「夜明けのうた」・岸洋子・東京オリンピックの頃というのが私の頭にある流れ。東京オリンピック開催を軸に高度経済成長の道を歩み始めた社会の空気と大人っぽい雰囲気で、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を代表とする歌謡曲とは一線を画した岸洋子さんの朗々とした歌声は中2の私の心をつかまえた。
日本レコード大賞の歌唱賞をとり、1964年の「第15回NHK紅白歌合戦」に初出場した。その後ヒットした「希望」とともに私の愛唱歌である。今でもふとした時に鼻歌で歌っている。
しかし、ずっと変だな?と思っていたことがある。大学時代に買った『ポピュラーソングの宝島』という内外のポピュラー、フォークソング100曲が集められている曲集にある「夜明けのうた」の歌詞である。
私の記憶している岸さんの歌詞と2ヶ所違いがあったのである。(1)番~(3)番に共通して岸さんは♫あたしの~♫だが本では『ぼくの~』、もう1つは(2)番のラストの方、♫大きなのぞみを~♫が『でっかいのぞみを~』となっている。
まちがいにしては変だなとは思いつつ、自分が歌う分には岸さんの通りでいいので支障はないし、だいたい岸さんが『ぼくの』とか『でっかい』という言葉を発したらこの歌の情緒は壊れてしまうので「まあ いいか」程度でスルーしてきた。
たまたま今日の19時30分からNHK BSプレミアムで「昭和の歌人 作詞家”岩谷時子”愛の讃歌」があった。岩谷時子・越路吹雪・クミコというのが今の私の頭にある流れ。見逃すはずがない。
その中のトークで、「夜明けのうた」のいきさつが紹介された。それによると元々は1963年に日本テレビ系列で放送された坂本九主演の連続ドラマ「ぼうや」の主題歌として九ちゃんが歌い、翌1964年10月に坂本九のシングルとして発売された。タイトルは「夜明けの唄」で、働く少年を勇気づける歌だった。シャンソンを歌っていた岸洋子がカバー曲の形で例の2ヶ所の歌詞を自分にあった言葉に置き換えて歌い、シングルで発売するとこちらのほうが爆発的なヒットをして、「夜明けのうた」=岸洋子となってしまった。、坂本による勤労少年の歌がわずかな言葉の変換で格調高いラブソングに変わったと当時の音楽プロデューサーは回想していた。
「そうだったのか」と?が!に変換された。それを聞くと(3)番のラストが「ふるさとのそら」になっているのがよくわかる。ラブソングと考えると唐突な感じがしていたのである。スッキリした夜となった。
夜明けのうた/坂本 九
日本レコード大賞の歌唱賞をとり、1964年の「第15回NHK紅白歌合戦」に初出場した。その後ヒットした「希望」とともに私の愛唱歌である。今でもふとした時に鼻歌で歌っている。
しかし、ずっと変だな?と思っていたことがある。大学時代に買った『ポピュラーソングの宝島』という内外のポピュラー、フォークソング100曲が集められている曲集にある「夜明けのうた」の歌詞である。


まちがいにしては変だなとは思いつつ、自分が歌う分には岸さんの通りでいいので支障はないし、だいたい岸さんが『ぼくの』とか『でっかい』という言葉を発したらこの歌の情緒は壊れてしまうので「まあ いいか」程度でスルーしてきた。
たまたま今日の19時30分からNHK BSプレミアムで「昭和の歌人 作詞家”岩谷時子”愛の讃歌」があった。岩谷時子・越路吹雪・クミコというのが今の私の頭にある流れ。見逃すはずがない。
その中のトークで、「夜明けのうた」のいきさつが紹介された。それによると元々は1963年に日本テレビ系列で放送された坂本九主演の連続ドラマ「ぼうや」の主題歌として九ちゃんが歌い、翌1964年10月に坂本九のシングルとして発売された。タイトルは「夜明けの唄」で、働く少年を勇気づける歌だった。シャンソンを歌っていた岸洋子がカバー曲の形で例の2ヶ所の歌詞を自分にあった言葉に置き換えて歌い、シングルで発売するとこちらのほうが爆発的なヒットをして、「夜明けのうた」=岸洋子となってしまった。、坂本による勤労少年の歌がわずかな言葉の変換で格調高いラブソングに変わったと当時の音楽プロデューサーは回想していた。
「そうだったのか」と?が!に変換された。それを聞くと(3)番のラストが「ふるさとのそら」になっているのがよくわかる。ラブソングと考えると唐突な感じがしていたのである。スッキリした夜となった。
夜明けのうた/坂本 九