆるむことなくできてきたように思う。来週は最終章、どう収めるのかとても楽しみである。

 ファッションショーの場面を見ていて、6年前に亡くなった義姉のことを思い浮かべた。義姉は18歳の女子大在学中に関節リウマチを発病し、69歳で亡くなるまでの50年余りを病魔と闘い続けた。全身の関節機能を奪い取られ、一種一級の身体障害者として生きなければならないという現実を受け入れるまでの苦悩や“ひとりの自立した人間”として生きた証しを平成10年(1998)に『車椅子から天国の岸教授へ』というタイトルで自分史を自費出版した。61歳の時である。

 妻の実家に帰るたび、義姉の入所している授産施設「たまも園」に立ち寄ったが限られた時間であったのでゆっくり話を聞く機会はもてなかった。本を通じて、初めて義姉のたどった道や内面にふれることができた。高校時代にアナウンサーか新聞記者になりたいと思っていた義姉は“書く”ことで社会との関わりを持っていった。本の中でこう述懐している。

 「私が書くことをしていなかったら、ただの障害者として生涯人の世話になるだけで終わるだろう。重度障害者が自分の力で何かを世間に訴えるには、健常者の何十倍もの努力をしなければならない。幸いにして恵まれた時間を有意義に過ごして生かせることを今は感謝している。」

 昭和61年(1986)8月、高松市民会館で開催される恒例の〈わたぼうしコンサート〉に出演することになった義姉は、ボランティアとしてこのコンサートに関わっておられた香川大学の岸先生と運命的な出会いをする。その後、岸先生は施設にとじこもりがちだった義姉を積極的に外に連れ出してくれた。

 そのコンサートで初めてファッションショーが開かれたのである。流行から取り残されがちな障害者たちにもすてきなファッションを!との企画で、家に閉じこもらず、街に出て、出会いの機会を増やそうとの願いがこめられていた。

  “ドレスでステージに”というタイトルの義姉の新聞投稿である。

 「障害者と健常者が触れ合う“わたぼうしコンサート”で、今回初めての試みとして、全国でも珍しいファッションショーが八月十日、高松市民会館で行われた。

 流行から取り残されがちな身障者も、ナウいファッションを楽しもう・・・。八人のモデルの一人として、松葉づえをつき私も緑のロングドレスを着て出演した。着脱しやすいように、前開きでボタンを使わずに面ファスナーで止めた。

 その時の模様がNHKテレビで全国放映され、新聞各紙にも取り上げられたことから、見知らぬ方から多数のお手紙を頂いた。小学生の時、劇に出演して以来四十年ぶりのステージで、今年のわが家は、もっぱらこの話題に花が咲いた。」
 


 出会いから6年余り、平成4年(1992)に岸先生との悲しい別れがあった。介助という関係を超えて人間として意気投合し、施設ではなく地域の中で生活をするという計画が実現する直前だっただけに義姉のその時の絶望感は察するにあまりある。二人の人生を書いた本を出版しようと約束した夢を果たすのを、生き甲斐にして義姉は先生の死を乗り越えた。6年後にこの約束を果たし本ができあがったのである。

 本の中で〈自立への願い〉という章でこう書いている。

「先生を失った後も私は自立して生き甲斐をもち、社会的役割を果たしながら、老後を安心して快適に過ごしたいという夢を持ち続けている。

 老いていく障害の身が施設生活で切実に感じるのは、誰にも煩わされない一人になれる空間がほしいということである。何にもしばられず、自分の意志で自由に生きる普通の暮らしはなんと素晴らしいんだろう。プライバシーが守れる自分の家があると生活が落ち着く。公営住宅に健常者と障害者が混在して住み、楽しさを分かち合うごく自然の人生を味わいたい。障害者が生きていく幸せは福祉の中ではない。健常者と共なる街の中なのだ。障害者が健常者と同じように暮らすノーマライゼーションの理念は私の生涯の究極の目標である。

 私は着脱衣・入浴・寝起きといった日常の身辺動作に介助を要するので、ケアの確保は地域で生活できるかどうかの分かれ目である。自立すれば、ライフワークとして現在書き始めている体験や見聞をふまえた本の出版を目指そう、と思っている。・・・・・」


 第25週を見ながら義姉の本をもう一度読み返した。
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高齢者叙勲

2012年03月23日 | 日記
満88歳になった父親が瑞宝双光章をいただいた。新聞に掲載されたらすぐに叙勲額のカタログがたくさん送られてきたらしい。叙勲ビジネスの存在には驚かせられたらしい。
母、弟、私とで叙勲額をプレゼントすることにした。先日、多気郡大台町にある製造卸のしょうわ額縁株式会社に父と弟が行って決めてきた。その額縁が届いたのでお祝いかたがた帰ったのである。
想像以上に額縁は大きくて驚きました。カタログを見せてもらってまたビックリ。世の中は広い。
カーネーションの糸子も88歳、゛老いること゛を考えさせられる毎日である。今朝のセリフの中に印象的なものがあった。
「老いることが怖くない人間はいない。孤独にもなる。でも、80を越えて思うようになった。
歳をとるということは奇跡を見せられる資格を持ったということ。」
ゴルフや絵を楽しんでいる父や車を運転して買い物に出かける母などの姿や近所にいる百歳の方の毎朝散歩している姿がだぶった。
日々の生活の中で《老いること》への覚悟を固めていきたいものだ。
「生が終わって死が始まるのではない。
生が終われば死もまた終わってしまうのだ」と言ったのは寺山修司さん。
死に方は生き方である。
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沈丁花(ジンチョウゲ)に出会う

2012年03月22日 | 日記
 2月末から3月にかけて咲く沈丁花の花。他の花と同様に開花が遅れていたのか存在感がなく私の意識から消えていた。夕方近く、用事のために自転車を走らせていたらふいに甘い香りがしてきた。自転車をとめて見るとジンチョウゲの花が咲いていた。いつのまに!?という感じである。
  新しく購入した“ラジオ深夜便・誕生日の花ときょうの一句~第二集~”より五所平之助さんの句 沈丁や夜でなければ逢えぬ人

 梅のかおりとは違う艶かしさがあるのは確か。連想ゲームではないが、五所さんの句から頭に浮かんだ五七五
  聞き上手 とわずがたりの 春の夜

 用事の後、第二京阪の側道でゆきやなぎが咲き始めていたのを見つけた。満開のはなやかさもいいがつぼみを持った咲き始めもいい感じである。
 満開になる頃、レンギョウの黄色が追いかけてきて桜の花でそろいぶみとなる。

 2年続けて“春一番”が吹かなかったと天気予報で言っていたが、明日はそれに代わるような大荒れの天気となりそうである。志摩の実家に帰るつもりだが、寄り道はできそうもない。 
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