昨日行きそびれたので今日は最優先して行って来た。美術館開館15周年と生誕250年記念展である。江戸の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)は浮世絵師として活躍した約70年の間に「浮世絵」における多くの題材を手がけ、西洋の美術家にも多大な影響を与えた。
その中で、全作品に富士をあしらった北斎の二大連作「冨嶽三十六景」46図と「富嶽百景」のすべてが展示されるとあっては見逃すことはできない。また新しく発見された保存状態の良い4点の作品も並べて展示され、今までの作品と見比べることができるというおまけつきである。
会場は満員であった。北斎の描いた富士を数枚単位で見ることはあったが、今回のように全155点を一挙に見ると作品の持つ力に圧倒されてしまった。
「すごい! すごい!」と叫びだしたくなる衝動を抑えながら見ていると体の中が熱くなってくるのがわかった。こういう時、連れがいればはけ口ができるのにとつい思ってしまった。ここまでの迫力とは予想できなかった。
「冨嶽三十六景」は名所絵(風景画)のジャンルを定着させた代表作で今までいろいろな機会に見たことがある作品が数多くあったが「富嶽百景」は新鮮で面白かった。半紙本3冊によって構成された絵本で、故事説話や風俗、花鳥画的性格の図などありとあらゆる題材があつかわれていて見るものを飽きさせない。時々、意表をつくものもあり唸ってしまった。特に印象に印象に残ったのは次の4つ。
富士の「静」に対して近景の人や自然の「動」の対比がいいのだが、職人がいきいき動いて見えるのである。
“和時計をつくる”のマガジンで、浅草鳥越には幕府の頒歴御用屋敷が置かれ、天文方という役人が天文・編歴・測量・地誌・洋書の翻訳などをつかさどっていて、天体を観測するものとして“渾天儀(こんてんぎ)”が使用されていたという話を読んだばかりだった。多くの情報を仕入れていなければこんなに多彩な題材を描くことはできなかっただろうと感心した。
水に映る“逆さ富士”はよくあるが、これは「節穴の富士」。富士にあたる光が、節穴を通ることで、ピンホールカメラと同じ原理で室内の障子に逆立ちした富士を映し出している。着眼点には恐れ入った。住人の驚いているさまが伝わってくる。
これを見た時、「富士はどこにあるんだ?」という素朴な疑問が湧いた。意表をつかれた感じで、解説をすぐ読んだ。
「赤沢は現在の静岡県伊東市赤沢付近。この赤沢山で河津三郎と俣野五郎が相撲を取る話は“曽我物語”の冒頭にある。これを北斎は三編の始まりとした。さて取組は、形勢不利の河津の足が俣野の足の内側にかかる、ここから体を反って後に倒す“河津掛け”の一手で、見事逆転勝ちとなる場面。肝心の富士は、河津の背後に稜線のみを見せている」 とあった。稜線のみという大胆さに感心したこともあったが、それ以上に“河津掛け”という相撲の決まり手への思い出がよみがえってきて絵の前でにやけてしまったのである。
高校の時、同じクラスで気の合ったMくんは勝負好きで、休み時間になると人を集めては自分の得意な勝負をしかける。先ず“連珠”基本的には“五目並べ”なのだが競技用として先手有利にハンディをつけるために細かい規則が決められていた。彼はそれらを熟知していたが私たちは当然知らない。そのルールの罠にはめては勝利してとくとくと解説してくれるというのがお決まりであった。次が腕相撲。彼に言わせると力ではない。必勝のコツがあると豪語して、柔道部の猛者に細身の体で勝っては得意満面であった。そして、相撲。彼の得意技が“河津掛け”であった。中学の時から相撲好きであった私はその決まり手は知らなかった。
足技はふつう外掛け・内掛けで相手と対面の状態で足をかけて倒すのだが、“河津掛け”は後に回られた相手に足を掛け背面とびのようにして相手を倒す。場合によっては危険の伴う奇策である。初めて彼と相撲を取った時、わざと私が背中に回るようにしかけ、「勝負あり」と思って送り出そうとした瞬間に、足をからまれひっくり返された。私は瞬間何が起こったかわからなかった。これまた得々と解説してくれた。知らない人間をつかまえては、巧みに後に回らせて技をかけていた。一度痛い目にあった私たちは彼の巧みな誘導を楽しんだ。
彼の勝負にはどこかペテン師的な要素がつきまとうのだが、明るくカラッとしていているのでみんな“だまされること”を楽しんでいた。今日の解説を読むまで“河津”を蛙の“かわず”と思い込んでいた。Mくんは鳥獣戯画に出てくる蛙の感じとそっくりなのである。
2月1日からは京都文化博物館で“ホノルル美術館所蔵北斎展”が開催される。楽しみである。